『警告:伯爵女体化注意・表篇(1)』の続きです。
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後にも先にもあんなに驚愕したことは生まれてこのかた無い。
「えっ」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
部屋のあちこちから声があがった。声を発しなかった者たちも、もれなく顔が「えっ」になっていた。だが僕が見る限り、その中で一番「えっ」な顔になっていたのは、他でもないうちの上司本人だったろう。上司はその顔を力技で即座に無表情に戻したが、僕はそれを見逃さなかった。さすが僕の上司、たいした意思の力だ。
Qは伯爵の肩を抱き、片手を取ると、手の甲に唇を寄せた。
「美女がお困りとあらば、喜んでお手伝いさせていただこう。」
伯爵の頬が紅潮し、耳まで赤くなった。それから静かな嗚咽が始まった。聞くだけでちょっと変な気になってしまいそうな泣き声だった。
医師が僕たちに退室を促した。足音高く、真っ先に部屋を出たのは上司だった。ひとり、ふたりと後が続いた。僕も席を立った。部屋を出る前に、何気なく上司の前にあった灰皿に目をやった。上司が捨てた吸殻の、フィルターがざっくりと噛みちぎられていた。
帰り道は、誰もが上司と同じ車を避けた。結局僕が運転し、上司は後部座席に座った。僕は時々バックミラーで上司の顔を窺った。彼は見たこともないぐらい呆けたような顔をして、ずっと窓の外を見ていた。それから煙草を方向を間違えてくわえ、フィルターに火をつけようとライターをひねくり回した挙句に、額と前髪を焦がしていた。僕はため息をついて運転に専念することにした。
その日から上司の精神状態はちょっと常軌を逸し始めた。ぼくら部下は頭を抱えた。原因がわかりすぎていたからだ。本人に指摘もできない。これまでの態度を考えると自業自得ですよと思わないでもないが、それにしても伯爵があれだけ熱を上げていたうちの上司を避けて、自分を殺そうとした男をひょっこり選ぶとは意外だった。よっぽどそっちの趣味なのだろうか。しかしその趣味ならうちの上司だってたぶん十分いい相手だと思うのだが。
研究所との連絡係は、やはり僕になった。表向きの名目は、今後諜報部員に同様の措置が必要になった際の対応マニュアル作成のため、ということだった。
あるとき上司はコーヒーを手にし、窓の外を見ながら何気ない振りをして僕に聞いてきた。
「A、その…、やつの『治療』は始まったのか?」
「いえ、まだ排卵が始まっていないそうです。」
上司は音を立ててコーヒーを噴いた。慌てて駆け寄ってきて後始末を始めたGに小声で叱られた。「ばかね!言葉を選びなさいよ!」
僕は自分の不注意を呪った。呪いつつ、心の奥底でほんのちょっとだけ、いい気味かもと思わざるを得なかった。周りの者がそんな何もかも自分の思うとおりに動くと思ったら間違いなんですよ、少佐。
伯爵は研究所付属の滞在施設に瀟洒なコテージを与えられて、静かに治療を待っていた。訪問するたびに綺麗になっていくようだった。医師の話を聞いた帰り道などに、施設にしつらえられた美しい庭で、Qが伯爵の肩を抱いて散歩をしているのを時折見かけることがあった。定期的に会いに来ているのだという。確かに上司はここには顔を出せないだろう。きっと発狂してしまう。
コテージを訪れると、庭の薔薇を切っていた伯爵が僕に気付き、微笑を見せた。
「やあ、Aくん。久しぶりだね。」
僕は眩しげな目で伯爵を見た。綺麗すぎて、視線を合わせるのが怖いぐらいだった。伯爵は痩せて、さらに華奢になったように見えた。これから妊娠だってのに、こんなんで大丈夫なんだだろうか?僕は余計な心配をした。もちろんそんなことは口に出さなかった。伯爵は黙って少し寂しげに笑い、僕をコテージに招いておいしいお茶をいれてくれた。僕はそれを頂き、いつも通りあたりさわりのない世間話をして辞した。伯爵は僕になにも聞かなかった。だから、僕も喉もとまで上がってくる問いを口に出せなかった。伯爵、どうして少佐じゃなかったんですか?って。
帰り道にQに会った。伯爵に会いに来たところのようだった。
「やあ、きみのところの鈍感上司は元気かな?」
「こんにちは。僕の上司はいつもどおり精力的に仕事をしていますよ。」
「いつもどおり?それはどうかな。」
くっくっくと、フランス野郎は笑った。こんなやつに僕たちの上司を笑われる筋合いはない。僕はさっさとその場を離れようとした。
「きみたち鈍感なドイツの男たちときたら、伯爵が少佐を選ばなかった理由なんて逆立ちしたって自分では思い当たらないんだろうな。」
僕は足を止めた。
「どういう意味ですか。」
「教えない。私は思いがけなく転がり込んできた果実をゆっくり味わうことにするよ。『治療』はもうすぐ始まるそうだ。エーベルバッハ少佐に礼を言っておいてくれたまえ。」
