このサイトでは、「エロイカより愛をこめて(From Eroica with Love)」を題材とした、英語での厖大な二次創作群を翻訳しています。サイト管理者には原作者の著作権を侵害する意図は全く無く、またこのサイトにより金銭的な利益を享受するものでもありません。私が享受するのは、Guilty Pleasure - 疚しい楽しみ-だけです。「エ ロイカより愛をこめて」は青池保子氏による漫画作品であり、著作権は青池氏に帰属します。私たちファンはおのおのが、登場人物たちが自分のものだったらいいなと夢想 していますが、残念ながらそうではありません。ただ美しい夢をお借りしているのみです。

2011/11/29

フル・イングリシュブレッククファストの朝

   

きみの部屋に初めて事前の同意を得てお泊りした夜、ある程度予想していたことなのだけど、きみは随分と、えーと、どう言ったらいいのかな。独占欲の強いタイプみたいだね。これは寝相が悪いってことじゃないよね?一晩中、手や足をひっきりなしに乗せられて、私は少し笑ってしまったよ。そんなに押さえ込んでなくても大丈夫。夜のうちにどこかへいったりしないからね。誰がするもんか、そんなもったいないこと。

結局よく眠れなくて私は朝寝坊をした。日がすっかり昇ってから目を覚ますと、きみは隣にいなくてベッドのきみの場所はとっくに冷たくなっていて、私はなんだか寂しくなってしまったのだけれど、その寂しさは寝室のドアから顔をのぞかせたきみの妙な顔つきに吹っ飛んでしまったさ。きみが私の目覚めを確認してほどなく、キッチンからふつふつした音といい匂いが漂ってきた。卵を焼く匂いだ。スクランブルかな?目玉焼きなら私の好みはサニーサイドアップ。覚えていてくれてるかな?

覚えていてくれたどころではなかった。わーお。フル・イングリシュブレッククファスト, with bacon, sausage, black pudding, eggs, hashbrowns, mushrooms, beans, grilled tomato and toast...

きみはBed Breakfast Trayをベッドにおいて腰掛け、ポットから熱いカップに紅茶を注ぎながら、「どーだえっへん」という顔をして見せた。あのねえ、ほんとのこと言うと、私はこういう脂っこいものは食べないんだよ。でもきみの顔みてるとそんなことは言えないよね。焼きトマトと目玉焼きぐらいは頂こうかな。それとお茶。私はカップから立ち上る湯気を眺めるふりをした。だってきみの顔を見ると、どうしようもなくにやけちゃうからね。

「きみは?」

「とっくに食った。おれは朝は熱いものは食わん。」

「お茶は?」

「コーヒー党だ。」

「そうじゃなくて、一緒に飲まない?」

「おれはベッドで飲み食いをするような自堕落な真似はせん。」

「じゃあ私は?」

「退廃した変態貴族だけには特別に許可する。」

もう我慢できなかった。にやけた。にー。にまっ。むー。少佐は、私がトマトをつついたり目玉焼きをかき混ぜたりしている間中、隣に座って私の巻き毛をくるくるしていた。ねえねえ子供のころのきみって、捕まえた蝶の世話をしようといじりまわして、羽根をぼろぼろにしちゃうタイプだった?

「ごちそうさま。今日の予定は?」

「屋敷へ顔を出す。あまり変な服を着るなよ。」

「きみと出かけることを考えて、おとなしい服を持ってきたつもりだけど、どうかな?」

少佐は私の着替えをざっと見て、フンと鼻を鳴らした。合格だ。そういう意味だよね?なら、どうして君のシャツを出してくるのかな。

「今日はこれだ。」

「きみの服を着てきみの屋敷に行くって、どういうことさ。」

「着せてやるからベッドから出ろ。」

「きみんちの執事って、きみのワードローブを把握してるんじゃないの。」

「執事はな。ほかの使用人はどうかおれは知らんな。」

ふーん。またしても込みあがってきた笑みを隠せていたかどうか、自分でも自信がない。私はベッドから下りて下着を身に着けた。朝食のトレイをキッチンに置いて戻った少佐が、私の体中を点検した。それって夕べもやったよね。他の男の痕なんかついてないよ。痕がついてたとしたら、それは夕べのきみがワイルドすぎたからさ。ごめんよ、きみの体にはいっぱい残しちゃったね。

それからなんとも驚いたことに、少佐は私にシャツを着せてズボンを穿かせ、シャツのボタンを下からゆっくりとひとつずつ留めあげた。次に前から胴体を抱くようにしてシャツのすそをズボンの中にきっちりと押し込み、ウエストのボタンを留めて前のファスナーをあげた。最後に襟を直し、袖口のボタンを片方づつ留めてくれて、私の身支度は終わった。確かに気持ちよくてうっとりしたんだけど、あまりに手馴れて行き届いた世話のやき方に、私の疑惑がふいと鎌首をもたげた。ひょっとして私より以前に、誰かにこんなことをしてあげてた?考えただけでいきなり頭に血が上ったさ。奥手なふりして、なんだよ、それ!

「きみ、なんか物慣れすぎてないかい?」

ちょっと尖った口調で問い詰めたら、意外な答えが返ってきた。

「新兵の最初の一年目に毎晩やらされとった。おれについた上官の命令でな。」

「えー!もうとっくに誰かに食われてたのきみ?!」

「ばかもん!あきらかな嫌がらせだ。おれが無視して完璧に勤めあげとっただけだ!」

嫌がるきみにしつこく食い下がって、詳細を吐き出させた。なになに、新兵のころに嫌な指導上官に付いたと。身の回りの世話をする係に指名された?もちろん嫌で嫌でしかたがなかったが、軍隊とは上命下達の社会だ。新兵は誰にも逆らえない。 毎日いやいや上官の世話をしていたと。なかでもこの着替えの世話が一番嫌な業務だったが、嫌がっていることを知られたら負けだと考えて、毎日無表情で完璧に勤め上げていたと。2メートル近い巨躯の上官はある日調子に乗って新兵の手を取り、自分の前を探らせた。もちろんそこには隆々とした…。息を呑むような巨根だった。逃げるか殴りかかるか一瞬だけ迷った隙をつき、上官は黒髪の新兵を強引に床に押し倒した。部隊のどの軍曹も欲しがったが腕に物を言わせて自分担当に分捕った新兵の、可憐な緑の瞳が暗さを増して驚愕と恐怖を浮かべて見上げていた。生意気な奴ほど折れると弱い。思い知らせてやる。泣かせてやる。ひいひい言わせてやる。自分の前を小僧っ子の前に当ててぐりぐりとこすり合わせてやると、縮み上がっていた小僧っ子のものが布越しに微かに反応するのが感じられた。小僧っ子は自分の体の反応に信じられないという表情を浮かべ、ずりあがって逃げようとした。だがその手首をがっしり押さえ込んで腰を使い続けた。小僧っ子の顔が次第に上気し、抵抗が次第に弱まり始めた。ああっ、新兵時代の花も恥らうクラウス青年の純潔、絶体絶命の危機…

「おまえ、なんて嫌らしい目つきになっとるんだ。頭の中で妄想の枝葉を広げとらんか?」

「いや、ちょっとね。はは。」

こんど二人で軍服を着て、そういうプレイをしてみよう。もちろん私が上官役だ。決して逆らわないように、この新兵くんにはよく言い聞かせておかなくては。

「軍隊って、そういう命令が普通にあるのかな?」

「普通じゃないにきまっとるだろうが。おれは結局、けつを触ってきやがったその上官を殴り飛ばして懲罰会議送りになった。」

「それでどうなったんだい?」

「匿名の証言が何件かあって、最終的に除隊になったのは上官の方だ。」

「ふぅん…。ねえ少佐、これからもこうしてくれるなら、ひとつだけリクエストしてもいいかな?」

「なんだ?」

「私のポジションは左なんだ。右じゃなくて左。だからね、」

私は少佐の手を導いた。

「穿かせてくれるときに右じゃなくて左の方に納まるように、ここをこういう風に…」

「こうか?」

「そう、そうなんだけど…、あっ…」

「納まらんぞ。」

少佐は意地悪く笑った。きみは時々すごーく上手だ。優しさと意地悪のさじ加減がたまらない。今、意地悪スイッチが入ったね? 際限なく反応しちゃう私の体のほうもどうかと思わないでもないけどね!

「そんなふうにされたら、納まるものも納まらないよ。…もう、だめだよ…。」

「一度脱がせて最初からやりなおしだな。」

「遅刻しちゃうよ。」

「手早くしてやるからさっさといけ。」

「ひどいな。」

ん、んんん…。

目が覚めた。


* * *


身支度を終えた少佐がベッドに座り、ブランケットに腕を入れて私の体を触っていた。

「今きみ、私にいたずらしてなかったかい?」

「しとった。眠ったままいい声を出されて、ちょっと恥ずかしくなっとったとこだ。」

いいよ。許すよ。きみだし。私も恥ずかしいけどね。

「今日の予定は?」

「屋敷へ帰って庭の手入れだ。薔薇がぐだぐだになっとる。そのためにお前を呼んだんだ。服はそれを着ろ。」

色気もへちまもない、少佐の作業着ふうの服が出してあった。ま、それでもとにかくきみの服だ。

「服を着せてくれないのかい?」

「何を寝言ほざいとるんだ?」

少佐のしかめっ面を見ていると、ため息の代わりに笑い声が出た。幸せすぎて死にそうだよ、大好きなきみ。一応のお約束で、少佐の作業着の匂いをくんくん嗅いで少佐に軽く殴られてから、私は着替えを始めた。きみの屋敷に泊まっちゃう日ももうすぐなのかな。その次はひょっとしてお父上にご紹介? 外堀がだんだん埋まっていくきみの内側から、どんどん知らないきみが見えてくる気がするな。今キッチンに行ったら、きみお手製のフル・イングリシュブレッククファストが私を待ってたりしてね。だっていい匂いがするんだもの。



END





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夢落ち。村雨さんとこに書いたコメントをリライトしてて、加筆しているうちにちょっと(わが身が)情けなくなってきたので。

2011/11/28

断片06 嫉妬深い私の囚人

  
  
使うあてがなさそうなので出しておきます。
  
  
  
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カフェでの待ち合わせはときに面倒だ。見知らぬ男女たちからひっきりなしに声をかけられる。待ち合わせの相手はもう20分も遅れていた。任務では自分にも部下にも遅刻など決して許さないくせに、ひょっとして私は気安く見られているのだろうか。少しく腹に据えかねて、私の向かいに座りたがった青年に目で許可を与えたところで、遅れていたその男が青年の背後に立った。私は席を立ち上がった。男は私の向かいに腰掛けた青年をちらりと見たが表情は崩さず、そのまま背を向けて歩き出した。私は後を追った。

「冷たいね。少しは妬いてくれないのかい?」

「寄って来るもんは仕方なかろう。」

「きみにだって寄って来る男や女はいくらでもいるんだろうしね。」

「そういうことだ。」

少佐は煙草に火をつけた。私はそこでようやく、少佐の腹立ちと嫉妬に気付いた。それを押し隠そうとする静かな努力の下で怒りがよじれて、苦々しい嫉妬がさらに増幅していることにも。手に負えない自分の感情を持て余している彼は、いつもにも増してぞくぞくするほどセクシーだった。今、背後から首筋に指を這わせてやれば、身をよじって逃げ出すだろうな。そして狼狽を隠そうとして怒りを表に出す。不機嫌というマスクを被って私を怒鳴りつける。私の会話の持っていきようによっては、嫉妬と怒りと私への欲望に手をつけかねて、私を傷つけようとするかもしれない。ふふ、それはもう何度もやったな。

私も若かったんだよ。きみに出される手なら、平手打ちでも握りこぶしでもよかった。

それはもう本当に何度もやった。きみと寝る前も。寝てからも。

よくわかっている。きみは貞淑な私が好きだ。従順な私が好きだ。そして私がただ貞淑で従順であるだけならば、きみは決して私のベッドにはやってこなかっただろう。

だからそうやって人知れず苦しみながら、私への嫉妬をきみの心のどこかおさまりのいい場所にうまく落とし込もうと、いつまでももがき苦しむがいいよ。どのみちそれは決して消えないものなのだから。私の心に燃えさかるきみへの欲望が、灼熱の炎を永遠に揺らめかせて私の身を焦がし続けるのと同様に。きみを私だけのものにしたい。きみを私の城に人知れず閉じ込めたい。きみのその素敵な首筋に幅の広い黒い皮の首輪をはめて、頭が持ち上がらないほどに重い鎖を巻きつけて俯かせたい。その鎖を手にすることができるのは私だけだ。淫蕩な私を虜にした、嫉妬深い私の囚人。

少佐は背後の私を少しも考慮せずに歩を進めていた。トレンチコートの少佐の背を眺めながら、いまふと身を翻して彼の背後から消えればどうだろうと考えた。彼は私を追うだろうか?私を探すだろうか?よく考える間もなく体が動いた。私は横道に滑り込み、さまよい出た別の大通りで車を拾い、そのまま私の国へ帰った。


* * *


それが半年ほど前の話で、私は自分があとどれほど感情を押さえつけていられるものなのだろうかと訝しみながら、 ノースダウンズの城のそばにある、私だけの隠れ家にひっそりと閉じこもっていた。暖炉に火を入れて炎を見つめながら、誂えたばかりの皮の首輪を片手でもてあそんだ。首輪には重い鎖が取り付けてあった。(続く)
  
  

2011/11/24

昼と夜とすべてと

  
きさらぎふじこ氏作「Tempus est iocundum 」(季節は悦楽の時)後編の別バージョンです。きさらぎ氏の同意を得て公開します。本作は伯爵受けが華麗な原作とはまるでちがい、BasilLeaves個人の少佐みじめ萌え妄想が遠慮なく炸裂していますので、かっこいい少佐が好きな人は読まないほうがいいと思います。警告しましたよ!


