このサイトでは、「エロイカより愛をこめて(From Eroica with Love)」を題材とした、英語での厖大な二次創作群を翻訳しています。サイト管理者には原作者の著作権を侵害する意図は全く無く、またこのサイトにより金銭的な利益を享受するものでもありません。私が享受するのは、Guilty Pleasure - 疚しい楽しみ-だけです。「エ ロイカより愛をこめて」は青池保子氏による漫画作品であり、著作権は青池氏に帰属します。私たちファンはおのおのが、登場人物たちが自分のものだったらいいなと夢想 していますが、残念ながらそうではありません。ただ美しい夢をお借りしているのみです。

2011/11/02

日付の変わるころに

  
  
※とにかく伯爵を幸せにしてあげようキャンペーン絶賛開催中
※来年までぬくめておこうかと思いましたが、やっぱ放出します。
※絵柄的には皇帝円舞曲のころを想定
※わたしには珍しく、かなり姫伯爵です!こういうのも楽しい!











さらさらと砂の流れるような音で目が覚めた。不快な音ではなかった。どこかで聞いたような、懐かしいような、いつまでも聞いていたいような微かな響き。しかし、何の音だ。隣にいる誰かが身じろぎをすると、その音が聞こえてくるようだった。隣?まぶたを開くと、毛布の下から見間違えようのない豪勢な黄金の巻き毛がはみ出しているのが見えた。見間違えようのない金髪…、その持ち主は…持ち主は…

毛布をはいで、がばっと上半身をおこした。まちがいない、ここはおれの部屋だ。

なぜおれの部屋のおれのベッドの上で、おれの隣にこいつがいる。

毛布の下から、震える小声が聞こえた。

「目が覚めたのかい? 昨夜のきみは…、思ってもみなかった。こんなのって初めてだ…。」

なにがっ!?なにが初めてなんだっ!?おれがなにをした?…というか、おれはなにをされた???

疑問と驚愕と激怒のあまり体の震えを止められず、がちがちと歯を鳴らしながら毛布の下のこんもりとした小山を見つめていると、小山がもぞもぞとうごき、金髪のかたまりがするりと優雅に頭を出した。間違いなく、伯爵だった。目元を薄くばら色に染め、けぶるような瞳でおれを見上げて、満ち足りたように甘い、だが消え入りそうな声でおれを呼んだ。

「クラウス…」

背筋がぞくりとした。

ファーストネームで呼ばれるのは初めてだった。というより、おれをファーストネームで呼ぶのは今では親父しかいない。

伯爵はそのまま毛布の中からおれを見上げていたが、激昂にかられたおれの怒声が響きわたる直前にさっと顔色を変え て、あろうことか双瞳にみるみる涙を浮かべ始めた。

「やっぱり怒っているんだね…。わかったよ。約束したとおり、二度ときみの前には現れないよ。」

そう言うなり、盛り上がった涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。あっけに取られたおれが身動きひとつできずにいるうちに、伯爵は毛布の中に再びもぐりこんで体を丸めた。激しい嗚咽が始まった。もうなにがなにやら全くさっぱり訳がわからず、おれはもう一度周りを見回した。

おれはおれだ。まちがいない。これは伯爵だ。まちがいない。ここはおれの部屋だ。まちがいない。ボン市内に買ったおれの部屋。どっさりいる使用人やら、育ての親じみた執事にも知られずに、おれがおれでいられる唯一の場所。生まれたときから使用人のいる生活に違いはないとはいえ、おれは親父やその上の世代とはやはり訳が違う。おれは一人になりたい。おれには私的な空間が必要だ。 サッカーで贔屓のチームが負ければ悪態のひとつもつきたくなるし、おれのひそかな趣味である1/35スケールWWⅡ陸上兵器プラモとジオラマの自作完成品を格納する部屋も必要だった。この趣味は誰にも知られたくない。

