このサイトでは、「エロイカより愛をこめて(From Eroica with Love)」を題材とした、英語での厖大な二次創作群を翻訳しています。サイト管理者には原作者の著作権を侵害する意図は全く無く、またこのサイトにより金銭的な利益を享受するものでもありません。私が享受するのは、Guilty Pleasure - 疚しい楽しみ-だけです。「エ ロイカより愛をこめて」は青池保子氏による漫画作品であり、著作権は青池氏に帰属します。私たちファンはおのおのが、登場人物たちが自分のものだったらいいなと夢想 していますが、残念ながらそうではありません。ただ美しい夢をお借りしているのみです。
2013/07/29
The Better Offer - by Anne-Li
The Better Offer
by Anne-Li
概要: ドリアンの姉の一人であるヴィクトリア・レッドは、とあるパーティで一人の男が弟に平手打ちを食らわせたのを目にした。彼女はその男、クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ少佐に興味を持った。
作者から:Heathersparrowsに捧げます。舞台設定は80年代前半かそのあたり。
The Better Offer (さらに魅力的な申し出)
レイディ・レッドと呼ばれるこの女性の名はヴィクトリア・レッド。先代のグローリア伯爵の娘で、ということは当然、当代のグローリア伯爵の姉妹ということになる。彼女がこういったパーティ出席することは滅多になかったのだが、今回のディシトリア家の記念パーティへの参加は、同級生だったレイディ・ディシトリアから懇願されたのだった。ヘレナ・ディシトリアとその悪友たち五十名ほどが力を合わせて、「可哀想なクジラを救おう」だかニューヨークだかどこだかの「飢えた子供に食べ物を」だか、お上品なチャリティーのための寄付金集めをしようというのだった。招待状の値段は4,000ポンドで、それはヴィクトリアのひと月の予算には痛い金額だったが、彼女はまばたき一つせずにそれを支払った。当然ながら、友人に気取られるわけにはいかなかったからだ。祖父が彼女に残してくれた遺産基金から毎年彼女に支払われる額面は限られており、父親の遺産からはさらになお少なかった。こういった華やかな社交上の付き合いをほとんど断っているのは、つまりはそういう事情からだった。
とはいえ、一旦彼女が招待に応えたときには、広間の目を集める一番の美女は彼女に決まっていた。他の誰がその地位にとって替われるだろう?なにしろ彼女は”グローリア家”の一員なのだ。一族の特徴である髪、目、非の打ち所のない容貌、生まれついての気品と、英国式に自制のきいた立ち居振る舞いからすら、隠しきれずにこぼれる豊かな官能と。有象無象の女達がどう頑張っても全く太刀打ち出来ない魅力を、ヴィクトリアは食事の節制と、ごく簡単な化粧だけで身に着けていた。その姿は凡百の栽培チューリップの中に立ち交じった、野生の薔薇にも似ていた。彼女は常に同じ宝石を身につけて現れた。パーティごとに違ったアクセサリーを用意できる余裕が彼女にはなかったからなのだが、ブレスレットのひとつひとつ、薔薇をかたどったイヤリング、ずっしりしたネックレスに残る歴史に裏打ちされた逸話を語るだけで、代わり映えしない宝石すら彼女独特の魅力となるのだった。服はさすがに同じ物を毎回は着られず、財政圧迫のもうひとつの原因となったが、数えきれないほど群がる求婚者たちからは彼女の関心をひくための貢物が続々と届くため、ヴィクトリアはそれをかたっぱしから売り払って、それなしでは過ごせない数々の贅沢品の費用に充てていた。
ディシトリア家のパーティのためにヴィクトリアが選んだのは、体の線を際だたせるような滑らかな布で、青地に真紅のハイライトのはいったドレスだった。彼女は常に赤がはいった服を着た。赤がテーマのの服もあれば、差し色が赤のこともあった。言うまでもなく、それはレッド・グローリア家の一員にとってお約束とも言えるコーディネートだった。今夜の服はワルドフライドという新鋭のクチュリエによるもので、駆け出しとしては高すぎる値段設定のせいでまだそれほど知られていなかったが、時流に乗るのは時間の問題だった。ヴィクトリアはその種の才能を見ぬくのに長けていて、ごく初期のうちに上客となり贔屓にしてやることで、その後もしばしば大幅な割引を受けることができた。そういった目利きの能力のせいで、彼女はこういう場でも見劣りしない体裁をこれまで整えてこられたのである。
ヴィクトリアは参加するパーティを注意深くより好みしていた。ヘレナに懇願されたとはいえ、このパーティはヴィクトリアのお眼鏡にかなうものだった。提供されている食事の質はもちろん、パーティの目的が上品であること、そしてなにより肝心なのは、将来の夫にめぐり逢えるかもしれない合理的な可能性。そして実は上記のすべての条件に増して重要な点は、弟とばったり顔を合わせる機会を避けること、だった。パーティに参加する前、彼女はヘレナに弟が来るかどうかを確認してた。幸いなことに、ヘレナはその意味を十分よくわかってくれていた。よくわかっていない連中は『伯爵』の称号に目が眩んでその他の不都合に目をつぶってしまうが、ヘレナはこれまでドリアンが引き起こしてきた数々のトラブルを見聞きしていただけに、率直に腹を割ってどうやってああいう不愉快を避けようかという話をすることができた。
問題というのはつまりこういうことだった。グローリア家の人間というのは、全くなんでもかんでも自分の思い通りに事を運ぼうとする。
というわけでそれが目に入った瞬間、彼女はその場で地団駄を踏みそうになった。もちろんそんなみっともないことはできなかったが。そうするかわりに、彼女は優雅に微笑みを浮かべて弟のそばから離れ、念には念を入れたにもかかわらず弟に出くわしてしまった狼狽から立ち直った。人目につかない物陰でシャンパンを啜りながら、彼女は弟をじっくりと観察した。老化や美貌の衰えなどを期待しつつ。残念ながらその気配は全くなかった。何しろ弟と自分は同じ血筋なのだ。グローリア家の優れた遺伝子。事故か極端な事態でもおこらない限り、彼と彼女はこの先どんどん似てくるはずだった。
彼もまた青と紅に身を包んでいた。ほんとうに忌々しい。青の地は彼女のミディアムブルーとは色合いが違っていたけれど。それでも青は青だった。
非の打ち所のない仕立ての濃紺の夜会服は、彼のほっそりした腰つきと長い足、鍛えられた骨格を言うまでもなくよく引き立てていた。美しく整った顔立ちを後光のように取り囲む、ふわふわした金の巻毛もまた言うに及ばなかった。物憂げな美貌の男の周りを取り巻く小さなハーレムの全員が、彼の口元に注目していた。彼が優雅なしぐさで片手を上げると、金のブレスレットが輝いた。
あとで形だけの挨拶を済まさなければ。愛想良く会釈を交わす。ほほえみを自然に見せるだけの経験は積んできた。お互いに軽く頭を下げる。もしかすると簡単なハグを交わさなければならないかもしれないが、双方とも出来ればそれは避けたいと考えているだろう。夜はまだ早かったが、ディシトリア家の屋敷は広大で、双方が顔を合わさずにいられるだけの余裕は十分にあった。ヴィクトリアはクリスタルのフルートグラスをもうひとすすりし、自分の美しい腰つきがこれ見よがしではないぎりぎりのところで最も魅力的に見える歩き方で物陰を離れた。歩き方に最新の注意を払うと、かき乱された心をかなり落ち着かせることが出来たため、その男に気づいた時には、弟を目にした衝撃で早鐘のようだった鼓動は、ほとんど元通りにおさまっていた。
その男は虎のように歩んだ。無駄のない、しかし力強い優美さにあふれた身のこなしに、ヴィクトリアは目が釘付けになった。その男は長い四肢を、緑の縁取りのついた純白の夜会服と黒のボトムに包んでいた。品があり、だが飾り気の無い意思の毅さを思わせた。肩を覆う長さの髪が、他人の評判などは気にも掛けない性格を示していた。くっきりした鼻梁が、整った顔立ちのなかにあった。しかし何より印象的だったのは、その男からは何らかの危険な気配がすることだった。説明できない女の勘が、素晴らしく上質の遺伝子を持つ男性の存在を感知した。
この男は素晴らしい子供を成すにちがいない。そしてその子どもたちは。私のような母から生まれるべきだわ。
その男が、まっすぐに弟の方に歩いて行くとは!
ヴィクトリアは悲鳴が漏れそうになる喉を必死で抑えながら人だかりを掻き分け、彼女の目の間で起こりうる最悪のシナリオを阻止しようとした。他のどの男でもいい、この男だけは…! もう少しで二人を引き離すのに間に合うところだった。もし彼女の弟が近づく男に気づき、両手を広げてその男を迎えつつ、そちらに足を向けて長い脚で歩み始めていなかったならば。彼女はほとんど絶叫しそうになった。成り行きがどうなろうともいい。眼の前で起ころうとしているこの恐ろしい事態を止めなければ。だが男は弟の頬を音高くひと打ちし、踵を返してさっさとその場を立ち去ったのだった。
この人ったら、弟に平手打ちを食らわせたわ!