昼も夜も全てのあらゆるものが私に逆らう。 あのひととの会話は私を悲嘆にくれさせ、私はため息ばかり。 友よ、からかうがいいさ。 でも経験豊富な君たちにお知恵を拝借したいもの。 ああ、あなたの美しい顔が私を千回も泣かすのだ、 胸に氷を抱えるようだ。 再び私を生き返らせるのはあなたのたった一度の口づけ。

(カルミナ・ブラーナ バイエルンの古いカンタータより)

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「お疲れのところ悪いが、あの男にお前を売った。ガソリン代プラスアルファで。ゴムを使うそうだ。」

「・・・それなら良かった。大嫌いな君以外なら誰でもかまわない気分なんだ。」

少佐の親友を誘惑してその栄えある前途を破綻させた償いに、私はほんのはしたがねで行きずりの男に売られたらしい。おもしろい。引かれ者の小唄という言葉を知っているかな、少佐? きみが私に罰を与えると言うなら、私は昂然と顔をあげて歌い続けてみせよう。涙を浮かべて許しを請う私を期待していたとしたら残念な話だったね。ポン引きならポン引きらしく、寒い車の中でホテルの窓の明かりを見上げて、娼婦が仕事を終えるのを待っているがいいさ。

私の返事に愕然とした表情を隠せない少佐を尻目に、私はスタンドの店員に近づき、笑いかけた。醜い男だった。近づくと体臭があった。寝る前に歯を磨いているかどうかも知れたもんじゃない。自分をとことんまで貶める気でそのまま顔を近づけ、誘うように息を吹きかけてから唇を半開きにして、男が食いつくのを待った。待つ必要も何もなかった。むしゃぶりついてきた男の舌を受け入れてやると、口いっぱいに広がる不潔な味に思わず鳥肌が立った。同じぐらい不潔そうな手が、私の下半身をまさぐり始めた。おやおや、こんなところで始める気かい?なんとも気の早いことだ。

「部屋へ行こう。ゆっくり、ね?」

「お、おう。」

私は少佐をちらりと見て、くすくす笑いながらこれみよがしに男の前の膨らみを撫で上げた。それは意外に大きくて、すぐ後に控える情事のひどさを微かに予感させた。男は慌てふためいて私の腕を掴み、引きずるようにモーテルへ向かった。少佐の前を横切るとき、正面から彼の目を見て、あからさまな侮蔑の色を浮かべてやった。少佐の目に確かな激怒の炎が見て取れた。私の知ったことか。忘れないで欲しいな、きみが命じたんだよ。

必要最低限の設備しかない殺風景なモーテルの一室に連れ込まれ、私は一瞬だけ迷った。目の前の男に当て身を食らわせて、このまま行方をくらまそうか。それから思い直した。私を売った男はたぶんそれを期待している。ならばそれは彼から私への懲罰になりえても、私から彼への懲罰にはならない。磨き上げたメルセデスの運転席で、平静さを失ったままに煙草だけをふかす少佐を思い浮かべた。きみを苦しめるためなら、私は喜んでこの身を捧げるよ。さあ、毒の杯を受け取ってくれたまえ。

冬で窓を開けられないのが残念だな。きみに私のいい声を聞かせてあげられない。

目の前の何の興味もない男の顔を見つめながらブルーフォックスのコートを床に落とし、ゆっくりと服を脱いだ。袖も抜かないうちに、男が小さな奇声を上げてとびついてきた。「慌てないで、ハニー。私は今夜きみのものなんだから。」あつらえたばかりのシャツを破かれないように男をなだめながら、げんなりした声を出さないように少し努力が必要だった。寝たくもない相手とやるなんて何年ぶりだろう。いや、この言い方は間違っているな。本当に寝たい男とそうできないままに、もう何年たったのだろう?私たちは永遠にこのままなのだろうか。私もきみも、永遠に苦しみ続けるのか?

下腹の出た、生白い不健康な肌の男はそれなりの持ち物を持っていた。よほど自慢なのだろう、にやにや笑いながらたくし上げて、私に見せ付けた。これを咥えるのは骨だな。上の口も下の口も疲れそうだ。手でやらせろよ。私はチャーミングな微笑を浮かべて手を伸ばし、ささやいた。「大きさを確かめさせてくれるかい?素敵だな。ずっと触っていたいな。」

「一発目は手でもいいぞ。」男は尊大な口調で言った。「だがそのあとはお前の後ろを使う。わかったな?」「もちろんさ、スウィーティ。金はあの男に払ったんだろ?じゃあ、きみは私に何をしてもいいんだよ。」

どこまでも堕ちてゆけ。私は我が身を呪いつつ自嘲した。その間にも男は私の手の中であっけなく爆発していて、驚くほどの量の白濁した液体を、私は手のひらに受けた。この匂いだけはどの男も変わらない。多分、車で待っているあの男でも。

「それをおまえの後ろに塗りつけて、自分で用意しろ。」

男は直後の余韻にがくがくと身体を震わせながらも、ねばっこい声で私に命じた。ごめんだな。私はついと立ち上がってバスルームで手を洗った。鏡の中の自分は陰鬱な表情を浮かべていた。なぜ世の誰もが私の笑顔に魅せられるのか、本当に分からなくなるときがある。私が欲しい世界でただ一人の男だけは、私が微笑むと私を殴りつけるのに。

ローションとゴムとタオルを持って、味気ない地獄に戻った。男は白けた表情で私を待っていた。甘い声で返事をする私が、なにもかも言うことを聞くわけではないと理解したようだった。ご自慢の物がへしゃげて下を向いていた。私は取っておきの声で誘ってやった。「次は私をよくしてくれるんじゃないのかい?私が上になろうか?すごく気持ちよく締めてあげるよ。」

男は下品な顔つきをさらに下品にして、たちまち笑み崩れた。「まずは俺が上だな。おまえみたいに綺麗な男にぶちこめるとは儲けもんだ。じっくり顔を見ながら腰を使うぜ。」重いのはごめんだったし、相手の言うなりに突かれるのにもうんざりだったが、私は笑みだけを返してコンドームのパッケージを切った。残滓をざっと拭き取ってかぶせると、たちまち上を向いた男の大きすぎる持ち物は、標準サイズのゴムに窮屈そうにようやくおさまった。私はその先を少しだけ舐めた。

「いや、いい。また出ちまう。」男は喘ぎながら慌てて私を制止した。「おまえのを舐めてやる。横になって脚を開け。腰の下に枕を入れろ。」

私は黙って言うとおりにした。天井のしみを見つめながら、前回意に染まない相手と寝たのは13歳の初めてのときで、そのときはジョルジョーネを見つめながら気を紛らわせたなと、ぼんやり考えていた。あのときは「若い牧人」を手に入れるためにこの体を差し出した。そしてついに手に入れられなかった。今夜は何を手に入れようとしているのだろう。きみの軽蔑?唾棄?それとも絶望?ああ、それならもう確実に、きみは私に叩きつけてよこすだろうさ。そのときのきみの顔が見ものだよ。私は誓おう。一粒の涙だって落とすものか、決して。断じて。そしてきみが私に叩きつけるものを、私の最高の笑顔で受け取ってみせよう。昂然と顔をあげて。

男の舌が私の高まりを離れ、その下の入り口を丹念に舐め始めた。ローションを使わないつもりらしかった。そして自分のものをそこにあてがい、下卑た笑いで私の顔を見下ろしながら、ゆっくりと腰を進めた。そのとき廊下を近づいてくる特徴のある足音に気付き、私はドイツ語でとびきりの「いい声」をあげた。


* * *


部屋のドアを蹴破って入ってきたのは、もちろん少佐だった。注意深く私と視線を合わせないようにしながら、驚く店員を私から乱暴に引き剥がし、服と札を何枚か投げつけた。

「交代しろ。戻ってきたら、どうなるかわかるな。」

「あ・・・あんたら、美人局か。」

「間違えるな、お前に損はさせてない。それよりさっさと出て行け。こいつとは俺がやるんだ。」

どうにも不満げな男を追い出し、壊れたドアをようやく閉めてチェーンをかけると、少佐は私に向き直った。彼が口を開く前に、私はぴしゃりと言った。

「きみと寝るなんて言った覚えはないよ、フォン・デム・エーベルバッハ少佐。」

私は素早く服を身に着け始めていた。少佐の視線は所在無げにあちこちにさまよっていたが、私の目は少佐を冷たく見つめたままだった。

「誰と寝るかは私が自分で決めるんだ。13歳のころからそうしてきた。ボンのホテルまでさっさと送ってくれたまえ。こんなところまで連れてきたきみの責任だ。」

氷のような声でそう告げて、床から毛皮のコートを拾い上げた私は、先にたって部屋を出た。後ろから、苛立たしげな足音が続くのが聞こえた。

メルセデスに乗り込むと、少佐は車を急発進させた。コートの襟に顔を埋めながら、私は少佐のさっきの怒鳴り声を反芻していた。(さっさと出て行け。こいつとは俺がやるんだ。) 私と、やる?・・・もちろん男を黙らせるために言った言葉に過ぎない。私はそう自分に言い聞かせながら、かき合わせていたコートの前をくつろげた。車の暖気が回り始めた。

アウトバーンに入っても沈黙がづいた。しばらくして、私は車がボンの方角に向かっていないことに気が付いた。

「少佐?どこに行くつもりだい?」

「空港だ。このままおれの国を離れろ。」

「困るな。ホテルに荷物を置きっぱなしだ。」

「捨てろ。」

「パスポートもホテルなんだ。」

「嘘をつけ。いつも携帯しとるだろう。」

私は本格的に腹を立て始めていた。そもそもこんな時間にこんなところを走っているのは、この男がが私を無理に私を連れ出したからだ。私は例年通り昼間のうちにプレゼントをエーベルバッハ邸の執事に届け、お茶を一杯頂いてから、ボンとケルンでのクリスマスショッピングを楽しむ予定だった。ケルンは私のような趣味の男の集まる街だ。買い物も出会いも存分に楽しめる。行きずりの男たちの中から黒髪と緑の目のドイツ人を選び取り、家族のいないクリスマスを一夜きりの快楽で過ごすのが、私の例年の行事だった。

こんなところで薄汚い情事を強いられ、それも途中で中断されて荷物もないままに空港に放り出されるようなことをした覚えはないよ。私は舌打ちをした。

「あの男、ゴムを使う気なんかなかったよ。」

まずは小さな嘘から始めた。

「すごく大きくてさ、普通サイズのだと、そもそも入らないかもね。だから使わなかった。」

ハンドルを握る手が微かに強張ったことに、私は底意地悪く気付いていた。きみはこんな話が大嫌いだろうね。私に罰を与えようとした不遜なきみに、私が罰を与えてあげるよ。

「めったにない大きさだったよ。本人もご自慢なんだろうね。咥えるのがそりゃ大変だったさ。喉まで入れないと怒り出すし。吐きそうになったよ。」

わざとらしく舌を鳴らした。どんどん残酷な気分になっていた。

「たぶんあんまり使ってないんだろうねえ。可愛らしいピンク色だった。でもあんまり硬くならないんだ。ふにゃふにゃと柔らかいままでさ。それはそれで味があったな。挿れるのには手こずったけどね。何しろ大きいし柔らかいし。」

ふふ、と私は小さく笑った。少佐がぞっとしたように体を震わせたからだ。きみにはいろんないやがらせをしたけど、ここまでの話を聞かせたことはないよね、潔癖症のきみには、鳥肌が立つほど嫌だろうね。せいぜい悪夢にでも見るといいよ。

「入っちゃったら意外なくらいよかったよ。硬くないから、突かれても痛くないんだ。でも大きいから私の一番いいところにちゃんと届く。もっと激しく突いて欲しくてうんと締め付けたら、すごくよくってついつい…はしたない声をあげてしまったよ。ひょっとしてきみにも聞かれたかな? 」

少佐が突然急ブレーキを踏んだ。けたたましいスリップ音が夜更けの静寂を切り裂いた。メルセデスを路肩に止め、少佐は両のこぶしをハンドルにたたきつけた。クラクションが鳴り響いた。それから少佐は、ハンドルに突っ伏した。

すさまじい勝利感と甘い痛みが全身を駆け巡るのを感じ、邪悪な笑みを浮かべずにはいられなかった。今の私は息を呑むほど美しいに違いない。この笑顔をきみにだけ捧げるよ、愛するきみ。私は意地の悪い愉悦をたっぷりと味わいながら、長年の付き合いの末に初めて見る、目の前で取り乱した少佐をあますところなく観察した。蜜のように甘い快楽だった。私の毒杯を、きみはいっぱいに飲み干したらしい。

「…うんと締め付けながら考えていたのはね、これが鉄のクラウスのだったらってことさ。」

少佐はさっと顔をあげ、私に平手打ちを喰らわせようとした。とうに予期してた私は、それを難なく避けた。

「きみのはきっと、余計な大きさなんかなくて、私にぴったりなんだ。そして硬い。すごく、硬い。君自身と同じようにね、少佐。」

私は歌うように続けた。きみの歌ならいくらでも歌えそうだった。だってもうどんなに夢に見てきたから分からないぐらいだからね。どんなに想像して妄想して、何度自分でしたかわからないぐらい。

「きみの性格と同じで、目一杯ふんぞり返ってるんだろ?」

少佐が右手を伸ばし、私の胸倉を掴みあげた。私は逃げなかった。誘惑するように薄目で彼を見つめ、小さく笑った。

「また乱暴なキスかい?口をゆすいでこなかったから、さっきの男のあれの味がするよ。いいの?」

私の言葉を聞いて、少佐は汚いものを掴んでいたように、ぱっと手を放した。

「私が泣くと思ってた?きみって、可愛らしい従順な私が好みなのかな。そうした方がいいかい?可愛らしくしてると、なにかいいことしてくれるのかな?」

私の舌は止まらなかった。何をどういえば目の前の男を怒らせることが出来るのか、世界中で一番知っているのはこの私だった。

「泣きそうな顔をしてるよね。もちろん、泣きたい気分なのは私のほうさ。見知らぬ男に乗りかかられながら、きみのことだけを考えていたよ。とことん堕ちた気分で、自分が汚らわしくて痺れるほど感じたね。きみはその運転席で、すぐそこの部屋で誰かに犯されている私のことを想像したかい?想像して、勃ったかい?自分でしたかい?」

少佐がシートベルトを外す音が聞こえた。それは銃殺前の死刑台で聞く、撃鉄を起こす音のように響いた。

「・・・お前を殺して、おれも死ぬ。」

「いままで聞いた中で一番素晴らしい愛の告白だよ、ダーリン。」

「・・・」

「と言いたいところだけど、そんなありふれたセリフはなら星の数ほど言われたことがあるね、昔の男たちからね。」

「・・・」

「車を出してくれないか? この時間だとザルツブルグに飛ぶ便があるはずだ。」

「なんでザルツなんだ。」

「きみのお父上は毎年のクリスマスをザルツブルグでお過ごしになるだろう?ご挨拶に伺って、お近づきになれないものかと思ってね。」

「親父にまで手を出すつもりか、この悪魔!」

少佐はとうとう私に襲い掛かった。首を絞められるのかなと、私は他人事のように考えた。心中を迫られた経験なら何度もあるけど、でも信じてほしいな、少佐。本当に殺されてもいいと思ったのはきみだけなんだ。少佐、少佐、私を殺してくれ。きみが永遠に満たしてくれないこの心と体の飢えに、きみ自身が終止符を打ってくれ。