だからこの家には誰も入れたことがないのだ。そこへ無断でずかずか入り込んで来やがって。こいつは隣のジオラマ部屋にも入ったに違いない。ああっ!おれの大事なコレクションを見回して、子供じみた趣味を鼻で笑ったに決まっとる。許せん。目に物見せてくれる。今すぐにだ。目に物…、今…、ああ、うう…、その、つまり、どうにかして。ええい、くそっ。

いろいろ考えて時間稼ぎをしてみても、伯爵の嗚咽は止まなかった。覚悟を決めて、声を掛けた。

「おい、泥棒。」

嗚咽をこらえようとしたらしかった。断続的にしゃくりあげる声と鼻をすする音だけが聞こえてきた。

「なんだい、少佐?」

おれの呼び方が元に戻っていたが、伯爵が毛布から顔を出す気配はなかった。

「顔を出せ。」

「…できないよ。」

「なんでだ。」

「ゆうべきみの前であんな姿を見せたのに、いまさらどんな顔をすればいいかわからないからさ…。」

なにがあった。おれはなにをしたんだ。

時折しゃくりあげる毛布の塊を呆然と見つめながら、おれは必死に記憶をたどった。



* * *



任務は終わった。それは確実だ。俺は日付が変わるころに帰ってきた。それも確かだ。汚い仕事の嫌な後味を忘れたくて、居間で突っ立ったまま、きつい酒を何杯もあおった。すぐに眠るつもりだった。明日も明後日も休みだった。有休が溜まりすぎて人事部から嫌味を言われていたし、実際すこし息をつきたかった。いくらおれでも、他人の息の根を止める作業を平気でいくつもこなしているわけではない。

この48時間以内に手掛けた三件の殺人と、そこへ至るまでの胸糞の悪くなるような拷問を思い出すと、士官学校を次席で出てまっとうな軍人としてキャリアを開始したはずの自分が何をしているのか自分でもわからなくなり、酔いはあっという間にまわった。風呂も着替えも面倒になり、寝室で外出着を脱ぎ捨ててそのままベッドにもぐりこもうとした。

泥酔はしていなかったはずなのに、記憶はそこまでしかない。

ぐっすり眠った。おれに殺られたやつらが恨みがましく夢枕に立つかと思っていたが、それもなかった。夢ひとつ見なかった。

目が覚めたらこいつが横にいて、訳のわからんままに泣きじゃくっていやがるというわけだ。なんなんだ、これは。




* * *



「きみは酔っていた。」強引に毛布から引きずり出そうとすると、伯爵は頑強に抵抗した。無理強いをするとなにか別のことを強いているような格好になり、おれは慌てて手を離した。伯爵は毛布にもぐったまま話し始めた。

「私はきみにちょっとしたいたずらを仕掛けようとして、この家に忍び込んでいた。きみが帰ってきたのはそのときだ。私が逃げ込んだのは寝室だった。窓から逃げようかなとも思ったけれど、久しぶりにきみの顔を見たかった。それでそこの・・・」

伯爵は腕だけを毛布から出して、窓際の椅子を指した。

「そこの椅子に座ってきみを待った。きみはものすごく凶悪な顔で寝室に入ってきた。暗いままだったから、多分私に気づかなかったんだろうと思う。ベッドの脇で気前よくぽんぽん服を脱いで、毛布をめくったところで、やっと私に気づいた。」

そのあたりからの記憶がなかった。

「きみは人が変わったような顔つきだった。獣みたいだった。ベッドを回り込んで私のところまで来ると、いきなり私を殴りつけたんだ。顔じゃないんだ。どこを殴られたのかよくわからない。多分頭と首の付け根のあたりじゃないかな。逃げる暇もなかった。私は一瞬で気を失った。」

まずいな。おれは少々不安になった。おれはちゃんと手加減をしただろうか。していなければ後遺症が残ってもおかしくない。

「気が付いたらベッドに寝かされていて、きみが私に馬乗りになっていた。ネクタイで手首を縛られて、ベッドに繋がれていた。きみの白目が光っていて、すごく怖かったんだ。軽口なんかたたける雰囲気じゃなかった。何しにきたと聞かれて正直に答えたら、すぐにひどい平手打ちを食らった。きみはぶつぶつ言っていた。気に入らんとか、生意気だとか。それから言った。『して欲しいのか。』そして私の服をびりびりに引き裂いた。」

おれが!

