このサイトでは、「エロイカより愛をこめて(From Eroica with Love)」を題材とした、英語での厖大な二次創作群を翻訳しています。サイト管理者には原作者の著作権を侵害する意図は全く無く、またこのサイトにより金銭的な利益を享受するものでもありません。私が享受するのは、Guilty Pleasure - 疚しい楽しみ-だけです。「エ ロイカより愛をこめて」は青池保子氏による漫画作品であり、著作権は青池氏に帰属します。私たちファンはおのおのが、登場人物たちが自分のものだったらいいなと夢想 していますが、残念ながらそうではありません。ただ美しい夢をお借りしているのみです。

2012/11/23

The Devil He Knew - by Kadorienne



  
The Devil He Knew
by Kadorienne

【警告】上記のリンクには成人向けコンテンツが含まれている可能性があります。
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訳者よりの警告:合意にも愛情にも基づかない性交の描写があります。未成年の方、精神的に繊細な方、性的な外傷体験のある方はお読みにならないよう、強く警告しておきます。









伯爵は窓際の椅子に座っていた。膝を抱え、その膝を両腕で抱きしめるようにして座っていた。視線はぼんやりと窓の外のアルプスの方に向けられていた。この山荘を使ったことはこれまで殆ど無かった。ましてやたった一人での滞在は。部下や取り巻きたちから数日間離れることが、自分にこれほどの安らぎをもたらすことに驚いてもいた。不在の間に部下たちがどんな悪戯をしでかすかは知れたものではなかったが、必要とあらば戻った後にまた厳しく締め上げればいい。だが今は、今の彼には束の間の逃避が必要だった。部下たちがひっきりなしに次の仕事をせがんでいたからだ。伯爵はもう一ヶ月近くも盗みの欲望を覚えていなかった。欲望、あらゆる欲望を。

銃口をこめかみに押し付けられ、少佐を陵辱するように強いられたあのとき以来。




その連中の名を聞き取ることすら出来なかった。彼らはアラビア語で会話し、人質に指示を与えるときのみ、ひどい訛りの英語で話した。伯爵がその部屋に連れ込まれた時、少佐はすでに拘束され、身につけた衣服をずたずたに切り裂かれていた。伯爵は少佐と視線を合わせることを避けようとしたが、少佐の後頭部から肩の位置に見えたべっとりとした血溜まりに気付き、衝撃を受けた。抵抗の際にひどい重傷を負わされている… 
「おまえ、イギリス人!」首謀者と思しき男が口を開き、銃口を伯爵に向けた。伯爵は顔を上げ、目を見開いてその男を見つめた。男はこれ以上ないほど露骨な言葉で、何をさせるつもりかを伯爵に告げた。テーブルに仰向けに縛り付けられていた少佐が半ば引きずり降ろされ、服を剥がれた。彼はひどく負傷していて、全くの無防備だった。






夕食の時間だった。空腹など感じなかった。その記憶が彼のすべての欲望を疎外していた。それと睡眠と。彼は一晩中寝返りを打ち続けた。夜半過ぎには必ず目を覚ました。正気を失うほどの錯乱状態には陥っていなかった。生きるための最小限の睡眠は得ていた。自分自身を失い、取り乱すということもなかった。だが今までどおりの自分でいられないこともわかっていた。

誰が今までどおりでいられよう?





「見て楽しむ方に回りたいというなら、それでも別に構わんぜ、イギリス人。」テロリストのうちの一人が揶揄した。にやにや笑うと、ひどい歯並びの前歯がむき出しになった。彼が拒否する欧米文明のうちには、歯科医学も含まれているのだろう。伯爵の胃がせり上がった。彼は恐る恐る少佐に近づき、声をかけた。「少佐…、彼らにやらせたら、きっとひどい傷害を負わされるよ。私なら…、私ならせめて怪我はさせずに済むと思う。」 
「おまえから怪我など受けん。」 
伯爵はその言葉よりも少佐の口調にぞくりとした。口調には狼狽も恐怖もなく、ただ激怒だけがあった。かつてのミーシャとの不愉快な対話のときの口調と同じだった。その時少佐はミーシャの部下たちに壁に押し付けられ、ロシア人は無防備なドイツ人を心ゆくまで殴りつけたのだった。 
「おまえにはやらせんからだ。前のファスナーをしっかり締めて下がっていろ、盗人。」







ほぼ一と月が経った。その出来事の記憶は、片時も止まることなく彼の脳裏で再現され続けた。伯爵もまたあの時と同じあらゆる感情の衝突に振り回され続けた。まず感じたのは安堵だった。テロリストたちから与えられた理不尽で厭わしい命令を拒否してよいという許可。次に湧き上がったのは恐れと怒り、このけだものたちは彼の美しく高潔な少佐に邪悪な欲望を抱いているのだ。彼自身は少佐への手ほどきの手順を、注意深く愛をこめて組み立てていたというのに。そしてその時不意に湧き上がった陰惨な考えが彼を鋭く刺した。私の少佐は、私に何かされるぐらいなら、むしろこの野獣たちに輪姦されることを選んだのだ。

伯爵は激しく首を振った。少佐は怪我のあまり考えがおかしくなったに違いない。頭のどの部分を殴られたんだろう? - いいや、絶対に違う。そうではない。銃口を突きつけられながら少佐を強姦しなかったことに未練があるわけではない。ただ自分がそこまで少佐に嫌がられていたとは。自分が内側から崩れていきそうだった。





「きみをめちゃくちゃにするよ!あいつらったら!」伯爵は逆らった。「私ならきみを傷つけずに済む。」だが少佐は断固として拒絶した。伯爵は少佐に指一本触れなかった。 
伯爵は吐き気をこらえながら引き下がった。そしてテロリストの首謀者が下半身の衣類を脱ぐあいだ目を閉じていた。その間も別のテロリストが伯爵に銃口を押し付けていた。伯爵は何も見なかった。彼は頭を下げて、まぶたをしっかりと引き結んでいた。だが耳までは閉じられなかった。野獣たちが何を言い交わしあっているのか一言足りとも理解できなかったのは、ひょっとすると恩寵と言えたのかもしれない。だが彼らの嘲笑に満ちた口調には翻訳の必要などなかった。鉄のクラウスですらこらえきれない呻き声と苦痛への叫びにもまた、その必要はなかった。 
伯爵を押さえつけていた手が緩んだのは、音と気配から判断して三人目の男がことに当たっている時だった。伯爵にできたのはその場へ崩れ落ちないように両足を踏ん張り、少佐の様子へ注意を集中しながら歯を食いしばることだけだった。抵抗できる方法はなにもなかった。 
爆発音が聴こえた瞬間、伯爵は目を見開いた。ドアのがっしりした蝶番が粉々にはじけ飛び、破片がドア周辺にに降り注いだ。激怒した重装備の少佐の部下たちが突入してきた。Aが弾丸を叩きこむと、少佐にのしかかっていた男の頭部がほとんど爆発するように砕けた。銃声はそれだけにとどまらなかった。そしてその銃声を抑え込むように、少佐のドイツ語が轟いた。「殺すな!生け捕れ!尋問に掛けるぞ!」 
”私の少佐ときたら、こんな時でもいかにも少佐らしい…” 胃を空にする前の伯爵の脳裏に浮かんだのはそんな考えだった。







危機を脱し安全圏に身をおいた後でも伯爵は、あの戦慄する光景から思考を引きはがすことが出来なかった。あんな凄惨な事件の後では、少佐は他者と性的なつながりを持つことになど何の興味も失ってしまったに決まっている。ましてや同性となど。ああ、怪我はどうなのだろうか? もちろん伯爵とて、少佐の職業上避けられない危険についてはわきまえていた。だがあの事件では伯爵自身がその目撃者となり、頭で理解していたことと実際にこの目で目撃した事実の重みの差異にしたたかに打ちのめされたのだった。

表通りに車が見えた。伯爵は何の興味もなさげにそちらを見遣った。山荘は人里離れた山奥に位置し、人影を見かけることも殆ど無かった。車がかれの山荘への脇道へ乗り入れるのを見て、伯爵の注意がぴくりと疼いた。黒のメルセデス。

セダンが山荘の車寄せに泊まるより早く、伯爵は駆け寄って入り口のドアを開けた。少佐は少しも驚いた様子を見せず、一言の挨拶もなしに山荘に足を踏み入れた。目の下のわずかな隈以外、少佐の様子がいつもと何一つ変わらぬように見えたのは、伯爵にとって小さな安堵だった。少佐には苛立っている気配もなかった。それだけは普段とは違っていた。

伯爵はドアを閉めて腕を組み、愛する人に対峙した。逃げることを考えず、向きあうにはいい機会だ。「少佐。このことだけはわかってほしい。きみの危機に付け込んで自分の欲望を果たそうとする気は、私には全くなかった。誓うよ。きみに無理強いをするつもりはなかった。ただきみに、私を選んで欲しかったんだ。あのときの申し出の意図は、きみがあいつらにひどい目に合わされるのを避けたい、それだけだった。機会に乗じようとしたわけじゃない。あいつらが私に命じたことを考えると…。ひどい気分になる。したくなかった。それだけは誓うよ。」

少佐はどこか呆けたような表情で伯爵を見た。「そんなことはわかっとる。」

このあっさりとした承認が伯爵の気構えの一劃を崩した。息をつき、腕組みを緩めると、客を迎えた際にすべきことが自然に戻ってきた。「ええと、飲み物はどうかな?」

少佐はうなずいた。彼らは居間に入り、伯爵がウィスキーをグラスに注ぐのを見ながら、少佐はソファに腰掛けた。少佐が口を開く前に、彼ら各々が唇を湿した。

「やつらの指示に従うなと命じたわけはわかるか?」

「いや。」伯爵は静かに答えた。

少佐は眉をしかめた。はっきりときまり悪げにしていた。言うべき言葉をあらかじめ準備してきたように見えた。「苦痛なら抑制できる。おれはいつもうそうしてきた。」

伯爵は口を挟んだ。今尋ねるべきことかどうかはわからなかったが、だが口が開くのを止められなかった。「少佐、あの…、その、怪我の具合は…?」

「ああ、それは…、そうだな…、しばらく医者に通うことになる。まだ…、傷口はまだふさがっとらん。だが医者は回復は時間の問題だといった。伝染病への感染がないことも確認できた。」少佐の声は平静を保っていたが、そこには強いて口を開くことで動揺を克服しようとするような響きが感ぜられた。

「天に感謝するよ。」今もまだ痛みを感じているのかと、伯爵は尋ねたかった。だが尋ねる勇気がなかった。多言を弄すべき事柄ではなかった。

少佐はウィスキーをごくりと飲み、それから背筋を伸ばした。「今言った通り、痛みなら我慢できる。それにあの状況下では、いずれにせよ性的な暴行を受けることは避けられなかった。」少佐の口調はなお奇妙な平静さを保ち続けていた。この慎み深いドイツ人にとって、それを口にだすことは新たな苦痛であるに違いない。「だがおまえにだけはそれをさせたくなかった。なぜならおれとおまえの双方が」彼はまるでそこが文末であるかのように言葉を区切った。それから勢いをつけて口を開いた。「初めての夜は素晴らしいものになるはずだと考えていたからだ。」