そのとき耳の中いっぱいに、バイエルンの古いカンタータが鳴り響いた。Dies, nox et omnia -昼も夜も全てのあらゆるものが私に逆らう。 あのひととの会話に私は悲嘆にくれる。私はため息ばかり。ああ、あなたの美しい顔に、私は千粒の涙を流す。胸に氷を抱えるようだ。 再び私を生き返らせるのはあなたのたった一度の口づけ。

たった一度の不本意な口付けをよこしただけで、この男はもう私を殺そうとするのか。



どのくらい経ったのかはわからない。殴打の痛みも、扼殺の苦しみも感じなかった。気がつくと、少佐が私に覆いかぶさって私を抱きしめていた。低い嗚咽が聞こえた。

「おまえは悪魔だ。」

「…よくそう言われるね。天使と呼ばれることもおなじくらいあるけど。」

「おまえは男だ。」

「間違いないね。」

「おまえはドイツ人じゃない。」

「誇り高き英国貴族だよ。」

「おまえは泥棒だ。」

「私の天職さ。」

「おまえは性格が悪い。」

「ふふふ。」

「おまえは犯罪者だ。」

「その通り。」

「おまえは生意気だ。」

「そうかもね」

「おまえは変態だ。」

「お褒め頂いてありがとう。」

「おまえは普通じゃない。」

「私はごくまっとうだよ。」

「おまえは淫売だ。」

「とっくに知ってただろ。」

ちょうど私の口元に当たった、少佐の耳たぶを噛んだ。少佐は私の首筋を舐めて返事をよこした。しばらくそのまま、おたがいに唇と舌先だけを動かして過ごした。それから、指先がおたがいの髪を遠慮がちにまさぐった。それ以上の身動きは、ついに始まらなかった。おたがいの体の中心がどんどん大きく熱くなって、どくどくと鼓動を打っていることに気付きながら、身じろぎひとつできなかった。本当は触れ合わせたかった。こすり合わせたかった。おたがいを悦びに導きあいたかった。だがこんな場所でせっかちな、傷口を舐めあうような性愛を交わすには、私たちはすこし歳を取りすぎ、馴れ合いすぎ、おたがいがおたがいであることが当たり前になりすぎていた。長い沈黙の後、私はとうとう少佐の耳元でささやいた。

「・・・少佐、空港へ送ってくれ。ロンドンへ帰るよ。」

「ああ。」

「運転を替わろうか?」

「馬鹿を言うな。」

少佐は私の顔を見ずに体を離した。私を包んでいた煙草の匂いのする温かみが、嘘のようにふとかき消えた。シートベルトの金具をはめる金属音がして、前を向いた運転席の男は何事もなかったかのように、謹厳なドイツ軍人に戻っていた。

車が発進し、アウトバーンに戻った。しばらくの間、どちらも口をきかなかった。私はただ車の振動に身を任せ、残光を引いて時折流れるヘッドライトとテールライトを、黙ったままいつまでも見つめていた。

私が口を開けばいいのだろうか。何を告げればよいのだろう。私の心も体もすべてはきみのものだと? でもきみは、そんなことはとうに知っている。知っていて、なぜ…? 不意に涙があふれそうになり、その問いがまさに口からこぼれそうになった瞬間、少佐が前を向いたまま低い声で、彼なりの謝罪の言葉を口にした。

「今日のおれはどうかしていた。」

私は息を吸い、静かな声で答えた。

「私もさ。」

胸に、再び氷が張り始めた。私はまた千粒の涙を流す。そして昼も夜も全てのあらゆるものが私に逆らう。



メルセデスは夜闇を抜けて、空港へと走り続けた。




END





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書いてから気付いたが、少佐がファビエンヌと遊んでたという設定を全く忘れてた。うーん、つじつま合わんな…。許されよ、きさらぎ姐。

2011/11/16

「殻。」

  
  
  
  
少佐 「こんなめんどくさいもんをちまちま食うのは性に合わん!」
伯爵 「でも、蟹は殻を剥くのも味のうちなんだよ。」
少佐 「勝手に剥いとれ。おれは別のものを食う。イモはないのかイモは。」

長い指で蟹の甲羅をはずし、脚の殻を苦もなく剥いているとしている伯爵を見ながら、少佐は別のことを思い出していた。以前にもこんな指を見たことがあった。あれは多分フランスでの任務だ。寒い日で、広場で部下を待つ間に思いついて焼き栗を買った。トレンチコートのポケットに袋ごと入れて温かみを味わいつつ、ひとつひとつ取り出して不器用に皮を剥いていると、背後から音もなく忍び寄ってきた誰かが、不意にコートのポケットに手を差し込んだ。誰だかわかっていたから、わざと振り向かなかった。

「きみもこういうものを買うんだ。」

カチリ。乾いた音を立てて殻がはじけた。細い指が器用に栗の殻をはずし、中の栗を取り出した。温かく硬くつやのある焼き栗を、伯爵は口に放り込んでひと噛みにした。

「不器用だね。剥いてやろうか?」

「馬鹿。任務中だ。離れろ。」

「ふふふ。」

伯爵は少佐のポケットに無遠慮に手を突っ込み、熱い焼き栗をもう二、三個盗み取ってから背を向けた。

「もらってくよ。またね。」

コートのすそを翻し、あっさり去ってゆく伯爵の背を自分の視線が追わないようにするのに、すこし努力が必要だった。それから不意に、自分がもう寒さを感じていないことに気が付いた。



少佐は目の前で無心に蟹を剥いている男を見つめた。こいつは盗みがうまい。欲しいものはなにもかも盗む。剥くのもうまい。蟹の殻。栗の殻。おれの心の殻。それからもうすぐ訪れるはずの、自分の服が残らず剥かれる瞬間に思い当たり、微かに身震いをした。あの日忘れた寒さが戻ってきたのかもしれなかった。すべてを剥かれたむき出しの体の中にある心。それはもうとっくに、目の前の男に盗み取られて久しかった。





2011/11/14

断片05 素行調査

「士官学校の四年間の間は堅物だったようだね。まったく何にも引っかからなかった。」

伯爵はぐるぐると歩き回りながら、なにやら書類を読みあげ始めた。

「入隊して戦車科にいたころに、士官学校の先輩である女性軍人との恋愛が一回、その後も同じく女性軍人との恋愛とは言えない程度のアフェアが二人と、どうやらお父君の差し金で素人のお嬢さんとのお付き合いがやはり二人、商売女とは若いころは同期とのお付き合いでけっこう遊んだけど、後に決まったお馴染みを作って、しばらくは決まったご婦人にばかり通ってた。かなり年上のそのご 婦人が商売をたたんで堅気の奥さんになってからは、そういう女性たちとのお遊びはほんのときどき。最近もまあ、数えるほど。」

書類から顔を上げて、ちらっと少佐の顔を見た。

「NATO に出向してからは、女子職員に手は出した形跡はなし。でも他国の諜報部員との後腐れの無い情事ぐらいはあったのかもね。残念ながらギムナジウム時代のことまでは調べがつかなかったな。 隣の女子高の女の子の間ではすごーく有名みたいだったけど。それから…男は私がどうやらほんとに初めての模様。」

珍しく定時のオフィスを出て自分のフラットへ帰った少佐は、伯爵が突きつけてきた書類と写真を前に、くわえていた煙草を落としそうになっていた。「おまえ…最近こそこそしとると思ったら…なにを調べとったんだ?」

「笑いたきゃ笑えよ。気になってしょうがなかったんだから。」

「あのなあ、そういうのはよくない趣味だぞ。」

「私だってこんなことをするのは初めてさ。というか、どう考えてもヘテロの男に絶望的な恋をして、何年も我慢した挙句に急転直下でそいつと相思相愛になるなんてのは初めてなんだよ。」

伯爵がうっかり口に出した「相思相愛」の単語に照れて、双方があらぬ方向に目を逸らした。

「…えーと、どこまで言ったんだっけ。」

「おまえが俺の過去の素行調査をしたところまでだ。」

「きみってほんと、俗物だよね。もう少し華麗な恋愛遍歴とかは無いのかい?」

「あっても言わん。おまえだって俺に言わんことは山ほどあるだろうが。」

「お遊びのほうなら、言われなくてもただいま整理中だよ!」

「俺は整理するまでも無く清廉潔白だ。」

「今後はなるべく慎み深くすることを誓うさ。」

「ということは、現在進行形でなにかあるんだな。」

「あったらどうだって言うんだよ!私はきみにぞっこんだけど、きみは素敵な恋人ってわけじゃない。かまってくれるわけでもないし、こっちがかまうと怒り出 す。自分勝手で乱暴で、えらそうでぶっきらぼうでタバコくさい。二言目には『俺は忙しい』だし、実際忙しくてなかなか会えない。会ってもベッドに引きずり込むのにすごく手間と時間がかかってめんどくさいし、おまけにベッドの外ではこんなふうに喧嘩ばかり だ。外でのデートも全然なし!手もつないでくれない。キスもしてくれない。なんでこんな男に夢中なのか、自分でもわからないよ。外でちょっとぐらい試食品の味見をしたって、どうだって言うんだよ!」

「何を逆切れしとるんだ。」

「きみに普通の女性関係が、しかもけっこうたくさんあってちょっとショックを受けてるだけさ。」

「俺がホモじゃないのは知っとっただろう。」

「知ってたさ。でもそれとこれとは話は別だ。頭ではわかっているけど、心が納得しないんだ。きみ、やっぱり当たり前の普通の男じゃないか。」

「最初からそう言っとるだろうが!」

「なんでそんないけしゃあしゃあとしてるんだよ!過去数年の私に対する態度からしたら、君は本来なら今頃は頭をかきむしって教会に懺悔に行っててもおかしくないぐらいの心境だと思うんだけど。」

「なんかもっとこう、鳥肌が立ったり吐き気がしたりするかと思っとったが、案外なんとも無かった。いやでもしかし、朝起きて隣にごっつい男の腕とか背中を 見ると、なんでこんなこ とにと愕然とすることはある。おまえ、指は細いけど手は俺よりでかいしな。それに、上に乗られると結構重い。」

「なんだよそれ!」

伯爵は猛然と少佐に(続く)




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書きさしで止まっている間男Q話の一部です。だんだんQのことがどうでも良くなってきたので、書き進められなくなってきました。

2011/11/11

ぼくの上司の白いシャツ



日付の変わるころに」関連の連作。断片03を踏まえて、断片04のZくん視点です。


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ぼくの上司の仕事着のシャツには、ポケットにイニシャルの刺繍が必ずある。"KHvdE"、名前の通り、イニシャルまで長い。きっとお若いころから長く作らせている仕立て屋があるんだろうと思う。そのへんの吊るしを適当に買い足している僕とは大違いだ。少佐のチームで自分の服を作らせているのは少佐とG先輩だけだと思う。G先輩は気に入った婦人服を買っては、自分が華奢に見えるように丹念にサイズ直しをさせてると言っていた。直しきれない服はそのままのデザインで作らせるんだそうだ。

部長の服も仕立てだろうけど、あの場合は腹回りのサイズの問題で仕方なく、だな。

仕事着だけではなくて、普段着にもイニシャルが入っているのを知ったのは、去年の秋ごろだった。ぼくはハノーヴァーから一人で遊びに来る甥っ子へのプレゼントを見繕いに、プラモデル屋の店先を眺めていた。ドイツ連邦軍に入隊したぼくは、甥っ子のヒーローらしい。残念ながら視力のせいで戦車科から需品科に転属になったと伝えたらそのお熱も少しは治まったが、それでも会うたびにぼくの軍服を見せてくれと可愛らしくお願いしてくる。なかなか悪い気分ではない。

姉は僕と同じ金髪だが、姉婿はバイエルン出身のがっちりした黒髪の男性で、甥のハインリッヒは母よりも父に似たようだった。目も髪も、暗い色をしている。小学生のちびさんなのに、ぼくが出た陸軍士官学校への進学を希望しているという。希望は戦車隊だ。男の子というのはそういうものだ。

僕はプラモデル屋のウィンドウ・ディスプレイを眺めていた。僕は軍人だがそれほどの軍事オタクというわけでもなく、先の大戦ごろのドイツ軍に関する興味は民間人ととくに変わりが無い。むしろ甥っ子の方が詳しいかもしれない。甥っ子がまだ持っていない型はどれだろう。店に足を踏み入れたとき、意外な場所で意外な人に出くわした。少佐が、店の奥の棚の下に膝を付いて、埃をかぶった箱をひとつひとつ確認していたのだ。

ぼくが急いで逃げだそうとしたのと、少佐がひょいっと顔をあげて僕に気付いたのが同時だった。

「プラモデルをお選びですか、少佐?」

慌てすぎて言わずもがなの声を掛けた僕を見上げ、少佐は眉をしかめてゆっくり立ち上がった。そのとき、少佐のシャツにイニシャルが入っているのに気が付いた。綿か麻の真っ白なシャツにきっちりとアイロンがあたっていて、いかにもぼくの上司らしかった。仕事着のイニシャルは生地と同じ色の糸で目立たない縫い取りになっているけれど、今日のシャツのポケットには、くっきりしたネイヴィ・ブルーの飾り文字でイニシャルが浮かんでいた。"KHvdE"と。

ぼくの英雄崇拝をみんな軽く笑うけれど、ぼくの上司はその尊敬に値する人だ。能力も、人格も、その男性らしい美しさも。休日用のシャツを着た少佐は、仕事着のときとは全く違って見えた。ぼくは、全身に泡立つような喜びを覚えながら笑った。少佐はもちろん笑わなかった。

「なにをにやにや笑っとるんだ。男がそうそう歯を見せて笑うもんではない。」

少佐は苦虫を噛み潰したような顔で言った。「何をしとる。買い物か?」

「来月遊びに来る甥っ子へのプレゼントを見繕いに来ました。少佐は?」

「同じようなものだ。」

そう言いながら、少佐は手にしていた箱をそっと棚へ戻した。戦車ばかりだった。少佐の親戚の男の子たちも、戦車隊志望なのかな。軍人の家系だというから、男の子は全員軍人コースなのかもしれない。ぼくの一族からは軍人はぼく一人だけだけれど。