自分が蒼白になるのがわかった。そっと首を伸ばし、ベッドの周りの床をのぞいてみた。こちら側の床におれの脱ぎ捨てた仕事着と、反対側の床にずたずたになったエロイカのひらひら服の残骸らしきものが落ちていた。伯爵のジーンズは脱ぎ捨てられているだけで無事だった。おれはそこまで 怪力モンスターには化けなかったらしい。当然というべきか、やつの下着もそこに落ちていた。それからぎくりとし、自分の格好を確認した。シャツもアンダーパンツも身に着けていた。胸をなでおろした。

「それから…、ああ、言えない…。」

「言わんでいい。」

おれは蒼白なまま伯爵を制止した。落ち着けおれ。どうやらおれは泥酔して、先祖に顔向けできんようなことをしでかしたらしい。おれの酒癖がそんなに悪かったとは。頭をかきむしりたくなった。

「違うんだ、少佐。」

伯爵はぽつりと言った。そして、毛布から顔を出した。

「きみは私に無理強いなんてしなかった。欲しがったのは私なんだ。」

伯爵は毛布から出て、体を起こした。ベッドの上に座りなおし、涙で赤い目の上に長いまつげを伏し目がちに落として、顔を上げないまま話を続けた。

「きみは片手で私の首を絞めた。『欲しけりゃやってやる。だがその後二度と顔を見せるなよ。』言いながら、もう片方の手で私の体に火をつけた。私は抵抗できなかった。『いいか、二度と現れんと約束できるなら続けてやる。できんというなら今すぐ帰れ。どっちにするかはお前の自由だ。とっとと選べ。』そのときには、私はもう…すっかりおかしくなっていたんだ。きみが欲しくてたまらなかった。続けてくれって、やめないでくれって哀願した。きみは首を絞めていた片手を緩めて、もう一度念を押 した。『二度と姿を見せんと誓うか?』私は震えながらうなずいた。そしたらきみはにやにや笑って、手首の縛めをほどいてくれた。それからきみにめちゃくちゃにされた。」

そこまで聞き終えても、正直言って想像した最低最悪の事態とほとんどあまり状況は変わらなかった。というか、なんというか状況はもっと悪いような気もした。何がどう悪いのか、あまり深く考えたくもなかった。めまいがした。

そのおれは本当におれか。つまらん約束を口実になにをしとるんだ。

「約束は約束なんだよね?」

伯爵がおれと目をあわさないようにしながら尋ねてきた。

おれはそんな約束は知らん。だがこいつがそう言うなら、約束は約束なんだろう。

「ああ、そうだな。」

おれは茫然としたまま、あっさりそううなずいた。伯爵がぴたりと動きを止めた。沈黙がおりた。沈黙が不自然なほどの長さになったころに、やっとおれは気が付いた。

二度と姿を見せないとはどういう意味だ。二度とおれの部屋に忍び込まんという意味とは違うのか。

しまったと思うのが遅すぎた。おれとこいつで、約束とやらの中身の解釈が全くかけ離れているらしい。ここはおれの私的な場所だ。二度と勝手に入るなよ。おれが言いたいのはそういうことだ。なにしろジオラマ部屋もあるしな。その奥の書斎には真面目な軍事評論だけではなく、10代のころから購読しているサッカー雑誌の貴重なバックナンバーが本棚の端から端までぎっちりだ。

おれはそんなことは言っとらんぞ、エロイカ。二度と会わんとまでは言っとらん。おれは視線だけを動かして、隣の金髪の様子を窺った。伯爵は黙って背筋を伸ばしたまま、目をいっぱいに見開いて静かに涙だけを流していた。腹が立つほど綺麗な横顔だった。体で支払われた約束を、黙って遵守するつもりのようだった。

