クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ少佐は意識を取り戻すと同時に、自分が座り心地のいい揺り椅子に拘束されていることに気がついた。両腕と手首と足首の六ケ所を、しっとりとした厚みのあるなめし革の革紐で固定されていた。拘束はきつすぎず手足のしびれもなかったが、だからと言って力をこめれば外せるような甘い縛りでもなかった。
頭部は固定されていなかった。静かに頭を巡らせて周囲を確認した。濃い緑色のカーテンを閉じ、明かりを落とした部屋は薄暗かったが、暖炉に火を入れた部屋の空気は暖かく、よく乾いた薪の燃えるいい香りがした。部屋にはフォン・デム・エーベルバッハ少佐には価値のさっぱりわからない美術品がごたごたと並べられており、向こうの壁には見覚えのある絵がかかっていた。それは少佐の遠い祖先の肖像画、『紫を着る男』だった。少佐は 一瞬ぎくりとしたが、すぐにそれが本物ではないことに気づいた。大きさが違う。模写だ。壁にかかっている絵は、少佐が所有するオリジナルの四分の一程度の大きさだった。
揺り椅子の背後にあるドアがが開く音がし、続いて静かな足音が続いた。少佐にとって何一つ目新しくないことに、ドレープをたっぷり取った優雅な部屋着の背の高い男が、食事らしきものを乗せた銀色の華奢なワゴンを押して少佐の目の前に現われた。 部屋の主は口を開いた。
「もう気が付いたのかい?さすがに早いね。薬物への耐性訓練でもしてる?」
ドリアン・レッド・グローリア伯爵は明るい青の瞳を無邪気を装って悪戯っぽくきらめかせながら、拘束された少佐の前に立った。すらりとした腰が少佐の目の前にあった。少佐は驚きも怒りも表情に表さないままに相手を見上げた。
「どうやってここまで運んできた。」
「蛇の道は蛇、でね。私は泥棒だから。でもきみは先代の教皇よりはずいぶん重いから、大変だったな。」
「くだらんことを。顔を隠していなかったのは、おまえにとって幸運だったぞ。」
「どういう意味?」
伯爵は愛嬌たっぷりに首をかしげた。 豊かな金髪が揺れた。
「薬をかがされた瞬間におまえの顔が見えなかったら、おれは気を失う前に反撃していた。あの状況では手加減できん可能性のほうが高いから、洒落にならん致命傷を負わせていたかもしれん。そうすればその場に残るのは気を失ったおれと半分死体になったおまえだ。うまい状況とは言えんな。」
「そりゃぞっとしない話だね。」
「わかったらさっさとこれをはずせ。」
返答は無かった。もとより、少佐とて答えを期待していたわけでもない。
伯爵はかすかな笑みを浮かべたまま少佐に体をすり寄せ、少佐が拘束されている揺り椅子の肘掛けの片方に手をかけて押した。揺り椅子がぐらりと揺れた。少佐は黙って眉をしかめた。伯爵はうっとりした表情を浮かべ、少佐を見下ろした。
「この館を買った時の家具の中で、この揺り椅子だけが気に入ったんだよ。幅が広いのが素敵だし、肘掛けの滑らかな曲線が絶妙で優雅だ。それでいて、華奢すぎずにきみを縛り付けても壊れないだけの頑丈さもある。クッションも悪くないだろう?揺り椅子を部屋に置くような様式の家には住んだことが無いんだけど、ドイツには結構あるみたいだね。この椅子を見た瞬間に、きみをこうしたいと思ったんだよ。」
「ここはドイツなのか。」
「きみを帰すときに教えてあげるさ。革紐は痛くないかい?きみを傷つけていないかな?手負いのきみはすっごくセクシーだけど、同時にとっても危険だからね。」