「小学生の甥っ子が、軍人志望なのです。ゆくゆくは士官学校へ進学したいと。」

「それは頼もしいな。陸か?海か?」

「戦車科です。ぼくは彼のヒーローらしいです。」

少佐はそこで初めて笑った。「それはいい。それで戦車のプラモデルか。」

「はい。ただ、持っているものを買ってあげてもしょうがないので、買うのは姉にこっそり調べてもらってからにします。」

「そうか。おれも別に急ぐ買い物ではない。この後約束はあるか?正直に言え。なければめしでもどうだ。おごってやる。」

その日は信じられないぐらいすばらしい日になった。そこから歩いていけるオープンテラスのカフェで、ぼくたちはゆっくりと時間をかけて昼食を取った。普段はしないようなプライベートな話をたくさんしたし、聞いた。ぼくは眩しくて少佐の顔を見ていられず、シャツの胸のイニシャルばかりを見つめていた。ぼくも一枚ぐらい、こういうシャツを作ってみてもいいのかもしれない。ネイヴィ・ブルーでイニシャルを入れて。



その同じシャツを、同じオープンテラスのカフェで、今朝もう一度見た。でも着ているのは少佐じゃなかった。

ぼくとB先輩はBDNとの協力任務を終えて、午前中に開催されたその報告会からNATOオフィスへ戻るところだった。昼食に早い時間だったけど、B先輩は食いしん坊だ。食べて帰ろうぜと誘われた。あの店がいいかなと曲がった角で、ふたりともぎくりと足を止めた。

まっすぐな黒髪のがっしりした無骨な男性と、黄金の巻き毛のほっそりと優雅な男性と。ふたりはあらゆる意味で完璧なコントラストを成していた。二人ともシャツにジーンズの軽装だったけれど、それぞれが全く違っていた。少佐はかっちりとしたカーキ色のシャツを着て、袖をきっちりと留めていた。伯爵はスリムなジーンズを少しかかとのあるロングブーツに入れていて、膝から下が信じられないぐらい長かった。そして見覚えのあるあのシャツをゆったりと着ていた。ゆるく捲り上げた袖口から、細い金の鎖がのぞいていた。

朝食には遅すぎ、昼食には早すぎる時間に、小さなテーブルにそれぞれの朝食を載せて、その二人は黙って向かい合って座っていた。ぼくが知る限りの二人は、顔を合わせた瞬間に口喧嘩か小競り合いか嫌味か嘲笑か、とにかくそういう火花が散っているはずだったのに。そのときの二人には、そんな雰囲気は微塵も無かった。長い足を優雅に組んで黙って座っているエロイカは、見とれるくらい綺麗だった。ごく普通の格好なのに、周囲から際立って見えた。ほとんど輝くほどに。ぼくの上司は、この綺麗な人の所有権を主張するために、自分の名を縫い取ったシャツを着せたのだろうか。

B先輩が妙な顔をして、すこし目を細めてぼくをみた。その表情の意味を考えられる余裕は、そのときのぼくには無かった。

先輩は別の店に食事に行くといったが、ぼくはその場に残って未練がましく物陰からふたりを盗み見していた。ぼくの知らない極秘任務の件でエロイカに協力を要請中とかかな。ぼくは無駄なことを考えた。そんな筈がなかった。伯爵は具合でも悪いらしく、ずっと下を向いてコーヒーを飲んだり飲まなかったりしていた。少佐はかまわずにいつもの通りの勢いで食事を片付けていた。もう怒鳴り合いは一通り済ませて、お互い機嫌が悪いところなのかな。だったら少しだけでも嬉しいんだけど。それとも、そんなこと気にもならないぐらい狎れきった仲なのかな。そこまで考えをめぐらせて、ぼくはすこしへこんだ。

そのとき少佐がフォークとナイフを置いて指を組み、伯爵に何かを話かけた。伯爵が気だるげに顔を上げると、少佐は片手でコーヒーカップを口へ運びながら、空いた手を伸ばして伯爵の手を…、手の甲を撫でた。伯爵は少佐の控えめな愛撫を受け入れて、静かに顔を伏せた。絵みたいな二人だった。

あの二人が愛人関係にあるという噂を信じていないのは情報部ではぼくだけだったけど、馬鹿みたいだ。

伯爵は軽く頬杖をついて少佐から視線をはずし、少佐は旺盛な食欲を取り戻して皿の上の朝食をすっかり片付けた。支払いを済ませ、伯爵をテーブルに残して去った少佐は、すぐに車をカフェの店先まで寄せて戻ってきた、それからエンジンを切って運転席から降り、伯爵の腰に軽く手を添えて席を立たせ、完璧なしぐさで車までエスコートし、ドアを開けて助手席へ送り込んだ。エンジンがかかった。目を閉じてナビゲーターシートに体を預けている美貌の金髪の横顔が、一瞬でぼくの目の前を通り過ぎた。

姉さん。ぼく、どうしようもなく失恋したみたいです。

「イースターにはハノーヴァーに帰りますので、久しぶりに手料理を食べさせてください。兄さんとハインリッヒにもよろしく。」その夜、姉へのメールを送った。休みの日に一人でいると、余計なことをいろいろ考えてしまいそうだった。甥っ子へのお土産を買いに、またあのプラモデル屋に行かなくちゃならないな。



END









断片03に引き続き、Zくんへの復讐シリーズその2。あきらめきれずにねちっこく少佐に迫るZくんってのも、後で考えてみよう。私の書くものの中で、伯爵がここまで少佐に大事にされ(ているように見え)るものは、これが最初で最後かもしれない。

2011/11/09

断片04 最後の一滴


 
断片03の続き。 一応。



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朝からそんなに食べちゃ太っちゃうよ。

私はは少佐の旺盛な食欲に圧倒されていた。朝食の食べっぷりまで戦車みたいだ。私の歴代のボーイフレンドたちに、こういうタイプの男はいままでいなかったな。

もう少し可愛らしく葛藤したり悩んだりするかと思ったのに、少佐は何の悩みもなさそうに皿の上のものを減らす作業に集中していた。割と腹が立った。昨夜のことって、きみにとってはそんなに些細なことだったのかな?そんな些細なことのために、この私を何年も待たせたってわけかい?こう見えて私はけっこう悩んだんだよ。シャツを破り捨ててきみのベッドに忍び込むまでには。

そして昨夜のきみは本当にすばらしかった。それはもう、言葉にできないぐらいに。

少佐がふと顔を上げた。

「食わんのか?」

「食欲が無いんだ。昨夜のきみが素敵すぎて。」

少佐の顔からさっと表情が消えた。そうだよ。少し困るといいよ。

「このシャツ、もらっていいかな。きみに抱かれてる気がする。」ふふふ、とシャツを撫で回しながら少佐に流し目をくれて、どきりとした。いつもなら、それはそれは嫌そうな顔をして目をそむけるはずの少佐が、舐め上げるような目で正面から私を見ていた。冴え冴えと光る三白眼の中で深緑の虹彩が普段よりも深い色に沈み、その緑の奥にはっきりした欲望がうねっていた。欲望はもちろん、一直線に私へと向けられていた。それから彼は、私に視線を釘付けにしたままフォークに刺した皮付きの大きなチップスをゆっくりと口に押し込んで咀嚼し、嚥下し、唇の周りを舐めた。ジャガイモと一緒に食われたような気がした。噛み砕かれ、飲み込まれ、相手のからだの奥底にまで取り込まれたような、圧倒的な被征服感。うそだろ、私が。

なにか変なところにスイッチが入ったんじゃないか、きみも私も。喘ぎそうになった息をかろうじて抑え、コーヒーで喉を湿してから私は言葉を次いだ。

「少佐、きみがそんな風なのは、らしくないよ。そんなふうに見られたら、」やや挑戦的に反撃した。これでどうだ。「勃っちゃうよ、私は。」

「おれはもう勃っとる。」

間髪入れずに返答が帰ってきた。コーヒーを噴きそうになった。咳き込みそうなのをこらえて下を向いた。ああっ、だめだ、赤面してるのが自分でもわかる…、静まれ、私の心臓!

「耳まで赤くなっとるな。いつもそうしおらしくしてくれるとおれは助かるが。」

食事の手を止めないまま、少佐は明らかに面白がっている声で続けた。「おれにとっても忘れられん夜だった。ベッドでのおまえがあんなふうだとはな。自分が何を言ったか覚えとるか?覚えてないなら言ってやろうか。爽やかな朝食の場にはふさわしくないがな。よくもまああんな恥しらずなおねだりができるもんだ。思い出しただけでおれまで赤面しそうだぞ。たとえばな…」

「ちょ、ちょっと、やめてくれよ、少佐…。」

「いや、やめてやらん。おれには積年の恨みがある。」

私はほとんど涙目になって少佐をにらみつけた。「きみが意地の悪い性格だとは知ってたけど、こういうふうだとは思ってなかったよ。」

「そうか?ゆうべの意地悪はまだ足りなかったか?手柔らかすぎたか?うん?」

「もう、やめてくれったら!」

昨夜の記憶が突如として奔流のように蘇り、腰が痺れた。今食事が終わっても、うまく席を立って歩けそうになかった。コーヒーカップをソーサーに置くと、手が震えてカチカチと音が鳴った。

「おれは気分がよくない。」

少佐はフォークを皿に置いて背を伸ばし、指を組んだ。

「おれは男は初めてだ。気をつけて慎重に動いたつもりだった。それをおまえは、」

息を吸い込み、下からねめ上げるような目で私を見つめ、隣のテーブルには決して届かない低い声で、少佐は言った。

「どこを触っても体をくねらせていい声で泣きやがって、よほど今までの男どもの仕込みが良かったと見える。おれは気分が悪いぞ。」

すごくよかったのは事実だった。だってもう何年も夢見てたんだもの。何度も夢の中でやったし、自分でやるときも数え切れないぐらいネタにした。練習が十分だっただけだよ。それをそんな言い方するなんてさ…。でも確かに私の体の反応も常軌を逸していた。昨夜も、今も。十三歳で男たちと寝るようになって以来あらゆることはやり尽くしてきたつもりだったのに、ごく普通のセックスであんなに感じるなんて、正直言って初めてだ。ああ、この私がこんな日の高いうちから、外の食事の場でこんなに・・・なっちゃうなんて。

微かに体を震わせながら少佐を見上げると、少佐はコーヒーを飲みながら空いた手を私の方に伸ばし、テーブルに載せていた私の手の甲を触れるか触れないかのかそけさで撫で、私の反応を面白そうに眺めた。それから手の甲を爪で軽く引っかいてから、手を戻した。引っかかれた場所から甘い痺れが全身に伝わり、私はそれだけでいきそうになってしまった。どこでそんなやり方を覚えたんだよ!どこの女が爪できみを愛撫したのさ!ああもうっ、私がこんなになるなんて!

少佐はゆっくりとコーヒーを飲み終えた。

「食い終わったら買出しだ。ありったけの食糧を買い込んで部屋に籠もるぞ。覚悟しておけ、手加減と時間制限なしだ。おれは意地が悪いらしいからな。腰が抜けるまで犯してやる。おれの最後の一滴までだ。わかったらさっさと食え。」

食べられるわけが、なかった。駐車場へも歩けそうに無い私を見て、少佐は店先まで車を回してきた。わざわざ車を出て助手席のドアを開けてくれた。ちょっと楽しんでいるようだった。ドアが閉まり、メルセデスの軽快なアクセル音が響く中、私はシートにぐったりと身を預けて目を閉じた。ロンドンへ帰るチケットを延期しなきゃ。


 END



※あれえ、私って少佐受けじゃなかったっけ?今月はとにかく伯爵を幸せにしてあげたいんです。(その反動は来月来るのかも) 村雨公主さんと雑談中に、「発情少佐」という単語が出てきたのでそれで書いてみました。村雨さんの妄想は発情少佐に追いかけられてちょっと困ってしまう伯爵でしたが、私の妄想では両者ともに発情してしまいました。めでたしめでたし。あとで発情してないバージョンも書く予定です。

2011/11/08

断片03 爆弾





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カーテンを開き、休日着にしてはかっちりとしたカーキのシャツの袖のボタンを留めながら、少佐はベッドに声を掛けた。

「いつまでもいぎたなく寝とらんでさっさと服を着ろ。朝メシに出掛けるぞ。」

「まぶし…。こんな時間からいっしょに出掛けたりすると、誰かに見られちゃうかもしれないよ。きみ、困るんじゃないか?」

伯爵は優雅な伸びをしながらも、そのまま寝そべったままだった。少佐はそちらを見ないままで続けた。

「いまさら何を言っとるんだ?世界中の諜報機関にあるおまえのファイルに、なにが書かれとるか知らんのか。」

「インターポール以外にも私のファイルはあるのかい?」

「たいていのところにはあるようだな。おれが見たのはNATO, KGB, SIS, CIA, EU各国…」

「何が書いてあるのかな。私の本業にさしつかえるようなことだったら困るんだけど。」

少佐はなんとも形容しがたい顔つきで伯爵を見下ろし、最初の爆弾を落とした。

「どのファイルの内容も似たり寄ったりだな。『表の顔は英国の世襲貴族にして、裏の顔は美術窃盗犯エロイカ。 かつ、NATOボン支部所属のクラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ少佐の長年の愛人』、だ。」

伯爵はぽかんと口をあけた。重そうな金髪がいっぺんに逆立った。少佐は少し面白そうな顔になり、シーツから飛び起きた一糸まとわぬ姿の伯爵を見下ろしたがすぐに目をそらした。

「めでたいやつだな。本当に知らなかったのか?」

「ちょっと待ってくれよ!いまきみが言った中に、NATOも含まれてなかったかい!?」

「ああ、そうだ。」

「NATOのファイルにもそう書かれてるってこと!?」

「その通りだ。」

「きみ、それ…、それ…、抗議しなかったの?」

煙草に火をつけるかどうか少し迷い、朝食までは控えようかとシャツのポケットに煙草の箱を落とし込むだけに留めた。それからクローゼットを開けて、この目立ちすぎる金髪巻き毛に何を着せれば少しでも目立たなくなるかと考え、すぐにその考えをあきらめた。

「おれにはアクセス権はあるが内容を改変する権利はないし、どこのどいつが編修しとるのかも機密だ。お手上げだ。」

「それって、きみ、すごく困っただろ?」

「もっと困ったことがある。」少佐は次の爆弾に言及することにした。

「なにが?」

「おまえのファイルの内容は、おれのファイルにもリンクしとるんだ。」

「はぁ?」

「『長年にわたる協力者であるドリアン・レッド・グローリア伯爵と愛人関係にある。グローリア伯爵については関連ファイルを参照のこと。』とある。初めて見たときは我が目を疑ったぞ。」

「ええええええー!!!」

爆弾は思ったとおりの衝撃を脳天気な風船野郎に与えたようだった。少佐はひそかに意味のない満足を覚え、それから昨日とほぼ同じプレーンな白いシャツ、ただし明らかに休日用でコットンリネンの少し大きめのものをベッドへ放ってやった。伯爵は無意識のままに手を伸ばして受け取り、シャツに顔をうずめて息をいっぱいに吸い込んだ。少佐は少しだけ顔をしかめた。変態め。