舌がこわばって、沈黙を破れなかった。破ったのは伯爵の方だった。

「…シャワーを使っていいかな。」

おれは清潔好きだ。おれ個人がというより、ドイツ人は清潔を愛する国民なのだ。うなずいて、英国の変態貴族に最初で最後のシャワーを許可してやった。

「向こうをむいてくれないか、少佐。私はなにも身に着けていないんだ。」

おれはどぎまぎして目をそむけた。伯爵は服を拾い上げてバスルームへ向かった。水音と、その後の物音とドライヤーの音と、身支度の衣擦れの音が聞こえてくる長い間、おれは横たわって放心したように天井を見つめていた。煙草に火をつける気にもなれなかった。

バスルームのドアが開き、ジーンズをだけを身に着けた裸足の伯爵が姿を現した。上半身には何も着ていなかった。伯爵は歩み寄ってベッドの脇でかがみこみ、おれが昨夜引き裂いたという布切れを拾い上げて、何か筒のようなものが入っている屑籠に投げ入れた。

おれはクローゼットを指差して、一枚選んで着るように指示した。

今度は落ち着いて眺めることができた。長い手足、細い腰と手首、無駄のない筋肉の付いた肩と背中。細すぎない腕が見た目よりも強靭なことを、おれは知っている。

伯爵はおれの仕事着の中から真っ白でごくまっとうなシャツを一枚選び出し、おれに背を向けたまま素肌に羽織った。おれならば絶対にやらない着方だ。前のボタンをどこまで掛けたかは、振り返ってみるまでわからない。カフを折って裏側からボタンを留めた。ほっそりした手首にそれはぴたりと合った。ジーンズのファスナーを開ける音がした。裾を細いジーンズに入れると、腰周りが余っておれの服ではないようなシルエットになった。おれの普通の白いシャツが、やつが着ると大きさに余裕があるせいでゆったりとしたドレスシャツのように優雅だった。ファスナーが上がった。やつは無言のままに身支度をした。ベルトの金具が鳴った。まだ少し湿り気の残る髪を指で梳くと、長い首筋が見えた。折ったせいで短めになった袖口から、二重の細い金の鎖がのぞいていた。さっきさらさらと砂の流れるような音がしていたのは、これか。

おれはエロイカが身支度を終えるのを、ベッドに身を横たえたまま、舐めるような目付きで最初から最後までみつめていた。やつは気づいているのか、いないのか。体の芯がじりじりと熱くなってゆくようだった。喉がひりついた。自分の動悸がはっきりと聴こえた。おれが昨夜この体を自由にしたというのか。おれに正気やら良心やら罪悪感やらがあるとすれば、それはよほど無駄に頑丈であるらしい。本当に全く、なにひとつ覚えていなかった。

伯爵は振り返った。上から二つ目のボタンまで掛けていた。妥当だ。

「じゃあ行くよ。」

泣きはらした赤い目をこちらに向けないようにして、伯爵はそう言った。おれはその姿を見つめながら、何をどう言うべきか考えあぐねた挙句に、つまらん引き止め方をした。

「もう昼過ぎだ。何か食っていけ。」

エロイカは動きを止めたまま長い間立ち尽くしていた。それから、振り返らずに尋ねた。

「いいのかい?」

「貴様のように見るからに怪しいやつがそんな赤い目で俺の部屋から出て行くのを、善良なご近所に見られたらかなわん。日が暮れるまではこ こにいろ。」

伯爵は振り返った。驚くほど真摯な顔つきで、おれを見つめていた。

おれは目を逸らした。



* * *



昼食には遅すぎ、夕食には早すぎる中途半端な時間だった。おれがこんな時間まで寝坊をすることはめったにない。シャワーを終えると、腹の皮が背中まで付きそうなほど空腹になった。冷蔵庫にソーセージ入りのアイントプフが鍋ごとごっそり残っていた。数日前に煮込みの火を切ったところで急な知らせが入り、鍋を冷蔵庫につっこんで、そのまま空港へ直行したことを思い出した。イモは別に茹でた。ザワークラウトは酸っぱくなりすぎていたが、おれはむしろこのくらいの方が好きだ。ビールはケストリッツァー・シュヴァルツの買い置きが大量にあった。日の高いうちから飲むにはちょうどいい味だろう。