伯爵は凝然と目を見開いた。

少佐はグラスを置き、煙草を取り出した。火をつけるあいだ、彼の視線は煙草とライターとそれを持つ両手を凝視していた。まるで煙草に火をつけるという動作が、最新の注意を要する複雑な作業であるかのように。「おれにとって誰であれ他人と親しくなることがどれほど難しいか、おまえにはわからん。おまえには決して理解できんことだと、おれにはわかっている。」少佐はまたもや暗誦するような口調に戻った。少佐の心情を慮った伯爵は不意にそのことに気付き、はっとした。少佐は言うべき言葉を事前に用意し、おそらくは練習してきたのだ。

「きみが考えているよりは、もう少しちゃんと理解していると思う。」伯爵は注意深く口に出してみたが、見返りに少佐の疑わし気な視線を受けただけだった。

「にもかかわらず、最後にはおまえが勝つとおれにはわかっていた。ただ時間の問題だっただけだ。おれにその準備がなかった。」彼は深く煙を吐いた。「このことに、正面から向きあう覚悟がなかった。」

伯爵はわずかな目眩を覚えた。ウィスキーはほとんど舐めただけだったのだが。「少佐…、少佐、なぜ言ってくれなかった?」

「言えなかった。おまえにはわからん。」

「もしかしたら理解できたかもしれない。でも、これだけはまだわからないんだ。わたしがきみの負傷を最小限に食い止められたあのとき、…きみはあのけだもの達に身を任せた。」

「おまえに強姦されたと思いたくなかったからだ!」少佐は即座に反駁した。はっきりと憤っていた。「お互いがもとの感情を取り戻せるまで、どのくらい時間がかかると思うか?そんなことが起こったあとで」、少佐は言葉を切り、咳払いをした。「同じことを楽しんでできるようになれると思うか?」

ウィスキーを一口飲み、彼は続けた。「そもそもおまえは、あの下衆どもがなぜおまえにそれを命じたかをわかっとらん。連中はおれたちの事情など心得とらん。」少佐の口調が乾いた、無感情なものに戻った。自動車のエンジンについて語っているような口ぶりだった。「連中が承知していたのは、おまえがおれの協力者であるということだけだ。やつらの目的はおれを踏みにじることだった。取るに足らん苦痛から逃れることと引き換えに、おまえとおれの両方を踏みにじらせるわけにはいかん。暴力によって自発的ではない性行為を強いられるという点においては、厳密に言えばおまえもまた強姦の被害者になるということだからだ。」

伯爵の視界の中で、愛していたが全く理解していなかった相手の姿が涙でぼやけた。「少佐、私がきみを護ろうとしたあの時、きみもまた私を護ろうと…」

少佐は少し苛立ったように見えた。「当たり前だろう。」
  
伯爵は頭を振って涙をごまかそうとした。「少佐、きみったらなんて偏屈で意地っ張りなんだろう。」

少佐の話は終わらなかった。彼は残りのウィスキーを飲み干し、敢然と顔を上げて用意した原稿の暗誦に戻った。「グローリア卿、…ドリアン。このことがおれにとってどれほど難しいことかはすでに告げた。さらに言えば、おれの負傷が完治するまでどの程度の期間が必要かも、今は何も言えない。下手をするとかなりの時間がかかるかもしれない。…それが可能になるまでには。」だが少佐はそれ以上言葉を続けられなかった。この数分のうちに彼があらわにした感情の量は、彼の人生におけるその総量を上回っているかもしれなかった。

「大丈夫さ。」伯爵はささやくように答えた。「こんなに長く待ったんだもの。」歩き続けた道の先に今や辿り着く先が見えた今となっては、必要とあらばさらにあと何年か待ち続けることなど問題にすらならない。伯爵は我知らず微笑み、その感情を言葉に出して伝えようとした。「泊まってくだろ?少し時間をくれたら夕食を用意するよ。それから何か話そうよ。チェスでもいい。」そして付け加えた。「信用してくれよ、私は申し分なく紳士的に振る舞うから。」

伯爵を驚かせたのは、少佐が返した微笑みだった。「とっくに知っとる、そんなことは。」



<終>

2012/11/22

From Eroica. - by Kadorienne



  
From Eroica.
by Kadorienne

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訳者からの強い警告:性的な描写は一切ありませんが痛みを伴った非常に暴力的な描写を含みますお読みにならない方がいい方もいらっしゃると思います。自分がそうだと思われる方はここでお引き返しください。



概略:

エーベルバッハ少佐は拷問を受けた。これは陰惨な読み物である。読まないことをお勧めする。私は本心からそう告げている。すでにここで警告を受けたことを、あなた自身が銘じてほしい。















エーベルバッハ少佐は、自分がどこまで拷問の苦痛に耐えうるかを常々疑問に思っていた。

それは机上の仮説の話ではなく、彼自身の職業にかかわる実利的な疑問である。彼の頭脳に収まる数々の貴重な情報のせいで、東側の最も慈悲深い諜報員ですら同じ疑問を追求せずにはいられないようだった。また時にはその情報こそが彼の命を救うこともあった。生かしておけばその情報を取れるかもしれないと、彼の敵対者たちは考えた。

そうした事情で、少佐は確かに拷問への耐性訓練を十分に受けていた。陸軍の新兵訓練はこの世の地獄だとそれを知るどの軍人もが語ったが、諜報部の高度特殊訓練を完了した後の少佐は、陸軍兵士たちが訓練場での経験をさも恐ろしげに語り合う場に居合わせるたびに、鋭いいたたまれなさを感じるようになった。祖国の過去が祖国の誇りを覆い隠した暗雲を吹き払うためにどうすればよいのか、その答えを探すためには取るに足らない苦痛などには構っていられなかったし、むしろ苦痛を引き受ければ引き受けるほど、自分が生まれる前に為された罪状の罪滅ぼしができるように感じた。彼が自分自身の人生の任務をはっきりと意識した時、この種のことにはすでに覚悟を決めていたのだ。敵に対し如何に振る舞うべきかは明らかだった。

従って、最小限の食料と休息しか許されない状況下で肉体を極限まで酷使した際に自分がどうなるか、少佐はよく了解していた。睡眠不足への耐性訓練ももちろん受けていた。(結局のところ彼はついに気を失って眠りに落ちた。バケツいっぱいの氷水も、耳のそばに置かれたボリューム最大の大型スピーカーも、肉体の最も脆弱な部分への殴打も彼のまぶたをこじ開けることは出来なかった。) また彼はあらゆる状況にどう対応すべきか心得ていた。顔面を水面下に押さえつけられる時間が次第に長くなる際にいかに長く息を保たせるか。催涙ガスの際には。殴打の強度が酷くなった際には。ミーシャがナチスへの嘲笑を吐き捨てたとき、少佐は純粋に怒りを感じた。だがその怒りにとて幾分かの演技が含まれていた。その種の中傷はあるとあらゆるバリエーションを含め、同僚のドイツ軍兵士たちから事前に聞き飽きるほどきいていたからだ。少佐の脳裏に特に記憶に残るほど厳しかったあの訓練は、先の大戦では連合軍兵士を抑留するための施設だった山奥の基地で実施された。コンバットブーツで顔面を踏み付けられながら聞くのでもない限り、嘲笑など何の効果もないに等しい。

しかしながら訓練は所詮訓練でしかなく、実際の体験と比較することは根本的に無意味だった。どこまで拷問の苦痛に耐えうるかを知るためには、拷問そのものを甘受するしかない。生存の危機をまざまざと感じていたが、それはもはやさほど重要なことでもないように感じられた。だが苦痛は。自分はどこまで耐えうるのか。

少なくとも、今はその答えを得るわけだ。

すぐに、その答えは知れる。

「諜報部のクレインが我々のもとから帰った後、きみは彼と話をしたはずだ。そうだな、少佐?」ミーシャが尋ねた。ぞっとするような笑みが、彼の顔に深い皺を刻んだ。クレインはNATO西ドイツ支部の諜報部員だった。二年前、ミーシャと部下が彼を拘束し、悪名高い『ミーシャの電流』の洗礼を施したのちに解放した。クレインから漏れた情報により、総計14人の情報屋と秘密捜査員が暗殺されるか収容所へ送られるかしたが、西側へ戻ったクレインの状態を見た者は皆、彼を非難できなかった。以来クレインは人里離れた田舎の療養所で、トランプのカードをでたらめに並べるだけの日々を送っている。

少佐は答えなかった。テーブルに四肢を固定されると、拉致に抵抗した時に受けた傷が疼いた。縛り付けられる間に、「なぜ話さないのか」の理由を脳裏にひとつひとつ数え上げた。祖国。彼は祖国を愛していた。民主主義。腐ったシステムだが、腐り果てたその他すべてのシステムよりはマシだ。一族の家名。先祖に海賊まがいの者がいたことは忘れようと努めた。彼の沈黙によって救われるはずの何十人もの人間。彼自身もまた、沈黙を貫き通せば生き残れるのかもしれなかった。

「もっと気楽に考えればいいのではないのかね、少佐?」ミーシャが寛大な口調で話しかけた。「きみを責める者など誰もおらんだろうよ。私が何をする人間か、きみたちはよくご存知のはずだからな。そうだろう? 旧友よ。」

少佐は何も言わなかった。ミーシャは満足気に肩をすくめた。部下のうちの二人が、鋏を使って少佐の衣類を切り裂き始めた。それまでずたずたながらも辛うじて上半身を覆っていたシャツが取り除かれた。ジャケットは、拉致のいずれかの時点ですでに失われていた。少佐は、自分が完全な裸体を晒していることになど気付いていないように、無表情を保っていた。屈辱を感じるのは可能な限り先延ばしするつもりだったが、今日の終わりまで自己の尊厳を保持できるだろうという幻想を抱くほど甘くもなかった。電極が性器の上に固定された。さっさと跡継ぎを作って親父を黙らせておくべきだったかと少佐は考えた。生き延びても二度と役に立たんかもしれん。だが結婚は、少佐が勇気を持って直視出来ない数少ない物事のうちの一つだった。

それが始まった。

どう準備しようが、痛みは痛みだ。

彼は必死で自制心をかき集めた。なんとかしてそのことから気を逸らすべく、別のことを考えようとした。だが、人体の最も敏感な部分に流れ込む灼熱と激痛の振動から気を逸らすことのできるようなことは何ひとつなかった。それでもなお彼は自分に強いた。初めは叫び声を上げないことを。望んだほどは我慢できなかった。絶叫は考えていたよりも痛みをまぎらわせてくれたからだ。それから、…そう、結局のところ彼にできたのは、口を割らないことだけだった。要求された人物の名前。その他の人々の名前。たったいま彼に苦痛を与え続けている冷酷無比な連中と戦うために、その生命と肉体の双方を敢えて危機に晒している人々の名。少佐が護ると誓った人々の名。

幾多の死。ファシズムとコミュニズムというふたつの悪魔のの脚の下で、今世紀の人間たちがドミノ倒しの駒のように死を迎えていた。数百万、否、数えきれぬほど。どうなんだ?少佐は自分に問いかけた。大海にさらにもう一滴の血が流れ込んだとて、何のちがいがある?たとえその血が彼自身のものだとしても。

叫び声を抑えきれなくなってから、すでに二時間は経過したのではないかと少佐は思った。叫びと呻きで喉が荒れていた。「Bitte.…(頼む…)」 屈辱を感じないでいられるほどには、まだ自分を見失ってはいなかった。