「どのくらい『困ったこと』になったか教えてやろうか。おれはNATOプロパーではなく、ドイツ陸軍からの出向組だ。だかファイルにこの情報が載った瞬間、帰任の望みは失せた。おれはもう一生戦車には乗れん。」

「…こないだ私の国で乗ってたじゃないか!」

「おれが返品された表向きの理由は誘拐事件に手を挟んだ件だが、裏の理由はおまえとのスキャンダルだ。表沙汰にしたくないどこやらから、圧力がかかったそうだ。」

これも爆弾だったが、まだ最後の一発ではない。

「でっ、でもあのときは私たちはまだなにも…。」伯爵はシャツに袖を通し、前を閉じながら慌てて抗議した。

「誰のせいでおれの人生が大きく狂ったか、よく考えてもらいたいもんだな。」

シャツのボタンを閉じ、袖を巻き上げた伯爵は口をへの字にし、それから下を向いて両手の指を絡ませた。

「今さら泣き真似しても、もう信じんぞ。」

「ちぇっ、泣いてないけどさ、そのファイルのアクセス権って、誰にでもあるのかい?」

「おれのファイルにアクセスできるのは部下の中ではAだけだ。だがおまえのファイルはほぼ全員が閲覧可だ。」

「そんな…、みんな信じちゃうじゃないか!」

「信じとるんだ。」

それが最後の爆弾だった。

「Zを除く全員が信じとるんだ。おれの前で口に出さんだけだ。」


* * *


毒気を抜かれた伯爵がおとなしく身支度をして(←今朝はアンダーパンツも借りた)、まだ肌寒い春のオープンカフェでブランチに揚げたイモをがしがし喰らう少佐の向かいで目をぱちくりさせながらコーヒーを飲み、幸せだけど全然ロマンティックじゃないなあなどと余計なことを考えているところを目撃したのがB先輩とZくんである。無神経に「あ、少佐だ。今日は伯爵といっしょか。」と口に出すB。激しい衝撃を受けるZ。今の今まで信じていなかったが、エロイカが着ているあのシャツは間違いなく少佐のオフの日のシャツだ…。「今日は少佐が休みだから気楽だよなあ。オフィスに戻る前に昼メシ食おうぜ。」と無邪気に話しかけるB先輩を尻目に、Zは路地の壁に額をあてて激しく葛藤するのだった。

「チャンスがあるんだったら迫ればよかった…。今からでも遅くないんだろうか、ぼく…」



おしまい

2011/11/07

Snippet #01 - The Morning After - by Kadorienne

  
Snippet #01 - The Morning After
by Kadorienne

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少佐は目を開き、それからすぐに閉じた。だがそれは無駄な抵抗だった。たとえ隣の枕の上にある黄金の巻き毛を視界から消したとしても、たゆたう薔薇の香りまでは消せなかったからだ。

横たわったままでしばらく過ごしてから、身体を起こした。意外なほど落ち着いていた。伯爵の、こまどりの卵のように青い瞳が開き、彼を見つめた。瞳は何も問いかけることなく、ただ待っていた。

「シャワーを先に使ってもいいか?」少佐は丁重に訊ねた。

伯爵の顔に、ふと安堵の色がさした。「好きにしてくれ。」

少佐は立ち上がり、バスルームに向かった。「おれがここにいる間に、朝食を頼んでおいてくれないか?」と伯爵に頼み置いて。

シャワーに打たれ、ホテルに備え付けの笑いたくなるほど小さな石鹸でひげを当たろうと試みながら、少佐は昨夜のことについて考えた。心の整理がまだついていなかった。任務はむろん成功裡に完了していた。少なくともある種の情報を敵の手に渡さずにすんだという意味では。もちろん、PとTとRはそうは考えていなかった。そして少佐ですら打つ手はすべて打ったと考え、あとは運を天に任せる以外にはないと覚悟してはいたものの、それでもなお、少佐は自分を内心で罵る声をどうしても止められなかった。

彼は昨夜のノックを思い出した。ドアを開けると、エロイカが酒瓶を持って立っていた。いつもの煌めくような誘惑に満ちた瞳ではなしに。少佐はそのことをはっきりと思い出した。エロイカは穏やかでまじめくさった顔つきをしていた。おとなしく話を聞いたり、そもそも何もしゃべらずに黙っていたりする気でいるような顔つきだった。なんであれ、少佐が望むとおりに・・・。

少佐は目を閉じ、ほとばしるシャワーに顔を向けた。ほんの一年と少し前、彼はこの日が来るかもしれないと自分自身に認めたのだ。だが、踏み切るのは彼のほうからではありえなかった。

少佐がシャワールームから出てホテルのバスローブに身を包むと、伯爵はちらりと彼の顔を見て、何も言わずにシャワールームに消えた。少佐はその沈黙をありがたく思った。昨夜の伯爵が彼に見せた通りの物静かで落ち着いた、行き届いた作法と同様に。かれはそこでも少佐が望むとおりに振舞って見せた。

彼はエロイカがそこまで落ち着き払った様子をこれまで見たことがなかった。そして、それは彼を落ち着かせた。今朝においても、また昨夜においても。いつもの傲慢な言い草や、思わせぶりに物憂げなセリフは、少佐には我慢ならないものだった。

彼は、重苦しい顔つきで、窓の外を数分間も見つめた。空は灰色に曇っていて、それすら助かったように感じた。今日が陽光に満ちていたら、彼は耐えられなかっただろう。

ルームサービスがドアを叩いた頃には、少佐はすっかり身支度を整えていた。伯爵がシャワールームから姿を現したとき、ウェイターは去ったところだった。彼の巻き毛は湿気で鈍く光り、水を浴びたばかりの肌のせいで、いつもよりも若く見えた。彼は沈黙を守ったまま、注意深く少佐の向かいに腰を下ろした。

「伯爵。」コーヒーを注ぐ男に、少佐はとうとう声をかけた。天まで抜ける青空のような瞳が、彼の目を見返した。少佐はテーブルクロスを見つめてわずかに眉をしかめ、それから穏やかに、場にそぐわない一言を口から押し出した。「感謝する。」

少佐を驚かせたのは、美しい顔に浮かんだ悲しげな微笑だった。それはいつものエロイカではなかった。ふざけきっているようで実は冷静極まりない、少佐を激怒させるためだけに計算しつくしたような態度とは、なにもかもがちがっていた。だが少佐とていつもの鉄のクラウスではなく, どこかぎりぎりの、危ない崖っぷちを歩いているような気がした。ふたりとも、いつもの鎧を身に纏うことを忘れているようだった。

沈黙が通り過ぎ、やがて伯爵が短く言った。「わたしはきみを愛している。」

彼がそこで言葉を切り、何も続けないままでいると、少佐が言った。「伯爵。おれにはわからん。おれは・・・、これが、このことが続くのかどうかすら・・・。」

金髪の男は静かにうなずいた。「きみは私の居場所を知ってる。」

少佐は続く言葉を待った。ただ伯爵の沈黙だけが続いたとき、少佐は口を開かねばならないのは自分の方だと悟った。「おれは・・・おれはこんなことになった挙句に、おまえを捨て去りたくはない。だが、正直言って、こんなことを続けていけるかどうかはわからない。」

伯爵は深いため息をつき、考え込んでから答えた。「少佐、わかっていたさ。私たちの最初の朝は多分、こんなふうに気まずいんだろうって。」少佐は伯爵の淡々とした口調に顔をしかめた。伯爵は続けた。「私は、半殺しになるまで殴られることすら覚悟していたよ。」

「そんなことを思っとたのか…、ではなぜ…?」

「それだけの価値があると思ったからさ。」

少佐は首を振り、ベーコンと卵をまるで初めて見るもののように見つめた。彼はエロイカのことを理解したことなどなかった。そして今、ますますわからなくなっていた。

伯爵は、全くの上の空のまま卵をひとくちふたくち口にし、やがてフォークを置いて立ち上がった。「ぜんぜん空腹じゃないみたいだ。服を着て失礼することにするよ。」彼はつぶやいた。

少佐は、全く気づかないような顔で自分の朝食を咀嚼し続けた。伯爵がいつもどおりのひらひらした馬鹿ばかしい布切れで身支度する姿へも、視線をやらなかった。だが伯爵がドアに近づいたときに、とうとう口を開いた。「伯爵。」呼ばれた男は振り返って彼を見つめたが、少佐はコーヒーカップを睨んだまま顔をしかめた。「頼みが…」少佐は言葉を続けられなかった。何をどういえばいいのか、言葉を捜しあぐねていた。

伯爵は疲れたように薄く笑い、「誰にも言わないよ。」わびしい声でそう告げた。

「感謝する。」少佐はあっけに取られ、そう返すしかなかった。

伯爵は彼をしばらく見つめた。「見返りを要求してもいいかな?」

「なんだ?」彼は疑わしげに伯爵を見つめつつ訊ねた。

静かな返事が返った。「さよならのキスを。」

安堵と、それからそのほかの何かが少佐の心を満たした。彼は立ち上がった。「そんな取引の必要はないんだ、ドリアン。」

伯爵は少佐の抱擁を受け入れた。そして二人はお互いの顔を長い間見つめあい、それから唇を合わせた。長い時間がたった。少佐はすべてを忘れた。

伯爵は一歩退いた。「きみを、愛している。」彼はもう一度ささやき、それ以上何も付け加えることなく、無言のまま立ち去った。

少佐は窓のそばに立った。今朝の二人はいつもと違っていた。次に逢うときにどんな顔をすればいいのかわからなかった。いつまた逢えるのかすらわからない。だが少佐に判っていたのは、さっきのキスが最後のキスにはならないという、そのことだった。


END


2011/11/06

Major Butterfly - by Anne-Li

Major Butterfly
by Anne-Li



概要: 負傷したクラウスを助けたとき、ドリアンは全く予期せぬものを発見した。
注意: 物語の主要部分を、後半70年代から80年代初頭の設定とする。
(物語の最後も参照のこと)










ドリアンが先に目を覚ました。背中にひんやりとした寒気と、前に暖かみのある何かを感じた。それを触ってみて、彼はぼんやりと思い出した。暖かみのある、誰か。その事実自体は十分に素晴らしかったが、次に気づいたのは彼がまだ服を着たままで、靴まで穿いていたということだった。ということは、これではいい状態で目覚めたとはとてもいえない。さらにこの感じからすると、頭を誰かの膝に乗せているような感触だった。そして胸をその誰かの腿と脚の上に。下半身は硬い床の上にあり、柔らかで贅沢な自分のベッドにいるわけではなさそうだった。最後に、彼は薄ぼんやりした脳裏に何か恐ろしいほどの痛みを覚えた。それは彼の右手首から感じられるようだった。

眠りから覚めて方向感覚を取り戻すにつれて、彼は少しずつ思い出した。彼と彼の下に倒れている男は、KGBから追われるようにしてチュニスの人ごみを駆け抜けのだった。彼とフォン・デム・エーベルバッハ少佐は部下たちと別行動とり、シェルターへ向かった。伯爵の前を走っていた少佐が、立ち止まって振り返った。苛立ったような顔で、まるで伯爵が彼の後を追っていないのではないかと考えたかのように。その瞬間、少佐は崩れ落ちた。伯爵はほとんど願った。なにかにつまずいた?愚かな願いだった。少佐は腰に手を当ててドイツ語で呪詛の言葉を吐きながら立ち上がり、不恰好にふらふらと足を数歩進めた

。それで、単につまずいたよりももっと不吉な何かが起こったととがはっきりわかった。その後のことを伯爵は覚えていない。痛みもなければ、誰かに摑まれたりもしなかった。倒れた記憶もない。気を失ったことすら覚えていなかった。ただ、何の記憶もないのだった。

意識を取り戻したものの、周囲の様子はほとんどわからなかった。ごくありふれた物音、微かな雑音や、電気系統らしき物音以外は、何も聞こえてこない。麝香と、かすかな甘さを含んだ土の匂いがした。好奇心で我慢しきれなくなり、彼は目を開いた。最初に目に入ったものは、茶色の布だけだった。彼は頭を持ち上げた。すぐそばに薄い青色の、汚れて染みのついた壁があった。壁は、彼らが横たわっている茶色い木張りの床につながっていた。彼は寝返りを打ち、壁に寄りかかって気を失ったままのフォン・デム・エーベルバッハ少佐を見上げた。伯爵は、彼の膝の上で気を失っていたのだった。

いい香りがしたわけだ。私は彼の股間に鼻面を突っ込んでいたということか。

いや、この情況でこの言い草は軽薄にも程があるな。伯爵は急いで少佐から視線を引き剥がし、部屋を見回した。部屋は2~4メートル程度の幅で、家具も壁の装飾も何もなかった。屋根の三つある小さな窓から強烈な光が差し込んでいたが、どれも大人の男性が脱出するには小さすぎた。ドアが一つあったが、鍵穴もドアノブもなかった。立ち上がろうとしたときに、初めて右手首の痛みの理由がわかった。手錠をはめられていた。それもひどいものが。醜い金属製の手錠が、頑丈な鉄の輪鎖で床に固定されていた。

立ち上がるのをいったん諦め、彼は相棒に目を向けた。「少佐?」彼は呼びかけた。「フォン・デム・エーベルバッハ少佐…?」返事がなかったので、彼はやや疚しい喜びを感じつつ、付け加えた。「クラウス?」このドイツ人が、伯爵からファーストネームで呼ばれるを嫌がっていることを、伯爵はよく承知していた。それでも反応はなかった。

膝立ちになると、少佐もまた手錠でつながれていることがわかった。伯爵とちがって両手とも繋がれていた。眠っていてさえ、彼は緊張しているように見えた。伯爵は、少佐が倒れた瞬間を思い出した。彼の目が少佐の脇に落ち、そして彼は息を呑んだ。

血だ。少佐のきっちりアイロンの当たったボトムの、右腰が濃い茶色に染まっていた。

少佐は自分が何をしているのかはっきり意識しないままに、少佐のベルトを緩めていた。それからファスナーに手を伸ばす前に、彼は一瞬ためらった。ファスナーを下ろす音は、伯爵の耳にまるでこだまのように響いた。

彼は負傷している!他に選択肢はないんだ!手当てをしなければ!彼は自分自身に厳しく言い聞かせた。

そのはずだよね・・・とても便利な言い訳だ、それって。

だから言い訳じゃないってば!

