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Chapter Ten
All Good Things…(すべての善きものに・・・)
All Good Things…(すべての善きものに・・・)
「きみはいつボンに帰るんだい?」
ドリアンはその質問をしたくなかった。それがこの実験の終わりを意味し、またおそらくはこの輝かしい夢の終焉をも意味するからだった。
「明日の朝だな。」クラウスは答えた。「夜までは無理だ。だがおまえは別に残っていてもいいぞ。」
彼はキッチンで、昼食を取りながらぎこちない時間を過ごしていた。ふたりともが、週末が終わりつつあるという事実を意識しすぎるほどに意識していた。
「クラウス。」ドリアンはしっかりした声で告げた。「この事だけはきみに知ってもらいたい。この週末の後のことをきみがどう決定したとしても・・・」彼は目を閉じ、声を整えた。「きみが何を決定したとしても、私はそれに従う。」
クラウスは椅子に座りなおし、いつもどおりの鋭い視線で相手を見つめた。「それは有難いな。」彼は静かに答えた。「そう、だが、なんと言ったらいいか・・・」
「わかってるさ。」ドリアンは小さく笑った。「納得のいく答えを見つけるまでには、時間がかかるよね。」
答えが見つかるかどうかすらおれにはわからん!「ああ、そうだな。」クラウスは深く息を吐いた。「おれは任務に戻らねばならん。わかるな?」
「このことは、なかったことだと?」
クラウスは伯爵の顔に深く傷ついた表情を見出し、これ以上何を言おうとその傷をえぐることにしかならないと悟った。「そうだ。そうでなければならん。」彼は言葉を切った。「恋人たちだけの秘密だと言ったのはおまえだったな?」
ドリアンはうなずき、静かに息を吐いた。彼は食事を続けようとしたが、食欲は完全に失せたようだった。食欲(appetite)が、失せた?この単語を思い出した瞬間、彼は顔をゆがめて笑い出さずにいられなかった。
クラウスは顔をしかめた。どこが冗談になったのか理解できなかった。「なにがおかしい?」
ドリアンは顔をあげ、それ以上の笑い声を上げないように手のひらで口を覆った。「あのね、クラウス。私ったら、ああ・・・」彼は苦労の末に言葉を絞り出した。「食欲(appetite)がなくなっちゃったんだ。」それからとうとう笑いを堪えきれなくなった。
ドイツ人はますます眉をしかめた。おれは英語の意味でも取り違えたか?そして突然、伯爵が何をどういう意味で言っているのかを理解した。appetite(性欲)の喪失、まさにそれこそが、この恐ろしく馬鹿げたどたばた騒ぎのそもそもの始まりだった。次の瞬間、クラウスもまた爆笑していた。二人の間に漂っていたぎこちなさが消えうせた。
ドリアンは笑い涙を拭った。「ねえ、ほんとのことを教えてくれよ。」ようやく口が利けるようになったドリアンが尋ねた。「あのひどい薬、きみはほんとに飲んでなかったのかい?」
クラウスは目をむいた。「飲んどるわけなかろう!あのアンプルをおまえに盗ませるのは厄介な仕事だったがな。」
「ちょっと待ってくれよ。きみ、すごくたくさん持ってたじゃないか。」
「ああ、だが本物はおれがおまえに背を向けたときに、一番上に乗っていた一本だけだ。」
「少佐!」ドリアンは尖った声で言った。「きみって最悪。」
少佐は意地悪く笑った。「ならおまえはちがうってのか?事前にここに忍び込んだのは誰だ?いろいろ準備してたな?」
ドリアンは赤面した。「うん。有罪だ。」
クラウスはうなずいた。「おれたち双方がな。」クラウスは突然思い当たり、椅子に座りなおして伯爵を見た。「おれに打ったあの注射はなんだ?」