少佐は黙って鼻を鳴らしたが、視線は伯爵から離さなかった。伯爵はその少佐の顔から視線をはずさないままその場にゆっくりとひざまづき、膝に顔を寄せた。それから膝の先端にに軽いキスをすると少佐の腰を抱き、太腿に顔を埋めて息を吸った。少佐は身じろぎひとつしなかった。滝のように渦を巻いて流れ落ちる豪奢な金髪の巻毛だけが揺れた。伯爵は深く息を吐き、上半身を少佐の膝の上に投げたまま顔を上げ、長い睫毛の下から滴るような欲望を湛えたまなざしで少佐を見上げた。
「ずっときみに触れたかった。こんなふうに。」
甘い吐息とともに漏らしたひとことに、だが予期していたような怒号も狼狽も起こらなかった。少佐は目を逸らしさえしなかった。内心をなにひとつ読ませない表情ののまま、少佐は膝の上から自分を見上げる整いすぎた顔だちの男を間近に見下ろしていた。金髪が不審気に巻き毛をかき上げ、それから少佐の顔に手をやると、少佐はそれを避けようとすらせずに手のひらの愛撫を頬に受けた。その拍子に暗い色の髪の真っ直ぐな毛先が広い肩から落ち、少佐の顔に陰を作った。拘束された男は相手の顔から視線をはずさず、ただ端然とあるがままを受け入れていた。両手が自由なら黙って髪を耳に掛け直しつつ、なお相手を見つめていたかもしれない。
平然としていられなくなったのは、仕掛けたほうの男だった。
「少佐、なんで暴れたり叫んだりしないんだい?」
「嫌がっとらんからだ。」
「なんだって?」
金髪は表情豊かだった。誘惑たっぷりの表情をあっさり捨てて、あっけにとられたよう顔つきで目を丸くした。 少佐は顔色一つ変えなかった。
「おまえの目的はわかっとる。おれへの嫌がらせだ。目的の物をほいほい与えてやるつもりはないからな。」
「・・・ちぇっ、全く強情なイノシシだな。」
「ついで言えば、おまえがおれに危害を加える可能性が無いこともわかっとる。おまえにできることは、せいぜい嫌がらせ程度だ。」
「言ったね。」
レッド・グローリア伯爵は不満げに口元をへの字に結んで諦めたように立ち上がり、囚われの想い人を見下ろした。少佐は相変わらず落ち着き払ってその顔を見上げた。
「生死にかかわる危険があるわけでもない。守秘すべき機密があるわけでもない。おれを拘束しているやつはおれにけしからん感情を抱いとるだけのただの民間人だ。別に緊張すべき状況でもないな。おまけにそのワゴンからは旨そうな匂いがしとる。とっととめしの時間にしろ。おれに睡眠ガスを嗅がせてからいったい何時間経過しとるんだ。」
「きみときたら思ったよりもずっと早く目を覚ますんだもの。いたずらをする暇も無かったよ。冷めないうちに食事ができるなんて思ってなかったんだけどな。」
「おれの体内時計からいっても、たいした時間はたっとらんようだな。さっさと解かんか。」
「月曜の朝までには帰すよ。仕事の邪魔をしたら、きみのご機嫌を損ねるどころの騒ぎじゃ済まないもの。」
「多少の分別はあるようだな。」
「分別を捨てるために、ここに連れ込んだのに。」
伯爵は再び思わせぶりな態度に戻り、縛られたままの相手に背筋の痺れるような流し目をくれた。 そして少佐のこめかみを両手で挟み、細く形のよい指を黒髪に差し込むと、指先をじらすようにうごめかせながら額に唇を近づけ、触れた。まばたきひとつ返さない少佐に苛立ったように、湿りけのある唇がまぶたに降りた。少佐はおとなしく目を閉じ、その柔らかい皮膚へ柔らかい唇を受けた。だが唇が頬へ降りると少佐は再びまぶたを開き、触れるか触れないかというかそけさで自分の頬に唇をを寄せている男の顔を、灰色をおびた緑の双眸でじっと見つめ返した。青い瞳は不意にそれに気づいた。
伯爵は興をそがれたような顔になり、ふっと体を離した。それから椅子に縛り付けられたままの相手を、上から下まで何度も視線を行き来させて見つめ、とうとうこう言った。
「きみは本当は、わたしにどう対処すべきか知ってたんだ。」