「食わんのか?」

妙な顔でおれの顔を見たままの伯爵を一瞥して、おれは尋ねた。

「これって、きみが?」

「屋敷の厨房は料理人の縄張りだからな。ここにいる間は外食はほとんどせん。自分で食うものを自分で作るのは、それなりにいい気晴らしだ。」

伯爵はため息をついた。

「私はきみのことを知らなさすぎたな。」

フォークを手に取り、小鳥がついばむような量を口に運んだ。おれは空腹に任せてがつがつ食いながら、もう一度尋ねた。

「野戦食は口に合わんか?」

伯爵は無理したように笑った。「すごく、おいしいと思うよ。でも正直なところ、食欲がなくて味が分からないんだ。それよりきみの食べっぷりを見ているほうが楽しいな。」

そう言いながら、喉がひくひく動いていた。泣き出しそうなのを我慢していた。おれはフォークを皿に放り出し、頬杖をついて目をそらせた。

「気に入らんな。」

「なにが?」

息を吐いた。「なんでもない。…ガキのころは、食卓に肘なんぞ付いたら親父にぶっとばされたな。頬杖に至ってはもってのほかだ。」

「食事作法に限らず、きみの挙措はとても男性的に優雅だよ。今まで見ていて飽きなかったな。」そう言いながら、伯爵はフォークを持ち直し、絵にでもしたいような優美な手つきで無粋なドイツ料理を口に運び始めた。過分な褒め言葉のお返しに、おれは頬杖を付いたままその食事の様子をじっくりと眺めてやった。咀嚼すら上品な野郎だ。

「少佐。」

「なんだ。」

伯爵が皿に目を落としたままおれに尋ねてきた。

「夜、少し遅くまでここにいていいかな。きみに言わなきゃならないことがあるんだ。」

「今言え。」

「だめなんだ。後で言うよ。出て行けというならすぐに出て行くから。」

「…好きにしろ。」

おれは食事に戻った。あとは二人とも黙ったままイモと野菜とソーセージを口に運んだ。空気が張り詰めていた。




* * *



食事の後片付けをさせようとしたら、このお貴族様ときたら皿を洗ったことがないと言う。おもしろいからやらせてみた。泥棒とも思えん不器用な手つきで、皿を四枚と大鍋とグラスふたつを危なっかしく洗うのに半時間以上かかった。おれはテーブルに頬杖をつき、食後の煙草をふかしながらじっくりそれを眺めていた。からかってやろうかとも思ったが、手が滑って食器を割られてもかなわん。めしを食い、皿を洗っただけで夕方になりそうだった。ベルリンの今日の日没は18:40だ。ではここボンでは7時ぐらいか。

間が持たんな。居間のテレビをつけて、今日の予定を調べた。見たい番組が見つかった。

「おれは今からテレビを見る。サッカーがあるからな。その後はモントリオールでのノルディックスキー中継だ。」

「きみもテレビなんか見るんだ。不思議な気がするな。」皿洗いを終えて居間に来た伯爵は、面白そうにおれを見た。

「ニュースとスポーツしか見んな。おまえはどうだ?」

「ほとんど見ないね。でもスキー競技は時々見るかな。滑るのは自分でも好きだから。」

こいつがプロ選手なみに滑れることを思い出した。特にジャンプは、おれの技量では全く太刀打ちできない。おれはこいつに関するいろんな断片を知っている。たぶんこいつもおれの断片を少しづつ知っているのだろう。だが知らない側面はきっとまだ まだたくさんある。お互いに。

「座れ。少し話をしよう。」

「サッカーの試合が始まるんじゃないのかい?ルールを教えてくれよ。全く知らないんだ。」

伯爵はさらりと話をかわした。試合が始まった。話す気がないならそれでもいい。おれはケストリッツァー・シュヴァルツをもう2本冷蔵庫から取り出した。屋敷ではラッパ飲みなどしたことがないが、この部屋ではときどきそうする。とくにサッカー観戦のときには。伯爵の顔が、おれがそんな飲み方をするのかと驚愕しているのが愉快だった。そして伯爵がビール瓶におそるおそるそのまま口をつける様子は、笑いたくなるほど似つかわしくなかった。