全く素晴らしい言い訳だよね、エロイカくん。伯爵は少佐の着衣を下ろし、肝心の部分をなるべく見ないようにしながら・・・そっか、ボクサーパンツなんだ・・・その素敵なボクサーパンツはそのままで、とりあえずズボンを下ろした。とにかく、彼は負傷している。なんとか手当てしなきゃ。それは私の義務だろう。そうこうしているうちにこのボクサーパンツがちょっとぐらいずれたって、誰も私を責めやしないさ。そうだろ?

ああ、でも彼には罵倒されちゃうな。もう絶対そう。しかもひどい大声で。撃たれて負傷中であろうがなんであろうが、それは決まっている。

さて、実際その通りなんだけど、でも・・・。彼は今、銃を持ってないしな・・・。

でもそれは今たまたま持っていないだけだ。遅かれ早かれ少佐は銃を取り戻すだろうし、自分が気を失っている隙に伯爵がエーベルバッハ家の秘宝を覗き見したか否かについて少しでも疑惑を抱いた場合、彼が引き金を引くのは確実だった。しかも引くのはたぶん二度、念には念を入れてしっかりととどめを刺すために。ああ、なんてこと!伯爵は誘惑にかられたが、一方で抜かりなく考えた。それにしても、好奇心を満たせるのは事実だけど、標的が気を失っているときの覗き見にどれほどの楽しみがある?完全に機能していてかつ警戒している少佐を覗き見するのは大変だけど、気絶している彼では何の挑戦にもならない。意識のない少佐を丸裸にするのが伯爵の目的だったなら、この数年間にそのチャンスはいくらでもあった。

伯爵はこらえ性のない自分に言い聞かせた。いま本物のイギリス紳士らしく振舞えば、少佐はきっとなんらかの感銘を受けてくれるはず。ボクサーパンツを下ろさないように細心の注意を払おう。それは大事なものをしっかり隠していて、そこにある何かをこっそり覗き見しちゃおうなんてけしからん考えは、ちっともわいてこないはずだ。

しかしながら、伯爵の葛藤は無駄だった。無駄というか、ほとんど無力だった。ボクサーパンツは実用的なグレーで、着用前にはアイロンがかけられていたように見えた。傷はその下にあり、傷口を調べるためには、下に押し下げる必要がありそうだった。

やっぱり脱がせないとだめみたいだね、ドリアン。パンツが血まみれで台無しだよ。。ジェームズ君でも欲しがりそうにないな。

それはそうなんだけど・・・

脱がせちゃえ!脱がせちゃえ!脱がせちゃえ!

ああもう、黙ってな!私たちはもう16歳とかじゃないだろ!こういう原始的な衝動は制御できるはずだよ!そうそう、できるできる!

ちぇっ、つまんないの・・・

伯爵は偉大なる努力を払いつつ、その薄い布を引っ張り降ろそうとする両手を押しとどめた。その代わり、彼は慎重に下着の右側を引き下げ、まだ乾ききっておらずに粘りつく血にから、薄い布をはがそうとした。最初にその縮れた毛が見えたとき、それは光沢のある栗色で、触れられるのを待っているように見えた。伯爵はうめき声を漏らさないように、しっかりと舌を噛んだ。それから下着を必要以上にその方向に引き下ろさないよう、潔く自分を抑制した。実際のところ、自分が何と思慮深くかつ紳士的に振舞っているかと誇りに感じていた。ふくらはぎをブーツで蹴っ飛ばされ、2センチほども飛び上がるまでは。

彼は驚いて悲鳴をあげ、大急ぎでなるべく離れたところまで転がった。少佐が体をよじり、さらに後ろから伯爵を蹴ろうとしていた。手錠のせいで遠くまでは逃げられなかったが、伸ばした手だけを少佐の腹部に残して避けることにより、重いブーツの届かない場所まで逃げることができた。

「貴様、このくそったれの変態の強姦魔の変質者が---!」猛烈な罵倒が始まった。

伯爵はこの状況下で自分を守るためにできる唯一のことをした。首を引っ込めて腕で覆い、手錠をはめられていない方の手で

耳を覆った。足のほうはすでにずきずき痛んだ。そのキックは、角度によっては足を折ったかもしれなかった。なんでこう騾馬みたいに頑固者なんだよの男は!こうして彼は、大音響の絶叫がやや衰えるまで辛抱強く待った。それから、彼は慎重に耳から手を離した。

「よく聞け、このホモの変態-!」

彼は再び彼の手をで耳を覆った。雄叫び、雄叫び、雄叫び・・・私は行儀よく振舞ったんだよ!もう!きみひょっとしてベッドでもこのくらい声が大きいタイプ?だったらヤだな・・・。射撃場で使うようなイヤープロテクターが必要になっちゃうよ。ああ、だめだめ、私の髪の毛と絡まってしまう!うーん...そう、きみにさるぐつわを噛ませればいいんだよね。彼はしばらくその想像で楽しんだ。それから違う妄想が浮かんだ。クラウスの口に何かを押し込んで、この騒音を我慢できるレベルにまで落とせないかな。

舌を鳴らして何かを飲み込む音と、ちょうどいいぐらいのうめき声が一言二言・・・それっていい!すごくいい!

罵詈讒謗が終わりそうなことに気づき、伯爵は再び耳から手を離した。どうやら少佐は、自分が罵り続けている限り伯爵は耳を押さえてやりすごすだけだと気付いたようだ。それ以上罵ってもしょうがなかった。それで伯爵は頭を持ち上げ、少佐を見た。少佐は壁に向かって寝返りをうとうとしていた。ズボンを引き上げようとしたのかもしれなかった。今彼は床に横たわり、横向きになったままで目を閉じていた。額を、汗が薄く覆っていた。

「ああ、」伯爵は息を吐くようにつぶやき、元の位置まで這い戻った。熱い額に手を当てると、緑の目の鋭い視線が彼に突き刺さった。「動かないで、きみは本当にばかだよ。口をきいちゃだめだよ。きみ、気絶してたんだよ!それから申し添えておくと、私は傷を調べていただけだからね。きみのペニスじゃなくってね!」伯爵もまた男性であるとじゅうじゅう承知しているにもかかわらず、少佐は伯爵がそういった直裁な言葉を使うのを本気で嫌がっていた。伯爵はそれをよく知っていて、その単語を十分楽しみながらわざと口にした。

用心深い疑いの目が彼を見あげたが、怒鳴り声は続かなかった。

一方伯爵は、まだ痛む足を撫でながら落ち着くために深呼吸した。「少佐、」彼はずっと柔らかい口調で言い始めた。「きみは負傷している。きみの出血はひどすぎて、そのズボンはもう使い物にならないと思う。その血を落とせたらちょっとした奇跡だよ。出血は止まっていると思うけど、傷口をちゃんとを確認したい。私は完璧に紳士的に振舞うことを誓うし、きみの負傷していないその部分には視線を向けない。だがきみがもう一度私を蹴ってくるつもりなら、後のことは知らないからね。」

神経質な雌馬が、種馬を乗せる前に蹴りを入れるような文句が聞こえたけどね、まあいいよ。

少佐は明らかに不本意そうにぶつぶつ言った。

「少佐?ああもう、きみときたら頑固なイノシシそのものだ。蹴ってこないでくれよ?わかったね!」

でないと、腹いせに乗っかっちゃうかもしれないよ。きみはいつものようにパニックを起こして、まちがいなく目眩をおこすね。そしたらきみはおとなしくなって、私が傷を調べている間じっとしてられるだろ。すると私にはちらっと覗き見のチャンスがあるかもしれないじゃないか!

しっかりと丸まってかすかに痙攣していた体がゆっくりと開き、下着を下ろしやすい体勢になった。身を守るような身動きがなかったので、さっき言ったことがちゃんと理解されたようだった。伯爵は、少佐がまた気を失ったのではないかと確認のために、ちらりと顔を見上げた。緑色の目がまるで鷹の目のように彼を見た。いかなる不正行為も許さんという警告が光っていた。心の中でため息をつき、伯爵はボクサーパンツの左側をそろそろと引き降ろす作業に戻った。手を間違った方角に向けて一センチもさまよわせることなく。そう、そこ!喜ぶべきことに、出血は止まっていた。現時点でこの銃創について言えることは、銃弾は少佐の腰骨をえぐるようにかすめている、ということだけだった。伯爵は背を伸ばし、コートのボタンをはずし始めた。

「きさま、いったいなにをやっとるんだ!」少佐はうなり声をあげ、座りなおそうとした。

そうだね、きみが出血で今すぐ死ぬわけじゃないってわかったから、さーてこれからお楽しみの、すっごくホットなセックスの時間だと思ったんだよ!

と口にすれば、少佐がそれ本気だと受け取ることがわかっていたので、伯爵はだんだん擦り切れていく忍耐をなんとか召喚しつつ、「医療用のウェットティッシュを探してるんだよ。」と穏やかに言った。「こないだの任務の後に、救急用品をシャツの裾に縫い付けておくと役に立つかもと思いついたんだ。」あとイチゴ味のコンドームとかね。「『準備は万全に』ってのが、私のモットーさ。きみ、アスピリンはいるかい?」

「いらんに決まっとる!」猛烈な返事が来た。だがその後、伯爵が医療用のウェットティッシュとを出して小さなパッケージを開封すると、静かな追加の言葉が来た。「すまん。感謝する。」

「どういたしまして、少佐。さあ、これはほんの少し、しみるかもしれないよ。」

彼はウェットティッシュを取り出し、その一部を注意深く使って乾いた血をできる限り拭き去ろうとした。そうすれば残りの未使用の部分で傷口の消毒ができる。少佐はやはり体を硬くしていたものの、伯爵に作業を続けさせた。伯爵が傷口の血をすっかり拭き取ってしまうと、そこはわずかに炎症を起こしていたが、きわめて深刻な状態というわけではなかった。彼はティッシュの最後の湿り気を使って、薄い肉色の傷口の表面から血をぬぐった。彼は一連の作業を血でひどく汚れた肌を清めるために行ったが、同時にそれは言い訳でもあった。愛する人の裸の肉体に、ほんの数秒でも長く触れるための。

そのとき、それは突然現われた。色が瞬いたような気がした。ただ反射的に、伯爵はその部分の血を取り除こうとこすった。

肌が現れた。彼の目にそれが飛び込んだ。

蝶。

伯爵が鋭く息を呑む音に少佐が顔をあげたとき、彼自身は横たわったまま呼吸に集中していて、まだ慌ててはいなかった。 少

佐がふと気づくと、風船野郎が彼の股間を凝視していた・・・、が、いつもの性欲に飢えた「ケダモノみたいにきみを犯してやり

たいよ」の瞳ではなく・・・ただ衝撃を受けた顔で。少佐は伯爵の視線を追った。そんなに重傷なのか?そして彼は凍りついた。

くそっ!

蝶!

くそっ!

彼は蝶のことを忘れていた!

くそっ!くそっ!くそっ!くそっ!

「ええと・・・」伯爵が口を開いた。「少佐・・・ここに...ええと…ここに何かがあるように・・・見える・・・んだけど・・・見てくれ・・・きみ・・・知ってた?・・・ああ…ああ、きみはもちろん知ってるよね、・・・ごめん、馬鹿な質問だったよ・・・うーんと...少佐・・・?で、なぜ?なぜここに・・・?ああ…つまりわたしが言いたいのは・・・、なぜきみはこんなところに・・・ええと・・・えっとああ…これって・・・これってやっぱり・・・私の言ってるのははね、これってまるで・・・でもどうしてきみがこんなものを・・・つまり、どうしてきみがここにこんな・・・」

「蝶の刺青だ。この手癖の悪い馬鹿者め、はっきり言え!」

「うーん・・・ええと、あー、やっぱりそうだよね、そうなんだよね?」

そこには蝶がいた。少佐の腰骨と脚の付け根の間の柔らかな折れ目に、小さな明るいブルーの蝶が、黒と白黒のストライプで縁取りされていた。少佐が膝を立て半脱ぎのズボンをかぶせて、腿の上のその小さな生き物を隠してしまうまで、伯爵はそこから目を離せなかった。そこで初めて、伯爵は視線を少佐の顔に向けることが出来た。少佐は赤面した顔で伯爵をにらみつけた。

蝶?それって全く・・・全く・・・なぜ、いったいぜんたいなぜなんだい?エーベルバッハ家の猪の紋章の方がまだ納得がいく。マグナムでもいい。こののワイヤーロープみたいな男は、それなしでは眠れないだろうから。それか、もし少佐が心底からの愛国者なら、国旗とかNATOのマークとか。しかし、蝶。よりによって、蝶。伯爵は少佐の何かを誤解していたのだろうか?

「念のために、傷口の上に消毒用の覆いを置かせてくれ。」彼はゆっくりと言った。「それからきみの服を元通り着せるから。」

少佐はこめかみを。びくびくさせながらうなずいた。彼は顎の筋肉をむすっと曲げていた。まるでほとばしりる罵倒句を必死で押さえつけているかのように。

伯爵は待った。少佐が体を動かそうとして動かせなかったときに、伯爵はとうとう少佐が上げようとしている足をそっと叩いた。少佐が足を下ろしたので、伯爵は手伝った。消毒用のあて布を動かさないようにボクサーパンツをはかせ、それからズボンを少佐の腰まで引き上げた。蝶が再びちらりと見えた。ほんの少し。それから隠れた。少佐は腰を浮かせて作業に協力したが、何も言わなかった。伯爵は素早くファスナーを引き上げ、ボタンをはめた。それから少佐は壁に背中を預けて座った。頬の赤らみを除けば彼の顔色は悪く、容態が優れないように見えた。。

彼の愛する男は、はっきりと恥ずかしがっていた。だから私はなにも訊ねないよ。なんにもね。伯爵は自分に言い聞かせた。訊きません。訊きたくないんだ。訊かないよ。

彼らはだまったまま座って、次に始まることを待っていた。少佐の部下達が救助に来るかもしれない。もしくは付近にいるはずの伯爵の手下たち。またはその両者。もしかすると、あまり考えたくはないが、・・・昨夜の追っ手。彼らがこのままに捨て置かれるということは考えにくかった。なにしろ西側のエージェントとしての少佐の価値は何物にも代えがたい。KGBであろうが何者であろうが今彼らを監禁している者たちは、遅かれ早かれ少佐から得られる情報のためにやってくるはずだった。

少佐もまた次に何が起こるか考えていたが、無駄な心配はしていなかった。死線をくぐるような任務を数十回もこなせば判ってくることもあるものだ。恐怖心を抱いたままでいれは消される可能性のほうが高い。焦燥に駆られることもまたいい結果をもたらさない。何が起こるにしても、起こる可能性のあることが始まるのだ。ケ・セラ・セラとその他すべての愚かなナンセンス。彼と伯爵にできることは現時点では何もない。ならば現状を受け入れ、しばしの休養を得るほかはない。つぎに事態が動き出したら、生死をかけるような状況下で30時間ぶっ続けの任務にならないとは、誰にも言えない。

不幸なことにこの変態英国人がそばにいることで、少佐は半分眠りながらもう半分で周囲に注意を払いつつ休息を取るのに必要なだけの集中力を全く得られなかった。この憎たらしい野郎はあちこちと体を動かし、指で髪をかきあげ、足で床を打ち、指を鳴らし・・・この愚かな変態を落ち着かせる方法はないのか?