「ああ!」ドリアンは喘ぎ、口元に手をやった。「あれは薬の作用を打ち消す薬だったんだよ。」
「あんな薬を投与されたのは初めてだ。」クラウスの目が細まった。「なんだったんだ、あれは?」
「ステロイドだよ。」
「何だと?」
「正確にテストステロンというんだ。」
クラウスが目を見開いた。「道理で・・・」彼はドリアンをじろりと見つめて言い放った。「おまえを殺しておくべきだった。」
「そうだよね。」
クラウスは頭をかきむしった。「おれがあの薬を自分で飲んでるなんぞという馬鹿馬鹿しい考えを、どこから思いついたんだ?」彼はそう尋ねた。目がぎらぎらしていた。「おれがああいう薬を使わねばならんほど、自分に魅力があると思い上がっていたのか?」彼は非難がましい口調で言った。
ドリアンの心臓は跳びあがった。目の前の男の一番厄介な性格が表に現れはじめ、恋人が鉄のクラウスに変わりつつあるのを知った。「約束違反だよ。」彼は短く言った。
クラウスは瞬きした。「なんだと?」
「『エロイカ』と『少佐』は無しだと言ったじゃないか。」
クラウスは目を細め、目の前の男をしばし見つめた。徐々に怒りが引き、やがて彼はうなずいた。「そうだったな。」彼はとうとうそう言い、しかし付け加えた。「喧嘩の時間は後でたっぷりあるわけだ。」
「そういうことだよ。」
クラウスは立ち上がり、食器を片付け始めた。「皿洗いも後でいい。」彼は戻り、伯爵に向き直ってそう告げた。「もう一度ぶんの時間があるだろう?」
* * *
(おれは任務に戻らねばならん)、だとさ。部屋を大またで横切りながら指示を出す少佐を、エロイカは見つめた。山荘での『実験』が終わってから、もう三ヶ月以上がたっていた。気持ちを整理するには充分な時間があったはずだよ。それからエロイカの心の奥底に、最初の懸念が真実だったのではないかという恐ろしい疑惑が生じた。クラウスは、それまで知らなかった経験を一通り積んでみたかっただけなのではないか?そしてそれが済んだらあとは用無しというわけだ。
この男には性欲って、やっぱりほとんどないんだろうか?上官の激怒に慌てふためく部下たちを眺めながら、ドリアンはそう考えた。テストステロンが効き過ぎるぐらい効いただけだったのかな?ああ、私はなんてことをしたんだろう。
いきなり少佐に怒鳴りつけられ、伯爵は跳びあがった。「エロイカ!ぼっとしとらんと、さっさとその尻を上げろ!やるべきことは山ほどあるぞ!」
「わかってるさ。」エロイカは喉を鳴らし、心を静めつつ髪をかきあげた。「でも私が動くのは日が暮れてからだよ。」
「ばかものが!わかっとる!」少佐は手のひらを振って、ドアで待つ部下Aを指した。「Aと同じポジションで待機していろ。」
「了解さ、少佐。」エロイカは長い睫毛を淫靡にうごめかせつつ、少佐の体を上から下まで舐めるように眺めた。「ポジションは選ばせてくれないんだろ?」彼は、その言葉の裏の意味を悟って真っ赤になった少佐の顔を見て、にんまりと笑わずにはいられなかった。少佐は明らかに伯爵の意味を理解していた。地団太踏まんばかりの少佐に軽くキスを投げて、伯爵は部屋を離れた。
「くそったれの変態!」
少佐はその背中に怒鳴った。
* * *
エロイカは、任務は成功裏に終了したと考えていた。だか彼は突然呼び返され、馬鹿らしいほど長く退屈な報告を要求されることになった。少佐の近くにいられるかもという理由がなかったら、わざわざこんなとこに来るもんか。ケルン・ボン国際空港の到着ホールで、エロイカはNATOの迎えの車を待つ間にそう心の中で文句を言った。