伯爵は本当にサッカーのルールを知らなかった。おれはこまごまと教えてやった。試合は、おれの贔屓のチームの快勝だった。日が暮れた。

モントリオールからの中継が始まった。今年は豪雪で、この時期にしては十分すぎる雪が残っているらしい。自分が好きなスポーツだと言うだけあって、伯爵は意外なほど熱心に観戦し始めた。おれに色目を使わない伯爵は好ましかった。控えめで、話のしやすい、感じのいい友人とさえ言えただろう。だがそれだけだとしたら、これほどこいつのことが気にかかっただろうか。

スキー中継を見ているうちに夜が更け、また腹が減ってきた。テレビを見ながら食えるものを手早く用意した。ライ麦の硬いパンを切り、ハムとチーズとトマトと玉ねぎの薄切りと、しなびた野菜をはさんだ。ビールで腹が膨れすぎたので、白ワインを開けることにした。伯爵は、やはり目を丸くしてみていた。

「すごいな。いろいろ出てくるんだ。」

「食い物の買い置きはこれで終わりだ。明日は買出しに行くか、屋敷で食うかだな。」

明日。今日のことではない話。伯爵の喉がまたひくついた。くそっ。見てられん。おれは無理に口を開いた。

「スキーはどこで習ったんだ?」

伯爵はワインで喉を湿し、声の調子を整えてから答えた。「スイスで。別荘があるんだ。子供のときからよく筋がいいって褒められたよ。」

「おまえのスキーの腕はたいしたもんだな。」

伯爵はまんざらでもなさそうな笑顔を見せた。

「とくに記録がよかったのはジャンプなんだ。大学に入る前に、もう少しでオリンピック強化選手に選ばれそうになったんだよ。私のやることに反対したことのない父が、大声を出したのを見たのはあれが最初で最後だね。うちには爵位継承者はおまえひとりだって怒鳴られたよ。ほんとのところ、ジャンプよりアルペン競技の方がずっと怪我は多いんだけどね。でも父は書斎の人でスキーなんかしなかったから。狩りや乗馬だってあんまりやらない人だったしな。」

伯爵が大学時代に父親を亡くし、未成年のうちに爵位を継いだことは知っていた。本人から聞いたのか、情報部のファイルで読んだのかは忘れた。

「スキーは今でも好きだな。スピード、スリル、一瞬の判断、どれもが私の本職と似ているからだろうね。きみはスキーは?」

「クロスカントリーを少々な。軍の訓練でも成績はいい方だった。」

正確には陸軍ではなく、スパイとしての訓練だった。かつての東側に侵入し、脱出するのに、山岳地帯での動き方を徹底的に叩き込まれたからだ。訓練は手ごわく苛酷で、愉快な体験だったとはどう取り繕っても言えないが、積雪の深い山岳を自由に動ける手段を学べたことは任務以外の面でも悪くなかった。以来おれは時折、冬山の別荘に一人で籠もるときなどに、山中の単独行を楽しむことがある。

「クロスカントリーは私も好きだよ。競技ではなくて、景色を楽しむようなのがいいな。雪山は美しい。イングランドにはめったにない景色だ。」

「森の木々の間を縫って滑るのは悪くない気晴らしだな。空気もいい。」

一度いっしょに滑りに行こうぜ。おれはうっかり軽口を叩きそうになり、やめた。きっと泣かれる。言葉を飲み込んだおれを、伯爵は真面目な顔で見つめた。

「きみは『気晴らし』って言葉をよく使うよね。仕事を重荷に感じることもあるのかい?」

「何が言いたい。」

「なんだかね、きみは仕事が趣味なのかと思ってた。そしたら結構いろいろ…。料理をしたり、サッカーを見たり、スキーをしたり。意外だったな。それとね。」

伯爵は居間のローテーブルの上に出しっぱなしのビーフィーターを指差した。

「ゆうべ、水みたいにごくごく飲んでたよ。そういう風に飲むもんじゃないよ、それ。」

競技がすべて終了し、スキー中継は表彰式に切り替わっていた。もうすぐ日付が変わる。おれが昨日帰宅したのもこの時間だ。思い出したくもない仕事の記憶が、ざらついた感触とともに脳裏に蘇った。