「ええと・・・」レッド・グローリア伯爵はためらいながら、突然言った。「そうじゃないのかい...私が思うに・・・つまり、私はそう聞いたことがあるんだけど...ええと...その...」

「さっさと言わんか!」

「スパイって、簡単に識別できるような印があっちゃだめなんだよね?」

クラウスの胃は縮み上がった。くらっときた。知っとったぞ、おれは!こいつが黙ったままでいられんのはわかっとった!くそったれが!彼は願っていた。愚かにも願っていた。愚かであることは自分でも良く判っていたのだが、それでも願っていた

。伯爵がその話題を持ち出さないことを。少なくともこの任務が完了するまでは。そうすれば少佐にだって心の準備というものが出来る。なにが本当に起こったかというわけではないが・・・不安の感覚が深まった。「ロシア人どもがおれの顔を知らんわけはなかろう。」少佐は冷淡な口調で言った。残念ながらそのとおりだった。

少佐はむしろ伯爵の方こそ蝶みたいなやつだと思ったが、その英国野郎はとりあえず口を開かなかった。少佐はなんとか休息を取ろうとしたが、集中するのはますます難しくなった。奇妙だった。共産主義者に拷問にかけられるというですら、これを見つけられてしまうという不安ほども少佐を苦しめなかった。そしてそれはすでに見つけられてしまったのだ。ここにいるこいつに。見つけたのはたった一人だったが。

だがそれはこのくそったれの伯爵だ。

それでも、たった一人だけ。少佐は常に「二人目が知れば、世界中が知るまではさほどかからない」の法則を信じていたが、エロイカはときおり、ある種のことに関して思いがけないほど名誉を重んじることがあった。 その上、この男は少佐に疎まれずに周囲をうろうろし続けることに絶対的な関心を持っていた。というのも、この男はその三歩歩けば何もかも忘れるようなニワトリ頭の中で、少佐のズボンの中に潜り込むチャンスがまだあるとしつこく考えているようだったから。ということは、これはひょっとすると、もしかすると、たぶん、・・・しさえすればうまくいくのかもしれない。彼自身の取るに足りないとは言いがたいプライドをぐっと押さえ込みさえすれば・・・。

「口外は許さんぞ。」少佐は口調に感情を込めないように細心の注意をこめて命令した。

伯爵は少佐を見つめた。低い、ほぼささやき声ほどの一言が、彼を心底驚かせた。口外?もちろんそんなことできるはずもない!脅しやからかいのネタにすらできないよ。どちらかと言えば、これは慎重に言葉を選べば誘いのきっかけにすらなる。彼らがある親密さを共有できる段階に進み、少佐がこういったことをくつろいで話せるようになるための。なにしろこれは...個人的にすぎた。彼はそれを知っていた。彼はそこまで愚かではなかった。

くそっ! 気障野郎は、黙って彼を見つめていた。まったく気に障る野郎だ!俺に哀願でもさせようってのか?馬鹿げとる!この変態め!、くそったれの倒錯者の...ろくでなし!もちろん、この馬鹿げた変態でくそったれの倒錯者のろくでなしは、いまや少佐をよく理解していて、少佐がこのことをいかなる友人にも知られたくないということをよくわかっていた。もし彼に友人がいたとして。そしてこの馬鹿げた変態でくそったれの倒錯者のろくでなしの目の前で少佐はなすすべもなく屈服しており、両脚をひろげて受け入れ態勢が整えているという体たらくだった。

彼は深く息を吸い、気障野郎の方を見ることなく、重苦しく追加した。「そうしてもらえると有難い。」

伯爵はぽかんと口をあけた。彼は少佐の人となりを知っていた。そう、知っていた。ということは、少佐がそういう風に言うということは、それはつまり、少佐が辞を低くして依頼しているのだった。

「もちろん誰にも言わないよ!」彼は真摯に言った。「決して誰にも!きみは私の言葉を信じてくれていい。私の言葉・・・グローリア伯爵としての私の誓いを。エロイカとしての私の誓いだ。そして私自身の誓いとして・・・。あっ、それから、きみへの愛にかけて、そう誓うよ。」

少佐は、疑わしげに英国人に目をやった。伯爵は不思議なことに茫然としていたが、それでも十分に誠実だった。とはいえ、このおしゃべりがべらべら喋り散らしたとしても、この場合少佐にできる何があったわけでもない。運命を甘受し、最善の結果を期待することだけができることだと少佐は認めた。そして何らかの理由で、彼の胃の中に感じていたしこりが、ほぐれ始めた。伯爵は約束した。彼は名誉を重んじる男だ。非常に奇妙な名誉ではあるが・・・。だが少佐は、彼の言葉を信用している自分に気が付いた。

少佐はうなずいた。感謝の意を込めて。

いくばくかの時が流れた。彼らを監禁している誰かは、単に忙しいのかも知れなかった。もしくは人質に待ちを強い、この後

の運命をあれこれと予測させることで、態度を改めさせようとしているのかもしれなかった。伯爵は次に起こることについて、あまり考えないようにした。代わりに、彼は蝶について考えた。ありとあらゆる色の群れ。時折、彼はノースダウンズで蝶を見かけることがあった。子供の頃にはもっと見たが、今でも時折ひらひら飛んでいる。これほど綺麗で脆弱な、小さな生き物。少年だったころの彼もご多分に漏れず、蝶を捕まえてはその美しさを閉じ込めようしたものだった。だがそのうちひとつが死ぬと、彼はその日ずっと泣いた。蝶を殺したのは自分だと思い知って・・・。

「あれは無事だったか?」少佐が尋ねた。彼は緊張しているようだった。

伯爵はまばたきし、少佐を見上げた。「何の話だい?」彼は困惑して訊ね返した。

少佐の口もとがぴくりと動いた。「刺青だ。服の陰になっていて、おれには見えなかった。弾丸はそこに当たっていたか?」

「ああ、いや。その心配は全くない。銃創はたっぷり3センチは離れてるよ。ただ血まみれになっていただけさ。わたしがそれを拭き取ったんで、見えたんだよ。」

少佐はやはり感情を抑えて相槌を打った。

ということは、それはきみにとって大事なものなんだね、少佐?だってきみはそれを心配してるじゃないか。心配すぎて、もういちど口に出さずにはいられないぐらい。ということは、それは君が酔っ払ってやかんに座っちゃった火傷の痕とはわけがちがうということだ。まあ、見た瞬間わかったけどね。もし君がある朝起きて、刺青のことを何も覚えていなかったら、きみは手術してでもそれを取っちゃうだろうね、少佐?もしかしたら自分で切り取ってしまうかもしれない。

「おれは15歳だった。」少佐は彼自身の声がそう言うのを聞き、ほとんど窒息しそうになった。口に出すつもりはなかった!

それとも言いたかったのだろうか?くそっ、ロシア人どもがここへおれたちを監禁する前に、おれに自白剤を打っていたとしたら、…体調は最悪だが意識は明瞭で、恐怖心はなく、気分が悪いわけでも、神経質になっているわけでも、何かを説明するよう無理に求められているわけでもなかった。

「私は13歳だったな。」伯爵はあっさり応じた。

少佐がまばたきした。「おまえも入れとるのか?いや、見せんでいい!」

「あっ、ごめん。別の意味かと思った。そうだね、私は薔薇とワイヤーロープが絡まった模様の小さいのをひとつ入れたいんだけど、何か特別な・・・それを記念するような祝い事を待ってるんだ。きみは15のときに入れたのかい?それって、ドイツでは合法なの?調べたことはないけど、イギリスでは16歳からが合法だったと思う。もしかして保護者の同意があったとか?」

つまり大事なもののすぐ隣に蝶の入れ墨を入れるのに、父親を連れて行ったとでも?「おれはその歳にしては背が高すぎた。刺青師は年齢を訊いてこなかった。」

刺青師は筋骨たくましい体に刺青を幾つも入れていて、そのうち最も目立つものは朱と金のフェニックスの意匠だった。彼はクラウスの要求を面白そうな顔で聞き入れ、さらには若き青年が大事な部分をハンカチで隠すことにこだわったときに、もっと愉快そうな顔つきになった。だがその男は素晴らしい仕事をやってのけた。

「おれはハンブルグに滞在中だった。学校の旅行で。おれは一人でうろついていて、カラフルなグリフォンを見かけた。ウィンドウを覗き込んだときに、サンプルの絵の中に蝶をみつけた。」

それは、完璧だった。それまでそんなものが必要だと感じたこともなかったのに。決めた、という意識すらなかく、ただ店内に入り、いくらかかるのかと尋ねていた。迷うような価格でもなかった。どこか、健康診断のときですら下着に隠れるような場所、全裸のときですら、自然に下ろした手のひらで隠せるような場所。または、そうできないときですら・・・

「それが見つけられるかもしれない情況のときには、耐水性のカバーを塗って隠していた。だがそれは血液には溶けるようだな。もしくは、その緊急医療用の薬品かのどちらかにだ。」そのカバーはたいてい非常にうまく機能した。それで彼は寄宿舎と初年兵のころの共同シャワーをやりすごすことがでた。それはまた、何が起こるかわからない任務に向かう際にも彼が取ってきた措置だった。ということは、実際にはすべての任務に際した。彼はおそらくほぼ9割9分の時間を、蝶を塗り込めたままで過ごしていた。もしくはさらに長い時間を。それが隠されていることは問題ではなかった。ただそれがそこにあれば。そして彼は常に知っていた。それはそこにあるのだった。

伯爵には、15歳のクラウスが、単なる気まぐれで蝶の刺青を入れるところをどうしても想像できなかった。性格って、そんなに変わるものだろうか。だが15歳のクラウスなら想像することができた。それなら問題ない。15歳のクラウスは、それはそれは愛らしかっただろう。

年齢にしては背が高かったと彼は言った。そう、きっとその通りだ。長身で、背だけでなく、手足もまたひょろ長い、少年。子馬のように不器用で、まだ自信に満ちた鉄のクラウスではないクラウスを、伯爵はしょっちゅう夢見ることがあった。伯爵は十代の少年を性的な対象として見ることはなかったが、もし彼ら二人ともがその年齢のころにクラウスに出会っていれば、真っ逆さまに恋に落ちていただろうことを疑わなかった。

当時の彼の写真を何枚か見つけなきゃね。エーベルバッハ邸の使用人を買収しようか?彼が通っていた学校を調べるのもいいな。きっと卒業アルバムがあるはずだ。

そうだ。それから、それをもとに油絵を依頼するというのはどうだろう?素晴らしいアイデアだ!ガニメデ(美貌ゆえにゼウスの酌人として誘拐されたトロイの王子)みたいなのがいいかな?初初しいクラウスにふさわしい設定を考えてみたが、伯爵にはどう頭をひねってもゼウスの顔に杯を投げつけ、ギリシャ神話の主神に馬乗りになって拳で殴りかかっているガニメデしか想像できなかった。

「それってなにか特殊な種類の蝶なのかい?」彼は尋ねてみた。それは彼の心にうかんだ最大の疑問ではなかったが、最初はそういうことから聞いていけば、打ち解けた話ができるかもしれない。

「ああ。それはHimmelblauer Bläulingという蝶だ。学名はPolyommatus Bellargus。オスだ。英語ではアドニスブルーと呼ぶんじゃないのかな。」少佐は手を下げて、伯爵がそこに刺青があると知っている場所を指で覆った。守るように?無意識のうちに?

ラテン語名まで知っているとは。しかしなぜ、それほど特別なんだろう?「きみ、屋敷で飼ってたりするのかい?」ひょっとして彼の母親に関係する何かでも?彼の母親は、彼がまだ若い頃に亡くなっているはず。それが私が知っているすべてだ。確か15歳になるより以前に。それは彼女に関する特別な何かなのかもしれない。

少佐は肩をすくめた。

めったにないことだが、今会話しているのはエロイカという人格ではなく、ドリアンという人間に戻った伯爵だ感じることが、少佐にはあった。ドリアンは、エロイカよりずっと受け入れやすかった。ドリアンは小麦畑を通過するハリケーンのようにけたたましかったが、彼にとってはは比較的安全な感じがした。ほぼ信頼できるといってもよかった。そんな時には、少佐はほとんど信じてしまいそうになるのだった。もし自分が十分に言葉を選んで話し出せば、このイギリス人は少佐が何を言いたがっているのかを理解するのではないかと。

それは、いまのような状況で可能なのか?わざわざ危ない橋を渡ってみる価値があるのか?余計な一歩を踏み込んでみる価値が?少なくとも、試してみる程度のことなら・・・?

「これが・・・」彼は喉元の詰まったような気のする塊を飲み込み、右太腿の付け根を軽く叩いて言った。「これが、おまえをを愛せない理由だ。」

伯爵は体を起こして座りなおした。「きみ、今何を?なんて・・・ちょっと待ってくれ、今何て言ったんだい?」

伯爵の心臓がばくばくと高鳴った。胸が破裂しそうだった。今少佐は何と言っていた?