「そうかもな。」
「きみが最初からそういう態度だったら、こんなことしなかったのかもしれないのに。」
少佐は応えなかった。伯爵は諦めたようにため息をつくと少佐から視線をはずした。そして揺り椅子の後ろに回りこみ、両手を背もたれにかけてゆっくりと椅子を揺らし始めた。
「初めて会ったときから、きみは私を見ると平静でいられないようだった。それはいつどこで会っても同じだった。だから私はずっときみに言ってやりたかったんだ。『私に心を奪われる自分がそんなに許せないのかい?』って。言えばよかったな。きみはすぐに態度を改めて、ひどい軽蔑をこめて私の傲慢の罪を指摘してくれただろうから。そしたら私はここまできみに夢中にならずに済んだかもしれない。」
伯爵は揺り椅子を揺らし続けた。背後からは、少佐がどんな表情を浮かべているのかは見えなかった。
「私がきみに心を奪われはじめたころ、私の取り巻きたちはみなすぐに気づいたよ。恋をしている私はすごく綺麗だって。輝くようだってさ。」
伯爵が自嘲するようにそう言うと、少佐は低く鼻を鳴らした。伯爵は長い睫毛を落としてまぶたを閉じ、軽く首を振った。豊かな金髪がさわさわと揺れた。再び目を開けた伯爵は。背もたれに体を寄せて少佐の顔を肩の上から覗き込み、口調を変えておどけるように尋ねた。
「きみと食事をとりたいんだけど、縛めを外すとぶん殴られてさっさと出ていかれて、それで終わりなんだろうな。」
「そんなところだな。」
伯爵は再び揺り椅子の前にまわった。そしてワゴンを揺り椅子の脇に引き寄せ、足を曲げて少佐の膝の上に跨った。揺り椅子がまた揺れた。「嫌がらせに私が食べさせてあげるよ。もう暫くきみといたいから。」
「さっさとしろ。おれは腹が減っとる。」
全く動じない相手に眉を顰め、伯爵は少佐の腿の上にさらに深く座りなおした。座り心地を確かめるように腰を動かすと、揺り椅子は不安定にぐらぐらと揺れた。それから伯爵は右に寄せたワゴンへ手を伸ばし、食前酒を小さなグラスふたつへ注いだ。
「ベルモットは甘いほうが好きなんだけど、きみはそうじゃないだろうから辛口のにしたよ。」
そう言うと左手で自分のグラスを持ち、右手のグラスを少佐の口元に押し付けた。少佐はおとなしく顎をあげ、グラスを飲み干した。伯爵はそれを見届けると自分のグラスを空け、ワゴンに並んだ皿のカバーを次々と外していった。
「コントルノをきみの好みに合わせて野暮なチップスにしたから、野菜を少し先にとろう。アンティパストは生ハムと白アスパラガスのサラダ。プリモ・ピアットはキュウリの冷製クリームスープなんだ。おなかがすいてるんなら温かいもののほうがよかったかもしれないけど、部屋を暖めてあるからいいだろう?」
「おれは別になんでも構わん。」
「セコンド・ピアットは仔羊にしたよ。きみが魚好きなのは知ってるけど、私は肉を食べる男を見るのが好きなんだ。肉に喰らいつくきみは、きっと軍服を着てトマトを食べていたときと同じぐらいセクシーだ。それからきみの愛するチップスを好きなだけ食べて、最後はドルチェとエスプレッソ。食後酒には何を飲む?」
「甘いものは食わんぞ。」
「そう言わずに試してみてくれよ。甘さはなるべく控えめにしたんだ。きみみたいな硬派な男にも合う味さ。」
「御託はいい。おれは腹が減った。始めろ。」
伯爵は前菜の皿を取り上げた。レッド・グローリア家の薔薇の紋章のついたフォークが、生野菜と白アスパラガスを巻き込んできれいに形を整えた生ハムを乗せて、細長い皿と軍人らしい頑丈な顎の口元を行き来した。フォン・デム・エーベルバッハ少佐は口を開き、軍人貴族の家系出身らしい優雅な無骨さで受け取ったものを咀嚼した。 がっしりした顎が規則的に動いた。
