『警告:伯爵女体化注意・表篇(4)』の続きです。最終回です。村雨公主さんの原文を一部お借りしています。少佐がみじめ峠を越えたため作者も一気に賢者モードに入り、よってエロはありません。残念。
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翌日、部屋を出てエレベーターホールへの角を曲がろうとしたときに上司の声が聞こえ、僕はとっさに足を止めた。
「おれへの個人的な嫌がらせはおれだけに留めておけ。あいつを巻き込むな。」
「早くきみをあきらめてくれないかなと思ってね。」
返ったのはQの声だった。明らかに面白がっていた。
「あの綺麗な男を長年あれだけきりきり舞いさせて、堅物のきみはさぞかし満足なんだろうな?」
「もう男じゃないだろう。」
「えらくこだわるね、きみも。」
Qは例によって鼻にかかったばかばかしいフランス語の挨拶を残して去った。少佐はやりすごし、次に来た別のエレベーターに乗った。少佐の声が始終落ち着き払っていたことに、僕はふと気付いた。
任務がスタートした。伯爵は自分でもしょっちゅうそう自称するとおり、まさしくその道のプロだった。昼過ぎに何もなかったような顔をして優雅な姿を現すと、顔色一つ変えずに僕からセキュリティデバイスを受け取った。それから今夜侵入する建物の見取り図を少佐とともに検討し、僕たちに侵入経路と方法と必要な装備の示唆を与え、援護部隊の位置を提案したた。的確この上なかった。
だが実際に動き始めると厄介な事実がわかった。建物の7階に侵入するために隣の樫の樹を利用した時点で、伯爵がどうやら以前のようには動けないことが判明したのだ。今回の侵入に少佐はZを指示していた。Zが伯爵とともに行動する。少佐が外で指揮を取り、僕とEとGが前方援護、その他のメンバーが後方支援に当たる。樹を登り始めると信じられないことに、伯爵はZと同じ速度でしかその針葉樹を登って行けなかった。
危なっかしさに、僕たちは冷や汗をかいた。少佐は黙って煙草を消し、かすかに眉をしかめて夜間スコープの中の二人の動きを見つめた。7階の高さ近くで、伯爵が木の枝を掴み損ねて枝二本分ほど滑り落ちた。枝がたわみ、元に戻る音がこちらまで響き、僕たちは文字通り跳び上がった。だがZが上から差し出す手を断って、伯爵は何とか体勢を整えなおし、再び登り始めた。Zが特殊な遠隔装置を使ってガラスに窓を開けると、伯爵は枝から窓へするりと身体を滑り込ませた。Zはそのまま樹の枝に残った。
使える時間はせいぜい15分だった。伯爵は10分でいいと言った。その10分はすぐに過ぎた。
12分を過ぎたころに、少佐が夜間スコープから目を離してそのまま走り出した。伯爵が窓に姿を現し、Zの助けを借りて樹に飛び移った。少佐が駆け足の速度を緩めずにそのまま樹の下まで駆け寄ってゆくのが見えた。
樫の樹から、黄金の絹衣が滑り落ちるように落下してきた伯爵をみて、少佐はやっと足を止めた。二人がつけているマイクが声を拾った。
「今のお前は筋力も体力も女だ。今までのように思ってるとさっきみたいに樹から滑り落ちるぞ。」
「さっきのでコツをつかんだ。もう大丈夫。」
「気を緩めるな。」
「任務前夜に男を咥え込んでるからだとか、そういう嫌味は言わないわけ?」
驚いたことに、少佐は挑発に乗らなかった。
「・・・悪い時期だったな。だがどちらにしろ、こんなことももう最後だ。」
ふたりは黙りこんだ。Zが樹から降りた。伯爵が盗み取った情報を解析すれば、別のいくつかの場所にある多数の金庫のうち、どれをターゲットにすればいいのかが明らかになる。その場所に侵入し、目的の金庫を破れるのはもちろん再び伯爵しかいない。
三人が僕たちの位置まで戻ってきた。
「これは契約だ。ちゃんとやり遂げるよ。」