ビクトリアはそのまま真っ逆さまに恋に落ちた。
「誰なの、あの方?」パーティがひと段落して、二人で落ち着いて話せる場所に移動してから、彼女はヘレナにそう尋ねた。その夜は当然、さっきの出来事の話で持ちきりだった。
「私もいろいろ聞きまわってみたの。」ヘレナは答えた。その日のパーティの主催者として、彼女にはいくらでもおせっかいになれる権利があった。「その話だと、あなたの弟ぎみったらずいぶん長いことあの男性の…、気を惹こうとやっきになってるらしいわよ。でも脈なしみたいね。」
「素敵なお話だこと。なんて名なの、彼?」
「クラウス・フォン・デム・エーベルバッハ氏よ。貴族の血を引くドイツ人らしいわ。ただ誰も彼の職業を知らないの。」
ドイツ人。ヴィクトリアはちらりと考えた。それはマイナス一点ね。もちろん彼女とてある程度のドイツ語は話せたが、異国に住みたいと考えたことはなかった。習慣も違えば言葉も違う、違う人々の中で暮らすなんて。うーん。でもそうよね、そのフォン・デム・エーベルバッハ、クラウスって人が仕事でイギリスに住んでるなら、英語には問題ないはずだわ。ヴィクトリアはロンドンにまあまあの広さの家を持っていた。もちろんグローリア伯爵のロンドン邸には遥かに及ばないし、あれほどいい地区にあるわけでもなかったが、とにかく、ちゃんとした身分の者が住むには恥ずかしくない程度の物件だった。そうは言っても、あの男の生業はちゃんと調べなくては、と彼女は考えた。念には念を入れるに越したことはないし、それが当然成功への道である。とはいえ、弟が価値の無い男に時間や手間を割くわけはないとも確信していた。
自己紹介だけしておくのもいいだろう。それと、もしかしてダンスでも。その男を探すと、すでに姿を消していた。この場に留まる理由はなにもなく、弟とぶつかる危険も避けたくて、ビクトリアもすぐのその場を去った。
彼女は人付き合いの悪い女性ではなかったので、パーティに出席していたあらゆる知り合いに声をかけて、フォン・デム・エーベルバッハ某に関する情報をかき集めようとした。その名は全く知られておらず、パーティ上での事件を引き合いに出すと、ああ、あの人が、というだけで話は終わるのだった。だがとうとうひとり、友人の従兄弟だという男ががフォン・デム・エーベルバッハ家と取引があると言い、いろいろと情報を提供してくれた。さっきのフォン・デム・エーベルバッハは当代の跡取りでありほとんど知らないが、フォン・デム・エーベルバッハ家自体は古くに商人から貴族となった歴史があり、裕福で知られる一族であったという。戦後は事業も縮小したが、もうあと何世代かが飢えずに食べていくだけの資産はたっぷりあるだろうということだった。実権はまだ父親の手にあり、跡継ぎが家業にどれほど関わっているかは定かではない。どうやら軍かドイツ政府に籍があるらしい。
念の為にもう少し情報を仕入れようと思ったヴィクトリアは、その男が後日ポルフォールド男爵のパーティに出席する予定だという話を聞きつけた。彼女はすぐさま電話をかけ、そのパーティの招待状を確保した。
その夜、彼女の獲物は人の群れから少し離れたところで、あからさまに興味深げに見つめる淑女たちの視線を真正面から受けつつ、それをことごとく跳ね返しながら立っていた。片手にグラスを持ち、ときどきそれを口に運んでいた。矢のようにまっすぐ伸ばした背、純白の上着。その男の外観は充分にヴィクトリアを満足させた。明らかに、ヴィクトリアが求めるだけの毅さを持つ男であるにもかかわらず、無駄な筋肉自慢の見掛け倒しの男ではなかった。
十分な広さを持った方としっかりした背中、だがすっきりとした長身。水泳選手のように、持久力のために鍛え上げられた体つき。すばらしい。まったく彼女の好みにぴったりだった。
ビクトリアは、相手の顔に浮かんだ拒絶めいた表情を無視して近づいた。近づくと、相手は彼女の様子を上から下まで素早く眺め回した。ビクトリアは内心得意だった。今日の服には自信がある。彼女の髪と同じ金の縁取りのある豊かな真紅のドレスは、彼女のゴージャスな美貌をよく引き立てていた。それにこの男ったら、私の胸に視線が釘付けだわ。
「こんにちは。少しお話してもよろしいかしら?私はレイディ・レッドと申しますの。」
鋭い緑の目が、やや細くなった。「グローリア伯爵のお身内ですかな?あのドリアン・レッドの?あなたはあの男に似ている。」
「ええ…、ええ、まあ。伯爵は弟ですわ。」忌々しいことに。「でも…」
「何か?弟ぎみのために、何かとりなしでもとお考えですか?」
「まさか!そんなはずありませんわ、フォン・デム・エーベルバッハ伯爵さま。」
「少佐で結構だ。フォン・デム・エーベルバッハ少佐とお呼びいただければ。」
「あら、フォン・デム・エーベルバッハ少佐。素敵ですわ、軍の方でいらっしゃるのね。弟のために何かをお話に来たわけではないんですの。今わたくし、そんなはずないと申し上げましたでしょう? わたくし個人からのお話をさしあげたく思って。あの、二人だけでお話できる場所を探していただけませんこと?」…例えば寝室とか。だができれば婚約までは許したくなかった。できれば。
彼は何か考えがあるかのような顔つきで彼女を見た。その視線の力強さに彼女は震えた。この男と親密な関係になり、この視線を正面から向けられたら、腰が抜けてしまうかもしれない。鳥肌が立った。だが彼女は自分のたじろぎを遮った。なぜなら男が意味深な微笑をよこしたからだ。いいわね、ヴィクトリア。あなたをこの男に見せつけてやるの。この男の前に差し出してやるの。この男があなたの美の前にひれ伏し、求めるように仕向けてやるのよ…。
「よかろう。煙草が欲しくなったところだ。バルコニーへ出ましょう。こちらだ。」
彼は体をひるがえし、人混みを抜けて大股に歩きだした。ヴィクトリアも後に続いた。男が腕を差し出さなかったこと、女性を待ちもせずにすたすた歩いて行ってしまったことに少なからず面食らったのだが、そういえばこの男はドイツ人だったのだと思い出した。洗練されていない、鈍感な民族。これは彼個人の無作法ではないはずだ。
ヴィクトリアがバルコニーのドアをくぐる間、彼は彼女のためにドアを押さえていた。それは申し分なく騎士道的な礼儀にかなった挙措だったが、この男が果たしてそれを礼儀として実行したのかどうか、ヴィクトリアはやや不審に感じた。なぜなら彼は十分すぎるほど念入りにドアを閉めたからだ。
「さて、レイディ・レッド。お話とは何でしょうな。」そう尋ねながら男は煙草を一本取り出し、手慣れた手つきで火をつけた。
「まず最初に、弟の失礼についてお詫び申し上げますわ。我が一族の恥ですの。」
男は鼻を鳴らし、煙の輪を吐いた。ヴィクトリアが弟の弁解に来たわけではないと知れば、この態度はもう少しマシになるはずだ。彼女はそう考え、続けた。「三週間前に、レイディ・ディシトリアのパーティで、あたなのことを拝見しましたわ。弟があなたにご迷惑をかけて、それであなたは彼の頬をお打ちになった。」想い出すだけで、せいせいした気分になった。
「いい気味だ。あの変態。」