次に伯爵は皿を持ち替え、少佐は伯爵のさし出すスプーンからスープを飲んだ。純銀のスプーンが少佐の両唇の間に繰り返し滑らかに滑り込み、その度に喉が動いた。スープの後には同じ紋章のフォークが仔羊の肉を運んだ。少佐は黙って咀嚼を続けた。何度かの往復の後に、フォークが伯爵の細く形のよい指に変わった。少佐はそれでも黙って食物を受け続けた。滑らかな指先が唇を越えて口腔内を侵犯しても噛み付いたりせず、ただ舌で毅然とそれを押し戻すだけだった。伯爵は自分でも指先を味わい始めた。視線が絡んだ。微塵の動揺も見せない相手に苛立った伯爵は肉の一切れを咥え、挑むように顔を寄せた。少佐は柔らかい仔羊の肉を伯爵から口移しで受け取り、舌を伸ばして伯爵の唇に付いたソースを舐めた。
伯爵はを背筋を震わせて舌の動きに応え、そのまま動かなくなった。
少佐は顔色ひとつ変えずに咀嚼を続けた。
「どうした。おれはまだ満腹になっとらん。」
「・・・きみはとことん残酷だよ。」
「ひとを椅子に縛り付けたままのやつに言われる筋合いはないな。貴様はとことん身勝手だ。」
恨めしげに少佐を見遣りながら、伯爵は指に付いたソースを自分で舐め取った。それから背を逸らせて体を離し、少佐の顔を見下ろした。金髪に包まれた頬が上気していた。揺り椅子がゆらゆらと揺れた。
「私にこんなふうにされて、平気だった相手なんて今まで一人もいなかったよ。」
「別に平気なわけではない。触ってみろ。」
言われるままに、伯爵は肉汁と唾液の付かない左手で少佐の前を探り、そこに確かなものを確認して鋭く息を止めた。少佐は全く昂ぶりを感じさせない声で続けた。
「嫌がっとらんと言ったろう。体は正直だからな。隠しても始まらん。」
伯爵はさっと顔を上げ、驚きと喜びに満ちたきらきらした瞳でまっすぐに相手を見つめた。それからやにわに少佐にしがみついた。揺り椅子が忙しく前後した。伯爵の手が、拘束されたままの少佐の体をくまなくを這い回った。初めはおずおずと、それから徐々にためらいを捨てて激しく。少佐は逆らわなかった。拘束された手足ではもとより何もできなかっただろうか、だが抵抗を示す気配はなく、体を固くして伯爵の愛撫を避けようとする素振りも無かった。伯爵はせつなげに息を弾ませ、我慢できないというような声を絞り出した。
「きみを…、めちゃくちゃにしてやりたいよ、少佐・・・!」
「手を洗え。服が汚れるとおれの機嫌が悪くなるぞ。」
「服を汚すのは食事の脂だけとは限らないじゃないか。」
「おまえの…とか、おれの…とかか。」
「きみがそんなこと言うなんてね!」
伯爵は体を離し、喜びをいっぱいに浮かべた輝かしい笑顔で正面から少佐を見つめた。だが少佐は無表情のまま、さらに続けた。
「もうひとこと言っておくぞ。それ以上けしからんことをするようなら、ここから出たらおまえとは二度と会わん。」
伯爵は息を呑み、ぴたりと体の動きを止めた。
「どうして。」
「別に理由は無い。おれがそうするだけだ。」
少佐は淡々と答えた。伯爵は警戒心に満ちた目で少佐の顔を睨みながら、尖った声を出した。
「でも、私はこれまで通りきみに付きまとうよ。」
「おれがこれまで通りではなくなるだけだ。本気で誰かの顔を見たくない場合には、おれはおれの方法を使う。」
「それって、きみが職業柄いろいろ心得ている、あまり大きな声では言えないような方法ってこと?」
「どう考えようとかまわん。だがおれは一旦決めたことはそうする。譲歩の余地はない。」
伯爵は体を離し、相手の意図がつかめないままに少佐の顔をくまなく眺め回した。冗談を言っている風情ではなく、かといって敵意に満ちた視線もなく、ただ事実をありのままに述べる淡々とした口調と表情だった。口を開きかけた伯爵をぴしゃりと抑えるように、少佐は続けた。