電流が直ちに止まった。「聞いたかね、同志諸君。我々はこのドイツ人は鋼鉄製だと思っていたのだが。」

部下たちがどっと笑った。少佐は溺死寸前だったかのように、せわしなく息を吸った。

「さあ、そろそろ話す気になったかね、少佐?」

「Nein.」彼は自分に躊躇を許さなかった。

ロシア人はまたもや嫌な笑い方をした。「きみが話す気になるまで我々が電流を流し続ける、というのはわかっているのだろう?」

「Ja.」

「見ろ、この男はニーチェの信奉者らしいぞ。ドイツには超人思想とやらがあるそうだな!」ミーシャは部下たちとともに嘲った。

常にはない困難を覚えながら、少佐はロシア語で言葉を組み立てた。「おれの国を含むまともな文明国では、こういった行為は禁止されとる。あんた方の国では国民の半分をこの方法で治めとるそうだがな。」

カウンターパンチがまともに入ったらしく、ミーシャの顔が憤怒でねじれた。再び始まった電流は、電圧が明らかに先ほどより高く調整されていた。少佐はのけぞって絶叫した。

少佐にははかない希望があった。救援が駆けつける見込みはありそうになかった。少佐が知るかぎりの部下たちの現時点の所在地と、この地域で活動可能なNATO諜報部人員の配置を考えると、救援部隊が組織されることはとても望めなかった。もしそれが可能であれば、そして少佐の現在位置もしくは拉致された地点が明らかであれば、救援部隊はとっくに入口のドアを破っていただろう。

ならば、唯一の希望はここにしかなかった。

少佐は拷問について知りすぎるほど知り抜いていた。凄惨な拷問から生還した者たちは口を揃えてそのことを語った。神経の限界以上の苦痛を与えられたとき、人は恍惚とした状態に陥る。すべての刺激が奇怪にもほとんど快楽のような感覚に変換され、そしてその状態は数時間も続くという。

その状態が早く自分にも訪れてくれと少佐は切望した。さもなくば…、さもなくば。ああ、もう何も考えられん。

だが敵が戦術を変更した時には、少佐はその境地には一歩たりとも近づいていなかった。ミーシャが電流のスイッチを切り、馴れ馴れしく少佐を覗きこんだ。「というわけだ、少佐。これがどういうものか、きみのような強情なイノシシにも理解できたろう。きみは誰かにこれをできるだろうか?」

「ここへ横になれよ。できるかどうかわかるぜ。」少佐は答えた。だが実のところ、彼にははっきりとわかっていた。いかなる他者…たとえミーシャに対してすら、彼には同じことができないと確信していた。ましてやその他の誰に対しても。スパイという職業を続ける中で、彼は幾度と無く苦々しい驚きをもって自分を再認識していた。だがその苦々しさは、決して不愉快なものではなかった。

「おやおや、我々が考えているのはべつのことだがね。」ミーシャは部下の一人に合図を与えた。部下はドアヘ向かい、外へ向かって内容の聞き取れないなにかを告げた。ほどなく、軍服を着たいかつい大男がふたり、何かを引きずりながら部屋に入ってきた。

少佐は目を閉じた。「そいつは間抜けな民間人にすぎん。」少佐はつぶやいた。「放してやれ。」

「必要な情報を確認すれば、すぐにでも解放しよう。」ミーシャは明らかに楽しんでいた。「さあ、話す気になったか?」

少佐は捕虜に目を遣った。エロイカ。後ろ手に縛られ、頬に涙と殴打の痕があった。恐怖を隠そうともしていなかった。両脇の男たちが手を話せば、その場に崩れ落ちるのは間違い無いだろう。彼は少佐を、全くの恐怖の視線で見つめていた。

「おまえらがこいつに何かするからといって、おれに何の関係がある?」少佐はそう口にすることを自分に強いた。伯爵が身震いをした。

「おいおい、少佐。きみら二人の夜の関係なら、この業界では知らんものがおらんぞ。」

「単なる誤解だ。ぶん殴るとき以外、そいつには触れたこともない。」少佐は吠えた。それは真実だった。

「彼の言うとおりだよ。」伯爵が続けた。狼狽のあまりまともな声が出せていなかった。「このドイツ人がわたしのために何かしてくれると思ったら大間違いだ。」

「この泥棒はきみが何をされているのか、いろいろ気にしていたぞ、少佐。」ミーシャは言葉を切った。「監視カメラで一部始終を見せていたんでな。随分辛そうだったぞ?」

もちろんそうだろうさ。実際の拷問の前に、まずは犠牲者に生き地獄を見せつける。仕事ははるかに早く済む。常套手段だ。

「そいつにおれの体を見せたのか!」少佐は吠え、怒ったようなふりをした。実際には、彼が気にせずにはいられなかったのは、みっともなく叫び声を上げている姿を伯爵に見られたということの方だった。やつが見ていると知っていたらなら、あと数分は持ちこたえられたかもしれなかったのに。

「やめてくれって言ったんだよ。」エロイカはうわ言のように口に出した。「頼むからって。私が知ってることならなんでも話すからって。でも…」

「余計なことをべらべらしゃべり散らさなかっただろうな!」少佐は叫んだ。喉がひりついた。

「彼はいろいろ話してくれたさ、少佐。」ミーシャが請け合った。

「この腰抜けが!」少佐はロシア人たちが得た情報を罵った。伯爵は恐怖の表情をさらに凍らせて少佐を見ていた。

「残念なことに、彼の知っていることはすでに我々が把握していたこととさほど変わらなかった。きみはこの男にほとんどなにも情報を開示していなかったようだな。気の毒に、知っていればとっくにすべて話してくれていただろうに。」

「だからそいつはスパイじゃない。だがおれはそうだ。」

「少佐、我々もこんなことは早く終わらせたい。ところで、きみのような頑固な相手によく効く方法があるのだ。それを試してみようと思う。」

少佐と同じように全身の衣類を剥がれ、別のテーブルに縛り付けられるまでの間、伯爵は無駄な抵抗を続けていた。

「言ったとおりだ、ミーシャ。」少佐が声を出した。「そいつをどうしようがおれとは関係ない。おれは喋らん。」

「まあやってみようか、少佐。もしうまく行かないようだったら、すみやかにきみの方へ戻ろう。」

「ならとっとと来い。」

「その前に、きみの大事な恋人を少しおもてなしさせてもうよ。」

「そいつとおれとはそんな関係ではない。」

伯爵はすでに半狂乱になっていた。この種の訓練など受けたこともなかったし、愛する男…少佐が拷問を受ける有様を、徹頭徹尾見せつけられていたにちがいなかった。騒ぐのを我慢しろとは、はじめから望めない。少佐は、耳に入る物音への狼狽を隠せない自分に失望した。

「さて、それでだ。きみには関係のないことだと、そう言ったな、少佐?これがどういうものかは、いまきみ自身が身を持って体験したばかりだ。彼がこれをされているのを、きみはどのくらい見ていられるのかな?」

少佐は答えなかった。胸の中で一人ひとりの名を数え上げてみた。もし彼が口を割れば、彼らは囚われ責め苦を受け、殺される。それから彼自身が知らぬ者たち。責め苦に耐えかねて口を割ったがために、そのまま消された者たち。国家の自由と安全という希望のために、何が彼らをそうさせたのだろう?

今日、おれは何千人かの命を救った。少佐は寒々とそう考えた。部屋の空気を切り裂く伯爵の絶叫を聞きながら。

「お願いだ…」伯爵が喘いだ。「その男は私のことなんか気に掛けてない!」

「おや、我々にはそうは見えないがね。」ミーシャが答えた。「問題は、どの程度気に掛けているのか、だ。」

少佐は次を覚悟していた。それでもなお、それは早すぎた。 伯爵が堪えようとしているのが少佐にはわかった。話してくれと少佐に懇願する声に、謝罪の口調が含まれていることすらわかった。少佐には、伯爵を非難する気は全くなかった。

「おれは喋らん。」彼は疲れきった声でミーシャへ告げた。「だからそいつは放してやれ。」

ミーシャは一笑に付した。

「少佐?ごめんよ、ごめんよ、でもだめなんだ。お願いだから…、私はもう…」伯爵の哀願は絶叫に変わった。少佐は目を閉じた。

「目を開けろ。さもなくばこの男の指を一本ずつ切り落とす。」ミーシャが楽しげな口調で命じた。

少佐はまぶたを上げた。そして見つめた。唇を一文字に引き結んで。

「おやおや、目に涙が浮かんでいるぞ、少佐。恋人のことなどどうでもいいという嘘はやめた方がいいな。」

「そいつはおれの恋人ではない。やめろ。」

「電流を止めるスイッチはきみの一言だよ。」

「そいつを放せ。ただの民間人だ。」

「これはまた、深窓の令嬢のごとく清らかな発言だな。」

ドアの外でなにかがぶつかるような音がした。伯爵がすでに絶叫を続ける体力すら失い、体を震わせてくぐもった泣き声を漏らしている時だった。部屋にいたロシア人たち全員が顔を上げて武器に手をかけた。だが彼らが何らかの行動に移る間もなく、ドアが粉々に砕け散った。催涙ガスの手榴弾が二発、即座に投げ込まれた。銃声、激しく咳き込む声、殴打の音が続いた。ほどなく、ガスマスクとコンバットスーツを装着した誰かが少佐の脇に立ち、少佐の顔にガスマスクを被せようとしていた。神の恩寵にも思えた。咳のたびに全身が恐ろしく痛むからだった。

「おまえら愚図どもときたら、やることなすことが遅すぎる。」コンバットスーツの男がありあわせの布で少佐の体を覆うと、少佐は不明瞭な声で呟いた。少佐の部下なら、この発言が「感謝する」という意味であることを誰もがわかっていた。

「救出に手間取り、申し訳ありませんでした、少佐。」それはAの声だった。背の高いもうひとりの部下が、伯爵にも同様の措置を施していた。

「おい、あいつはZか?なら、あの変態には近づかんように言っとけ。」ガスマスクの中で声が奇妙にくぐもった。ぼんやりした頭を巡らせながら、いつもの皮肉がこの状況では全く似つかわしくないと気付き、笑い出したくなった。

「今は黙って横たわっていてください。担架を二台用意しています。このまま病院へ直行します。」部下の声は怒りに震えていた。

「ミーシャを生け捕れ。あいつの情報は…。エロイカはどうだ?」彼は答えを欲しがった。マスク越しに目を凝らした。確認せねばならなかった。

「あなたほどの重傷ではありません、少佐。お願いですから横になっていてください。いまはもう安全なんです。」

「この世には絶対の安全などはない、覚えておけ。」それが少佐が気を失う前に発した最後の一言だった。



***



投与された薬はかなり強いものだったが、それでも痛みは消せなかった。病院のベッドに縛り付けられたような日々が続いた。視界には病室の天井しか入らなかった。最初に許可された入室者は、少佐の父親だった。最後に顔を合わせた記憶と比べると、父親はいきなり二十ほども年とったように見えた。そしてひどく怯えた顔つきをしていた。

数日後から、見舞い客が訪れ始めた。まずは部長が来た。彼は勲章と昇進の消息を携えてやってきた。少佐はもう何年も昇進を望んでいた。これまでに与えられた幾つもの勲章は、自分でも恥ずかしいと思うぐらい子供じみた自尊心を満たすにはまだ足りなかった。だが奇妙なことに、今の少佐にはそのどちらもがどうでもいいことのように感じられた。