金の鈴を掌で転がしたような声で呟いた伯爵は、途中で冗談めかして口調を変えた。「忘れないで、私はプロよ。」
少佐が、痛ましいものを見る目で伯爵を見つめた。そのとき僕にはわかった。僕もまた妻の顔を見ながら自問したのだった。もし愛する人が自分のそばにいないことを選んだら、そのとき何をしてやれるだろうかと。少佐はきっと、その答えを決めたのに違いなかった。
「G、情報の分析にかかれ。A、おれに替わって指示を取れ。Z、変更だ。次はおれが伯爵と組む。」
少佐は短くそう指示すると、車に戻って着替え始めた。Zが運転し、僕とGはラップトップで情報の分析にかかった。Gと僕の分析を総合すると、3箇所上がっていたターゲットは、確実にひとつに絞れそうだった。Zはそこを目指してアクセルを踏み、同僚たちが別の車で続いた。
今夜の二箇所目のターゲットで、任務の行方が決定するはずだった。黒のキャットスーツを着込んだ少佐と伯爵は、壁を伝って三階から侵入した。その階からしか地下二階の金庫室へ繋がる通路がないという建物の構造も、さきほど伯爵が入手したばかりの情報に含まれていたのだった。一旦建物に侵入すると、特殊な外壁に遮断されてマイクの無線が届かなかった。僕たちはじりじりしながら待った。30分たっても出てこない場合には、EとZが二次隊として侵入することになっていた。今度は武器込みで。
きっかり半時間。二人が侵入口とは別の場所から姿を現した。無線が繋がった。「ここだよ、Aくん。」16階の屋上から、二人はロッククライミング用の細いロープを下ろして降り始めた。僕たちは胸をなでおろした。先に下りた少佐がもうすぐ地面に付こうかというとき、伯爵の動きがおかしくなった。
「おい、どうした。早く降りて来い。」
「金具がおかしいんだ。ロープが滑らない。一旦金具をはずすよ。」
「おい、よせ、おれがそこまで登る、待て。」
「こんなところでぐずぐずしてられないよ。」
伯爵が右手をロープにからめ、左手で金具をはずした。しばらくの間、金具のカチカチ鳴る金属音だけが聞こえた。
「だめだ、故障してる。このまま降りるよ。」
伯爵は壁に足を着き、ロープと手だけで降り始めた。ロッククライミング用のロープは丈夫で細く携帯には便利だが、なにしろ細すぎて実際に手のひらを使って上り下りするのはかなり無理がある。
そのとき突風が吹いた。いぜんよりずっと軽くなった体はあっさり風に煽られ、壁に着いた靴の裏が滑る音がして、伯爵の体が壁から離れた。右手にロープを絡めただけの伯爵が片手でロープにぶらさがって壁伝いに揺れているのが見えた。ロープは下からの風に吹かれて舞い上がり、左手で掴みにいこうとしてもなかなか掴めなかった。右手で体を持ち上げてその上を掴めばいいのに、何をしているんだろう。
少佐が自分のロープを素早く登っていくのが見えた。
伯爵の体に近づき、揺れる体を支えて止めた。風が止み、左手でロープを掴んだ伯爵は、足を壁に着き、両手を使ってゆっくりと下降を始めた。どちらも無言のままだった。少佐は伯爵と平行して降りた。
二階の高さまで降りたとき、伯爵が右手をロープから離すのか見えた。そして下の様子を窺い、そのまま飛び降りた。少佐もほぼ同じ位置から飛び降り、すぐに立ち上がったが、伯爵は立ち上がらなかった。輪になったロープを自分と伯爵の2本、少佐がただちに回収したあとも、伯爵は座り込んだままでいた。マイクから二人の会話が入った。
「びっくりした。片手で身体を持ち上げられないなんて。」
「だから言っただろう。」
「それに、手のひらがこんなに柔らなくなってるなんて。」
「女の手だからだ。」
「おまけにあの高さから飛び降りてこのザマだ。」
「女の手だからだ。」
「おまけにあの高さから飛び降りてこのザマだ。」