「こういったことは異性間で行われるべきものだ。目的は生殖だからだ。本来の目的を逸脱した行為は好ましくない。」
「きみ、それ本気で言ってるの?」
「もちろんだ。」
「こんなになってるのに?」
伯爵は上目遣いに相手を見据えたまま、両手を巧妙にうごめかせた。うめき声か喘ぎ声を密かに期待していたが、少佐は顔色一つ変えなかった。
「ドリアン・レッド・グローリア伯爵。おれがそうする理由はおれの任務、社会的立場、フォン・デム・エーベルバッハ家の家長としての責任、おまえの身分、国籍、性別、それからおまえの裏の家業、あらゆる現実すべてだ。どう考えてもこれ以上のことは起こるべきではない。おれの理性はゆるぎなくそう判断している。そしておれは理性の判断に従う。」
平静なバリトンが毅然とそう告げた。口調にいささかの乱れもなく、それはつまり決意にもなんらかの揺るぎもないということを意味していた。ドリアン・レッド・グローリア伯爵であり怪盗エロイカである男のの比類なき美貌と手管をもってしても、その決意を変えられないことは明らかなようだった。伯爵は動けなかった。
長い沈黙が降りた。沈黙を破ったのは伯爵のささやき声だった。
「少佐、いまきみの縛めをほどいたら、どうなるのかな?」
「おまえをぶん殴るのは省略して、さっさとこの場を去る。それだけだ。」
「じゃあ、やっぱりはずせないな。」
伯爵はため息を付いた。
「どうしてきみがそこまで強情なのか、私には全くわからないよ。」
「どうしておまえがそこまで強情なのか、おれにも理解できんぞ。相手に不自由はしとらんだろう。」
伯爵の右手がひらめき、少佐の頬が鳴った。伯爵は瞳を怒りに燃えたたせたまま、少佐を睨みつけた。少佐は顔色一つ変えなかった。
「謝らないからね。」
「別に謝らんでいい。いままで何度もおまえを殴ったが、おれが謝ったことは一度も無い。」
「きみは残酷な冷血漢だ。きっと心なんて無いんだ。任務の最中にどこかに落として失くしてきたんだ。」
そのとき少佐は始めて表情を崩し、眉をしかめた。ごく僅かに、だが確かに緑の瞳が苦しげに暗く曇った。伯爵の目はそれを見落とさなかった。硬い声で尋ねた。
「きみにまだ心があるなら、私にどうして欲しいんだ。」
少佐は色調を変えた瞳を隠すようにまぶたを閉じ、ゆっくりと応えた。
「今まで通りだ。おれの周りをふわふわ飛び回っていろ。」
「蝶みたいに、かい?」
「風船だ、馬鹿。」
「それが、きみが私に許せる最大の譲歩ってわけだ。」
「許せる?・・・違うな。それがおれの最大の、望みだ。」
「望み?少佐、それって・・・」
少佐は目を開いて伯爵を見つめた。伯爵は信じられないという表情で少佐を見つめ返した。唇が何かを問いかけるように開かれたが、言葉はこぼれなかった。少佐は言葉にならなかったその問いを正確に捉え、伯爵の前に思いがけない答えを差し出した。
「心はおまえにやるからそれで我慢しろ。」
伯爵は少佐を見つめた。長い間、黙ったまま見つめた。見つめながら、知らず知らずのうちに右手の拳を自分の心臓の上に押し当てていた。形のよい眉が微かに震えている様子から、その場所に鋭い痛みを覚えているのかもしれなかった。 少佐は伯爵から目を逸らさなかった。それが答えだった。
伯爵はとうとうため息をつき、かろうじて泣き笑いのような表情を作った。
「…どっちも、ってオプションはないのかな。」
「欲張るな、泥棒。」
「欲張ってなんかないさ。どこまで許されるかをよくわきまえてるつもりだよ。今回はちょっとやりすぎたかもしれないけど。」
「これがやりすぎでなくてなんなんだ。」