「現場部隊はもう十分だと考えるなら、ほかの部署がきみを欲しがっている。」部長は少佐に請け合った。

「おれをデスクワークに縛り付けるつもりですか。」少佐は疲れきっていて、目を開けること気にもならなかった。「そうはいきませんよ。」

「落ち着いて考えてみるといい、少佐。」

「その話は退院した後にさせていただこう。」少佐は部長の話を遮った。言い合いをするだけの気力はどこにもなかったはずなのに、声を上げずにはいられなかった。

部長は気を悪くしたようにも、少佐を賞賛しているようにも見えた。「エーベルバッハ少佐、全くきみときたら、」彼はとうとうこう言った。「正気の沙汰じゃない。」

部長が去り、部長ではない誰かが病室に入ってきた。少佐はまぶたを上げた。その静かな足音から、それがエロイカだとわかっていた。だが彼は、エロイカの様子をこの目で確かめたかった。

無事でいたようだ。少なくともそう見える。エロイカの顔色はすぐれなかったが、それは肉体的な損傷よりも精神的に受けた衝撃から立ち直れていないせいかもしれない。彼はいつも通り滑るようになめらかに動いた。優雅な身のこなしだった。傷跡も殴打の痕も、目に見える場所にはなかった。だが彼の表情は深くもの思いに沈んでいた。

「無事だったようだな。」少佐はつぶやいた。

伯爵は無理に微笑んでみせようとした。「礼は言わないよ。」冗談のつもりだったらしいが、うまくいかなかった。彼は微笑みを諦め、言った。「きみはひどい有様だね。」

「残念ながらな。」

「こんな状況でも皮肉が言えるなんてね。」伯爵は言葉を切った。「あの、…まだ痛むのかい?」

「ああ。」

「ごめんよ。」彼は少し躊躇した。「きみは…、きみは回復するのかい?だれも教えてくれないんだ。」

「たぶんな。」少佐にはそれだけしか言えなかった。彼は視線を天井に戻し、呼吸に集中しようとした。伯爵は何も言わなかった。少佐は静かに目を閉じた。

「きみの電流はきっと私のより十倍くらい強かったんだよね。」エロイカがとうとう口を開いた。もはや感情をごまかそうとはしていなかった。声が震えていた。少佐は薄目を開けてこの英国人の様子を窺ってみた。彼は恐怖をありありと浮かべた顔つきで、頭をわずかに揺らしながら少佐を見つめていた。自分はひどい様子で横たわっているに違いないと少佐は思った。病院に運び込まれて以来、まだ鏡を見ていない。少佐が受けた電流は伯爵の優に二十数倍はあったが、それは別に教えてやる必要もないことだった。

「あれを受けて口を割らずに済むなんて、信じられない。」伯爵が続けた。「私にはまるで無理だったもの。」

口を開く気力があれば、少佐は自分が受けた数々の訓練のことを伯爵に、微に入り細を穿ち長々と語ってやれたかもしれなかった。経歴の初期に陸軍兵士として受けた訓練や諜報部員としての基礎訓練のみならず、あの種の局面で正気を失わないための訓練をこれまで累々と積み上げてきた、凄惨な日々のことを。それでもなお、最悪の訓練ですら共産主義者たちから実際に受けた歓迎には遥かに及ばなかったのだが。だがともかく、彼はあの状況に立ち向かうことにその全人生を賭けて生きてきたのだ。少佐にとってあれは、伯爵が考えているほど困難な状況ではなかった。ましてや少佐がこれまで祖国ドイツのために払ってきたその他の犠牲について考えれば…。少佐の視線が英国人の整った風貌の上をしばしさまよい、再び天井に戻った。

少佐が口にしたのは、結局のところ次の一言だけだった。「NATOがおまえを雇うのを、おれが’賛成したことはない。いずれこういうことが起こるのは目に見えていたからだ。」

「きみが私のことを毛嫌いしているからだと思ってた。」

少佐に答えられることはなにもなかった。彼は天井の塗りを見つめ、下手な塗り方だなと考えた。そんなに難しい仕事か?

「きみを責めることが出来ないとはわかってる。」伯爵は続けた。声がとぎれがちになっていた。頬がびくびくと震え、何かを言うべき勇気をかき集めているように見えた。「きみが話さなかったことを責めることはできない。だってきみが口を割れば、何十人もが殺されることはわかりきってたんだから。」

「ほんとうにそう思えるのか、グローリア卿?」少佐は静かに尋ねた。

伯爵が喉をごくりと鳴らすのが聞こえた。息をいっぱいに吸う音が続いた。少佐は身構えた。

「きみは、あの男たちに私を拷問を続けさせるつもりだったね?ちがうかい?」エロイカの声はほとんど震えていなかった。「私が最後には殺されるまで。」少佐は何も答えなかった。この英国人が望むような答えを、彼は何一つ持ち合わせなかった。沈黙が降りた。伯爵はそれを哄笑で破ろうと試み、そんな自分をたしなめるように肩をすくめてやり過ごそうとしたが、そのどちらもに成功しなかった。「驚いてなんかいないさ。…知ってたよ。きみは私のことが嫌いだといつも公言してたしね。」彼は唇を引き結び、能う限りの自己抑制をかき集めた。「ただ私は、私はこう信じ込んでいたんだ。心の奥底で、…きみは私を愛しているはずだと。」

少佐は息を吐いた。深く。これ以上ないほどに深く。そして答えた。視線はまだなお天井に向けたまま、ただ静かに答えを返した。

「その通りだ。」

少佐の視界の隅に伯爵の表情が映った。それは驚きでも恐れでもなく、また痛みでも怒りでもなかった。それは完全な空白だった。どんな表情も、彼の今の感情を表すには適切ではないとでも言うように。

ほどなく、伯爵は一言も声を発することのないままに体を翻し、少佐の病室を去った。伯爵が去ると部屋は再び寒々とした無機質な場所に戻った。

閉まったドア越しに、部長の声が聞こえてきた。少佐の耳に会話の断片が届いた。「次の任務はきみにぴったり…」エロイカの気取った声が続いた。「申し訳ないが、あの不死身の少佐に嫌がらせをするつもりなら、別の方法を考えてくれたまえ。私はもう飽きたんだ。それから、私をインターポールに売るとかそういうことはやめておいてくれたまえよ。月夜の晩ばかりではないことを覚えておいたほうがいいかもしれないね。」その後、ドアからさらに離れた場所でうきうきしたような軽快な声が続いた。「ジェームズくん、きみを長いことほったらかしにしていてごめんよ。今夜はきみに埋め合わせをしなくちゃね。さあそ後は、実は素敵な絵を見つけたんだよ。あれは絶対に…」

しばらくたって、看護婦が注射のために部屋にやってきた。その日の出来事はそれが全てだった。

その翌々週、少佐は自宅に帰ることを許された。車が止まった瞬間、彼は虚を付かれて声を上げた。エーベルバッハ邸のよく手入れの行き届いた芝生の上に、レオパルド戦車が鎮座していた。初めて逢ったころにエロイカが盗んでいった、あの戦車が。

「今朝、夜が明けるとこちらにこれがありまして。」少佐は車から降り、用意してあった車椅子に移りながら執事の説明を聞いた。

 「ふん。」彼はAへ電話し、軍の引取を手配した。いままでどこに隠していやがったのだろうと訝しみながら。

「こちらが添え状でしたが開封はしておりません。本日お戻りになると存じておりましたので。」執事は封筒を差し出した。小ぶりの封筒で、表には『フォン・デム・エーベルバッハ殿へ』と見慣れた書体で手書きお宛名があった。彼はその封筒を見つめ、何故か目眩を感じた。そして開封した。

カードが一枚。薄紫色のカードは、これまで幾度となく受け取ってきたものと何一つ変わらなかった。そこにはただこうあった。




"From Eroica."






<終>

2012/11/15

Can't Buy Me Love - by Anne-Li





Can't Buy Me Love
by Anne-Li





概要: 少佐は(少佐本人の意見によれば)馬鹿馬鹿しいことこの上ない催し物への参加を強制された。伯爵はそのことを知った。さて、吉と出るか凶と出るか・・・?
メモ: 70年代から80年代前半の設定とする。(物語の最後のメモもお読みください。)




Can't Buy Me Love
by Anne-Li



少佐は、上司(ということに一応なっている)男をにらみつけた。双方が鼻息荒く対峙していた。「正気の沙汰とは思えませんな。」

思ったとおりの反応を引き出せたことにひそかな満足を覚え、部長はほくそえんだ。

一方、将軍はやや困惑していた。「フォン・デム・エーデルバッハ少佐、」と彼は口を開いた、「これはNATOにとってそうであると同時に、きみ個人についてもいい機会だと思う。若く健康な男子にとっては、こういったことは一種のチャンスになるのではないだろうか。」彼はもやもやと手を動かした。「・・・まあ、ある種のチャンスに。」

「肉屋の店先に並ぶ肉の塊になるのがチャンスですか。お断りですな。それともおれを厄介払いするつもりですか。」 

メットカルト将軍は首を振った。「よく考えてくれ、少佐。きみに理解できないわけはないと私は考える。準備はすでに整っておるんだ。それに、あの先月・・・のような事件の後では、NATOも市民への対外的な印象を改善するよう、いろいろ宣伝する必要があるのだ。そこでわれわれはこれがその良い機会であると判断した。それに、なんといってもこれは慈善活動なのだぞ、きみ。」

「慈善なら絵画でもなんでも提供します!こんな無意味で屈辱的な話におれを巻き込まんでいただきたい。とにかく、断固として拒否します。」

部長は微笑を絶やさないままだった。「忘れんでもらいたいが少佐、先月の事件にはきみもかかわっとったのだぞ。そもそもきみがあの騒ぎを引き起こしたのだという報告もある。少佐、きみはNATOに借りがあるのだと考えてもらいたい。それでもなにがなんでも協力したくないというのであれば、きみの辞表はいつでも無条件に受け付けるということだけは伝えておこう。」 彼はそう告げて、鉄のクラウスの普段なら青白い頬が怒りでわずかに紅潮するのを心愉しく観察した。視線で人が殺せるものなら部長はとっくの昔にエーベルバッハ少佐に殺害されて、墓の中で太った死体が腐り果てていただろう。

フォン・デム・エーベルバッハ少佐はそれでもなお直属の上司をにらみつけていたが、とうとう最後に、ほとんどうなり声のような声をあげた。「こんな無体な命令はお受けできませんな。」食いしばった歯の間から漏れるような声だった。彼はくるりと背を向けて、大股でドアの方へ立ち去ろうとした。「おれは諜報部所属ですぞ。話にならん。」乱暴にドアを開け放った。「このおれをそこまでばかばかしい用事に呼び出すとは!とにかく二度とおれの耳に入れんでいただきたい!」

最後の一吼えは、NATOビルの各所を引率されて見学中の、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学の学生グループのまぬけ面を直撃した。若い男女は蜘蛛の子を散らすように逃げた。

少佐の背後で重たいドアがゆっくりと閉まりつつある間に、部長の耳に廊下の音が届いた。若い女性の上ずったような声だった。「あの話だったのかしら?私、参加するわ!」

「なんて素敵なの!」別の女性が続いた。心底うっとりしていた。「彼の赤ちゃんならいつ生んでもいい・・・」

二人の幹部将校はお互い顔を見合わせた。ややあって、将軍がもう一度頭を振った。「残念だが彼はこの話を受けそうにないな。最良の人選だと思っただがのう。見た目も血筋も申し分のない財産家で、入賞間違いなしなのだが。」