伯爵は立ち上がろうとし、そのまま力なくすとんと座り込んだ。足を痛めたようだった。普段だったら罵りあいが始まる場面だった。伯爵は飛び上がって起きる。少佐が彼を罵倒する。伯爵が言い返す。ジャーマンシェパードとシャム猫の喧嘩みたいになる。そして小競り合いのうちに任務は無事終了する。
だが今はちがった。少佐は素早く伯爵の身体を抱き上げて車まで戻ると、後部座席に静かに腰掛けさせてGに応急処置を命じ、Zに車を発進させるよう命じた。少佐は落ち着き払っていて、むしろ伯爵があっけにとられているように見えた。手のひらの傷と足の応急処置を受けながら、伯爵はおそるおそる少佐の横顔を見た。
伯爵が金庫を破って盗み出した情報の初期解析が無事終了し、目的のものに間違いないことが確認された。先発隊がそれを詳細解析のためにボンへ輸送した。念の為に次点ターゲットに配置していた人員に少佐が撤収指示を出し、今後の任務のおおよその目処がついたところで明け方になった。集合地点で別働隊の合流を待つ間、車の陰に膝をついてGといっしょに大判の見取り図を地面に広げ、明日の侵入先について膝を突いて検討していると、ふと煙草の匂いがした。車の向こうで少佐が一服を始めたようだった。そこへ、かすかに足を引きずる音が近づいてきた。
「・・・さっきはありがとう。」
少佐は伯爵の顔を見るなり点けたばかりの煙草を捨て、靴底でもみ消した。
「どうしたの?少し減らす気?」
「妊娠する予定の女の前で煙草は吸わん。」
「紳士だね。」
「とっととQに男に戻してもらえ。」
「言われなくてもそうするつもりだよ。」
少佐は目を細めて口を開き、いい差した言葉を飲み込んで口を閉じた。伯爵は少佐の顔を正面から見つめた。少佐はもう一度ためらい、それからとうとう口を開いた。
「早く男に戻れ。」
「・・・どういう意味?」
「どうもこうもない。女のおまえには調子が狂う。」
「女は任務に不便だから?」
「それもある。」
「そのほかには?」
「女とは喧嘩できん。」
空気が張り詰めていた。僕もGも物音ひとつたてられなかった。もっと大事なことをさっさと言えばいいのに、僕はそう思った。
「それだけ?」
「おまえは男だろう。」
「男の方が都合がいいわけ?」
「おまえは男だ。」
「それって…」
「女のおまえはおまえじゃない。それだけだ。」
伯爵が大きく息を吸い込んだ音がここまで聞こえた。それから、静かな声が返った。
「・・・そのひとことが聞きたかった。」
金髪の麗人がそう言って、この上なく幸せそうに微笑にを浮かべているのがありありと感じられた。それから不意に低い声に戻って短く告げると、未練を断ち切るように体を翻した。
「必ず戻るから。」
忍びやかな足音が去った。任務のうち、伯爵の協力が必要だった部分はすでに終了していた。伯爵は僕たちに先んじて今夜のうちに前線を離れることになっていた。そして研究所に戻り、再来週にはそこからパリの自分の館に移ってあのフランス人との新しい生活を始める。少佐と伯爵が次に会うのは、きっともう何年も先の話だろう。いや、もしかするとこれが最後の会話になるのかもしれなかった。諜報の世界での悪名をほしいままにした、奇妙でしたたかで悪辣な二人組の最後の会話に。煙草に火をつける音がして再び煙の匂いが漂った。ほどなく、さっきとは別の足音が煙草の香りとともに去ってゆくのがわかった。
Gが僕の肘をつついた。
「聞いた?」
「うん。」
胸が痛くなった。鉄のクラウスがなんでそう手ぬるいんだろうか。
「あーあ、見てらんないわよねえ。いい年した大人が二人、お互いが欲しくて欲しくてたまんないくせに、ふたりしてそれを言い出せないでいるなんてね。」
「でももうどうしようもないだろ。こんな状況になっちゃったら。」
「魔法の言葉があるじゃない。真面目にそれさえ言っちゃえば万事オッケーって言葉が。」