「私なりに遠慮してるんだよ。あの絵だってきみの屋敷に盗みに行かずに、模写で我慢したんだ。」
伯爵は向こうの壁を指差した。少佐はその指を目で追った。『紫を着る男』が黙ってふたりを見ていた。肖像画の男の顔が完全に自分の顔であることに、少佐はそのとき初めて気が付いた。
「えらく小さいな。」
「私が描いたんだ。素人の余技にしてはなかなかのもんだろ。」
「おれに似てるということ以外、さっぱりわからんな。」
「だって偽造画家に注文を出そうにも、もとになる絵の写真すらないんだもの。私の記憶をたどるしかなかったんだよ。」
「おれの顔を思い出しながら描いたのか。」
「そう、きみのことを想いながらね。」
少佐はため息をつき、背の力だけを使って揺り椅子を揺らし始めた。伯爵は黙って上体を前に倒して少佐に体を預け、一緒に揺れた。少佐は逆らわなかった。沈黙が降りた。心地よく、しかし緊張をはらんだ沈黙が。揺り椅子の揺れる音と双方の動悸だけが聞こえた。
沈黙を破ったのは少佐の方だった。「寝室で、眠る前におまえのことを思い出すことがある。」
「それで?」
「眠れなくなる。」
伯爵はもう驚かなかった。
「私も、きみを想って眠れない夜は幾夜も過ごしたな。」
「別の相手を探せ。いくらでもいるだろうが。」
「この頑丈な首筋を咬みちぎってやりたいよ。」
そう言いながら、伯爵は少佐の首筋に舌を這わせ、甘噛みした。少佐は目を閉じてその感覚を享受しているようだった。そのまま二人で黙り込んだ。揺り椅子だけがいつまでもゆらゆらと揺れていた。暖炉の火がはぜた。
「…甘いものがあるとか言ってなかったか。」
「試す気があるなら私もご相伴するよ。食事をとる気はしないけど、甘いものなら少しね。」
「一口もらおう。このままでは変な気になりそうだ。」
伯爵はにやっと笑い、腕を伸ばしてワゴンから薄く切ったチーズケーキの載った皿を持ち上げた。「いちごと、レモンとチョコレートだ。どれにする?」
少佐は答えた。
「レモンだ。それが一番甘くないだろう。」
伯爵はフォークの先でケーキを切り分け、指先でつまみ上げようとして思いなおした。フォークに刺したごく僅かのケーキのかけらをゆっくりと少佐の口元に運ぶと、たったいま甘くつれない言葉を吐いた男の唇がそれを受け取り、柔らかく咀嚼して飲み込んだ。伯爵はフォークを持ったまま、ただ魂を奪われたようにそれを見つめていた。少佐が目で催促すると、伯爵は黙って同じことを繰り返した。フォークが行き来するたびにただ伯爵の瞳の憂いの色だけが濃さを増し、やがて一切れのチーズケーキがすべて消えると、伯爵は深いため息をひとつついてフォークをプレートに横たえた。
「おまえは食わんのか。」
「それどころの気分じゃないね。」
「どっちが誘拐されて椅子に縛り付けられてる男の台詞かわからんな。」
伯爵は苦しげな笑みを浮かべた。
「少佐、きみを自由にする前に、キスしていいかな。」
「おれがだめだといったらやらんのか。」
伯爵は目を伏せて答えなかった。
「どうなんだ?」
「…やめておく。きみを失いたくないよ、少佐。」
「なら、許す。かまわんから続けろ。」
「本気かい?」
「二度は言わんぞ。」
伯爵は黙って少佐を見つめ、それから首を振った。
「だめだ。こんなのはいやだ。きみに無理強いをするようなキスなんてごめんだ。」
そう言うと立ち上がり、少佐の二の腕を拘束する革紐を解き始めた。
「だって、縛られたままのきみに無理強いをするなんてつまらないもの。ほどいたからって今さら逃げないでくれよな。キスの許可をくれたのはきみだよ。」