「ええ、おっしゃる通りですわ。伺った話では、弟ときたらあなたにまとわりついて随分いろいろ仕出かしているそうですのね。それがあなたにとってどれほどご迷惑か、考えるだけでも申し訳ない気分になりますわ。実は、私どもの方でも同じですの。私とリヴィアとソフィは姉妹なんですけど、弟のことでは顔を上げて道を歩けないような恥ずかしい思いばかり、もう次から次へと。リヴィアは最近こういう場へは全く姿を見せなくなったんですけど、それもどうやら弟とばったり出くわして以来のようですの。リヴィアったら、何があったのか私にも言おうとしませんわ。弟のことで、よほどいたたまれない目にあったとしか思えません。」
男はもう一度煙の輪を吐いた。「あんたの弟には恥なんぞという感覚はなさそうだな。欲しいものはなんでも我が物になると思っとる。」
ドイツ人は警戒心を解いたらしく、ヴィクトリアの弟に対する嫌悪感を隠そうともしなかった。いい傾向だわ。「仰るとおりですわ。何が腹立たしいかって、弟ときたら何でも手に入れて持って行ってしまうことですの。お話したかったことというのは、そのことなんですの、はくしゃ…、いえフォン・エーベルバッハ少佐。」ドイツ語のGraf、英国の伯爵に相当する敬称は、少佐などという無骨な呼称よりずっと聞こえがよかったが、どうせすぐにファーストネームで呼び合う仲になるのだ。Grafの配偶者の敬称は何になるのだろう?Grafness? なんだかドイツ語っぽく聞こえないわね。あとで調べておかなきゃ。「もしあなたがあの弟をひとつ懲らしめてやりたいとお考えなら、私にいい考えがありますの。欲しいものがなんでも手に入るわけではないと思い知らせてやりたいとお思いなら…」
ぞくぞくするほど冷たい、だが面白がるようにヴィクトリアを見ていた目が、明らかに興味を浮かべた。「どうやって?」
「不躾をお許しくださいませね。先程から申し上げております通り、弟はあなたに…、まとわりついているという話ですわね、それもずいぶん長いこと。」
「間違いない。おれを色気たっぷりの尻軽女とでも見間違えとるようだな。」
「恐ろしいこと。でもよくわかりますわ。それで、お話というのは、弟にそれをやめさせる方法についてですの。」
「おれの上司は民間人を撃つとことを許可してくれんのだ。任務以外ではな。」
彼女は声を上げて笑った。ドイツ人にユーモアの感覚がないというのは、どうやら噂だけの話らしい。「弟は、一旦目をつけたものを諦めるということが殆どありませんわ。でも、ただひとつだけ方法がありますの。そのお話に参りましたの。
「どういう方法かな?」
「簡単なことですわ。わたくしに求婚してくださればよろしいのです。そして、次に弟に会ったときに、『おまえの姉と結婚することになった』と告げてごらんなさいませ。それとも二人でパーティに出席して、弟に見せつけてやってもいいかもしれませんわ。手に手をとって、見間違えようのない格好でいるところを。弟はきっと致命的なショックを受けて、こっそりと身を隠すにちがいありませんわ。その後、あなたが彼に悩まされることは二度と無いというわけです。」
彼女はその様子を脳裏にありありと思い描くことが出来た。ドリアンがどれほどショックを受け、戦慄するかを。そしそのまま順調にことが進めば、ヴィクトリアは婚礼の式への招待状をドリアンへ送りつけるだろう。その栄光の日に欠席することは。一族の誇りからしてもドリアンに許されないことだ。そこで弟は存分に見せつけられることになる。この栄冠を勝ち取ったのは自分ではなく、姉なのだと。そういえば彼は、家族のうちたった一人の男性なのだ。ヴァージンロードを一緒に歩く役割を、亡くなった父の代わりに果たしてもらうのもいいかもしれない。そして新婦を、新郎へ引き渡すのだ。
想像は尽きなかった。なにより重要なことは、ドリアンに思い知らせることだ。おまえが追いかけていた男は、おまえではなく、姉の私を選んだんだよと。
「やつを寄せ付けないように女を連れ歩いてみたこともあるんだが、何の役にも立たなかったぞ。少し前の話だがな。」
『女』という言い方が癇に障ったが、ヴィクトリアはぐっと呑み込んだ。この男は『女』という単語をごく一般的な意味で使ったに違いない。そこには私は含まれていないのよ。
「あら、でもそのときのお相手はあの弟の姉妹ではなかったわけでしょう?ねえ、ご覧になってくださいな、Graf…、フォン・デム・エーベルバッハ少佐。」彼女は自分の体つきを十分に見せつけるために一歩下がり、両腕を誘惑的にくねらせて体の曲線に沿わせた。ドレスの布がぴんと張りつめ、豊かな胸が突き出した。「ドリアンがあなたに与えられるもので、私が与えられないものは何もないと思いますわ。そう、あなたが…、あなたもまた弟の同族であるとでも言うのではない限り。わたしをお選びいただければ、弟は完全にあきらめますわ。」
どうやらドイツ人はいろいろと考慮を始めたようだった。視線が、彼女の肉体に釘付けになっていた。彼は次の煙草をくわえ、煙草には全く注意を払わないまま、手慣れた手つきで火を付けた。あきらかに、ひどいチェインスモーカーだった。喫煙癖だけはいただけないわね、と彼女は思った。やめるように仕向けなければ。どの程度吸うのか、調べる方法はないかしら。
「あんたの弟がおれに提供できることは、あんたにだってできると言うわけだな。」男は繰り返した。
彼女は自信たっぷりにうなずき、腕を自然な位置に戻した。
緑の瞳が、さらに注意深く彼女を眺め回した。彼女はその視線を物理的に感じたような気さえした。脚を、腕を、胸とその他すべての彼女の肉体を撫で回す視線。なんて素敵。
「あんた、ものの数秒でドアの鍵を外せるか?」
ドアの鍵?外す?何の話なの?「私のインテリア・デザイナーなら…」
「五分以内で金庫を破れるか?監禁室から半時間以内に脱出できるか?」
「…何をそんなにお急ぎなんですの…?」
「では柔道か空手の心得はお持ちかな。小競り合いのたびごとにあの男の加勢に回らねばならんのが面倒でな。そっちはそっちでやってもらえると助かる。」
「そんな野蛮なこと、したこともありませんわ!」
「男をたらしこむのはお得意かな?」
そしてドイツ人は瞬きをし、感に堪えんとでも言いたげな声を漏らした。「まともな男がだぞ・・・、あれはなんというか…、あんたは知らんだろうが…、とにかく完璧な女に化けやがるんだ。だがやつはもちろん男にも化ける。必要さえあればな。あの野郎ときたら、一度なんぞこのおれを完全にコケにしやがった。ただの道路工事人夫だとおもったら…。で、それがあんたにできるか?」彼はヴィクトリアの豊満な胸に目を落とし、眉をしかめた。
「たらしこむって何の話!あなたやっぱり同性愛者なの!?」
彼は瞬きをした。「それとこの話になんの関係がある。あんたが弟ができることならなんでもできると豪語するから、ひとつずつ確認しとるだけだぞ。まあいい、もう少し具体的な状況で考えてみよう。アラスカの僻地の山小屋でにっちもさっちも行かなくなったとする。周りを狼とロシア人に取り囲まれた。そこで物音が聞こえた…、」
「なんですって?ロシア人と狼?アラスカ?」彼女は一歩引き下がった。「あなた一体、何を…?」
「せめて銃ぐらいは使えるだろうな?あの男、こればかりはさっぱりだめだ。獲物に銃口をぴったりくっつけてでもなければ、引き金を引いてもかすりもしない。」
「銃!触ったこともありませんわ!」ドイツ人ときたら銃マニアばかりだ。戦争のたびごとにそうだったはず。それにしてもこの妙ちくりんな質問ときたらなに?頭でもおかしいの?