出迎えらしき黒のメルセデスが伯爵の前で停車し、トランクが軽い音を立てて開いた。ポーターが彼のバッグをトランクに移し、彼がはずんだチップの額にぱっと微笑を浮かべた。このチップはジェイムズ君に言ってNATOに請求させなきゃね、伯爵はそう考えながら後部座席のドアを開けた。
「いや、グローリア卿。前にお掛けいただこう。」
エロイカは聞き違えの無い声を耳にして心臓をばくつかせた。「少佐・・・?」彼は後ろのドアから前を覗き込んだ。
「乗らんのか?さっさとしろ。」
エロイカは前に回り、驚きを隠せないまま助手席に座った。「お出迎えがきみだなんて、思いもよらなかったよ。」彼は言った。「いつもはきみの部下がくるだろ?」
「場所を変更する。」空港を離れつつ少佐は答えた。「おまえの専門が別のところで必要になった。」
エロイカは髪をさっとかきあげたが、心は別のところにあった。「少佐、いや、・・・クラウス。」彼は真面目な声で口を開いた。「二人きりになるのはあのとき以来だね。」彼が言葉を切ると、少佐は横目でかれをじろりと睨んだ。「そして私は、きみの決定をまだ知らされてない。」
「わかっとる。」
ドリアンは、自分が激怒し始めたのを感じていた。「それで?」
「それで、とは何だ?」
「きみは最低最悪な野郎だよ!」ドリアンは低くうなり、運転席の男の腕を殴った。
「おい、運転中はよせ!」クラウスは声を荒げた。「事故でも起こしたいのか?」
「ふん!」ドリアンは腕を組み、なるべく少佐に背を向けるような姿勢でシートに体を埋めた。クラウスはもういちど横目をくれたが、何も言わずに煙草に火をつけた。永遠にも等しいような沈黙を、我慢できなくなったのはやはりドリアンのほうだった。
「どこへ向かってるんだい?」
「知りたいのか?」
「別に。ほかに訊くことも無いから訊いてみただけさ。」
クラウスは鼻を鳴らした。
「私の専門技術が必要な場所とやらへは、あとどのくらいかかるのかな?」ドリアンはきつい声で尋ねた。少佐の口元に薄い笑みが浮かぶのに気付き、彼は目を細めた。「少佐?」その瞬間、彼はやっと自分たちがが向かっている場所に気付いた。車が最後の角を曲がるとあの山荘が現れ、彼はさっと首をめぐらせてそれを見つめた。息をのみ、口元を手のひらで覆った。
クラウスは車を泊め、ドアを開ける前にドリアンをしっかりと見つめた。「荷物は後だ。」彼はそう言って先に立った。「おれの決定をまだ伝えていなかったな。」山荘の入り口で伯爵のほうを向き、彼はとうとうそのことを告げ始めた。「おまえがよこした報告は不備だらけだ。」
ドリアンは目をぱちくりさせた。「報告?」
「あの実験の報告だ。精査したが、結果と報告があちこち一致しとらんようだぞ。」彼はわざと不満げな表情を浮かべ、腕を組んだ。「週末一杯かけてやり直しだ。」
ドリアンの視線はクラウスの顔に釘付けになった。次の瞬間、彼は駆け寄って両手で相手の顔を挟むと、唇に熱烈なキスの雨を降らせた。クラウスの'力強い腕が彼を抱きしめ、心臓が音をたてて鳴った。「週末じゅうかかってもやり直せなかったら?」彼は荒い息遣いのまま尋ねた。
階段へ向かおうとしていたクラウスは振り返り、笑顔を浮かべた。「なら、またおまえを呼んで報告させんとな。」
「ああ、少佐・・・!」二人は階段を登った。「知ってるだろ?私は細かいことにこだわる方なんだよ。二週間ぐらいかかっちゃうかも。」
「それとも何ヶ月かな。」
「何年もかかるかもしれないよ?」
「何十年もか?」
「何十年もか?」
「クラウス・・・、きみを、きみを愛しているよ。」
「ならばそれを見せてくれ。示してくれ。教えてくれ。」
伯爵は輝きに満ちた笑い声を上げた。もちろんさ、美しい、素晴らしい、私の愛する少佐。
END
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