腹が立った。くるりと身を翻して車へ向かった。あいつに分かっていることが僕たちに分からないなんて、なんなんだろう。こんなこと、妻にも相談できやしない。色恋沙汰を相談できる女友達なんて、一人も思い当たらなかった。そのときひらめいた。女じゃないけど、あいつならどうだろう。少しは違う視点でものが見えるのかも。
運転しながら電話をかけた。ボンに戻るころには定時になる。夕食をおごるかわりに、来月の妻の誕生日のプレゼントの相談にも乗ってもらおう。
「今日はどうだった?」
先にテーブルについていたGを見つけて、僕は椅子を引きながら尋ねた。誰のことを指しているのか、言うまでもなかった。
「もう、最っ悪。」
厚化粧の同僚は上目遣いに僕を見た。もう慣れたけど、知らない人ならどぎまぎするような目つきだろう。
「Zがやっちゃった小さな失敗を、いつまでもガミガミ怒鳴ってんの。それから部長に呼ばれて、新しい任務の話かと思ったら前の任務で経費を使いすぎたお小言だったみたいで、部長室のドアをとんでもない力で叩きつけて戻ってきたと思ったら、席に戻って煙草に火をつけて窓の外を見て、そのまま一回も吸わずに短くなった煙草で右手をやけどしてたわ。おまけに今日は給湯室のネスカフェの販売機が故障中だったのよ。」
それは最悪だ。でも最近毎日そんな感じだけど。僕は単刀直入に切り出した。
「なあ、どう思う?どうして伯爵は少佐を選ばなかったんだろう。今まで少佐をからかってただけなんだろうか。」
「あんた車でしょう?あたしは飲むわよ。」
Gは遠慮なしに自分の飲み物を注文し、僕に向き直った。
「少佐のチームが全員呼ばれて研究所に行った日のことを教えて。この話は真面目にしたことはなかったわよね。」
Gはあの日、僕たちといっしょには行かなかった。そのとき僕らは、Gがもう"処置済み"であることを始めて知った。
「伯爵に会ったらびっくりすると思う。すっかり女性になってる。それもとにかく絶世の美女だ。予想してたけど、それでもびっくりした。」
「少佐の反応はどうだったの?」
「うん、まあね…。目が釘付けになってた。多分、伯爵が部屋に入ってきたときからずっと、目がゴムひもで伯爵につながってるみたいに。伯爵は多分それに気付いてたと思う。」
「あ~あ。馬鹿ねえ、それじゃだめじゃない、少佐。」
「どういう意味だ?」
Gはまた上目遣いに僕を見た。「あんたほんとにわかんないわけ?」
「何が言いたいのかさっぱりわからないな。」
「伯爵はあれだけ長い間、少佐に言い寄ってたでしょ。伯爵がどんなに魅力的でも、どんなに美しく女装しても、うちの少佐は見向きもしなかったわよね。」
「う、うん。まあね。」そこのところの意見は僕とGでは少し違う。こわもての上司は十分に、まんざらでもない顔をしてたと思う。でも男ってそういうのを表に出すのが恥ずかしいんだ。つい、なんでもないような顔をしてしまう。
「伯爵が本物の女性になったとたん、少佐は伯爵から目が離せなくなったわけでしょ?」
「そういう感じかな。」
「多分、それで絶望しちゃったんだと思うわよ。すごい失恋じゃない、それ。」
「何を言っているのかほんとに全然分からないよ。」
「あのね、伯爵の女装はあたしとちがって単なる遊びなわけ。」
Gはビールのジョッキをくぅぅっとあけた。
「あたしのこれはアイデンティティの一種になっちゃったの。あたしの一部なのね。あたし自身なのよ。でも伯爵は違う。」
運ばれてきた皿の料理にどんどん手をつけながら、Gは僕の目を見ずに続けた。
「あの人は本質的に男性なの。ま、普通の男性ってわけでもないんだけどさ。でもとにかくあの人は男性として、うちの少佐にベタ惚れよね。でも少佐は一切応えてあげなかった。」
相談相手の人選は間違ってなかったな、そう思いながら僕は話を聞いていた。
「それが、伯爵が女性になったとたんに手のひら返しっていうやつ?いきなりオスになっちゃったわけでしょ、少佐は。伯爵は絶望したんだと思うわ。男性としての自分は永遠に少佐に愛されないんだって。女性の体の自分は、きっと伯爵にとっては自分じゃないんだと思う。自分じゃない誰かと少佐の恋が成就するぐらいなら、こんな体いっそそのへんの犬にでもくれてやれと思ったんじゃないかしら。少佐はいつも通りつんけんしてればよかったのよ。そしたら伯爵だってきっと嫌がらせに少佐を指名したわよ。」
目からウロコが落ちた。あらゆる疑問が氷解したような気がした。やっぱり女ってすごい。すごすぎて面倒だ。面倒すぎる。
「奥さんの誕生日、来月なんでしょ。あとでプレゼントを見繕ってあげる。」
「あ、ダンケ。」
「あんた毎年、あたしが見繕った中で一番気に入ったものを奥さんに、そのとき買わなかった別のを後であたしにプレゼントしてくれるでしょ。お礼だって。そういう気遣いってけっこう傷つくのよね。」
・・・女ってほんと面倒だ。
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『警告:伯爵女体化注意・表篇(3)』に続く・・・
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