「フン。で、有能な計理士はお持ちかね?寝ぼけながらでもおれの税金を正確に算出したうえで、それを半分に節税できるような方法をひねりだせるような計理士は?SISの役立たず職員に知り合いは?世界中の裏の世界にコネはあるんだろうな?おれのせいでさんざん痛い目にあう覚悟はどうだ?細身の剣一本でアラブの王族との決闘を受けて立つ準備は?ナイフ投げで人を殺せるか?」
彼女は答えるすべもなく、口を半開きにしたまま立ち尽くした。
フォン・デム・エーベルバッハは鼻を鳴らし、煙草の灰を落とした。「ということはつまり、あんたにあってあの男に無いものといったら、これだけということだな。」彼は正確にヴィクトリアの胸の谷間を指さした。「それからこっちか?」言いながら、指先が降りて彼女の足の間を指した。
「な…、な…?」
彼はさらに上半身を倒した。「子供を欲しいと思ったこともないのでな。だからそれも何のメリットにもならん。おれにはすでに跡継ぎがいる。親戚の坊主だ。おれにはそれで十分だ。あんたの見てくれは悪くない。美しいといわれることも多かろう。なにしろあの男にそっくりだ。あの男も…、いや、いい。それにあんたは随分立派なもんを持っとる。」
少佐は彼女の胸の谷間をたっぷり鑑賞する目つきで覗きこみ、視線を這いまわした。それから不意に声を落とした。まるで突然、立ち聞きされるのが心配になったように。「女の胸というのも悪くない。というより、むしろ好きだといってもいい。まあ大抵の場合、ふたつ揃っとるしな。男についとるあれはなあ…、おれは同性愛者ではない。うじうじ決めかねとるわけでもなければ、両刀どっちも同じようにいけるというわけでもない。言わば、そうだな…、野郎のあれと女のおっぱいとを比べてどうかといえば、好みで言えば四分六というところだ。おっぱいの勝ちだ。だだな、おまえさんの弟のあの『四割のあれ』が、たいていの女の六割のこれよりも、おれのこの旺盛な食欲をたっぷり満たしてくれるのさ。で、結論だが、」彼は肩をすくめた。「あんたの弟の勝ちだ。」
そして彼は体をそらし、声を元の大きさに戻した。「それから言っておくと、おれはおまえさんの弟に首ったけだ。はっきり言ってのぼせあがっとるんだ。」
ヴィクトリアは、悲鳴とも怒号とも付かない叫びを残して走り去った。
クラウスはその背を見送った。そしてその場を去った彼女の背後でドアをがっちりと閉め、室内の音楽と喧騒とを遮り、「顔を引っ掻かこうとせんだけ、前回よりマシだったな。」と、ひとりごちた。
暗闇の中から何かが姿を表した。石の手すりに腰掛けた人物が、長い足をドイツ人の前に伸ばしてきた。月光と室内からの灯りに、その男の豊かすぎる金髪の巻毛がくっきりと浮かび上がった。これほど目立つ存在がどうやってその身を暗闇に溶け込ませることが可能なのか、クラウスにはどうしても理解できなかった。
「リヴィアはいつだってヴィクトリアよりお転婆だったからねえ。」ドリアンが口を開いた。
彼は風のように自然な動きで立ち上がり、両腕を誘惑するするように広げた。クラウスは両開きのドアの向こうのパーティの喧騒をちらりと見遣り、ドアのガラスにべったりを顔をへばりつかせでもしない限りは、中からバルコニーの様子は見えないだろうと判断した。そこで彼はドリアンに近づき、ドリアンの力強い両腕の中に自らを埋めた。腕が、クラウスを愛撫した。片手は彼の方を、もう一方は背中をたどるように下へ降りて、尻を掴みあげた。そのひと押しで、双方の下半身がぴったりと合わさった。ドリアンのものはすでにそそり立っていて、下着の中の大きな塊がクラウスを突いた。クラウスがさっと体を引いたので、お互いの体のその部分の布越しの接触は終わった。
「任務に戻らねばならん。」クラウスはたしなめた。マイクロフィルムの受け渡しまでには、あと五分もない。これ以上部下どもに濡れ場を見られたら、おれは上司に申し開きができん。それにしてもクソ忌々しい。おまえの姉どもときたら、いちいちおれにちょっかいをかけんと気が済まんのか?」
放埒な、だが満足気な微笑がドリアンの顔いっぱいに広がった。「私の一族は趣味がいいってことじゃないかな。エーベルバッハ一族の特徴の何事かが、わたしたちを惹きつけてやまないのさ。何事も前向きに考えようよ。二人分はすでにすませんたんだから、残ってるのはたったの一人。今月中にソフィアの件も済ませちゃおうか。」
「おれという肉の塊を見せびらかしながら歩いとるつもりか、おまえは。」
ドリアンはクラウスに体を寄せ、もう一方のの手もクラウスの尻に這わせながら、素早く唇を奪った。「そうさ、最上級の…」キスをもう一度。「肉汁たっぷりの…」またもやキス。「世界で最も美味なる肉、それがきみの肉体さ、クラウス。ヴィクトリアもリヴィアも、ソフィーにはなんにも話さないだろうから、ソフィーとのことも見ものだねえ。けちけちしないで、たっぷり楽しませておくれよね。」
「わかった、わかった。なんでもしてやるさ。」
「それと7月の私の誕生日には、まだ私の母が残ってるからね。」
「なんだと?! おいドリアン、いくらなんでもそれは…」
クラウスの抗議はドリアンのキスにふさがれた。さっきのバタフライ・キスとは打って変わった、情熱的で粘っこいキス。クラウスは問題を先送りにし、自堕落な舌のもつれ合いを存分に楽しむことにした。室内に戻る時間が迫っていることを承知しているクラウスは、頭の一角で残り時間を計りながらドリアンの舌を味わっていたので、そのドリアンの方から唇を離したことに少なからず驚いた。とはいえ、ドリアンの両手はまだ未練気にクラウスの尻への愛撫をやめないままでおり、クラウス自身の前もそれ以上の成り行きを求めて、不穏気に鎌首をもたげ始めていたのだが。
「ところでクラウス、きみはヴィッキーをこっぴどく振ってみせたよ。余は満足である、とでも言っておこうか。よって、そなたには褒美を取らせよう。」
ということはつまり、ヴィクトリアのおっぱいを小声で褒めたあの部分は、ドリアンには聞こえていなかったわけだ。助かった。胸だけは自分にないものだと、ドリアンが拗ねたことがあったのだ。で、褒美ってのはなんだ?悪くない申し出だ。こういうときのこいつはやけに気前がいいし、思いもよらんことを言い出したりするからな。
「いったい何だ?」クラウスは尋ねた。
「こういうのはどうだい?さっさと任務を終えて、二人で家に戻るのさ。今夜はきみが上でいいよ。」
不意の興奮でいきなりあそこが勃った。ドリアンはめったに、めったにめったにめったにめったに、それをさせてくれないのだ。普段はまあそれでもいい。というのもクラウスはどちらかといえば、ええと、うむ、…まあいい。ドリアンの『四割のあれ』ときたら全く働き者で、また持ち主の方も使い方をよく心得た海千山千の技巧派の熟練の達人なものだから、クラウスとしては普段の夜の営みについては特に不満もないのだった。
だがほんのときおりドリアンが寛大にもそう申し出てくれることがあり、その『たまのごちそう』ときたらいや全くもう格別の味わいで…、双方ともちょっと手を付けかねるほど乱れた夜になってしまうのが常だった。と、ここまで考えた時、ドリアンの瞳が光を受けてきらりと輝いた。クラウスが何を考えているかなど、とっくにお見通しらしい。
「とっとと任務を終わらせるぞ。」その言葉を実行すべく、クラウスはドリアンのけしからん手つきから身を離し、広間へ戻る両開きのドアの方へ向かった。ドアをあける前に短く息を付き、パーティ好きの不埒な女達をこれ以上刺激しないよう、半勃ちの具合をなんとか目立たず調整すべく前をまさぐった。
やつの母親が言い寄ってきた時にこっぴどく振ってみせたら、もう一回上でやらせてくれるのか? クラウスはそう考えてみた。もしそうなら、おいしすぎてとても抵抗できん申し出だと言わざるを得んな、実際。
The End
作者から: 少佐はハンサムな男性です。だからほかのひとからも、クラウスへの賛辞を言わせてみたかったの。それでもやっぱり、クラウスはドリアンを選ぶのよね。説明しにくいけど、そういう話です。
訳者から:私はこの作者さんの書く、マチュアな男性たちであるこの二人が大好きなのです。
2013/07/22
Snippet #05- Windows To The Soul - by Kadorienne
Snippet #05 - Windows To The Soul
by Kadorienne
【警告】上記のリンクには成人向けコンテンツが含まれている可能性があります。
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概要: 一旦この戦いが始まると、鉄のクラウスは(暫定的に)めろめろのアルミホイルのクラウスに変身してしまうのであった…
作者より: このお話はsnippet(断片)として書き始めましたが、結局一つのまとまったお話となりました。
次にこんなことになったら、もう手加減しないさ。 ドリアンは自分にそう約束した。
次にクラウスがあんなふうに私を見たら…、彼に、キスをする。
その「次」というのがいつになるのか、ドリアンには知る由もないのだが。愛しい少佐が見せたあの表情。あれは、鉄の少佐の鎧の真下に息づく、暖かな肉体を持つ人間そのものとの接触だった。そしてそれは同時にあの瞬間クラウスもまた、派手な衣装と傲慢な物言いの下にいるドリアン本人を知ったはずなのだと、伯爵は確信した。それが自分の考えすぎだとしたら、二人の男がお互いの目を正面から捉え、あんなふうに魂の奥底まで見通すことがありえただろうか?