「いやいや、彼はこの話を受けるさ。」部長はそう答えた。自分の判断に少しの疑いも抱いていない口ぶりだった。 

「どう見てもそうは見えんかったぞ。それに、上司の指示を聞かんといって辞職に追い込むなんてのは無茶だろうよ。本来の職務内容とはかけ離れておるからな。」

「ま、その通りではあるがな・・・。だが古き友よ、きみにはまだ言っていなかったが、実は我々には切り札があるのだ。」

「なんと?切り札とな?」

「彼の父上を味方につけたのさ。」




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少佐の部下たちは上長の突然の訪問に縮み上がり、聞き分けの良い小学生のようにかちこちになって席についていた。今にも爆発しそうな少佐に声をかけるほど無謀な部下は誰一人いなかったが、みんな何が起こったかを承知していた。そしてもちろん全員がすでに、嵐のような叱責を喰らっていた。叱責の理由はたとえば、職務怠慢、貧乏ゆすり、派手すぎる口紅、挙動不審、上司の好みの味に入れ損なってしまったインスタントコーヒー、などなど、などなど。

なるべく模範的なNATO職員として振舞い、この日をやり過ごすに越したことはなかった。あと少しで終わる。籠から出されたハツカネズミみたいに四方八方に逃げ去る前に、カチコチに緊張した時間を過ごすのもあと少しだ。チャリティーを兼ねた晩餐会は土曜の夜、つまり明日行われる予定だった。場所はボンのベートーヴェン・ホール。その後は、すべては元通りに戻る予定だ。願わくば、の話ではあるが。

部下たちの心労を最も逆なでしたのは、実は少佐の視線だったのかもしれない。ドアが開くたびに、少佐の目は何かの救いを求めてそちらの方をちらりと見た。NATOがそのイベントに貢献すると公布して以来の三週間というもの、少佐はひっきりなしに新しい任務を求めてうろついていた。できれば長い期間を必要とするもの。ドイツ国外の任務であればさらによし。だが神は・・・、というかまあNATO上層部は、そうそう少佐の思い通りにはしてやらなかった。

ここ数時間と言うもの、部下たちの上司が乱暴な口調で何度か電話するのを耳にしていた。少佐は会話の一部をロシア語に切り替えていた。母語並みに流暢な、耳を覆いたくなるような罵詈雑言に満ちたロシア語だった。部下たちは静かに戦慄した。

そのときドアが開く音がした。これまでに何度となく少佐に叱責されていたためそちらに顔を向けるほど愚かな部下はいなかったが、それでもなお命知らずの数名は、横目やら上目遣いの睫毛越しやらでフォン・デム・エーベルバッハ少佐を盗み見た。少佐の顔は・・・、蒼白だった。部下全員がこの世の終わりを覚悟した。

「おまえ・・・」少佐は声を上げた。だがその声は奇妙なほどに弱々しく響いた。

返答があった。「ああ、ほかでもない私だよ。」優雅な貴族階級の英語。「こんな機会を見逃す私だとでも思ったかい?」

部下全員が固唾を呑み、上司の頬から血の気がみるみる引いていくのを見つめた。少佐がゆっくりと口を開き、部下たちの脳裏をひとつの思いがさまざまな表現でよぎった。「グローリア卿、どうしてぼくらが帰ってからにしてくれなかったんですか・・・」、そして "Vater unser, der du bist im Himmel …(天にましますわれらの神よ・・・)"

だが少佐はひとことで口を閉じた。「場所を変えるぞ。」そして立ち上がり、部下たちの視線に見送られながら個室に入った。そこは本来は少佐自身のオフィスなのだが(部下たちは少佐が個室で仕事をすることを切望していた)、少佐が今のような微妙な話を内密にするとき以外には使われていなかった。とはいえ、少佐の怒鳴り声は’しばしば個室の壁を突き抜けて、部下たちにはまる聞こえだったのだが。

グローリア伯爵は手を振ってそこかしこに挨拶をしつつ、部下の皆さんの間を輝かしい笑顔をふりこまきながら優雅に通り過ぎた。ご機嫌斜めな少佐の前でそんな真似をしてのけるのは、もちろんこの人物だけである。だがその彼も、今日は立ち止まって誰かに話しかけることまではしなかった。ということはつまり、伯爵は少佐との話をまじめに、真剣に、重要だと考えていたのだった。それはもちろん当たり前だ。フォン・デム・エーベルバッハ少佐がドイツ全土で最良の独身男性であることには間違いなかったにせよ、彼をわがものにしようなどと考える不埒な女性がいたとすれば、大声で手を挙げて異議を唱える者が少なくとも一人、ここにいたからである。



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悪夢だ!悪夢としか言いようがない!彼はこれ以上悪い事態はないだろうと考えていた。だがそこにさらにエロイカが!ああ、神に慈悲はないものか。真面目にコツコツ働くNATO少佐の危機に付け込もうなどとは考えない、善きサマリア人はこの世にいないのか。おれは教会に行っとるのに!くそっ!あいつがローマ法王を誘拐したときには、返すように説得したのもおれだぞ!くそっ!くそっ!くそっ!

個室のドアが閉じ、少佐は慎重に息を整えた。そしてやにわに振り向き、大声で怒鳴りつけた。「明日くだらん小細工を仕掛けたら、ただではおかんぞ!」

気取り屋はにんまり笑っただけだった。「実は招待状を持ってるんだよ、ダーリン。」

「なんで連中がおまえを招待するんだ!? おまえは正真正銘の変態だろうが。誰だって知っとる!袖の下でも使ったか!入り口の守衛に、お前が持っとる招待状は偽造だと連絡しておく!」

「ちっちっち、ダーリン。そんな大声出すもんじゃないね。チャリティーイベントなんだし、オークションにかけられることに同意したのはきみじゃないか。さあ・・・」

「おれは無理強いされたんだ!部長の野郎がおやじを引っ張り出してきやがった!それで・・・」少佐はがっくりと崩れ落ちた。もちろんそんな事情はこの英国人の知ったことではなく、"慈悲"を請う素振りなどは何の役にもたたなかった。そもそもそんなもの持ち合わせてないし。

「聞いてくれ、グローリア卿・・・」 少佐は落ち着いた声で話そうと努めた。それで相手の気が変わるとも思ってもいなかったのだが。

「ドイツ中の著名人の半分が参加する予定だ。残りの半分は日曜の朝食前に結果を知るだろう。おれは祖国の物笑いの種になどなりたくないのだ。祭りの余興として競りにかけられ、買われ、それから・・・」もっとさまざまな表現が頭の中にめぐったが、そのどれもが、自分への下心を隠さないこの某人物へ語るには適切ではない内容なのは確かだった。彼は不承不承言葉を切った。

他人の思惑を歯牙にかけることなどめったにない彼だったが、ある種の事項については例外もあるのだった。それに今回は父親が来るかもしれない。

「魅惑の夜になりそうじゃないか、ダーリン。」伯爵は気軽に答えた。遺憾と言わざるを得ないが、やはり何一つ理解していなかった。

「夜など過ごさん!晩飯だけだ!いくら積まれたって寝るところまでは行かんぞ、おれは!」とうとう少佐は婉曲表現をすっぱりあきらめた。

「知ってるさ。」相手は穏やかにうなずいた。「金額でなんとかなるものなら、ルーブルの収蔵品を根こそぎ盗み取ってでもなんとかするね。ジェームズ君が次の仕事をここ二週間ほどひっきりなしに催促してるんだ。何に使うか知ったら卒倒すると思うけど。でもねえ、デートだけでも素敵だと思うんだよ。実はレストランはもう決めてあるんだ。こじんまりしてて、悪くない店なんだよ。 "Tour de France"っていう名前でさ、メニューが豊富で雰囲気もいいんだ。食後は踊りに行こうよ。最近開拓したクラブがあってね。その後は月光を浴びてラインの岸辺を散策なんてどうかな。手なんかつないじゃったりしてさ・・・。いいワインとおいしい食事、ロマンティックな雰囲気。その後何が起こるかは、二人だけの秘密になるね・・・。」

「やめろ!やめんか!」 少佐は半狂乱で手を振りまわした。「ばかもんが!翌日の朝刊に何を書かれるかわかったもんじゃない!だいたい入札に参加できるのは女性だけだ!お前は参加できん!主催者側が承諾せん!」

「ダーリン、あのね。お金って、使うところに使うと結構なんでもできるんだよ。きっとちょっとだけ珍しがられるだけさ。それにね、私としてはきみをほかの誰かに持っていかれるようなことは、絶対に許せないんだ。たとえそれが一回きりの夕食だけでもね。そんなことはさせない。キリッ」

少佐は落ち着きと取り戻すために深呼吸を繰り返した。情勢が不利すぎる。このままではいけない。「グローリア卿・・・。おまえに気を持たせるようななんらかの間違いを、過去におれが仕出かしたとすれば教えてくれ。誓って言うがそれは間違いだ。誤解だ。事故だ。おれにはその気は全くない。」

「いいよいいよ、何とでも言っててくれ。私は気にしないから。それと、無駄な抵抗を繰り返すきみってとっても魅力的だよ。」

・・・負けるが勝ちと言うこともある。「見ろ。なんぞ絵をくれてやるから、な?あれなんかどうだ、色のついた絵だ。ほれあの、みっともなく太った天使の・・・」

「あれはキューピッドって言うんだよ。」

「そのなんたらと、花で局部を申し訳程度に隠した女のあの絵だ。あれをくれてやるから、明日はおとなしくしてろ!」

英国人はふぅっと息をついた。「悪くない絵だけどね、でもほんとに私の好みじゃないんだ。とくに今はね・・・。」きらきらした青い瞳の視線が、あからさまな賞賛を浮かべて少佐の体を上から下まで這い回った。「・・・別のものを手に入れられるかもしれないわけだし。」

「体は売りに出しとらん!」全身を覆い隠したくなる衝動と闘いながら、少佐はうなり声を上げた。「わかった、もういい!かぼちゃパンツだけは、おれからくれてやるわけにはいかん。親父に殺されるからな。だがお前が盗みに入るなら見逃してやってもいい。な?だからな?な?明日おれに恥をかかせることだけはやめてくれ。」彼はそういうと、身を震わせた。絶望的な声の響きだった。愚か者のフォン・デム・エーベルバッハめ、肉食獣の前にうなじを差し出すとは!