両腕が自由になった。少佐は手首をぐるぐると回し、背もたれから背を離して肩と首の骨を鳴らした。そして足首が自由になるとゆっくりと立ち上がり、伯爵に向き直った。立ち上がると二人の背丈はほぼ同じだった。伯爵はするりと体を寄せ、両ひじを少佐の肩に掛けて顔を近づけた。少佐は鼻を鳴らした。
「長いこと乗られると足が痺れた。やはり女より重いな。」
「きみなんか大嫌いだよ。」
「…」
「きみなんか大嫌いさ。」
「…」
「なんとか言えよ。トーヘンボク。」
「…に、なれたら楽だろうな。」
伯爵が息を呑んだのと、少佐が左手で伯爵の腰を引き寄せたのが同時だった。伯爵は不意を突かれたが、それでも目は閉じなかった。煙草の匂いのする右手であごを掴まれ、噛み付くような、むさぼるようなキスが始まった。少佐は伯爵の腰を抱いてぐるりと位置を換え、唇を繋いだまま伯爵の体を揺り椅子に落とし込むと片足で伯爵の膝を割り、全身で圧し掛かるようにして伯爵の体を押さえ込み、きつく舌を吸った。少佐の口の中に残るかすかなレモンの酸味を帯びた甘さと、キスの激しさは全く裏腹だった。揺り椅子がぎしぎしと音を立てた。レモンの残り香を求めて少佐の口腔内を探る伯爵の舌を、少佐は余すところなく貪欲に味わい尽くした。求めていたものをはるかに越えた驚きに伯爵はあらゆる意思を失い、ついに目を閉じ、すべてを任せた。体を揺り椅子に、心をつれない想い人に。
だが、それ以上のことは何もおこらなかった。いつの間にか唇は離れていた。やがて伯爵は、自分の体に覆いかぶさっていた熱を帯びた確かな肉体が不意に消えるのを感じた。伯爵は目を閉じ、椅子に体を預けたまま告げた。
「ここはケルンの郊外だよ。きみの車は表玄関の車寄せに止めてある。キーは挿したままだ。」
応えの代わりに隣のワゴンで物音がした。コルクを抜く音が聞こえ、芳醇な液体がグラスに注がれる軽快な音と香りが続いた。伯爵は目を閉じたままその音と香りを享受した。あたかもそこが二人の寝室で、ことを終えた二人のために恋人が喉を湿すものを用意しているかのように夢想しつつ。もしかするとその空想の甘さに、唇がうっとりと開いていたのかもしれない。よく熟成したまろやかな香りのグラッパの味が、不意に舌の上に滑り込んだ。食後酒でチーズケーキの味を洗い流した舌が伯爵の唇を割って入り、歯の裏や口の天蓋の敏感な場所を掠めて不埒に動き回った。伯爵は目を閉じたままもう一度すべてを忘れた。
キスは始まったときと同じように不意に終わった。フンと鼻を鳴らす音がして遠ざかる足音が聞こえ、ドアが開き、やがて閉まった。暖炉の火がはぜた。揺り椅子は目を閉じたままの伯爵を乗せて、いつまでも揺れていた。
* * *
季節が幾度か変わった。フォン・デム・エーベルバッハ少佐が何かの公務の折にその見覚えのある館のそばを通りかかったと きには、館はすでにもぬけの殻だった。門扉は開いていた。曇った窓から中をのぞくと、暖炉の前にあの揺り椅子がひとつ残るのみで、邸内に人が棲んでいた痕跡は全く無かった。庭さえも大昔から荒れ果てているように見えた。飾り模様のついた鉄製のフェンスにからんだ蔓薔薇の花はどれもみな枯れていて、手を伸ばすとあっけなく風に崩れた。少佐は表情一つ変えずにそれを見て取ると、花びらの破片を払い落とした片手をトレンチコート のポケットに戻してきびすを返した。そして車の傍らで取り出しかけた煙草を思い直してそのまま胸ポケットに戻すと、もう一度館に目を遣り、運転席に座り直して二度と訪れることの無いその場所を後にした。
END
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少佐はやっぱりケーキは食べないと思うんですが、私の大大大好きなあのフィクのあのシーンに敬意をこめて、そこから1行弱拝借しました。あれですよあれ!