時折、クラウスのその表情には何かを恥じているような気配が感ぜられることがあった。例えばあの時。少佐は伯爵のシャツの胸ぐらを掴んで引き寄せ、殴りかかろうとした。その時ドリアンは静かに、自分はマグナムを片手で使う男とは体の作りが違うのだと伝えた。クラウスはしばしドリアンを見つめ、胸ぐらをつかんだ手を離すと、あの種の男にはめったにない気遣いとしてマーキュロクロムをよこしたのだった。それはよこすというよりは、薬瓶を文字通り投げつけてきたということだったけれども。
その同じ表情でドリアンを見たのは、少佐が守勢を見せた時の事だった。KGBのうすのろミーシャがずうずうしくも、少佐の熱烈な愛国心を揶揄して「ハイル・ヒトラー!」と嘲笑の野次を飛ばしたのだ。 鉄格子の向こう側へ送ったノイエ・ナチスのテロリストの数ではどの諜報部員にも遅れを取らないクラウスを、そんなふうに嘲るとは。その瞬間のドリアンの激昂は少佐に優るとも劣らず、だが行動は少佐に先んじた。クラウスよりドリアンが一歩先に踏み出し、その卑劣な豚の頬を手の甲で打ったのだった。そして彼は愛する人に告げた。「私で充分だ。きみが手を挙げる価値はない。」その見返りに、彼は無防備な瞬間のクラウスを垣間見ることが出来たのだ。もしあのとき、その無防備さに乗じていたら…。
その無防備さをもういちど見たいと思った。だから告げた。愛していると。だがそこにいたのはまさに鉄のクラウスだった。石のような表情を変えないまま、愛の告白に殴打を返してよこした。
それを見たことはまたほかにもあった。世界和平首脳会談の会場に仕掛けられた爆薬を安全な場所まで運び出し爆破させたあと、その場に崩れ落ちるように眠りに落ちたクラウスを半時間後に揺り起こした。その時のクラウスもまた、その表情をしていた。疲れきった少佐を、好きなだけ眠らせてやりたかった。だが、命じられたとおりに半時間で声を掛けるのにためらいはなかった。クラウスの、クラウスなりの魅力をたたえた緑の瞳が開き、自分を見下ろすドリアンの瞳にその焦点を合わせた。眠っている間、見守ることを許すほどエロイカを信頼した自分自身に、少しく驚いているような顔つきだった。
驚いているような、そしてひょっとして怯えているような? それが、ドリアンがその表情を見るたびに胸に浮かぶ思いだった。ドリアンは少佐の防御の鎧を一枚一枚は剥いでゆく。それゆえ、少佐はさらに怯えを増す。そう、おそらくそうなのだ。彼は、架空の城塞に一人で閉じこもっていたようなものだ。彼が誰かを信頼したことなどあっただろうか?
そしてドリアンには確信があった。クラウスがあの表情を見せている時こそが、彼の唇を奪うにふさわしい時だと。少佐が珍しく寛大に振舞っているときや、さらにめったにないことだが、ほんの少しでも馴れ合いを見せているときではない。そんな時ではない。そういう時には、ドリアンはむしろはやる心をしっかりと引き締めた。そもそもめったにないことだったし、少佐のなけなしの忍耐を試すような真似は、愚か者のすることだ。
そしてまた、クラウスが明らかに不意を突かれてうろたえている瞬間もまた、それにふさわしい時ではなかった。例えばあのアラビアン・ナイトのような夜。ドリアンは盗みとったエメラルドのネックレスをクラウスの胸元に当て、エメラルドは黒髪に似合うと告げた。自分がドリアンと思いのほか近づき過ぎていることに気づき、そういうふうにうろたえるクラウスを何度も見たことがあった。一度などはまさに、クラウスは両腕の中に不意にドリアンを見つけてひどく取り乱した。KGBのエージェントだと思い込んで拘束しようとしたのだ。そのときの少佐のうろたえぶりにこそ、ドリアンはついに確信したのだった。激しい拒絶とは裏腹に、彼はドリアンを求めているのだと。だが、パニック寸前の相手につけこんで誘惑するというのも野暮な話すぎる。
とはいえ、普段通りのクラウスに挑むのもまた勝ち目がなさすぎた。完全に自己を抑制していて、例によって苛立っていて、どんな些細な挑発も見逃さずに激昂する少佐。そういう時にうっかり何かをしかけようとでもして、文字通り痛い目をみた事は何度もあった。
だからちがう。ドリアンが動くのは、少佐の防御の鎧が剥がれ落ちた突然の瞬間でなくてはならない。そしてドリアンはその機会を素早く掴み取らねばならない。なぜなら少佐はすぐに鎧を再び身にまとうだろうからだ。それはいつも思いがけないときに姿を表し、そのことを知っているものの目にしか見えない。そして一旦目にしたそれはあまりにも魅力的すぎて、ドリアンはただ、催眠術でもかけられたかのように愛する者の凝視の中に囚われている自分に気づくのだった。
そしてドリアンがその一歩を踏み出すことさえ出来れば。なぜならいつも、彼にはその一歩を踏み出す勇気がないのだった。その瞬間のクラウスは、ワイヤーロープが脆弱だと言えるとすれば、ほぼそれに近いほど危うかった。まさにそれゆえに、ドリアンはクラウスを自分の両腕の中に抱き取りたかった。そして同時に、それゆえにドリアンはそれをすることを恐れたのだった。そんなつかの間の弱さを利用するのは、残酷で痛ましすぎる。
だがそれこそが、愛するものをこの手に掴み取るただひとつの機会なのだと、彼にはわかっていた。クラウスが彼にそれを許すのは、偶然の機会にしかありえない。だからクラウスを愛した者として、ドリアンこそがその一歩を踏み出さねばならないのだ。
だから、そうするさ。すぐ次の機会にはね。ドリアンはそう自分に言い聞かせながら、その愛の対象へと足を向けた。少佐はカフェの前に立ち、伯爵を待っていた。伯爵の遅刻はただか一分か二分程度のものだったが、少佐は伯爵を睨みつけ、大げさに腕時計を付きだしてみせた。
「ごめんよ、少し遅れてしまったようだね。髪がうまくまとまらなかったんだ。」伯爵は甘ったるい声でそう声をかけた。予期していた通り、少佐は眉をしかめた。そして一言も発しないままに頭だけを動かして伯爵について来いと命じ、歩道を大股で歩きはじめた。少佐の上背は伯爵より2インチほど高いだけだったが、それでも少佐の歩幅に付いて行くのはたいへんだった。
「こんなふうに歩いている私達ときたら、全く呑気な通行人にしか見えないよね。怪しい人物だと目を引くことはなさそうだ。」伯爵はそういう言い方で故意に歩幅を緩め、少佐は仕方なくペースを落とした。
そのままブロックをふたつほど歩くまで、少佐は口を開かなかった。「あの灰色のビルだ。歩きながら外側を観察しろ。」
伯爵は言われたとおりにした。今回の侵入先はあの建物か。それはオフィスビルで、小さな会社が雑居しているタイプの建物ではなく、ある程度の企業がまるごと借りきっているように見えた。ということはつまり、セキュリティはより厳しいということになる。
その建物についていろいろ御託を並べてみたが、少佐が聞いている様子はなかった。伯爵は窓をざっと観察し、バルコニーか非常階段かは無いかと探してみた。どちらもなかった。建物の入口をすべて記憶したが、外部者が建物に足を踏み入れるには、正面玄関経由で受付にその旨を伝える必要があることもわかった。レセプションの女性は伯爵の魅力に答えて親切な応答をよこしたが、警備員の目は彼を素通りして少佐を不審げに睨みつけた。
再び歩きはじめながら、伯爵は尋ねた。「きみがひどく不機嫌なのは、建物の中を一応確認しておくってのがまずい考えだった思ってるからか、それとも今日の私の服が気に入らないからか、どっちだい? 今日はきみの好みに合わせて、こんなつまんない服を着てきたってのに。」そのふわふわしたボリュームたっぷりのパウダーブルーのセーターは、いつものコーディネートに比べれば随分と抑え目だった。とはいえ、肩を覆って揺れる金の巻毛にはよく合っていたし、瞳の色とはさらにぴったりだったのだが。
「その服は悪くない。」少佐の口調には嫌味はなかった。
「じゃあどうしてそんなしかめっ面なのかな。母がよく言ってたよ。いやな顔ばかりしてると眉間の皺が治らなくなりますよって。気にしてなかったけど、母は正しかったのかも。」
「情報源によれば、書類は11階にあるという話だ。」少佐はすでに調査済みの警報装置と、破るべきドアの鍵のタイプについて暗唱した内容を繰り返した。「で、ここを破れるか?」
伯爵は快活な笑い声を上げ、片手を上げて豊かな髪をさっと肩の後ろにやった。「ねえ少佐、私を試すつもりならもうちょっとマシなお題をよこしてくれよ。できないわけなだろ、この私が。」
少佐は角を曲がりながら短く肯いた。彼らはもう1ブロックほど歩いた所で別れ、それぞれの車でこの場を去ることになっていた。伯爵は少佐に痺れるような流し目をくれて、囁いた。「でもさ、きみはいつもこうやって、私だけを試そうとしてくれるんだよね。そうだろ、少佐?」
少佐はひどいしかめっ面になった。「どのみちそういうことを言い出すだろうとは思っとった。つまらん冗談はやめろ。貴様にくれてやるもんなんぞ何もない。」
