警告:直接の性描写はありませんが、刃物を使った合意に基づかない性行為を示唆する記述があります。
「おまえ、隠れ家をいくつ持っとるんだ?」
ラ ンドローバーが舗装されていない脇道に入った時、後部座席の少佐はとうとうたまりかねて口を開いた。クリスマス休戦を結んだ彼らは、二日間の休暇を過ごす ためにロンドンの郊外に向かっていた。ミスターLの自宅から車で半時間ほどと聞いていた城は仕事用の場所で、休暇に客人を迎えるにはふさわしくないとの理 由でそこへは向かわず、ボーナムはロンドンの方角へ車を走らせた。だが伯爵のロ ンドン邸に向かうと少佐が思いこんでいた車は市街に入る前に停車し、クリスマスの挨拶を残すボーナムとジェイムズを降ろして方角を変え、再び郊外へ向かった。ボーナムに替わり、伯爵がハンドルを握っていた。思い違いと、ひそかな狼狽を知られるのが忌々しく、少佐は不愉快な顔で黙り込んだ。そのままの沈黙が、高速を降りても続いていた。
「私は泥棒だよ。隠れ家なら、いくつも。」伯爵は前を向いたまま真面目な声で答えた。
「ノースダウンズの城は、主にパーティ用さ。でももうすぐナショナル・トラストに売却の予定なんだ。ロンドンの屋敷に行くと思っていたかい?あそこは最近はプロジェクトのときにチームを集めるための場所になっていて、私は普段はは別の場所で過ごしているんだよ。」
「そうらしいな。俺のレオパルトは相変わらずしゃらくさいバラの庭に置きっぱなしのようだが。」
「ロ ンドンの屋敷を采配しているのは、ジェイムズ君だよ。意外なことに、彼は薔薇の世話が丁寧なんだ。庭が屋敷の不動産価値を高めてくれるからね。ボーナム君 は年上の恋人と一緒に住んでいる。ひどいとおもわないかい?彼は秘密主義で、いまだに恋人を私に紹介してくれないんだ。私は私で、ロンドンにいる時はいく つかあるフラットを気ままに転々としている。きみもボン市内に部屋を持っていて、時々そこで過ごしているんだろう?」
少佐はむっとして聞き返した。「なんでそんなことを知っている。」
「ふふ、きみのことは何でも知っておきたいのさ。さて、今夜の隠れ家はもうすぐだよ。部屋を気に入ってもらえるといいな。」
「あんまり変な部屋は勘弁しろよ。薔薇やら金ぴかの彫像やら、馬鹿馬鹿しい飾りのついた部屋はな。」
「そういうのじゃないさ。」伯爵は不意に感情を落とした声で言った。いつもの揶揄するような声の響きが消え、ふと少佐が訝るほどに平坦な声だった。再びの沈黙の中、車のヘッドライトが砂利道の奥、木々の中にあるこじんまりした館を鮮やかに照らし 出した。
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確かにその部屋は悪くなかった。一人用のベッドは少佐の好みの通りの硬さだったし、緑灰色のベッドカバーの下からは、ぱりぱりと乾いた音のしそうな真新しい麻のシーツがのぞい ていた。書き物机の本棚に置いてあったのは、銃や軍備関係の雑誌、航空機と監視技術に 関する最新の専門書籍、そして骨董的価値のありそうな19世紀末ドイツの博物学概論全集だった。寄せ木張りの床には毛足の短い深緑の絨毯が敷かれていて、 壁の片面には、狩猟の場面を描い たタペストリーが掛かっていた。窓辺には青銅の植木鉢が置かれ、背の高い観葉植物が濃い色の葉を剣のように突き出している。家具はすべて、こげ茶色のがっ しりした単純なつくりだった。部屋付きのバスルームは白とモスグリーンの清潔で単調なデザインで、雨上がりの森の羊歯の葉のような香りの、真新しい石鹸が ひとつ準備されていた。とにかく、この寝室の行き届いた簡潔さは、少佐にとっては正直なところ意外だった。
「この部屋で過ごせそうかい?」と、伯爵は、寝室の入り口にもたれかかったまま静かに尋ねた。
この部屋はずっと以前からこのように準備してあったのだ。少佐はその事実に思い至った。そして定期的な手入れを怠っていない。植物はよく葉を伸ばしており、雑誌は最新刊を揃えてあった。こいつは自分の隠れ家に、俺のための場所を設けていたのか。
「結構だ。まずまずというには良すぎる部屋だな。」
振 り返らずに答えた少佐は、伯爵の声の平坦さの理由に思い当たった。奴は誠実に振舞おうとしている。少佐は、気づいた自分を忌々しく思った。振り返って伯爵 の顔を見る気がしなかった。はやく向こうへ行け。大体なんでうまうまと招待に応じたのか自分でもわからん。いや、俺はあのロンドンの屋敷の庭で、盗まれた 俺の戦車を久しぶりに撫でてやれると思っていただけだ。
と はいえ、やはり少佐は、この部屋に盗聴機などがついていないかどうか徹底的に調べ上げねば気がすまなかった。もちろん何も見つからなかった。ベッド脇の電 話にもなんの仕掛けもなかったが、その電話が載ったサイドテーブルの引き出しにドイツ語の聖書を見つけて、少佐はやや狼狽して引き出しを閉めた。
一部始終を見ていた伯爵は平静な声で言った。「やっぱりきみは諜報員だね。」