少佐は、伯爵の瞳が絶望的にショックを受けているのを横目に見た。今がこれほど深刻な状況でなかったら、これほどみっと

もない事態に自分を追いこんだことを自覚して、笑ってしまいたくなったかもしれなかった。彼は再び、かみ締めるように思い起こした。エーベルバッハ家では成人に達したと伝統的にみなされる17歳の誕生日の日に、父親が彼に伝えた言葉を。

「エーベルバッハの者は、生涯にただ一人のみを愛する。」彼の父は重々しく告げた。

父よ、感謝します。その教えはすでに遅きにすぎました。

伯爵は瞬きをして、指に髪をからめた。ばかばかしいほどにくるくると巻いた、金髪の美しい髪。それから彼は目を細めた。

「きみは恋に落ちたんだ。」と、彼は言った。彼の声にはいくつかもの情感が混ざり合っていた。苦しみ、喪失感、告発、悲しみ、嘆き・・・

少佐は肩をすくめた。それから、伯爵が返事を求めているならばと思い当たり、短く答えた。「ああ。」

「そして、きみは今でも15歳のときに首ったけになった誰かのことが忘れられない、ということだね?」

クラウスは首を横に振った。それから、伯爵が気を取り直して希望を持つ前に急いで付け足した。「15歳で蝶を彫った。彼女と恋に落ちたのは、9歳のときだ。」

少佐は常ならぬ暗さの緑の瞳で、伯爵を見た。彼は疲れて見えた。伯爵はその瞳を見つめ返すことしかできなかった。胸が千々に乱れていたので。

「おれは9歳の時に彼女に出会った。」少佐は事実のみを語る口調で続けた。「彼女はおれより小さかった。だがとにかく、おれは彼女に出会った。彼女はおれに微笑みかけた。それでおれは、彼女に恋したんだ。おれは彼女に心を与え、彼女は去った。それ以来彼女に会ったことがない。」

「ちょっと待って欲しい。きみ今なんて・・・?何歳だったって?」

「9歳だ。」

「ナイン?それって数字の9だよね?ドイツ語のNoのナインじゃないよね?教えてくれないって意味じゃないよね?」

「9歳だ。」

「でも・・・でもさ、ダーリン。それって・・・それって大昔の話じゃないか!数十年!二十年以上、もうすぐ三十年!」

「そうだな。」少佐は静かに単語を返しながら、ゆっくりをうなずいた。

「きみって・・・そんなの無茶だよ・・・それって・・・きみ、フォン・デムエーベルバッハ少佐。きみだって人間なんだよ。きみは・・・きみは白鳥か何かじゃないんだ!」

底深い緑の奥底まで彫りこまれた絶望の瞳が伯爵を見た。「判っとる。」少佐は静かに言った。それから彼は再び肩をすくめた。 「だが、つまりそういうことなんだ。」

「それで、それで昔そんなことがあったというだけの理由で・・・」少佐の目に突然浮かんだ鋭い何かに気付き、伯爵は口からこぼれそうになった続きを飲み込んだ。彼は言葉を選びなおした。「二十年前に出逢った可愛い女の子に義理立てして、きみは私と・・・あきらめるというんだね・・・私たちの・・・・」 彼もまた、かつてない一歩を踏み込んだ。「私たちの、・・・愛を。」

少佐は、伯爵の最後の単語を聞いて目を閉じた。愛・・・こいつはそれをどう知ったのか?もちろん彼は、白鳥やその他の動物がときおりそういう習性を持つような、生涯を通じてたった一人の単独のつがいの相手を持つようなそんな生き物ではなかった。論理的に、彼はそれを理解していた。だがどうしようもなかった。物事はあるようにしかならない。

もし伯爵が望んでいるのが肉体だけの関係であり、お互いの身体をむさぼりあうだけのことならは、ひょっとすると少佐には応じてやることができたかもしれなかった。実のところを言えば、彼は一度か二度、そうすることを考えてみたことすらあった。彼は、このイギリス人が魅力的だと十分に判っていた。どれほどそんな筈はないと自分をごまかそうとしても。出逢ったころ、少佐は伯爵のことを単に腹立たしい男だとしか思わなかったし、少佐が自身に課した独り身でいるという誓いを破らせようと思わせるような者は誰もいなかかった。時がたつにつれ、伯爵に対する少佐の見方は変わってきた。だが同時に、伯爵の感情もまた変わってきたのだった。伯爵はより多くを望むようになったし、そしてまた、いかなる意味に於いても「より多く」は不可能であることを理解しようともしなかった。

やっかいな議論は終えるべきだと判断し、少佐はそうした。床に横たわった。その問題について最後のひとことを口にしたとき、彼の声は自分自身にすら荒れすさんでいるようにきこえた。

「そういうことだ。」

そんなのおかしいよ。伯爵はそう思いながら座り込み、愛する男の顔を見つめた。お話にならない!非常識だ!ばかげてる!

そしてすごく、すっごく・・・少佐らしい・・・。 いったんそうと決めたことには、馬鹿みたいにそれをつらぬくんだ。イノシシみたいに猪突猛進だよ、きみは!またしてもドイツ式かい?戦車のように頑固に・・・、ほんとにきみらしいよ・・・

しかし、KGBがそれに類した組織に囚われている今の情況は、少佐の自己防衛を切り崩すのに最適なタイミングだとはいえなかった。少なくとも伯爵は、今彼が直面している事態を理解していた。それに、少佐はたったいま伯爵を愛せない理由を告げ、この障害さえなければ少佐は彼を愛することができることを認めたのだった!

私はその小さなあばずれについての調べなきゃならないな。名前と、どんな顔なのかと、どこで出会ったのかと。それから、彼女を探し出さなきゃ。彼女は死んでるかもしれない。だったら彼が自分でかけてしまったこの呪文はもう解かなきゃならないわけだ。もしくは、いっそのこと! -結婚してて、幸せ太りで子供が10人とか!だったら彼もいっぺんに目が覚めるよ!

実際のところは、その幸せな結婚生活を送る10人だがそれ以上だかの子持ちの太った母親を見つけて、彼が一生の愛を再確認したりしたら最悪中の最悪だった。

それから彼は、愛する男がの考えがまっとうなのだとようやく認め、あきらめて床に横たわった。床は安らぎの余地もないほどに硬く冷たかった。彼hな目を閉じて、大草原を駆け回っているところを想像した。大きな虫取り網を振り回しながらクラウスを追いかけていた。蝶の羽根を持ったクラウスを。

血にまみれたクラウスのズボンとボクサーパンツの下で、Himmelblauer Bläulingがぴくりと身動きをした。そして、羽根を羽ばたかせた。


* * *

「クラウス・ハインツ。おまえは賢い子だ。ここで待っていなさい。私は20分で戻る。私が用を済ませている間に、もし欲しければキャンディか何かを買って待っていてもいいぞ。」

「はい、父上。ありがとうございます。」クラウスはすぐに返事をしてお辞儀をした。それから彼は、食事を終えたばかりのレストランの屋外テーブルに息子を残して用事を済ませに急ぎ去る父親の後姿を見つめた。暖かい日で、父もいつになく優しかった。彼はめったにないことだが、息子とふたりで親子らしい時間を過ごそうと考えていた。そこで一緒に食事に出掛け、学校のことや、その他もっか興味のあることについて息子に質問し、また彼らの祖先のことや、家系にまつわるさまざまな逸話を彼に語り聞かせた。

食べ物は十分においしかったし、クラウスはその日とても満足だった。彼の父の古い友人であるアクター氏とばったり出会い、父親がクラウスにしばらく一人で待っていられるかと聞いたとき、彼は聞き分けよくうなずいた。彼は一人になったら泣いてしまいような小さい女の子ではなかった。父親は、欲しければキャンディを買ってもよろしいと、1マルクを残してくれた。だが彼はそれを使うつもりはなかった。使うわけがない。彼はお小遣いやお手伝いのお駄賃などはすべて貯めておいて、もし誕生日のプレゼントが別のものだったら、ニュルンベルグ模型の大きな錫めっきの戦車のおもちゃを自分で買う気でいたから。それに、彼はそれほどキャンディが大好きというわけでもなかった。もうデザートにお気に入りのイチゴ味のアイスクリームを食べていたし。

彼はおとなしくテーブルに座って、もうすぐ自分のものになる素敵な戦車のことを考えていた。そのとき、軽い笑い声が聞こえた。レストランの横にある小さな空き地で、白いドレスを着たブロンドの女の子が、レモンいろの蝶を追いかけていた。クラウスはしばらく彼女のしぐさを追い、それから目をそらした。女の子なんかくだらない。戦車の方がずっといい。その戦車の模型は、ねじを巻いて動かすことができた。彼は模型屋がそれを動かしているのを見たことがあった。上部のハッチも開くし、操縦席には小さな兵士の人形まで座っていた。クラウスは、本物の戦車の中に入ったことがあった。父親がまだ軍に在籍している友人を訪ねたときに、クラウスを一緒に連れて行ってくれたのだった。あれは本当に信じられないぐらいすばらしい出来事だった

彼は叫び声を聞きつけ、彼は再び顔をあげた。二人の少年が少女を追いかけていた。彼女はクラウスがいる方向に向かって走ってきた。彼女が顔をお上げた瞬間、おびえた顔がクラウスの目に飛び込んできた。クラウスはレストランと空き地の境目にある低いフェンスを飛び越えて、女の子の方に走った。そしていじめっ子に向かって拳を振るった。

「女の子を殴るな!」彼はそう叫び、殴りつけた。いじめっ子たちはクラウスより年上だった。多分12歳かそこら。だが父親がけんかのやり方をよく教え込んでいてくれたし、すぐに追い散らすことができた。走って逃げるのは、今度はいじめっ子たちの番だった。そしてクラウスは追いかけた。卑怯者が近所の林に逃げ込むまで。結果に満足しながら、かれはテーブルまで意気揚々と戻ってきた。

それから、女の子がクラウスに近寄ってきた。彼女はクラウスより何歳か小さいようだった。彼女の目は夏の空のような青で、クラウスがどぎまぎしてしまうほどの感謝の気持ちが浮かんでいた。

「きみ、は大丈夫だったかい?」クラウスは尋ねた。

彼女は目をぱちくりさせてクラウスを見た。驚いているようだった。

「やつらはもう戻ってこないよ。」と、彼は言った。背中を誇らしげにまっすぐ伸ばしながら。「ぼくがここにいる間はね!

彼女はほんの少しの微笑みを浮かべたが、何も言わなかった。

「ぼくの名前はクラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハだ。ぼくは大きくなったら戦車の司令官になるつもりなんだ。きみの名前は?」

それでも、彼女は答えなかった。

「きみ、田舎に住んでるの?話せないの?名前は?ぼくはクラウスって言うんだ。"彼は、こぶしの親指で胸を指し、再び「クラウス」と繰り返した。

"Klaus? Is that your name?"

ああこの子、外国人なんだ。英語、この響きはたぶんそうだ。どうして英語なんだ - なぜ世界中のみんながドイツ語を話してるわけじゃないんだ?だったらずっと便利なのに。でも、彼女はとてもきれいだった。外国人の女の子にしては。

「Yes」彼は答えた。彼女が、クラウスという名前なのか?と訊いているのを理解して。彼には英語がほとんどわからなかったが、この場合はこれで十分だった。「クラウス」彼はもういちど自分を指し、それから訊いた。「You?」

「Dorian and I've lost my sisters. They dressed me up in Maggie's dress and we were going to play together, all of us. Then I saw the pretty yellow butterfly, and followed it here and now I don't know where I am or where they are!(ドリアンって言うんだ。ぼくは姉さんたちとはぐれちゃったんだ。姉さんたちは僕にマギー姉さんのドレスを着せて遊んでたんだ。そのときレモン色の綺麗な蝶が飛んできたんで、ぼくは追いかけちゃった。今自分がどこにいるのか、姉さんたちがどこにいるのかも全然分からない。)」彼女は興奮しているように見えた。

クラウスは首を横に振った。聞き取れなかった。「Maggie?"」彼おうむ返しに聞いた。その長い外国語の単語の中で、それだけが名前のように思えた。

「Yes. Her dress is very pretty, don't you think? I'm tired now. I want to go home. I'm hungry.(そうだよ。このドレス、すっごく可愛いよね、そうだろ?ねえ、ぼく疲れちゃった。おうちに帰りたいな。おなかもすいちゃったよ。)」

彼女の目が何か言いたげにクラウスを見た。クラウスはその瞳の中で迷子になりそうだった。それから彼女が胸の下を撫でたので、彼はやっと理解した。

「ぼくは1マルクを持ってるんだよ。」彼は誇らしげに言った。おいで!キャンディを買ってあげるよ!」

彼は手を差し出した。マギーは彼を見つめた。それから手を差し出して、クラウスの手を取った。花が咲き誇るような笑顔がこぼれた。ただクラウスのためだけに。クラウスの心臓がどきどきと早鐘を打ち始めた。

青い羽根が、再びふたつの時間のあいだを羽ばたいた。


* * *


ドリアンは目を開いた。優に20年ぶりに、彼はそのこと思い出した。母親と姉妹といっしょだった、ドイツへの旅行。父親である伯爵自身は友人たちとの用事で忙しかった。だから旅行には5人で来たのだった。ドイツの端から端まで、いろんな街や村で足を止めながらの旅。そしてあの日。ふざけ好きの姉たちは、一番下の妹のマギーのドレスで、末っ子の彼をおしゃれに飾り上げた。それから蝶。いじめっこたち。彼を救い、キャンディを買ってくれた黒髪の少年。ドリアンの母は迷子の息子をとうとう見つけた瞬間、あまりの愛らしさに思わず頬を赤らめた。そのときドリアンは感謝をの気持ちを込めて、少年の頬にキスをしていた…。

ドリアンが全く何も知らないところで、誰かがドリアンに永遠の心を約束していた。

彼は何年もの間この出来事を大切に心の中にしまいこんでいたが、その後の両親の離婚とそれにまつわるごたごたの中で、それは心の中から滑り落ちてしまっていたようだった。彼はそれをすっかり忘れていた。忘れていたのだろうか?

彼は鉄のクラウスにほんの少し体を寄せた。それから、指先で少佐の軽く握り締めている拳を軽く、羽根のように軽く、撫でた。少佐の手が誰かの手を受け入れるように開き、滑り込んだドリアンの手をしっかりと握り締めながら、閉じた。

エーベルバッハ邸での最初の出会いのとき、きみをを見た瞬間、きみが私のものだと確信していた。そして今、唯一の恋敵が自分だったなんて。愛しているよ。私のいとしいきみ、これまでよりもさらに。きみの心は私のものだ。きみが自分でそう言ったんだよ。さあ、あと必要なのは、どうやってきみにそれを納得させるかだけだな。それは私たちの運命なんだ。うーん…きみってイチゴ味は好きかな?だったらいいんだけど。

伯爵は少佐に寄り添い、彼の手首に軽いキスを落とした。少佐はぴくりと動いたが、目を覚まさなかった。さあ、おやすみ。私の最愛の少佐。、明日こそきみをつかまえるよ。心配しないで。よくわかっているから。きみは蝶だ。わたしは決して君を傷つけないよ。

そしてクラウスの腰骨の横の小さな蝶、少年の青い瞳のように明るい青の蝶が、最後にその羽根をゆっくりと横たえた。






作者から:
私は、二人が少年時代に出会っていたらどうなっていただろうと夢想するのをやめられません。そしてこのお話はそういうところから自然に生まれました。それから、クラウスがドリアンの愛を拒否する悲喜劇も書きたかった。だって彼はもうとっくにドリアンと恋に落ちていたわけだし・・・


訳者から:「とにかく伯爵を幸せにしてあげようキャンペーン」にぴったりなフィクションでした。そう思いませんか?むふふー