「毎日ご機嫌で帰れる仕事ってわけじゃない。」

「知ってる。でも任務は義務なんだろ。」

「そういうことだ。」

俺の手のひらは血に染まっている。こいつの知らないところで。親父の言うとおりに、または周囲の思うままに、そして自分でも望むとおりに軍人になった。親父と同じ戦車隊に配属された。いくらもしないうちに、自分の性格が決定的に集団行動向きではないことに気が付いた。そんなことはギムナジウムでも士官学校でも分かっていたはずなのだが。しばらくしてNATO出向の打診を受けた。諜報畑だという。おれは親父にも報告しないままにその転属の話を受けた。そのまま水が合いすぎて、今では世界中の諜報機関に鉄のクラウスの二の名でファイルされているというわけだ。またはイモクラウス、万年少佐と。

そしてこいつはエロイカだ。国際手配中の美術窃盗犯。鉄のクラウスの相棒、あるいは綺麗な夜の玩具。諜報ファイルの内容には、真実とそうでないものがガラクタのように混ざり合っている。あまりに雑多すぎて、なにが真実なのか本人にもよく分からない。まるでおれ自身の心の内のようだ。

「でも、いくらきみが頑丈でも、そういう風に飲んじゃだめだよ。」

「毎日は飲んどらん。」

「煙草は毎日吸ってるだろ。減らして欲しいな。体に悪いよ。」

「うるさい。」

「ずっと言いたかったんだよ。今まで言わなかっただけさ。」

「なんで今言うんだ。」

「きみは心まで冷たい鉄でできてるのかな。」

「もう二度と会うこともないからか?」

「…私が恋に落ちた男は最後までとことん残酷な冷血漢だ。きみになんか出会わなければ良かった。」

「おれだってそう思っとる。」

泣くかとおもったが泣かなかった。伯爵は傲然とおれをにらみつけた。おれはやはり泣いているこいつよりも、怒り狂っているこいつの方が好きだった。

時計が鳴り、長針も短針も十二を過ぎた。四月二日になった。伯爵の目からふっと怒りが消えた。諦めたように息をついてソファを降り、俺の前にひざまづいた。

「日付が変わったから、いたずらはおしまいにするよ、少佐。きみが私をぶん殴ってすべてが帳消しになるんならいいんだけど、それは虫の良すぎる願いなんだろうな。」

おれは黙って伯爵を見下ろした。

「ほんの冗談のつもりだった。きみはびっくりするくらい簡単に、私の嘘に引っかかった。私は引っ込みが付かなくなってしまったんだ。」伯爵は静かに続けた。「きみに引き止められなければ、私は本当にここを出て行かなきゃならなくなる。そしてたらもう、君には会えないのかな。ベッドでそう考えたら、泣き真似をしていたつもりが、本当に涙が止まらなくなった。」

「…そうまでしておれに嫌がらせをしたかったのか?」

「これは賭けだったのさ。きみを手に入れるためなら、どんな狡い手だって試してみようと思ったんだ。ここにいる間に、あらゆる手管を尽くして君を誘惑しようと思っていた。でも、できなかった。」

その通りだった。今日のこいつがいつものように不埒で小癪で目障りだったら、おれはとっくに我慢ならなくなって早々にこいつを叩き出していただろう。

「朝、シャワーを浴びながら考えていた。私の心も体もきみのものだ。私が何もかも差し出して、それでもきみは受け取らないというのなら、これ以上きみにまとわり付いてもしょうがない。きみのシャツを身に着けながら、自分が仕掛けた分の悪すぎる賭けの成り行きに、心が張り裂けそうになった。」