少 佐はやはり振り返らずに答えた。「俺から情報を取りたい奴は大勢いる。おまえの名 はNATO協力者として各国の情報部のファイルに乗っとる。そして俺とお前が協力関係を結んどると誤解しとるやつも多いんだ。」図らずも、おまえを疑って いるわけでは ないと言い訳をしたような台詞になり、少佐は内心で舌打ちをした。
伯爵は気にしていないようだった。「遅まきながらクリスマスを祝おうよ。ここにはテレビやオーディオの類は置いていないんだ。暖炉に火を入れて、何か軽いものを食べてすこし飲もう。」
「大盤振舞はせんでいいぞ。俺は飲んで寝て、食って帰るだけだ。」「たいしたものは置いていないよ。きみとのおしゃべりがごちそうだ。きみと怒鳴りあいにならずに話せる機会なんか、めったにないからね。」
こいつといまさらどんな話がある。この部屋を見たあとで。少佐は横目で伯爵を見たが、伯爵はすでに居間のほうに向かってい た。
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「少佐、暖炉の火入れを頼むよ。私は食べる物を用意するから。」厨房から食料と酒を食卓に運び出しながら、伯爵は居間の盗聴器を調べる少佐に声をかけ た。
「す ぐ近くにおまえの城があると言うから話に乗ったんだ。こんな田舎の館だとは、話が違うぞ。」食卓に並んだワインのなかにモーゼルの緑を何本か認めつつ、少 佐は噛み付くように言った。食堂と続きの居間は広すぎず、狭すぎず田舎風に心地好くしつらえられていて、伯爵の趣味にしてはあまり浮ついた調度品がないの が感心だと思ったが、それは口に出さなかった。
「気に入らないかい?」伯爵はサワークリームを全粒のクラッカーに塗り付けながら、生真面目な顔で問い返した。
ふ ざけた返答であればすぐに怒鳴り返してやろうと身構えていた少佐だったが、伯爵の口調に空振りをくらったような格好で、口ごもった。居間と寝室の出来は実 際、悪くない。居心地はまた別の話だが。キャビネットに並ぶ酒の種類も文句がない水準だった。こいつの様子が真面目くさっとるのと、他に誰も居ないのが居 心地悪いだけだ。少佐は話題を変えることにした。
「大勢いた取り巻き連中はどうした?」
「最 近はひとりでいることが多いね。この館は完全に私的な場所で、ボーナム君すらも来たことがないんだ。もともとニューイヤーまではここに籠ろうと思っていた のさ。私には家族がいないからね。取り巻きに囲まれたり、若い男の子たちをはべらしたりする遊びには、もう飽きたかな。でもご心配無く。私のチームはもち ろん健在で、きみの部下たちと同様に有能だよ。」
「有 能か。」数年ぶりのクリスマス休暇を告げた瞬間の、部下たちの歓喜の声を思い出して苦笑しながら、少佐は暖炉に薪を並べ始めた。あいつらも家族との休日を 過ごしとるんだろう。久しぶりに暖炉に火を入れとるやつもおるかもしれん。少佐にとっても、火入れはそもそも子供のときから好きな作業だった。それは厳格 だった父も同じらしく、基本的には父の担当で、よほどご機嫌のいいときにしかやらせてもらえなかった。冬の初めに暖炉に初めての火を入れるのを、 父親の横でわくわ くしながら見ていた幼い日の自分を思い出し、さっき親父から電話がかかってくる前に意地を張らずにこちらから電話してやればよかったと、少佐はかすかな疚しさを感じた。薪はよく乾いていて、いくらもしないうちに火がついた。
現 代的な空調が館全体をほどよく暖めてはいたが、クリスマスの夜に暖炉の火の心地よさは格別だった。伯爵は手早く用意した添え物の皿ををソファのそばに並 べ、よく冷えた数本のモーゼルワインのなかから、黄色いラベルのシュロス・トルンを選んだ。「まずはワインからいこうよ。どうだい。油を使うのは面倒だか ら君の大好きなものは用意できないけど、イギリスの片田舎のありあわせにしてはなかなかだろう。」大皿にはローストビーフ、生ハム、パテ、キャビア、ス モーク サーモン、アンチョビ、オリーブのほ か、トマトやオニオンスライスなどの野菜と、バジルとイタリアンパセリがたっぷり用意してあった。隣の器には、ワイルドベリーやラズベリーなど新鮮なベ リー類が盛られていた。これらをお好みでサワークリーム付きのクラッカーに載せ、酸味のある白で流し込もうという趣向だ。
「食 べることと飲むことは、私には欠かせない快楽の一つさ。」フルーティな香りの薄緑のワインのグラスの一方をを少佐に手渡し、もう一方を自分で持ったまま、 伯爵は自堕落にソファに寝そべった。少佐は鼻を鳴らして一人がけのソファにふんぞり返り、グラスを嗅いだ。そして二人はグラスの縁をちんと鳴らし、ワイン で唇を湿してから、同時に皿に手を伸ばした。
「こ のワインの醸造所は俺の親戚だ。親父の方と血が繋がっとる。ローマ時代を復刻した製法での醸造に切り替えた酔狂なやつが当主だ。・・・おい、このサワーク リームはイギリス製にしては悪くないな。」遠慮なく先にぶん取った一口をかじり、少佐はまんざらでもないという顔をした。
「近所の農場から届けてもらってるんだよ。ワインでもパンでもヨーグルトでも、きみは少し酸味の強いものが好みだよね。私は甘口のほうが好きだけど。多分、人生の味わいへの好み自体がそうなんだろうな。」