だが少佐の後悔に反し、当の本人は肉食獣というよりはむしろ・・・なにかをためらっているかのように見えた。 

「・・・そんなに嫌なのかい?」彼はたずねた。少佐はゆっくりとうなずいた。「肉市場で売られる動物のような気分だ。嫌がるのをねじ伏せられてな。どこぞのご婦人をエスコートするだけの仕事だとはわかっていてもだ。親父は気にせんでいいといった。それでもだ。」

伯爵は小首を傾げて小さな窓のほうへ向かった。窓の外には、建物の隙間と隙間からほんの少しの眺めしかなかった。伯爵がすぐに戻ってきたのは、そのせいだったのかもしれない。「ちょっと板ばさみな気分だな。ジェイムズ君に命じてかなりの金額を用意させたんだよ。チャリティオークションの話を聞いて以来、きみと過ごせる夕べのことをわくわくしながら考えてた。私は正々堂々をきみを競り落とすつもりだった。ああ、心配しないでくれ。きみを落としたからといって変なことをするつもりは全くなかったからね。でもね、そうすることは心に決めていたんだ。」

くるくる巻き毛の風船野郎が本心からそう言っていることが、少佐にはなぜかわかった。

「それに・・・」伯爵は言葉を続けた。口調が少しだけきつくなった。「きみが言い出したことじゃないのはわかってるけど、でも結局きみは同意したわけだし。ということは、きみはどこかのつまんないお嬢さんをエスコートして夜を過ごすんだ。この私の目の前でそんな茶番を許すわけには行かないね。許さないよ、少佐。」

「おれはお前の持ち物じゃないぞ!」

「そう、きみは誰のものでもない。」

そのどちらも真実だった。上司の揶揄を避けるために、長く付き合っている相手がいるという話を捏造しようかと考えたこともあった。だが一旦それを父親が耳にしたら、任務一途の幸福な独身生活が終わりになってしまう。

「女装するって方法もあるけどね。」伯爵は試すように提案してきた。「お前の女装は見るに耐えん。おまけに男とばれたら最悪だ。」たとえゴシップ紙が”謎の女”の正体を突き止められなかったとしても、諜報畑の連中に筒抜けなのは間違いない。部長にだってバレる。ミーシャはもちろん大爆笑だ。笑い転げて死ぬかと言うぐらい、おれを嘲笑うにちがいない・・・。

「そういうことなら悪いけど、」エロイカは少し気分を害したような声で告げた。少佐の迂闊なひとことに傷ついたに違いない。しまった。「私の胸の中はもうとっくに、お目当ての男を手に入れる日のことでいっぱいなんだよ。他のことなんか考えられないね。」

少佐は頭を壁に打ち付けたくなった。というかそうでもするほうが、このまま実のない会話を続けるよりはまだマシかもしれない。ああ、まだ腕力に訴えるという方法が残っていた。いま殴るべきか…それとも…。こめかみを押さえた。決して勝てない種類の闘いというのもあるものなのだ。最悪の事態を避けるための譲歩は避けられんのかもしれん。これは必要な犠牲なのだ。くそっ。

「よかろう。」

英国人はぱちぱちと瞬きをした。「え…、いいのかい?諦めちゃうの?」

「諦めたわけではない!おまえはオークションには参加せん!わかったな!そのかわり、…てやる。」

「くれる?何を?」疑わしそうな声で質問が帰った。くそっ。この野郎ときたら、みなまでおれに言わせるつもりか。少佐は歯ぎしりをこらえた。「出掛けてやる。おまえとだ。」

ゆっくりと、雲間に隠れていた太陽が現れるようにゆっくりと、その英国人の表情に笑みが浮かび始めた。体の内側から沸き上がってきたかのような、輝かしい最上の微笑。「少佐、それって…」

「キスはなしだ!身体の不適切な部位に接触することも許さん!顔が割れているところへも行かん!ダンスもだめだ!それから…」

「了解だ、少佐。条件はただひとつ。オークションの前にそれを済ませて欲しい。あとで約束を反故にされるのはごめんだからね。」

「おれは一旦口に出した約束は守る!だがオークションは…」

「明日。ということはつまり…今夜が私達の夜だということだよ、私の少佐。きみの指定の場所に七時きっかりに迎えに行く。カジュアルな服で来てくれたまえ。例のグリーンのセーターなんてどうかな?あれはきみの瞳によく似合うよ。それじゃ。」そう言い捨てると、雄ライオンのたてがみのような髪を一旋してグローリア伯爵は去り、後には愕然とする少佐だけが残った。ひょっとしておれは堂々と遊ばれたのかと疑いながら…。



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わざとらしくもったいぶった仕草で、伯爵は両手を少佐の肩にかけて顔を近づけた。

「おれは初回の外出からからそんな不埒な真似をする人間ではない!」少佐はガルガル吠えた。殴りかからないように我慢するのが精一杯だった。もう一インチでも近づきやがったら、拳をお見舞いしてやる。

「頬への軽いキスぐらいで、きみの貞淑は損なわれないよ。ねえ、いいだろ。ほんのちょこっとだけ、挨拶代わりにさ。」

「やってみろ。明日からお前の前歯は入れ歯だ。」

「ふぅ、次のデートまでお預けかあ。そうだよね?」

「次などない!」

「うーん、それって私の質問をはっきり否定してるわけじゃないよね。じゃあ、そうしておこうよ。私がどうするつもりか知りたいだろ?…ふふ、今からどこに行くかって意味だよ。」

「知りたくなんぞない!おれから手を離せ!そこは不適切な部位だ!」

「ここって…、ただの肘じゃないか。まあいいや、今夜は長い夜になりそうだよね。でも素敵な夜にすることを約束するよ。夜が長ければ長いほうがいいな。ずっと一緒にいられるもの。」

少佐にとって驚きだったことに、その夜は決して不愉快なものにはならなかった。彼らはまず「不適切な部位」の定義についてのすり合わせを行った。少佐の定義ではそれは「衣服で覆われたすべての部位」であったが、伯爵はこう主張した。「下着で覆われたすべての部位、と定めるべきだよ。ところできみ、下着なんて無粋なもの付けて来たのかい?」

伯爵は少佐をボン郊外の小さなレストランへ連れだした。伯爵はテーブルで必要以上に馴れ馴れしくしたり、わざとらしく体を寄せたりなどはしてこなかった。せいぜい数度、ごく偶然に脚がぶつかった程度で、それは決して故意ではないと少佐自身が自分に言い聞かせることが出来る程度の、自然なものだった。会話は軽いが退屈ではなかった。現在の世界情勢について議論とも言えない議論を交わすと、伯爵は驚くほど博識だった。芸術に関してはほとんど触れなかった。ドイツ史。エーベルバッハと周辺地域に関する質問。それから二人で楽しめるような話題、たとえばアメリカを俎上に載せたジョークなど。

料理は文句なしだった!フランス人の料理屋にしては、まあ意外なことに。少佐にはもちろんはっきり決まった食事の好みがあるわけだが、レストランが出してきたのは分厚いステーキとたっぷりした量の揚げたイモだった。そしてまずまずのビール。もっと飲んでもよかったが、酔っ払ってしまって「その後何が起こるかは、二人だけの秘密になるね・・・。」の筋書き通りに事が運びでもしたらと考えると、とりあえず差し控えた。伯爵は控えめに振舞った。誰が見ても友人同士の食事にしか見えないだろう。とはいえ、ここまで服の趣味の違う友人というのも珍しいものだが。言うまでもなく、少佐は緑のセーターは着て来てやらなかった。

ともあれ、この夜のおかげで翌日のことは考えずに済んだ。居心地悪く、くそ面白くもないことがわかりきっているイベント。タキシードを着込んでパレードに参加し、モノか何かのように…、競りにかけられる。そして金だけは有り余っている悪趣味な誰かに買われるのだ…。

伯爵が川べりを散歩しようと誘った。夜の冷気が心地よかった。伯爵は引き続き控えめに振る舞い、二人の会話が途切れて沈黙に陥ると、当り障りのない別の話を持ちだしては話を続けるのだった。話は一般的な部類の話題からそれ以上の任務に関することにまで及んだ。少佐がこんなふうに出かけることはあまりなかった。目的もなしに歩きまわったりすることは馬鹿馬鹿しいの時間の無駄だと考えていたからだ。特に、今回の「デート」のように、この先別に何の進展があるわけでもない場合にはなおさらだ。だがどうしたわけだが、この夜はくつろいで過ごせた。朝のジョギングを夜やってみてもいいなと考えたぐらいだ。それとも朝夕二度走るか。まあ、時間のあるときにな。

シュロス通りを最後まで歩いてしまうと、伯爵はにっこり笑って訪ねてきた。「ね?悪くなかったろ?」

少佐はフンと鼻を鳴らした。悪くなかったとは認めたくなかった。その気にさせるようなことを言うのはまずい。

それから二人は、少佐のボンのアパートメントへ向かう細い車道で立ち止まった。

「おやすみのキスは?」

「一生寝言をほざいてろ!」

伯爵は口をとがらせた。一瞬だけ。それからすぐに笑顔を取り戻した。「初めてののデートでキスはしない、だったよね?じゃあ次はしてくれるってことなんだ?楽しみにしておくよ。」

「次など無い!」少佐は部屋の鍵を開けながら怒鳴った。

「Yesって答えるのがイヤなだけなんだよね、きみったら。」

「Noだ!二度目など無いと言っとるんだ!」少佐はそう言いながら部屋に入った。

「最初の質問へのyesだと受け取っておくよー!」

「勝手に好きなように受け取っておけ!おれの知ったことではない!」そういってドアを閉めた。閉めてしまえば安全だった。ドアの穴から外を覗いてみた。少佐が覗いているのを承知しているかのように、伯爵がまっすぐに投げキッスをよこしていた。脳天気な変態野郎め。だがまあ、今夜は悪くはなかった…、心安くくつろげたと言ってもいいな。ほとんど、そうほとんど愉しかったと言ってもいい。

だがこんなことはこれきりだ。二度目は絶対にない!



さてオークションの当日になった。「独身男を競り落としてアフリカの子供たちを救おう!」だかなんだかかんだか、そういう益体もないイベントだ。各業界から合計15人の男たちがエントリーしていた。消防局、食料品組合、NATO、警察、などなど。ほとんどが見端のよい若い男たちで、多かれ少なかれまな板の上の鯉になるのに気乗りしていない様子だった。少佐は比較的年かさなほうであり、タキシードを着込んでいる数少ない参加者のうちの一人だった。少佐のはもちろん私服だが、ほかの参加者は貸衣装だった。スタイリストを名乗る女が少佐の髪に何かをしようとしたが、少佐の渾身のひと睨みにあっけなく引き下がった。

オークションと夕食会の前に、招待客たちとの顔合わせの時間があった。そういう社交に何の興味もない少佐は、部屋の隅から離れなかった。ここならすくなくとも壁が背中を守ってくれる。それでもなお、数名の女性たちが少佐に声を掛け、会話に誘った。少佐はあらゆる質問に要旨のみ短く答え、女性たちが気落ちしてその場を去るまでそのそっけない返答をやめなかった。

身振りと態度だけでこの場をやり過ごそうとした。パーティに欠席することは許されていなかったが、愛想をふりまくことまでは義務には入っていなかった。ひょっとするとこのまま仏頂面で突っ立っていれば、誰も少佐の競りに参加しないかもしれない。そんなことは起こりそうにもないし、もしそうなってしまったら…、それはそれでいたたまれないかもしれない。だがそのほうがマシなのか?