なんでこいつはそんな面倒で効率の悪いやり方でおれに近寄ろうとするんだ。…おれが近寄らせないからだな。間違いない。

「きみのシャツを借りたときに、ベッドから見つめてられているのは知っていたよ。憎しみや軽蔑の視線でなければいいなと考えていた。きみに引き止められた瞬間、生まれてきてよかったと思ったんだ。賭けに勝てるのかもとか、そういうことは少しも思いつかなかった。ただ生まれてきて、きみに出会えてよかったと思った。そんな風に思えた瞬間は、クラウス、きみにはあるかい?」

やつはもう一度おれをファーストネームで呼んだ。おれは目を閉じた。おれの負けだった。任務だ、義務だと言い訳をしながら、血まみれの砂を口いっぱいに噛み締めるような気分で偽りと騙し合いと人殺しの仕事を済ませ、泥酔して一眠りした翌朝に目を覚ました瞬間に、目に入ったのがなんとも豪勢な黄金の巻き毛だった。おれは生きててよかったなと、その瞬間思ったからだった。手の届く距離にこんな美しいものがある。そしてそれは、おれが手を伸ばすのを待っている。手のひらの汚い血が洗っても落ちないようなおれでも、生まれてきたのが悪くないと思える瞬間が確かにあった。

目を開けて手を伸ばした。細い金鎖の揺れる手首を掴み、そのまま引き寄せた。その身体の確かな重みと温かみを確かめるように、おれの身体の下に引きずり込み、押さえつけた。思う存分唇を味わった後、言うべきことは言っとかんとなと、唇を離した。

「いつ白状するのかと思っとったぞ。寝室の屑籠の中にスプレー缶が捨ててあるな。あれはおまえ愛用の睡眠ガスだろう。おれが大昔に一度引っ掛かったやつだ。」

「知っていた?」

「とっくに知っとったさ。おまえ、おれの職業を知らんのか。」

「…そうだよね。」

舌の届くような距離に顔を寄せたまま、おれは続けた。

「素人が厚かましくも本職のスパイを騙そうなんぞと考えやがって。おれは泥酔した上に睡眠ガスをかがされて、前後不覚に昼過ぎまで眠りこんどっただけだな。そうだろ。」

「…うん。怒ってるかい?」

伯爵はおれの下唇を齧りながら、うっとりと半目を閉じて尋ねた。

「妙な約束は無効だな。もとになった事実がないんだからな。」

「その事実とやらを、いまから作ってもらえるのかな。約束の方は無しで。」

「まずはその減らん口をふさいでやる。」

もう一度、唇をむさぼった。それから、ふとを思いついて顔をあげ、伯爵の頬を軽くはたいた。

「おまえ、そういうのが趣味か。」

「なんのこと?」

「ベッドでの大嘘だ。おれに縛り上げられて、平手打ちを食ったり、首を絞められたりしながら、ひどい扱われ方をされたいのか。」

「んーと、えーと、時々ならいいけど…。」

「もう遅い。おれの箍が外れた。今夜はおれの好きなようにやる。」

おれは伯爵のシャツの前を引きちぎった。というか、おれの服だ。袖を抜かずにそのまま服をめくり、両手首を合わせてきつく巻きつけた。簡単にははずせんぞ。スパイの教科書にも載っとる拘束法だ。

「いいけど、あんまりひどいと部下の皆さんにきみのジオラマ部屋のことをばらしちゃうよ。」

目から火が出た。こいつはとことん口が減らん。なんでおれはこんなたちの悪いやつに惚れたんだ。

ソファから立ち上がり、伯爵を肩に担ぎ上げて寝室へ向かった。顔の横にきたジーンズの尻をぺしぺし叩きながら、おれは宣言した。

「いつまでその減らず口が叩けるか、よく調べ上げてやるぜ。」

おれは寝室のドアを閉め、金髪の巻き毛の減らず口の変態の、小ずるくて不器用で優美で上品で綺麗で泣き虫で怒りん坊で小癪で気位の高い、面倒なおれの恋人をベッドの上へ放り出した。


END

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