暖炉の火と父との思い出が、少佐の感情の鎧をいつになくゆるめているようだった。
「甘口の人生なんぞ願い下げだな。だが今日は特別だ。クリスマスだからな。甘いものが好きなら作ってやる。酸味のないパンはあるか?バターはあるな。あとは砂糖とシナモンがあればいい。それから長いフォークがいる。」
少佐の申し出に伯爵は目を丸くし、それからこの上なく幸せそうな笑みを浮かべた。
「ライ麦パンなら朝食用に用意してあるけど、普通のはどうかな。シナモンはあったと思うよ。焼きりんご用に。」
そう言いながら、立ち上がって厨房に消えた伯爵は、すぐに少佐のご指名の材料を持って暖炉の前に戻った。
「銀 のフォークを焦がしてもらっては困るから、こっちを使ってくれ。」少佐は自分が引きだした伯爵の微笑に気づかない振りをしながら、材料を受け取った。ナッ ツの入ったブラウンブレッドのスライスにバターを塗り、シナモンと砂糖を振って二本の長いフォークで挟んだ。そしてそれを暖炉の火にかざす。
「屋敷の料理人とよくこれを作ったんだ。寄宿舎から帰宅中の、寒い冬の朝にな。いつもこのやりかただった。あのころの料理人はちゃちいトースターなんぞ使わなかったな。」
少 佐は間に合わせのフォークを器用に使って、炎の上でトーストの表面をカリカリに焦がした。パンにも褐色の焦げ目がついた。砂糖は炎にとらえられて暗い金の カラメルとなり、立ち昇るシナモンの香りが二人の鼻腔をくすぐった。後ろから覗き込む伯爵の黄金の巻き毛に気づき、香りと雰囲気の甘ったるさに少佐は思い がけない身震いをこらえた。
「こいつは急いで焼くと失敗する。気長にやらんとな。おい、煙草はないか?この際おまえが吸っとる紙みたいなやつでもい いぞ。」
「煙草はやめたんだ。でもきみの銘柄ならきみの寝室に置いてあるよ。サイ ドテー ブルの引き出しを開けてごらん。聖書の下にいくつか隠してある。」
「俺は今、手を離せん。おまえが取って来い。」
「命令形は失礼だな、少佐。きみがいる間は寝室はきみの領域だ。私は入らないよ。」
あの寝室に戻るのは気が進まなかった。そこで煙草はあきらめて、この懐かしい食べ物にかまけることにした。
「この匂いに、ガキのころのクリスマスを思い出さないか?」
伯 爵は少佐の手からシナモントーストを一切れ受け取り、匂いをかいで考え込んだ。「そう、冬休みの厨房を思い出すね。クリスマスには、私の家族はいつも張り つめた雰囲気で、そう愉快なものではなかったから。子供の頃は、ガバナス(住み込みの女性家庭教師) が私を寝かしつけた後、こっそり裏階段を降りて、厨房で使用人と遊んだもんだよ。そういうとき、冬には使用人がよくこういうのを焼いてくれたね。」伯爵は そう言って、砂糖を下にしてトーストを一口かじり取った。
「俺 も厨房が好きだったな。」と少佐はうなずき、自分もトーストを口にした。「親父がたまに家に連れてくる客人は、年寄りばかりだった。寄宿舎に入れられるま で、同じような歳の子供とまともに付き合ったことがなかったな。そういう友人が欲しかった。話をして、遊んで・・・」少佐は口ごもった。声にかすかな照れ が混じった。
「クラウス坊やにとっては、古い屋敷は素晴らしい遊び場だっただろうね。」と、伯爵は救い舟を出すように口を挟んだ。「だって、きみの屋敷には、子供にはたまらないような隅っこや隠れ場所がたくさんあるだろう?」
「その通りだ。」少佐は古い広大な屋敷と、そこで育った孤独な子供の一人遊びの思い出話を始めた。 いわく「大広間に通ずる秘密の階段があって…」 いわく「俺が裏庭の楡の木にぶらんこを吊るして枝を折っちまったとき…」
少佐はいつになく饒舌だった。伯爵は再び満ち足りた微笑を浮かべた。
「きみはのっぽで擦り傷だらけのいたずら坊主だったんだろうね。少年のころきみを、一度見てみたかったよ。」
「ガキのお前がどんなだったかは容易に想像がつくな。エドワード朝の絵本に出てくるようなちゃらちゃらした金髪巻毛のお坊っちゃまだ。」
「きみにしては的確な表現だ。」伯爵はのけぞって笑った。「そのとおり、私はきれいなお人形さんだったよ。姉が三人いて、私は彼女たちの着せ替え人形だった。女装癖はそこから来てるのさ。一人っ子じゃないのも考えものだ。」
伯爵は下唇に残るシナモントーストの砂糖のざらつきを舐めとった。
「私 の両親は夫婦仲がよくなくて、家庭の雰囲気は冷え切っていた。離婚のときに、姉三人は母側、私は父側に引き取られた。それが自堕落な生活の始まりさ。父も 私と同じく同性愛者で、やはり慎み深いとは言いがたいタイプだった。父が連れてくる客人たちにはお綺麗なお坊っちゃまの気を引こうとするのも多くて、10 代のはじめごろから、私はそういう駆け引きを実地で学んだものさ。・・・失礼、きみにはおもしろくもない話題だね。おや、一本目はこれで終わりだ。次は何 にする?やっぱりヴェーレナー・ゾンネンウーア?」
「シナモントーストで口の中がべたべただ。フリッツ・ハーグかホスピティエンがあればもらおう。なければドイツ産の白の辛口ならなんでもいい。」
「きみって徹頭徹尾、国産派だね。」