「ちぇっ、興ざめだね。」伯爵は口を尖らせた。「ちょっとぐらいいい夢見せてくれたっていいだろ。」彼らはそのまま黙って歩き続けた。それから伯爵が思わせぶりな口調になった。「ねえ少佐、私がなにより嫌いなことって、何だかわかるかい?」
少佐は眉をしかめた。「言ってみろ。くれてやれるかもしれんぞ。」
伯爵はふっと微笑んだ。「私ができなかったことを、ほかの誰かが私を出しぬいてやってのけるってことさ。」そう言って、彼はきらきら輝く瞳を、少佐の魅力的な長身の上から下まで舐めるように這わせた。意味するところは明らかだった。
少佐は足を止めた。思った通り激怒したように見えた。少佐の顔色が赤とも紫ともつかぬ色合いに変わるのを、伯爵は冷静に観察した。少佐はやっとのことで、食いしばった口元から言葉をひねり出した。「たまには意見が合うこともあるようだな。」
伯爵は楽しげに頷いてみせた。「というわけで、きみに幾つかアドバイスをしてもいいかな。そういうきわどい状況をどう避けるかとか、厚かましく口説きにかかってくる私みたいな変態を、どうやって追い払うかとか。」
少佐は少し驚いたような顔で伯爵を見た。自制を取り戻し、再び歩き始めるまでに数秒かかった。彼は歩きながらこう言った。「それは助かるな。とびきりの専門家からの助言というわけだ。」
伯爵は長い睫毛を瞬かせた。この手の冗談に、少佐が軽口を返してくるなんて。「私みたいに不埒な誰かがきみをからかったときにはね、少佐、きみみたいに怒り狂って反応しちゃだめなんだよ。うんざりしたように、つまらない冗談に退屈してるって素振りを見せなきゃ、ますます調子に乗らせちゃうよ。」
少佐は伯爵の説明を、聞き慣れない外国語に耳を傾けるような風情で注意深く聞いていた。「きみみたいな極端な反応だと、私達はこう思うのさ。『ここに隠れホモがいるぞ!』ってね。」
その一言が効いたようだった。少佐は足を止め、伯爵の方に向き直って怒鳴りつけた。「貴様は…、貴様はなぜそう飽きもせずくだらん嫌がらせばかり繰り返す!」
「きみを愛しているからさ、少佐。」伯爵は簡潔に答えた。
少佐は口元をへの字に結んだ。「よくわかった。ならば教えてくれ。どうやったらおまえに嫌われることができるんだ?」
「きみのことなんて大嫌いだよ、少佐。」伯爵は答えた。こんなふうに少佐が取り付く島もない態度の時には、本当にそうだった。「そしてね、それでもきみを愛する気持ちを止められない。そのふたつは相容れない感情じゃないんだ。」
少佐がぎくりと凍りついた。激怒の仮面が落ち、不意を打たれた驚きの表情が取って代わった。そしてその視線が伯爵とぶつかった。
そのとき伯爵が少佐の瞳の中に見て取ったもの、それは絶望だったのだろうか? 少佐は自分の生い立ちを悔いたことがあるのだろうか。彼の職業を?理想に満ちた愛国心と責務と名誉と、それらに忠実に身を捧げすぎたがゆえにありのままの生き方からから外れたと、思い当たったことはあるのだろうか?深夜一人で過ごす寝室で孤独を感じることはないのか?高すぎる代償を支払ったと感じることはないのか?
猫のように光る緑の目に宿るものは、孤独なのか?
そして彼は、伯爵の瞳の中にある純粋な気遣いを読み取っただろうか?読み取ったからこそ、その凝視がドリアンを捉えて離さないのではないのか?クラウスは常にドリアンを拒否し続けてきた。ドリアンの愛の宣言を、欲望と倒錯にのみ動機づけられていると一顧だにしなかった。だがたった今のように真摯に向き合いさえすれば、彼は真実を知るはずだ。ドリアンが純粋にクラウスを愛していることを。だからこそ、クラウスが背負わされた恐るべき重荷のことを気遣っているのだと…
きみを愛している。ドリアンもういちど胸の中でそうつぶやいた。こんなにも激しく愛している。だから、ほら、口になんか出さなくても聞こえているはずさ。わからないはずがないじゃないか。なぜ同じやり方で応えてくれないんだ?
クラウスが口を開いた瞬間、その口調の静けさにもかかわらずドリアンは驚きのあまりほとんど跳び上がりそうになった。「愛しながら嫌うなんぞ、ありえん。」彼はドリアンに冷ややかな視線をくれ、それから付け加えた。「おれは貴様が嫌いだ。」
伯爵は息を呑んだ。少佐はくるりと踵を返し、大股でその場を去った。伯爵はその後姿から目を離せなかった。心臓がまだ早鐘を打っていた。
「私もきみが大嫌いだよ、ダーリン。」去りゆく後ろ姿にそうささやいてみた。
泊めてあった車へ足を向けながら、自分がまたもやその機会を逸した事実をしみじみと噛み締めた。気鬱か彼を襲った。たったいま、その機会が目の前にあったのに。見知らぬ者たちが行き交う街中であることなんか、気にしなければよかったのに。あんなふうに視線を合わせた瞬間に、他のことなんかどうだってよかったのに。
伯爵はマセラティのドアを開け、シートに深く沈み込んだ。
次こそは。ドリアンは自分にそう約束した。次にクラウスがあんなふうに私を見たら…、彼に、キスをする。
情報を盗み取るのを実行に移したのは、二日後だった。週の終わりの金曜、誰もが疲れすぎていて伯爵の偽造ID(極上の出来だったが)を仔細に検査しようなどとは考えない日を選んだ。変装(こちらも上出来)もまた、誰の注意も引かなかったし、そもそも彼が何をしているのか不審に思ったものなど誰もいなかった。
書類は難なく手に入った。予期した通りの場所にそれはあり、伯爵は手にした書類をそのまま少佐のもとへ届けた。彼らは別のカフェで落ち合い、少佐は書類を無愛想に受け取ると、折りたたんでベストのポケットにしまいこんだ。そして眉をしかめた顔のまま伯爵を見た。
「教会へでも行くか?」彼はそう尋ねた。
伯爵は驚いて少佐を見つめた、だが返答にためらいはなかった。
「いいね。」体にぴったり合ったスリーブレスのシャツの上にゆったりしたジャケットを羽織ると、伯爵は立ち上がって少佐の後に続いた。
少佐が先に立ち、無言のまま歩道を歩いた。このめったになく穏やかな休戦を破る気は、伯爵にはなかった。
少佐が初めて伯爵を教会に誘ったのは、ローマへ行く道すがらでの事だった。誘われた時には意外さのあまり唖然としたものだ。任務の合間を角付きあわせずに過ごすことに、まだ慣れていなかった時期のことだったし、そもそもふたりとも無神論者なのだ。だがクラウスは「教会はいいぞ。他のどこよりも落ち着いた気分になれる。」とだけ言い、わずかに微笑んだ。
そこで彼らはサン・サルバトーレ、起源を十六世紀に遡る教会へと足を向けた。伯爵は教会そのものと、少佐が見せた思いがけない親しさの両方にぞくぞくするような興奮を覚えていた。教会にはサルベッティのいくつかの作品と、ピエトロ・ダ・コルトナによるキリスト降誕図があった。
彼らはほとんどの時間を驚くほど友好的な雰囲気のまま、黙って過ごした。会話もあった。伯爵は教会の装飾について話し、美術史と建築史にかんする薀蓄を傾けた。カソリックの教育を受けて育った少佐が、ステンドグラスに描かれた聖人について彼なりの意見を述べた。
もちろんその雰囲気は長くは続かなかった。彼らはその日のうちに任務へと戻り、たちまちのうちに小競り合いを再開していたからだ。だが同じ機会がその後何度かあった。たいていは数年おきに、任務のうちの凪の日を捉えて、二人はこんなふうにに教会に座りにきた。
この日の教会は、これまで訪れた教会ほどきらびやかではなかったが、落ち着いた静かな魅力があった。灰色の壁石をアーチ型の天井を見上げ、伯爵は自分がゴシックロマンの世界にいる空想にふけった。壮大で陰鬱な舞台設定、謎と危機に満ちた世界、そして不機嫌な黒髪の美丈夫。
「きみに連れて来られるまで、私は教会が大嫌いだったんだよ。」しばらく二人で腰掛けた後に、ドリアンは穏やかな口調でそう告げた。
「なんで教会が嫌いなんだ。静かでいいところだろうが。」
「無神論者のきみでもそう思うのかい?」
「もちろんだ。」
伯爵は考え込んだ。「きみはどうして無神論者なのかな。」
少佐の答えは予想通りのものだった。「単にそのほうが合理的だからだ。科学的に考えたほうが、何事にも説明はつく。」
「それはちがうね。」伯爵はほとんど反射的に尖った声を返したが、その後を続けることは自分で思いとどまった。こんな窮屈な話題で少佐と言い争いをしたくはなかった。彼はその代わりにこう口に出した。「私が教会を嫌いなのは、十二歳のときにそこで長く過ごしすぎたからだよ。」
「なぜだ?十二の時になにがあった?」
伯爵はすこし口ごもり、唇を噛んだ。「自分が同性愛者だと自覚したんだ。それからは、このとおりさ。」彼は言葉を切り、少佐がこの場を立ち去るのを待った。
少佐の態度がすっと冷たくなったようだった。だが彼は黙ったままその場にとどまった。
それに促され、伯爵は言葉を続けた。「それから一年近くも、毎日一時間ほどを教会で過ごしていたんだ。石の床の上にひざまずいてね。祈りを捧げる場所にはベルベットのクッションがあって、その上に跪けばいいんだけど、肉体の痛みを捧げれば神様は応えてくれるんじゃないかと、そのときはそう思ったんだ。そこで何時間も祈ったよ。神さま、ボクを普通にしてください、って。」