ちょうどその時、低くさざめくドイツ語の会話に混じって、聴き違えのない英国風の発音が耳に届いた。肝が冷えた。少佐がまっすぐ大股で歩き出すと、着飾った女性たちが急いで道を開けた。道の先にグローリア伯爵がいた。ミドルネームの通りの真っ赤な服を着て、ゴシップ新聞や雑誌の記者ならお約束の"glorious"という形容詞を喜んで使いそうな、いかにも派手ないでたちだった。女性用の服装ではなかったが、勝るとも劣らず光り輝いていた。

少佐はもう少しで胸ぐらをつかみ上げ、気を失うまで激しく揺さぶって説明を要求しそうになった。だがその場の全員が二人に注目していることに気がついた。大股でここまで突進してきたのが目立ちすぎたようだ。自分がNATOの情報将校であることを念じ、歩みをゆるめて息を整えながら最後の数歩を進めた。伯爵は、若い女性と服装のことか何かについて話をしているところだった。女性は伯爵と同じくらい目を惹く、きらきらしいブルーのドレスを着ていた。「グローリア卿、」少佐は短く声をかけた。「少しお時間をいただけないだろうか。」

伯爵は少佐が口を開くなりそちらに顔を向け、彼一流の、あらゆる意味へ解釈可能な不思議な笑顔を見せた。まるで彼という存在が、少佐に話しかけられたことでぱっと輝きを増したようだった。「フォン・デム・エーベルバッハ少佐!もちろん構わないさ。ニンニィ、ごめんよ。すぐ戻るからね。」

少佐は、青いドレスの若い女性にこわばった笑顔を向け、広間の比較的ひと気の少ない場所に急ぎ足で移った。そこなら盗み聞きをされる可能性はなさそうだった。「ここで何をしている?」声がひっくり返りそうになった。「競りには参加しないと約束しただろう!昨夜あれだけのことをさせておいてこれ以上おれを馬鹿にしやがったら、貴様、去勢するぞ!」

伯爵はたじろいで片手を上げた。「違う、違うよ、少佐。落ち着いてくれよ。」

「これが落ち着いていられるか。」

「私は応援に来ただけだよ。それと…」

「いいかげんにしろ!」

「っていうか、だってもう入場料は払っちゃったしさ。夕食を食べてこなかったなんて言ったらジェイムズ君が気を失うよ。招待状はディナー込みで2000マルクだったんだよ、知ってるだろ。それに、ベートーヴェンホールでの夜会だなんて見逃せない機会じゃないか。でもね少佐、これだけは誓っておく。オークションの間は指一本たりとも挙げないから。ボーイスカウトの名誉にかけて誓うよ。」

「ボーイスカウトなんぞ入ったこともない奴が言うな!」

「実は入ってたんだよ。七時間だけだけど、でも一応ね。退屈で死にそうだったんだよねー。ま、いいさ。とにかく私は真面目に誓うよ。」彼はしかつめらしい顔でうなづいた。

少佐は無邪気な青い瞳を見つめた。何も企んでいるようには見えなかった。…が、こいつの企みに事前に気づけた試しがないのだ。それが問題だった。グローリア伯爵は、現実を自己の利益へ無理やり引き寄せる達人だった。

「あまり…、あまり目立つな。」

「約束するよ!借りてきた猫みたいにいい子ちゃんにしてるさ。私が来てるなんて誰も気づかないよ。」

それは根本的に無理な話だった。だがこれ以上ましな取引ができるようにも思えなかった。少佐は短くうなずき、最低限の社交活動の義務は果たしたと判断してその場を去った。

国家の安全保障に対する脅威がないかどうかAと現場を検証したが、テロリズムの影は何ひとつなく、NATOが協力を要請されそうな犯罪行為もまた見つからなかった。近所の街路樹のてっぺんまで登りすぎて降りられなくなった子猫がいるので救出に行くふりができる、などという事件すらなかった。少佐はとうとう降参し、黙々と煙草をふかしながら舞台裏で待機することにした。同じように出番を待つ競りの犠牲者たちが何人か少佐に話しかけようとしたが、いずれの男もこの場を逃げ出す方法を考えているようには見えなかったので、少佐は彼らを黙殺した。

彼らは一人ひとり順番に呼ばれ、その場を去った。あたかも屠殺場に牽かれてゆく従順な羊のように…。少佐の番号は八番だった。七番まではあっという間だった。七番は少しZに似た背の高い金髪で、食肉業界代表だった。そいつが行った15分後は1時間ほどにも感じられたが、ついに少佐の番が回ってきた。若い女性が少佐を階段まで導いた。逃げ出す気配を見せたら止めるつもりなのか?彼女は歩きながら絶え間なく少佐に話しかけた。おそらくは落ち着かせる目的なのだろうが、少佐は相手を絞め殺したくなる衝動を必死に押さえつけた。

黒い幕裏の隙間から、司会の声が聞こえてきた。

「ハプスブルグ家の血を引く…」

「NATO諜報部の所属です。あなたにどんな秘密があっても…」

「36歳の屈強なる…」

「ではご登場いただきましょう、クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ少佐の入場です!」

女性がベルベットのカーテンを押し上げて、少佐を前へ促した。彼は背筋を伸ばして照明に輝く舞台へと足を踏み出し、事前に指示されていた通りに、4mのキャットウォークの先端まで歩いた。照明の眩しさにはすぐ慣れた。目が慣れると、少佐は自分が爛爛と目を光らせた貪欲な女性たちの視線を一身に浴びていることに気づいた。あらゆる種類の女性たちがいた。社交界にデビューしたばかりの16歳そこらの少女から小柄な老婦人、未亡人のような黒づくめのドレスから婚礼用のみまごう純白のドレスまで。あらゆる色がその場に出揃っていたが、とりあえず今年の流行は青系らしかった。少佐が見た限りでは、衣装代の総合計だけでNATOボン支部の一年分の経費が十分賄えそうだった。もちろんアクセサリーの換金価値も勘定に入れれば、NATOをもっとずっと長い期間運営できるだろう。

そこに交じる男性はほんの一握りだった。それは三種のカテゴリーに区別できた。まずはスタッフ。どのパーティでもこのぐらいきちんとした黒の身なりを整えさせてもらいたいところだ。その正装の使用人たちに混じって、何人かのスーツを着たホストたちがパーティ会場を見まわり、招待客の女性たちが機嫌よく夕べを過ごしているか、つまり財布の紐を最大限に緩めているかどうかを確認していた。次のカテゴリは、すでに競り落とされた男たち。これまでのところ6名、7番目は今舞台裏から客席へ向かっているところなのだろう。6人の男たちは奥のテーブルに腰掛け、「持ち主」、つまり自分を競り落としたと思しき女性とその友人達に囲まれて座っていた。

そして最後のカテゴリーに…、伯爵がいた。伯爵が舞台下の中央にすっくりと立っていた。揺るぎなく自信に満ちた最も高貴な者たちのうちの一人として、あらゆる状況証拠がそれを裏切っているにもかかわらず、ひしめき合った女たちの真ん中でまるで家にいるかのようにくつろいで見えた。のみならず、彼は取り巻きたちに囲まれていた。それは世にもまれなことに、男性ではなく女性から成る称賛者たちだった。彼女らは伯爵の美貌にのぼせ上がり、視線を引き剥がせないままに集まってきているのだった。

しかしながら伯爵は自分に寄せられる称賛の視線を一顧だにしなかった。彼の注意は純粋にエーベルバッハ少佐にだけ向けられていた。伯爵はわずかに微笑んでみせた。その微笑みには放蕩と倦怠が奇妙に交じり合っていて、少佐は思わずカッとなった。貴様、競りに参加するつもりか?…いや、この英国人は約束したはずだ。伯爵が何かしでかすことに少佐は確信があったが、それでもなお、伯爵はこれまでたいていの約束は守ってきたことを思い出した。もちろん伯爵は気まぐれな妖精のように、自分の言葉をいくらでも好きなように捻じ曲げることができた。間抜けな少佐が「約束」とやらを正直に信じている間に、言ったことを完全に守りつつも、その正反対のことをしでかすことさえできるのだった。

少佐の懸念をはっきりと読み取ったかのように、伯爵は口の形で伝え始めた。「心配しなくていい。私はなにもしないよ!」そして眉を僅かにしかめてみせた。「見せびらかすような姿勢はやめろよ。わかるだろ。」

唇の動きを読み誤っていないか、少佐には確信が持てなかった。そんなことするわけないだろうが!なにかのコンテストとかそういうのじゃないんだぞ!コンテストでないというのは一面、残念な部分もあった。特技の披露を要求されれば、使い慣れたマグナムを取り出してギラつく視線をこちらに向けるご婦人どもに照準を合わせてやれたのに。

「きみはそのままが一番ステキさ。」伯爵は続けた。「気楽にしてくれたまえよ、軍人くん。」

少佐は瞬きをして軍人の待機姿勢を解き、後ろに回していた手を前に持ってきて組んだ。がっかりしたような鼻息が観衆から漏れた。前の部分を両手で覆い隠さないようにするには、意識的な努力が必要だった。重要なヒントをくれた伯爵に礼を言うわけにはいかなかったが、内心では謝意を感じていた。

「さあ、六の位から始めましょうか。六、どなたか六はいらっしゃいませんか?ああ、マダム。六と一、でごさいますね。こちらの魅力的なご婦人から六と一を頂きました。おお、六と二。六と二。さあ、ほかには…、六と三!…」

競りが始まった。よかろう。

「九が出ました!ありがとうございます!六と九、六と…、おや、七でしょうか。七と一、七と二、七と…」

司会者はできるだけ競りを引き延ばそうとしていた。少佐の知るどの競売人よりも、ことの進め方が遅かった。くそっ、うすのろめ。競売人は最新の価格提示者に話しかけ、次の声を上げさせるまでに時間を稼ごうとしていた。そして次々と新しい価格提示を得た。ほかの男たちにはどの程度の価格がついたのだろうかと、少佐はふと考えた。おれはうまくやってるほうなのか?茶番劇に参加したいわけではなかったが、拒否権なしに与えられた任務において、他の参加者たちと同じ水準にいかないかもしれないという考えに自尊心がうずいた。

自分にできる限り高い競り値がつくように振舞えという指示は事前に与えられていた。「指値を引き上げてくれたご婦人には、笑顔を返しなさい。喜んでる表情を見せなさい。彼女との外出が楽しみだというふりをしなさい。それから、次の価格提示者のほうに向き直りなさい。彼女がためらいを見せていたら、もっと大きく微笑んで、彼女の決意を鼓舞すること。」

ライン川に跳び込んだほうがマシだった。ううう。正直に言えばできないわけではなかった。職業柄、演技には十分に長けていたからだ。必要とあらば…。ただ…、いや。くそう!そうはいかん。そんなことをするぐらなら…、するぐらいなら…。むしろ伯爵に笑いかけるほうがマシだった。やつならいるじゃないかそこに!だがもちろん彼はそうしなかった。もちろんだ。あの変態野郎は競りには参加しないと言った。だがもしこのおれが常軌を逸した理由でそれを望んだとしたら…、いやおれはそんなことは望んどらん!…、しかし伯爵なら…、伯爵なら二の句を言わせずに競りに割り込み、可及的速やかに最高金額の札を掲げるだろう。

「青いドレスのご婦人による、十二と二が出ました。十二と三。ありがとうございます。そのドレスはほんとうによくお似合いです。十二と四、十二と五、どなたか十二と六の方はいらっしゃいますか?十二と…、ありがとうございます。ああ、十二と、おや、十二と八ですね!十二と八が出ました!」

12,800マルク。気が狂っとる。この女達は頭がおかしい。4時間ほどエスコートをするだけだとわかっとるはずだ。ちがうのか? それ以上のことは何も含まれとらんぞ。もちろん、慈善のためという言い訳が彼女たちを大胆にしているとは考えられた。そもそも少佐が競りに参加しないで済むならと寄付を申し出た絵画の価値は、ゆうにこの二倍はあった。絵画の寄付で話が終わっていたら、これほど屈辱的な目に合わずに済んだはずだ。すくなくとも親父はここまで足を運ばなかっただろう。