「地場産業に協力せんとな。ユーロの屋台骨はドイツが支えとる。スターリング・パウンドを諦め切れん未練がましいどこやらとは責任の重みが違う。」
「女王陛下の臣民としては、大陸とは一線を隔しておきたいのさ。えーと、フリッツ・ハーグのハーフボトルしかないけどいいかな?私は別に甘いのを飲みたいんだ。」
「かまわん。甘口は俺の管轄外だ。」
自 分用にはアイスワインの華奢で細長いボトルを開けて、伯爵は話を続けた。「私もきみと同じで、同年代の友人がいる少年時代を送らなかった。母と姉たちがい たころは、城に来るのは女の子ばかりで、私はあのころに女性の嫌なところを知りすぎてしまったんだな。両親の離婚以降は、父が連れてくる友人たちは怪しげ な連中が多くて、芸術家か、そのパトロンか、とにかく正業につくものはいなかった。ただ私にちょろちょろしたいたずらを仕掛けながらも、絵画の見方や歴史 や、詩や音楽や、その他のいろんな人生の楽しみ方をたっぷり教えてくれたよ。泥棒技術を習ったのも、このころさ。」
少佐は口を動かしながら、伯爵の話を聞いていた。サワークリームが気に入った振りをしていたが、実のところ、黙って伯爵の話を聞いているのはなぜか悪くない気分だった。自分とはまったく違った少年時代なのに、似たところがあるようなないような気がした。
「・・・というわけさ。」
「ほー、なるほど。そういう育ちをすると、こういういかがわしい変態が立派に出来上がるというわけか。」
「その通り、必然だね。ご理解ありがとう。『鉄のクラウス』も必然だよね。なにしろ『鋼鉄のクラウスパパ』だ。」
「黙っとれ!」
皿の上はあらかた空になっていた。窓の外では雪が降り始めているようだった。明日の朝は銀世界かもしれない。ホワイトクリスマスは美しいが、伯爵とふたりでこの館に足止めかと気が付いてやや慄然としつつ、少佐は二本目のワインを飲み干した。
「食い物はもういい。酒を変えよう。」
「ドライ・ジンかい?」
「ゴードンズはもう飲まんことにしとる。理由はわかるな。」少佐は伯爵をじろりと睨んだ。このくそったれの大馬鹿野郎にしてやられた人生最大の失敗は、この酒がらみだった。ずいぶん前の話だが。
伯爵は舌を出した。「ごめんよ。ジンならあとはボンベイ・サファイヤしか置いてない。」
「あんなふざけた色の瓶の酒なんぞ飲めるか。」
「そう言わないでほしいな。あれは私の瞳の色なんだから。」
「馬鹿者!余計に飲む気がうせる!」
少佐はヴォッカもロシア産なら飲まないといった。当然だ。「じゃあ、ブランデーとスコッチのどちらにする?」
「スコッチをもらおう。銘柄はまかせる。」
「銘柄はないんだ。これも醸造所から直接届けてもらっている、シングルモルトだ。市場には出ていない。少し癖があるよ。」
「かまわん。普段飲みつけとらんから、味なんぞわからん。」
「もったいないことを言うね。」伯爵は少佐に褐色の液体のグラスを手渡した。「チェイサーは水?ソーダ?」
「いらん。腹がふくれる。」
それから伯爵はソファに座りなおし、自分のブランデーグラスを手の上で転がした。「大昔にきみに言われたとおり、私はこういうのでも舐めておくことにするよ。」
「似合っとるぞ、英国貴族。」
「きみのうちだって、たいした家柄じゃないか。あの屋敷は誰が相続するんだい?私の爵位は順当に行けば姉の子が継ぐんだろうけど。」
「いとこの血統だろうな。親父の弟の。」
「きみは結婚はしないのかい?」
「酒が不味くなるような話題はよせ。」
伯 爵は黙ってブランデーを舐めた。暖炉の火がはぜた。少佐は二杯目を注いだ。飲み慣れない褐色の酒は、スモーキーフレーバーがややアンバランスで、確かに癖 のある味だった。ひとりのときにこういう酒を飲んどるのか、こいつは。そして俺たちはいつからこういう話をするようになったんだろうか。
二人は黙って杯を進めた。雪は降り積もっているようだった。
「きみの話が聞きたいな。寄宿舎では友人は出来たんだろう?」
少佐はぽつりと言った。「俺のような色の髪はギムナジウムでは珍しかった。ガキの頃の俺は『黒い子羊』だったな。」
「子羊?イノシシじゃなくって?」伯爵はまぜっかえした。
「黒い子羊だ。教師が俺をそう呼びやがったのさ。」話を続けながら、少佐はグラスの中のスモーキーな香りを何度も嗅いだ。
「最初のお上品な学校で、俺にいたずらをしようと した神父の金玉を蹴りつぶして、俺は放校になった。次に入ったのはもう少し荒っぽい学校だ。 上級生が何人も俺にちょっかいをかけてきた。つまり、性的な意味でだ。教師まで寄ってきやがった。俺を黒い子羊と呼んだのはラテン語の教師だ。あいつらがなんであんなに群がってきたのか、今でもよくわからん。」
「きみが魅力的だったからに決まってるじゃないか。私も寄宿舎だったからよくわかる。私たちはよく似た学校生活を送ったんだと思うよ。 ただ対処の方法がまるでちがっていたんだ。」
「おまえは早いうちに欲望を認めたというわけか。」
「多分そうだ。認めるというより、私にとってそれは最初から自明のことだったのさ。自身の欲望も、他者の欲望も。それに、寄宿舎に入った12歳のときには、私はもう・・・知っていたんだよ。父よりも年上の男性の手ほどきで。だから寄宿舎で何が起こっても、何をされても、私は私で揺るがなかった。」