少佐は伯爵を見た。眉をひそめていたが、うんざりした嫌な顔ではなく、純粋に困惑している表情だった。「それは…、その…自分が嫌だったのか?」
伯爵は挑むように髪をかき上げた。「きみはどう思う? 十二の少年がある日突然そのことに気づいて、『大人になったら変態になるんだ』って素直に考えるとでも?」
少佐はますます眉をしかめた。「おまえがいつも自分をの志向を見せびらかすようにしているのを見ていると、おれには…」彼はそこで言葉を切った。「おまえがそんなふうに悩んだことがあるとは、正直思いもよらん。」
「そうだね。完全に吹っ切れて、こういうお気楽な態度でいられるようになったのは何年後だったかな。」伯爵はかつて見せたことのない苦い表情で少佐に答えた。当時の努力をを思い出すことは今となっては殆どなかったが、語っているうちに過去の苦痛と自己嫌悪がさざ波のように押し寄せてくるのを感じていた。
「おまえの父親は、さぞかし落胆したことだろうな。」少佐はややためらった後に、不器用に口を開いた。伯爵は、少佐が同情を示そうとしているのかと訝しんだ。同情は少佐が最も不得手とする感情だろう。だがなおそれを伝えようとする少佐に、伯爵は心を打たれた。
「父も同性愛者だったんだよ。」彼は柔らかい口調で答え、少佐は目を見開いた。「私がそうなりたくなかった理由のひとつはそれだ。両親の離婚の原因だからね。二人が寝室を共にしていたのは、跡継ぎの男児が生まれるまでの事だった。私には姉がたくさんいるんだ。とはいえ、生まれてきた跡継ぎがこの私じゃあ、どのみち次の代はなくなっちゃうけどね。」伯爵は皮肉っぽく付け加えた。
「それで…、諦めるまでどのくらい祈っていたんだ?」
「九ヶ月か、十ヶ月かってとこだね。最初の数ヶ月間なにも答えが得られないままに祈り続けた後に、神様に締切を設けたんだ。私の十三歳の誕生日の日までって。母がその日のために盛大なパーティを催してくれた。もう姉たちをつれて別居していたんだけどね、とにかくそれは母の仕事だった。その辺りに住む貴族の子供は皆招待したよ。私は自分でもすごく努力して、美しく着飾った伯爵令嬢やら男爵令嬢やらに魅力を見出そうとしたんだけど、でもだめだった。どうしても彼女たちの兄弟のほうに目が行ってしまうんだ。何ひとつ変わったわけでもない。その日を境に、わたしは無神論者になったんだよ。」
少佐は眉をしかめながら聞いていた。「なるほど。」と一言だけ肯いた。そしてしばらく考え込んだ後、伯爵に向かって付け足した。「その日のおまえが無神論者だったわけではない。ただ神に対してひどく怒っていることを、自分自身に伝えていただけなんだ。」
伯爵はふっと笑った。「そうかもね。きみにもわかるのかい?」
少佐はその質問を無視した。「今のおまえは何に対しても怒っとらん。雲雀のように陽気にさえずっとる。」
伯爵はため息を付いた。「雲雀を傷つけるのは簡単じゃないからね、少佐。」少佐の不審顔に向かい、伯爵ははっきりと答えた。「きみが何に傷つくかを知った奴らは、それを使ってきみを傷つけに来るのさ。でもきみがその弱点を陽気に笑い飛ばしていれば、だれもそこを武器で突いてはこない。つまりそういうことさ。でもきみは全く正しいよ。私は激怒していたんだ。神と、この世界の全てにね。こんなふうに生まれることを自分で望んだわけじゃない。もし教会や国家が、私が故意に為したわけではないこのことのために私を罰するというなら、こんな世界は世界ごと地獄に落ちてしまえばいい!」
少佐は、まるで初めて会う相手を見るような顔つきで伯爵を見ていた。「だからおまえは…、そういうふうに振る舞うのか。全くのおかしな奴のように。馬鹿げたふるまいの下で、そんなことを考えていたのか。」
「もちろんさ、ダーリン。私の軽薄なんて文字通り皮一枚の薄さだよ。」
「そして、だからこそ、おまえは犯罪者なんだな。社会に対して復讐しているんだ。常軌を逸したやつでいることで。」
伯爵は肩をすくめた。「そういうふうにも言えるね。」
「そうも言える? その他に何か理由でもあるのか?」
伯爵は動きを止めて考え込んだ。「きみの言うことは正しいかもね。私の最初の窃盗の事情を考えると。」
少佐は物言いたげな視線を伯爵に向けた。「言え。貴様が道を踏み外した理由を知りたい。」
「道を踏み外してなんかないけどな。」伯爵は言い返した。「泥棒は私の正業さ。最初の窃盗について言うとね…、父の友人が、ジョルジョーネの『牧人』という素晴らしい絵画を所有していたんだ。何年もの間、そこを訪問するたびにその絵の前に立って、何時間も過ごしたんだよ。あの絵は素晴らしかった。私の初恋だな。」
「だからそれを盗んだということか。」少佐の唇が軽蔑に歪んだ。
「私が十三歳の日に、彼はそれを贈ると言った。」伯爵は尖った声で続けた。「支払いとして。」
少佐は鼻を鳴らした。「洟垂れ小僧に何の支払いだ、何の。」言い終わる前に答えにたどりついたと見えた。彼は伯爵へ、純粋な嫌悪の表情を向けた。「おまえ、その絵のために体を売ったのか?」
「きみなら戦車一台を要求してただろうね!」伯爵はぴしゃりと言い返した。「そして答えはノーだ。私は体を売ったわけではない。ただ性的に虐待されたんだ。私は十三歳で、あの男は五十代だったんだよ!彼は力づくで私を手篭めにしたわけではなかったけれど、それはその必要がなかったという理由だけだ。私は恐怖のあまり何一つ抵抗できず、そしてあの男はそれをよく知っていたからね!」
伯爵は喉が震え出すのを感じた。この事件を思い出すことはめったになかった。むしろ努力して心の片隅からでも追いだそうとしていたのだ。だが一旦よみがえれば、その記憶は今なお当時と同じ痛みと怒りを伴っていた。その男の好色な目つきと体中を撫で回す手を、彼はありありと思い出した。その時感じた恐怖さえ。記憶は次々と蘇った。その間ずっと、あの絵を凝視していたのだ。その絵を見つめることだけが、意識を苦痛へと向けない唯一の方法だった。そして彼にはその『牧人』が、あたかも羊たちを守るかのように、ドリアンをもまた護ろうとしているかのように感じていた。大丈夫だから、と。きみはこのことを乗り越えて生き延びて行ける、と。
伯爵は少佐が自分を見つめていることに気づいた。凝視の中に、幾ばくかの怯えが感じられた。「父親には言ったのか?」彼はためらいがちに尋ねてきた。
伯爵は首を横に振った。「誰かに話せるようになるまでには、何年もかかったよ。あまりにも恥じていてね。」
「おまえ自身が恥じるようなことはなにも…」
「もちろんないさ。でも、ただそう感じたんだ。」伯爵は素早く後の話を続けた。そのことについてはこれ以上何も語りたくなかった。「いくらもたたないうちに、その絵が私のもとに届いた。贋作だった。私にはひと目でわかったよ。彼は私を強姦し、それから私を騙した。そこで私の中で何かが壊れたんだ。私は報復を決意した。私が正当な権利を持つあの絵を手に入れることにした。そう、盗もうとしたんだ。」
「なるほど。」少佐はそう頷き、長い沈黙の後に続けた。「そのことで、同性愛者となることをやめようとは思わなかったのか?」
「そんなことは不可能だね。」伯爵は返した。「私が男と何をしたいかを、むしろはっきりさせてはくれたけどね。」
少佐はさっと顔を背けた。「言うな。それ以上聞きたくない!」
伯爵の唇が自制よりも先に動いた。「行為は言葉よりも雄弁なり。言ってることと態度が正反対だよ、きみ。」
ただ一言、聖なる場所には全くふさわしくない言葉を伯爵に投げつけて少佐は立ち上がり、逃げるように去った。伯爵はその場に座りこんだままだった。いつもこれだ。どうしてこう懲りないんだろう、私は。
腰を上げるだけの気力がないまま、彼は祭壇の装飾をぼんやりと見つめていた。
セックスがが純粋に体だけのもので、純粋に快楽でしかなかった頃のことを幾度と無く思い出した。それが彼の心を揺さぶることはありえないと確信し、そう主張すらしていたのだ。それを証明するために、ベッドの相手を手当たり次第に取り替えた。愛人たちは皆、彼を独占したがった。だが彼らは伯爵の言いなりだった。右を向けといえば右を向き、左を向けといえば夜明けまでそのまま向いていた。ドリアンは相手を選り好みしなかったが、一度飽きれば何の前触れもなく使い捨てのナプキンのように彼らを捨てた。誰もが、当のドリアンですらその逆説に気づいていなかった。金のための窃盗をには手を染めない泥棒は、ロマンスに関してだけは無差別で無分別であったと。
彼はあの夜のことを覚えていた。少佐と出会い、一年ほどが過ぎた頃のことだ。あの忌々しい不感症を誘惑するという、またもや何の成果も得られなかった試みのあとに、彼は自分自身に尋ねたのだった。あの頑なに性的潔癖症のドイツ人に何を示してやれば、この情熱の真摯さと深さを教えてやれるだろう?鉄の男に捧げる犠牲としては、いったいなにがふさわしいのか?その不可避の回答に思い当たった時、彼は我知らず狼狽したのだった。
それはクラウスへ貞節を捧げることより他にない。だがまだ片思いのうちから? あの頑固なワイヤーロープが目覚めるまで、この私があのこと無しでいつまで待つと?