「十三ちょうどが出ました。十三と一。十三と二。十三と三。さあ…」

少佐は競り値を釣り上げているだれにも微笑みかけないようにしていた。実のところ、目玉以外のどこも動かさないように努力しつつ、オークションに参加している女性たちを観察していたのだ。はかない望みも抱いてみた。競りに参加している女性の中にはKGBのスパイかなにかがいる、などなど。くそう!ミーシャめ。たまにはおれに協力しようとは思わんのか?電報を送ってくるだけでもいいじゃないか。いや、ちがうな。あいつならこのイベントを転覆させるような計画を練るにちがいない。ほんの一瞬、少佐はクレムリンでの競りを妄想した。「ありがとうございます。同志ミーシャにトラクター一台、トラクター一台が出ました!」

「十四と一、十四と二です。続きまして十四と三。お嬢様、きっとお似合いのカップルになりますよ。さあ、十四と四でしょうか?ありがとうございます、マダム。」

マダムと呼ばれた女性は四十代後半の人工的なブロンドの大きな胸の女性で、少佐は彼女を身長158センチ/体重65キロと見積もった。彼女はベートーヴェン・ホールが古びたナイトクラブでもあるかのように、けばけばしい赤のドレスを着込んでいた。伯爵なら脱ぎ捨ててしまいそうな服。「ギッテン」という姓に聞き覚えがあった。以前父親に強いられて出席した夜会で、そういう名前の女性と一言二言会話を交わしたようなぼんやりした記憶があった。なにか間違ったことを言わなかっただだろうかと背筋が寒くなった。なにか、うっかり気を持たせるような一言を。一方、お嬢様と呼ばれた女性は、観衆の中でも群を抜いて年若だった。18歳?19歳?それともよほど化粧がうまいのか。178センチ、すらりとした体つきにBカップ、少し暗めのブロンドで、光沢のある青いドレスを着ていた。この女性ともどこかで会ったような気がした。頬骨と鼻梁に見覚えがあるような気がしたのだ。だがしかとはわからなかった。

「十五と三、十五と四、十五と五、十五と六。ありがとうございます、レイディ・ギッテン様。十五と…」

若い方の女性の頭に血が上ったように見えた。お世辞たっぷりの司会者が「マダム」の提示価格を確認するやいなや、青いドレスの女性は金色で”42”と浮き彫りにされた白いカードをさっと掲げた。真っ直ぐ突き出すように、何一つためらいのない動作だった。マダムの方はややためらいがちだった。それでも続けて”36”の札を振った。

「…と九。さあ皆様、十六はいかがでしょうか。淑女の皆様方、もう一度フォン・デム・エーベルバッハ少佐をじっくりとご覧ください。何マルク払っても手に入れたい男性だとは思われませんか?ご覧ください!この長い脚!広い肩幅、そして…、」

くそったれのド変態が!

「淑女のお出かけの際にこれほど安心させてくれる男性はそういるものではありません。こちらのMr. NATOなら、いかなる状況でもあなたをお守りします。十六、そして十六と一が出ました。高貴な血筋であり、完璧な紳士であり、一度言ったことはなんであれ必ず守る男性です。任務に忠実でありながらも、家庭を第一にする男性をあなたがお探しであれば…、おや、十六と二、十六と三ですね?ありがとうございます!」

家庭第一?どこで何を聞いてきたんだ?それとも酔っ払っとるのか?まあいい。少佐は自分の家系を誇りに思っていたが、自分自身の家庭を持つことは全く考えていなかった。洟垂れ坊主どもに周囲をどたどた走り回られるのはごめんだった。この場でうんざりした気分を共有できる唯一の相手として、伯爵の顔を探した。英国貴族は目を細めて微笑んでいるようだった。それは少佐には「わかってるさ」の表情に見えた。「私もさ。」はっきりと、そう聴こえたような気がした。

「十七ですね、マダム?十七でよろしいでしょうか?ありがとうございます。十七の台になりました。十七と一、十七と二でしょうかマダム?十七と二。十七と二でございます。十七と三、十七と四はいかがでしょう?」

少佐は目玉をぐるりと回した。伯爵は「きみが何を考えてるかはわかってるさ」とでも言いたげに目で答え、それから唇を動かした。「私なら百万マルク払ったってきみを手に入れたいけどね!」

少佐は鼻を鳴らした。

「十七と四はいらっしゃいませんか?どなたか?十七と四は?わたくしは十七と三まで伺っております!一万七千三百マルクです。おやおや、あなた方はこのイケメン...、いや美丈夫を一万七千三百マルクで持っていかれるつもりですか?…」

イケメンだと!この家畜競売人がふざけた呼び方をしやがって。あとで話をつけてやる。

「たったの一万七千三百マルクで?お嬢さん、それでは花盗人とかわりませんよ!さあ、どなたかいらっしゃいませんか?十七と四では?いらっしゃいませんか?ではファイナルコールをおかけいたします。一万七千三百マルクでよろしいでしょうか。よろしいですね?どちらさまもいらっしゃいませんね?…では42番、こちらの青いドレスのお嬢様が競り落とされました。お嬢様、今宵は素敵なひとときをお過ごしになることをお祈りします。フォン・デム・エーベルバッハ少佐、ステージをお空けください。では淑女方、替わりましてエントリーナンバー9番の男性がステージに上がります。こちらも素晴らしい男性であることは私が保証いたしましょう。では9番、名前は…」

ハゲタカの群れに投げ込まれる次の肉塊に興味はなかった。舞台を駆け下りはしなかったが、厳密に言えば必要よりもやや足早とおもわれる歩調でその場を去った。舞台裏では、案内役を努めた女性がまだそこで少佐を待ち受けていた。

「たいへんな値段ですよ!」彼女は堰を切ったように口を開いた。「一万七千三百マルク!これより上の値段がついたのは、いまのところまだ一人しかいませんよ。しかも値段を釣り上げたのは本人のガールフレンドですからね。ボーイフレンドをこんな場で披露するなんて馬鹿馬鹿しい話ですよ。なんでも彼女は海運業界の有名人の娘で、お金なら有り余るほど持っているとか…。さあ、こちらへどうぞ。契約書へのサインをお願いいたします。あなたを競り落としたお嬢さんもお見えになっているはずですよ。きっと待ち切れない様子ですよ。」

少佐はそのおしゃべりへの相槌を控え、舞台方向に案内されてゆく背の高いインド人を無視した。彼らは舞台裏をぐるっと回りこみ、メインホールの左側に出た。ガラスのドア越しにホールを埋める女性の大群を見て、鳥肌が立つのを抑えきれなかった。あの中へ戻り、十分に身体的接触を許すような至近距離で囲まれるのか。デスクにはスタッフの一人が待ち受けていて、少佐を見て愛想よく笑った。「素晴らしい結果でした。Mr. NATOの価格はなんと17,300マルク。17,300マルクあれば数多くの有意義な事が可能です。貴重なお時間を割いていただき、どうもありがとうございました。」

唸り声を上げないようにするためには、そのスタッフを睨みつけるしかなかった。オークションホールにつながるドアが開いて、少佐は今夜自分が街中に見せびらかしに行かねばならない青いドレスの小娘を一瞥した。眉間にぐっと皺が寄った。

彼女は一人ではなかった。

一人で来たわけではなかった。

彼女には連れがいた。

連れの服は、きらめくブルーではなく、鮮やかに目を引く真紅、だった。

Glorious red. 輝かしい赤。

少佐は思わず駆け寄って怒鳴りつけた。「貴様、ここで何をしている!」

伯爵は邪気のない笑顔でにっこり笑った。「表向きの理由?ニンニィをここにエスコートしてきたのさ。ニンニィは姉のエリザベスの二番目の娘でね、まだ19歳の未成年なものだから、たった一人でドイツでのイベントに参加させる訳にはいかないと説明したら、主催者側は私の同行をあっさり許してくれたというわけさ。招待状を手に入れる方法としてはごくごくまっとうだろ?」

どこかで会ったことがあるような気がしたわけがわかった。目、頬骨、鼻梁、なによりもその微笑み方。悪寒がした。胃が縮み上がり、震えが喉元までせり上がってきた。

「で、表向きじゃない理由のほう?」伯爵は明るく続け、それからふっと声を落とした。そばにいる姪っ子と少佐にしか聞こえないように。「だって…、もう言ったろ。きみがだれかと一緒になるところなんて見たくなかったんだ。なのにオークションは男子禁制。私には参加させてくれない。」

少佐にできることは唸り声を上げることだけだった。とにかく何かを蹴りつけたかった。だがそうしなかった。伯爵が約束を破ったわけではなかったからだ。

「特にこんな…」伯爵は落とした声のまま言葉を続けた。「…次のデートの時にはキスをしてくれるってきみが約束したばかりの、こんなときにはね。すっごく楽しみにしてるんだよ。」

ニンニィはにんまり笑った。

「そんな約束はしとらん!」少佐は即座に抗議した。

「でもきみはしたんだよ。だって好きなように受け取っておけって言ったろ。だから私はこれが約束だと考えたのさ。あの競売人はいけすかない奴だったけど、でもたったひとつ正しいことを言ってたよね。きみのことを『一度言ったことはなんであれ必ず守る男性です』ってさ。きみはそういう男さ。だから私は、きみが約束を守ってくれると信じてるよ。とにかく、きみが私に競りには参加しないようにって命じたから、私はニンニィにお願いしたのさ。さあニンニィ、17,300マルクを払ってホールに戻ろう。夕食のメインディッシュは仔牛なんじゃないかな、多分そういう匂いだったから。夕食なんて早く済ませるに限るさ、私と少佐の楽しいおでかけが待ってるからね。今夜は素敵な計画があるんだよ。ああ少佐、でも心配しなくていいよ。きっときみも楽しいと思うよ。最初のデートだって悪くなかったろ?わっ、うわっ、こんなとこで騒ぎを起こしちゃダメだよ。きみは私にあまり目立つなって言ったよ。なのにきみが目立つようなことをしたら台無しじゃないか。それに、とにかくきみは私に約束したんだし…」

完敗だった。ここで騒ぎは起こせなかった。そして少佐は約束を守った。つまり、伯爵は二度目のデートの最後にとうとう約束のものを手に入れたのだ。そしてそれは、とってもとっても・・・gloriousなキス、だったのである。




<おしまい>





作者からのメモ: チャリティーオークションというのはちょっと馬鹿馬鹿しすぎるアイデアだったかもしれませんが、思いついたとたんにいろいろ考えるのをやめられませんでした。なぜ少佐はそんなものに参加することになったのか?伯爵はそれを知ってどうするのか?そしてクラウスがふてくされざるを得ない状況に彼を無理やり追い込むこと、それが私の萌えツボであると素直に認めねばなりません。


訳者からのメモ:少佐がうっかり口を滑らせた「おれは初回の外出からからそんな不埒な真似をする人間ではない!」の原文は、"I don't kiss on the first date!"というシンプルなもの。それに対し伯爵が"So I'll have to wait until our next date, is that it?"と返し、"There won't be a second date!"と。そこへ伯爵が二度目のデートのチャンスを獲得してしまった。「おれは貴様にキスなどせん!」と直截に返さなかったところが少佐の負けですね。きっと否定文でも"kiss you"というフレーズを伯爵相手に言いたくなかったんでしょうが、このツンデレさんったら。"I'll take that as a yes."へ"Take it however you want, I can't stop you." というのも致命的。諜報部にしては詰めが甘すぎます。

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