「お綺麗な金髪ぼっちゃんは、金の子羊どころか実はたいした肉食獣だったということだな。」
「ひどい言い方だね。でもその通りだ。若いころの性欲は食欲と同じで、食べても食べても足りなかったな。今みたいに目の前のご馳走に手を出さない余裕なんて、どこにもなかったよ。」伯爵は少佐から目をそらした。
「きさま、酔ったな。」
伯爵はちらりと少佐を見た。「きみが男には興味がないのは知ってるよ。ときどき女を買ってるだろ?」
少佐はいやな顔で伯爵を見た。
伯爵はしれっとした顔で手の中の一杯を飲み干し、続けた。「でもボンのフラットに連れこむことは無いようだね。素人のお嬢さんとのお付き合いも無いようだし、じゃあ、あの部屋はそもそもなんのために買ったんだい?」
私的なことを詮索されるのは不愉快だった。少佐は軽く反撃することにした。
「おまえの素行だってこっちの耳に入っとるさ。夏にウィーンで黒髪のオーストリア人と遊んだ挙句、派手な別れ方をしたろうが。」
伯爵は心底意外そうな顔で少佐を見た。「きみ、なんで知ってるんだい?」
「さっきも言ったろう。おまえの名は各国諜報部が把握しとる。俺の協力者としてな。その男は―――のエージェントだ。おまえから俺の任務の情報が取れんかどうか試したやつがいて、それを見たまた別の誰やらから、わざわざ俺に冷やかしのご一報があったというわけだ。」
「あ あ、そういうことか。やっぱりね。きみに似すぎてると思ったもの。きみと同じ時々ドイツ語訛りのでる英語で、ヘビースモーカーで強引で自分勝手で。ずいぶ ん乱暴な男だったけど、そういうのも含めてたっぷり楽しんだよ。たまにはベッドでああいうふうに手荒に扱われるのも、悪くないもんだねえ。」
伯爵は値踏みするように少佐の体を上から下まで眺め、最後に少佐の目を正面から見つめて、ひとこと付け加えた。
「でも瞳は緑じゃなかったな。」
酔いと、あからさまな挑発に頭に血が上り、少佐はついにかつてない一歩を踏み込んだ。
「おまえ、俺とどうにかなりたいなんぞと、今でも本気で思っとるのか?」
口 に出した瞬間、後悔で全身の毛が逆立った。どういう答えが返ってきたら、どう反応すべきなのか見当もつかなかった。伯爵は伯爵で、明らかに驚いた顔で少佐 を見つめていた。少佐のそういう反応は、全く想定に入っていなかった様子だった。不意の沈黙が降りた。伯爵は口をつぐんだまま少佐を見ていたが、しばらく して諦めたように 視線を空のグラスに落とした。彼らの間で、伯爵から眼を逸 らす ということはほとんどありえないことだった。大抵の場合、伯爵の絡み付く視線を無理やりひきはがすのは少佐の方だったからだ。
伯爵はグラスを見つめたまま肩をすくめたが、それは自然なしぐさというよりも、努力して作った動作だということが 見え見えだっ た。「All or Nothingなんて若さは、とうに卒業したよ、少佐。私たちの間に何かあれば、次の瞬間私はきみを失う。 そして私はきみを失いたくない。この答えでいいだろうか?」
少佐は何も答えなかった。
「きみが私の性向を快く思っていないのは当然だと思う。でもこれが私で、それは最初から自明のことなんだ。すまない。」
いつのまにかお互いのボトルは半分以上空いていた。伯爵は空のグラスを置いて立ち上がった。「さて、ほんとに酔ったようだ。そろそろ失礼していいかな。」
「勝手にしろ。俺はもう少し飲む。」
「おやすみ。クラウス坊や。明日は寝坊をしてくれ。」
「俺は寝坊などせん。」
「私 はきっと遅くなるから、適当に朝食をすませてくれたまえ。書斎の本は自由に読んでもらってかまわないが、美術書が多くてきみの読むような本はないかな。あ あ、戦後ヨーロッパ史の本なら少しある。君の仕事を知りたくて勉強してみたんだ。ドイツ語での読書は苦手だから、英語とフランス語の文献しかないけど、も しよければ探すといい。体を動かしたいけれど雪で外出が出来ないなら、管理人は来週まで来ないから、裏の温室の薔薇に水をやってくれると助かるな。ではお やすみ。」
あの寝室に戻る時間が来たか。少佐は酔った頭でぼんやり考えた。
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夜半―――。
「やめろ、やめてくれ!あ、ああ!」
数 時間の浅い眠りで、酔いはすでに残っていなかった。少佐は職業的な機敏さですぐに立ち上がり、銃を手にして壁に張り付き、廊下に出た。廊下の突き当たりに ある、伯爵の寝室の扉は閉まったままだった。ほかに物音もなかった。電波を受信している限り、ちかごろはGPSで場所の特定が可能だが、伯爵も少佐も移動 前から携帯電話は切っていた。伯爵のランドローバーに監視装置かとも考えたが、その可能性は低そうだった。注意深く廊下を歩みながら、少佐は最近の任務と の関連を忙しく検討した。
扉の開く音に、伯爵はこちらをむいた。彼は起き上がり、自らの首を締めるように両手で包んで、荒い息をついていた。
(うなされていただけか?)