「はぁ?」
Gはつけまつげバッサバサのまぶたで僕にウィンクした。
「伯爵の心境についてはとっくに詳しく説明してあげたでしょ。あれが外れてたら、あたし男に戻ってもいいわよ。」
「もう戻れないくせに。」
「ねえ、男ってなんでそんな簡単なこともわかんないの?馬鹿じゃないの?」
女ってこういう思わせぶりが時々面倒だ。
「その魔法の言葉っての、教えろよ。」
「あそこまではっきり教えてあげて、それでわかんないなんて、あんたってほんと鈍感ねえ。」
「いいからさっさと言えよ。」
「『おれの子を生んで早く男に戻ってくれ。』って、それだけ言えばいいのよ。」
えっ!?そんな簡単だけど全く尋常じゃないひとことを? でも・・・そうか。言われてみればつまりそういうことだ。
「G、頼むよ。それを少佐に教えてやってくれよ。」
「教えないわよ。」
仕事で命じられた女装が高じて、とうとう女になってしまった僕の同僚は、短く言い放った。
「あたしはあの二人のどっちともが好きなのよ。あのふたりが出来上がっちゃったら悔しいじゃない。」
僕はあっけにとられた。なんて勝手なんだ、こいつ。同僚全員の日々の安泰と・・・あの意地っ張りな二人の幸せがかかっているのに。
「あのふたりがいつまでもくっつかずにつんけんし合ってるのが理想なの。だからあたしからは教えてあげない。」
そう言うとGはグロスをたっぷり乗せた唇でにんまり、ちょっと寂しそうに笑い、僕の顔を見た。(だから、頼んだわよ)、Gの顔にはそう書いてあった。
な、なんて面倒なんだ・・・。この任務が終了したら妻の膝で慰めてもらって、少佐に魔法の言葉を教える勇気を奮い起こそう・・・。頑張ろう・・・、この任務が終わったら・・・。頑張ります、少佐・・・。
* * *
だが結論から言うと、僕もGも少佐に魔法の一言を教える必要はなかった。
なんとなれば、うちの朴念仁上司が自分でその一言にたどり着いてしまったからだ。
任務が終了したその夜、彼はとうとういてもたってもいられなくなり、愛車を夜通しを駆って国境の研究所に向かったのだそうだ。そして職業にモノを言わせてあっさり施設に忍び込み、夜更けにコテージのドアを叩いて、伯爵が内側からドアを開けるまで辛抱強く待ったのだという。二人は閉まったままのドア越しに長い話をし、お互いの顔を見ないままの会話はこれまでになく真摯で率直な対話になった。やがて伯爵は扉を開けて遅すぎる訪問者を迎え入れた。うちの強面上司は相手を抱きしめもせず、キスもせず、ただその場でひざまずいて言ったのが、その魔法の言葉だった。
Qはあっさりを身を引いた。「C`est la vie!」と一言だけを残して。少佐に嫌がらせをしていただけで、最初から子供を作る気などなかったのだという。そもそもパイプカット済みだそうだ。どこまでスカした野郎なんだろう。
不肖の息子からグローリアという古風な名の英国美女を紹介された老エーベルバッハは笑み崩れて、「でかした!」と息子の肩を叩いた。やがてクラウスとグローリアそっくりの可愛い男女の双子が生まれ、老エーベルバッハは病床でもう一度「でかした!」と相好を崩してから息を引き取った。孝行息子は年老いた父の死を十分に悼みつつも、内心で助かったと胸をなでおろした。なぜなら老エーベルバッハお気に入りの嫁であるグローリアもまた、ほどなく消え去る運命であったから。
ある朝、ベッドの中の二人はそのことをお互いに確かめ合った。グローリアがグローリア伯爵に戻る日が来たのだった。だが二人の結びつきは終生変わらなかった。
その数々の物語は、僕ではない語り手が語る、また別のお話になる。
<大団円にて終了>
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