だが伯爵の表情はそのまま立ち去るには無残過ぎた。そして少佐は伯爵の手の位置から、悪夢の内容をはっきりと知っていた。おまえが自分で播いた種だろう。残酷にそう言い捨ててやりたくて、伯爵の寝室に足を踏み入れた。
「さっさと忘れろ。言っただろう。首輪に火薬は仕掛けていなかった。起爆装置だけだ。時間がきたら首輪はぱちんとはずれる。多少の火傷はしたかもしれんが、それで終わりだ。タチの悪い冗談だが、ただの冗談だ。」
ベッド脇に立ち、そう吐き捨てた。暖炉前での応酬への、ささやかな仕返しのつもりだった。伯爵の息はまだ平静ではなかったが、少佐がさらに何か言いかけると同時に、上目遣いに少佐を見上げて遮った。ぞっとするような低い声だった。
「そういう風に片付けるのはやめてくれ。きみは諜報員としてルイ・サンドリエを評価しているかもしれないけど、私はそうじゃない。」
「おまえの自業自得だ。羊のくせに狼にちょっかいをかけようなんぞするからだ。」
「…あのときの救援に感謝するよ。来てくれるかどうか、確信はなかった。ああ、起こして悪かったね。心配してくれてありがとう。おやすみ、少佐。」
伯爵はうつむいたまま、頭の上で手を振った。夜中に追い払われるように言われるのは不愉快で、もうすこし意地悪をしてやりたくなった。
「おまえ、サンドリエに何をされた?」
「なにも。」伯爵はうつむいたままそっけなく答えた。
「首輪を嵌められて縛られ監禁されて、何が『なにも』だ。手荒に扱われるのも嫌いじゃないと、ゆうべ言ってただろう?」 その質問は明らかに普段の少佐の一線を越えていたが、伯爵はそこを突いて返してはこなかった。
「あったらどうなんだい?おもしろいのかい?それとも怒るのかい?誰に?」
伯爵はかすかに震えているようだった。悪夢にうなされた汗で、巻毛が湿って乱れていた。優位にあるという余裕が、少佐の口をさらに滑らかにした。
「あの日、よく歩けなかっただろう。雪山の日だ。」
伯爵は少佐の方を見なかった。「歩いたさ。きみに付いて雪山を一周したじゃないか。」肩の震えがひどくなった。。
少佐はさらに言い募った。「いいや、あの時のおまえには、いつものけしからん泥棒の身軽さも体力もなかった。田舎の教会の屋根ひとつ登れんかっただろうが。 晩飯を一回抜いた程度の体調の悪さではなかったな。」少佐は切れ目なく言葉を続けながら、なぜこんなにしつこいのか、自分で自分を訝しんだ。
伯爵は態度を変えたようだった。少佐を横目でちらりと見て、片眉を上げた。「・・・私に何を言わせたいのかな、少佐。」
妙 なことになったぞ、と少佐は我に返った。踏み込み過ぎた。こんな会話は本意ではない。袋小路に入ったような気がしたとき、昨夜の伯爵のあからさまな挑発を 思い出した。そもそもこいつはこんなことは何とも思っとらんのだ。俺をからかっとるだけだ。少佐はほとんど自暴自棄に言葉を押し出した。
「おおかた朝までやっとったんだろう、あの男と。」
言葉は戻せない。少佐は、自分が投げた石が水面に波紋を広げていく様子をなすすべもなく見つめた。伯爵の瞳が凍り、震えが止まった。やがて伯爵は息を大きく吸い込み、乾いた笑い声をあげた。「とことん残酷だな、きみは。クラウス坊やが捕まえた蝶をいじりまわして、羽根をむしるタイプだったとはね。」
そして向き直り、少佐の顔をまっすぐ見上げて言った。「ボーナム君から聞いたときは意外だったよ。サンドリエがきみたちに送り付けたのは、ずいぶん慎み深い写真だけだったそうだね。あんなに何枚も撮っていたのに。」
俺はこれを告げるためにここまで来たのかもしれない、と少佐は思った。
「慎み深くないやつは別便で送り付けてきたさ。俺個人宛てにな。」伯爵の体が硬くこわばったが、 表情を変えなかったのは流石だった。
廊下の明かりが逆光になって、俺の表情は読めんはずだ。そう思いながら、少佐は言葉が続くにまかせた。「任務を放り出しそうになったのは、俺にとっては初めてだった。」
伯爵は泣き笑いのような表情で顔をゆがめた。だが、せわしなく瞬きした眼からはすぐに潤みが消え、瞳が薄闇の中で青白い炎のように燃え上がった。伯爵は、背を伸ばして少佐の目をまっすぐに見返した。
「驚いたかい?あれは、とてもよかったよ。この歳になってあんなお楽しみに目覚めるなん て、自分でもびっくりだ。殺されるかもしれないという恐怖のなかであんなひどいことをされて、私は本当に感じてしまったんだよ。あの、顔のきれいなだけの 若い男にね。この海千山千の私が、体の芯までしたたかに、いまだに夢に見るほど深く感じてしまったさ。なにをされたか、きみも見たなら知っているだ ろう?私のこの体の傷はどうだい?」
伯爵は寝衣を肩から落として両腕を広げた。雪山での監禁以来、伯爵が胸元の開いた服を着なくなったことに少佐は気付いていた。胸元から両脇にかけては、無残 なナイフ傷が幾筋も走り、うちいくらかは背中へも達しているようだった。傷跡は肩や二の腕にも走っていた。かなり深く、削ぐように斜めに刃先を入れ、肉を こそげるようにナイフを使ったらしく、傷には一定の幅があり、また傷跡がつやと赤みを帯びた色に嗜虐的に盛り上がっているのが、薄暗がりでもはっきりと見 て取れた。
(こんなものは俺の見た写真には写っていなかった―――!)
「腱や筋肉を損傷しないように、機能的な後遺症が残らないように注意深くつけてくれた傷だ。これをした本人がそう言ったんだよ。」
伯爵の瞳が挑発的な光を帯び、少佐を見据えた。
「目的は、私に苦痛を与えることと、私の体に長く残る傷を残すこと。」
伯爵は傷の一本一本を指でたどり、それがつけられた経緯を丹念に語り始めた。どんなナイフを使ったか。そのときサンドリエが何を言ったか。自分がどんなふうに身をよじったか。
「下半身はもっとひどいよ。」
今度は身じろぎもしないままに伯爵は続けた。見事なまでに貴族的な、カットグラスをはじく音のように様に気取った高慢ちきなオクスブリッジの発音で、伯爵は聞くに堪えない説明を始めた。
「やめろ。」
「それからサンドリエは棘の付いた・・・」
「やめんか。」
「私がいくら泣き叫んで哀願しても・・・」
「やめろと言ってるんだ!」
「・・・ そして、ことが終わるとあの男は、それはそれは優しく私の血と私のその他のものを拭い、私の体をすみずみまで丁寧に清め、止血をして私の傷の手当てを済ま せた後、キスの雨を降らせながら私に服を着せて、教会の外の柱に私を後ろ手に縛り付けて、ふたりできみを待ったというわけさ。結果として、私は充分に楽し んだよ。おそらくはサンドリエが楽しんだのと同程度に。」
そこで伯爵は残酷な笑みを浮かべて言い放った。「で、どこにしまってあるんだい、その写真。 きみ、捨てられなかったんだろう?」
伯爵から放たれた思わぬ矢を受けて、少佐は愕然とした。図星だった。俺は写真を捨てられなかった。だが二度と見ることも憚られた。だから封印し、屋敷の誰に も知られぬように市内に部屋を用意してクローゼットの奥にしまいこみ、再び取り出してみることなく写真の記憶自体を無意識下に押し込んだまま、たった今指 摘されるまで、無理に忘れていたのだった。
だがあの写真には、こいつが今語ったような血生臭い情交は何一つ写っていなかった。俺が見たのはただ幾枚もの写真、首輪を嵌められ、無理な姿勢に苦しげに顔をゆがめてなお美しい、あけすけに俺の劣情をそそる青い瞳と黄金の巻毛の、高貴で淫蕩な―――
伯爵は誇り高く笑った。哄笑した。「おや、言ってみるもんだな。どうやら当たっていたようだね。きみ、ほんとに男に興味はないのかい?」
「だまれ!」少佐の平手打ちが飛んだ。伯爵はよけなかった。
「・・・いやなやつだ。へどが出るほど嫌な男だ・・・・・・! だからおれはきさまが大嫌いなんだ!」
伯爵は微笑んだ。瞳の炎が不意に消え、奇妙なほどに優しくな哀しげな微笑になった。「・・・好きの対語は『嫌い』じゃないんだよ、少佐。好きの対語は無関心 だ。きみは私のことが大嫌いだと言う。私にはそれで充分だ。少佐、きみの寝室へ帰ってくれ。私はきみを失いたくない。」
だが少佐は動けなかった。
「私の手の内のカードはすべて見せたよ、少佐。もうとっくにきみが選ぶ番だ。でもきみは永遠にカードを引かない。私にはそれでもよかったさ。きみを失いたくなかったからね。だがもうそれは無理なのかもしれない。 」
少佐は伯爵の言葉の意味を正しく理解した。理解して、なお動けなかった。
「ここは私が夢見る場所。」
伯爵は歌うように言った。頤(おとがい)をあげて、傷のない綺麗なのど元をあらわにして。
「きみの夢を見る場所だったんだよ。きみがあの部屋で眠っている夢を。夢の中ですら、私はきみの寝室へは行かない。きみも私を訪れてはこない。たぶん私たちは 永遠にそうなんだろう。寝室へ帰ってくれ、少佐。夜が明けたらきみをヒースローへ送るよ。それでたぶん、すべてが終わりだ。」
少佐は思わずよろめいた。深い喪失感、任務に失敗したときの敗北感ですら及ばないかもしれない喪失感に押されて、扉のほうへ後ずさった。伯爵は遠ざかる少佐を見ていた。日没の最後の残照を惜しむように。
少佐は伯爵から目が離せないまま、後ろ手で寝室の出口にたどり着いた。廊下に出て扉を閉めれば、何事もなかったように自分の部屋に戻れる。( あの寝室に?こいつが俺のためにこしらえた、永遠にこいつ不在の寝室に?) 少佐の体はすでに伯爵の寝室を出て、扉を閉めようとしていた。夜が明ければすべてが元に戻る。何事もなかったかのように。いや、ちがう、すべてが元に戻るのではない。すべてが終わるのだ、この扉を閉めれば。扉は今まさに閉まろうとしていた。
(扉を閉めれば、おまえは俺を失う。なぜなら俺がおまえを失うからだ。)
少佐は音を立てて扉を蹴った。大股で伯爵のベッドへ戻り、サイドテーブルに拳銃を置いた。それから覚悟を決めて黄金の巻毛の海に身を投げた。自分のベッドと はまったく似ても似つかない柔らかくつかみどころののない寝具の上で、任務とは勝手の違う争いにしばし自分を見失い、苦戦し、あえいだ。そしていくらもしないうちに、どこまでも沈み込みそうなベッドの上に組み敷かれ、自分を見下ろす巻毛と青い瞳が、小癪な笑みを浮かべてこう言うのを聞いた。「ようやく来たね、きみ。」
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夜の間に雪が積もったらしく、窓から見える木々の枝が朝の光の下で重そうにたわんでいた。少佐が目を覚ますと、サイドテーブルの拳銃の横に、小さなラベルの ヴーヴ・クリコの丸みを帯びたボトルと、かすかに緑を帯びた金色の液体を湛えて冷たい汗をかいた、一対のシャンパングラスとが並んでいた。片方のグラスは 飲みさしだった。
「おはよう、少佐。寝坊だね。」伯爵は温室の薔薇に水をやって、寝室に戻ったところらしかった。鮮烈な香りが少佐をくすぐった。切ったばかりの薔薇を一輪少佐 に差し出して、伯爵は不埒に笑った。ふしだらで腹立たしく、くそったれなほどに魅力的な微笑。からかうような瞳と唇が見る間に近づき、息の詰まりそうに豪勢な巻毛がくるくると渦巻いて少佐の視界をいっぱいにさえぎった。少佐は充分にタイミングを計り、伯爵の手首をつかんで一気に自分の体の下に引き込んだ。
木々の枝に積もった昨夜の雪が落ちる音が、森のあちこちで断続的に響いていた。
完全に降伏した伯爵を残して起き上がった少佐は、優雅とは言い難いしぐさですっかりぬるくなったシャンパンを飲み干し、サイドテーブルの引き出しを乱暴に開けた。手の込んだ装丁のラテン語の聖書の下には、思ったとおり少佐の銘柄の、開封済みの煙草があった。
「やっぱり吸っとるな。禁煙なんぞ無駄なことだ。」
伯爵は枕に顔をうずめたまま、くつくつと笑い出した。少佐は今日の一本目に火をつけた。
「笑える気力があるならもう一戦、いや、朝食、というより昼食が先だな。腹が減った。」
その年のクリスマス、伯爵と少佐は、結局のところ双方が恐れていたなにものをも一切失わないことを、お互いに確かめ合った。
END
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海外のファンフィクションから場面や設定をいくつか借りています。特に前半部分。ご同好の先人方による素晴らしい日本語訳もあちこち(無断で)お借りしております。愛に免じてお許しいただけますよう。
1) ノーフォークの城はナショナル・トラストに売却予定
"Good Old-Fashioned" by Heather Sparrows
2) 少佐から盗んだレオパルト戦車を、ロンドンの屋敷の薔薇園の中に置いている
"Three Kisses" by Beth Minster
3) 伯爵が自分の住まいに少佐の寝室を用意している
"Evening Star" by Filigree
4) 少佐がシナモントーストを焼き、幼少期の思い出を語る
"Cinnamon Toast by" Filigree
5) 伯爵が間男とナイフプレイで少佐がついにルビコン川を渡っちゃう
"It cuts both ways" by Karen Colohan
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Great thanks for countless and glorious(I love this adjective!) Eroica's fanfictions that precede me. They are enough marvellous to inspire me to write my first fanfiction, which is above. I declare that I borrowed some settings and scenes from brilliant and attractive stories below;
Dorian is planing to sell his castle in North Downs to National Trust.
The tank Dorian stole from Klaus is kept in the rose garden of Dorian's estate.
Dorian prepares Klaus's bedroom without notice. I also borrowed the solid description of of the room's details and its excellent Japanese translation provided by my predecessor.
Klaus makes cinnamon toast for Dorian and himself, then talks about his own lonely childhood. I borrowed quite a lot of details since they are almost as affecting as the canon's.
Knowing the fact Dorian was wounded both physically and mentally through willing/unwilling sex with a third person using knives makes Klaus finally cross the Rubicon.
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