彼は覚えていた。何週間にも渡る葛藤ののちあるまい、彼はとうとう心を決めたのだ。怖気づいた心のままでは、あのけがれなき少佐を得ることは出来ないと。その後数ヶ月に渡る眠れない夜のことも思い出した。冷たいシャワーで欲望を静めようとした夜のことさえ思い出した。少佐がしょっちゅう部下に命じているように、ジョギングに励んだりさえしたのだ。
そして思い出した。ある日理解したのだ。群がる男たちにこの肉体をくれて「やらない」ことは、欲望との闘争ではなく、むしろそこからの解放なのだと。ある夜、素晴らしく魅力的な男に誘われた。何の未練もなくそれを断ったことを覚えている。
さらに思い出した。ある夜、少佐から何度もひどく侮辱されて平静でいられなかったことを。その手の男たちが集まる場所に向かい、最初に目を惹いた男で、自分に課した馬鹿げた誓いを台無しにしてしまおうと考えた。見てくれの悪くない男がいた。飲み物を持ってその男に近づいた。会話を交わした。いくらもたたないうちに、どうしてもその気になれない自分に気づいた。少佐に何かを言われたからではなく、事実はこうだった。行きずりの男との一夜のお遊びは、もはや彼にとって何の意味も魅力もない。彼は捉えた獲物を手放し、ホテルへ戻り、一人で眠った。
また思い出した。ついに思い知ったのだ。『体と心は別』などという気楽な放言は、ただの空威張りに過ぎなかったのだと。これまでに寝たすべての男たちは、その一人ひとりがドリアンの魂の一部を持ち去ったのも同様なのだと。何年にも渡る禁欲だけが、持ち去られた魂を元通り癒すのだと。そしてその時こそ、彼はあの過去に正面から向き合うことができるのだろう。彼の、初めての体験。卑劣な暴力により体と心の双方を引き裂かれた、あの忌まわしい過去と。今に至るまで認めることを拒否してきた苦痛と激怒が、彼の中で唐突に炸裂した。その後数ヶ月間は、この傷は永遠に癒えることがないのだろうかとのたうちながら過ごした。だがもちろん、時はすべてを癒す。傷痕は残ったが傷そのものは癒えた。時折痛む古傷のように、それは彼の心に傷痕となり残ったが、もはや彼の思考と感情の大部分を占めるものではなくなりつつあった。そしてある日、冷静にそのことを思い出せた日すらやってきた。
そしてまた、侘しい気持ちで思い返した。きみへ貞節を捧げていると、幾度と無く少佐に伝えかけたことを。だが言えなかった。この身に課した誓いと戒めと、その理由。クラウスは信じないに決まっている。そして信じないとはっきりと断じられ、鼻先で笑われれば、その場で取り乱さずにいられる自信はなかった。ましてや、これほど久しく孤閨を守りぬいた今となっては。
無遠慮な足音が、伯爵を回想から引きずり戻した。一瞬、少佐が戻って来たのかと思いかけたが、見知らぬ男が二人やってきただけだった。二人ともいかめしい表情で、トレンチコートを着込んでいた。彼らは信徒席の最前列に腰掛け、低い声で会話を始めた。伯爵は失礼にならない程度に彼らを盗み見た。一人は粗野な印象だが見栄えのいい男で、肩を覆うウエーブのかかった黒髪に、高い頬骨と濃く険のある眉を持つ、いかつい顔つきだった。もう一人は、そう、これは幼い頃には明らかに、ドリアンの母なら「一緒に遊んじゃいけません」と厳命したタイプの少年だったろうと思わせた。黒革のトレンチコートはよく似合っていたが、片頬に一直線の長い傷跡が見えた。凶暴さをうかがわせる表情といい、その男には危険な香りがした。
顔立ちの整ったほうの男が、唐突に立ち上がった。相手の言葉に気を悪くしたのは見え見えだった。彼はトレンチコートをしっかりと体に巻き付けるようにしていて、身のこなしの何かが伯爵の注意を引いた。経験に長けた熟練の掏摸の目から見ると、コートの下には大型の銃を隠しているとしか思えなかった。注意を引かないようにこの場を去るのが賢明だと判断し、伯爵は足音を潜めてその場を立ち去った。
伯爵が自分のスイートに戻ったのは、その半時間ほど後のことだった。彼は部屋に運ばせたモーゼルワインを啜りながら、自分を惨めだと感じないように念じ続けた。聞き慣れたノックがドアを叩いたのはその時だった。彼はたっぷり一分を費やして、鏡の前で髪を整えた。忍耐は美徳なり。少佐も少しは辛抱強さを学んだらしい。
伯爵がドアを開けると、少佐は促される前に部屋に入り込んだ。「もう数日、ここに滞在してもらいたい。面倒なことが起こってな。おまえの協力が必要になった。」
「もちろんさ、少佐。で、どんな問題が?」
「任務の直前までそれを教える気はない。知れば危険なだけだ。だがもう数日体を空けてくれ。…先に言っておくが、これは危険な任務だ。もし今ここを去るというなら…」
「馬鹿なことを言わないでくれよ。もちろん私はとどまるさ。危険の避け方なら承知してるさ。」少佐が鼻を鳴らすと、伯爵は付け加えた。「きみが私を必要としてるときに、私がどこへも行くはずないじゃないか。」
少佐は無愛想に肯いた。「週末が明ける頃まで待たねばならん。つまり、あと二日は待機になるということだ。」彼はドアの方へ去りかけた。
「で、きみは?きみはその間何をして過ごすつもりだい?」
「ジョギングでもするしかないだろう。退屈で死なんようにするにはな。」
「ねえ、夕食に誘ってもいいかな? 素敵なイタリア料理屋を見つけたんだ。あのね、」
少佐は軽蔑の視線を向けた。「男漁りなら他をあたれ。このホテルに泊まっとる、あのラグビーチームの連中なんかどうだ?」
ドリアンは自分が蒼白になるのを感じた。気がつく前に右手が動き、てのひらに痺れるような痛みを感じた。クラウスの頬を打ったのだった。
その平手打ちの音が、静寂の中に繰り返しこだましているように感じられた。少佐は伯爵を見つめていたが、怒りよりも、驚きの表情を浮かべていた。立ちすくんだままのクラウスの頬に、ドリアンの手形が紅に浮かび上がった。
ああ、まただ。この表情だ。鎧を取り落とした、無防備な驚きの表情。もう何度この表情を目にしただろう。それに心を奪われすぎて、機会がこの指の間をすり抜けてゆくのを、なすすべもなく幾度見送っただろう。
もう逃さない。
考えるまもなく体が動いていた。大きく一歩踏み出して距離を詰めると、指先でクラウスのあごを捉え、顔を寄せてためらいなく唇を押し付けた。クラウスの唇に。
少佐は体をこわばらせた。だが、それはごく微かな反応だった。彼は逃げなかった。そしてゆっくりとためらいがちに、唇がドリアンの唇に合わせてなすすべもなく応えはじめた。
鉄のクラウスが、我と我が身をどうすることもできずに。
ついに唇が離れたとき、伯爵はほんの僅かに体を引いて、愛する男を注意深く見つめた。少佐は、罠にかかった獣ののように見えた。半ダースもの銃口が彼に向けられているかのように。逃げ出そうとして、そうできずにいるかのうように。エメラルドの瞳がドリアンの呪縛に捕らえられていた。頤が、これから銃殺されることを覚悟しているかのように引き締められていた。
ただくちづけを受けただけだというのに、あたかも暗殺を待つように見えた。
ドリアンはたまりかねてもう一度唇を寄せた。そうせずにはいられなかったのだ。彼の中で片隅に追いやられたなけなしの理性が、やめろ、やりすぎだと叫んでいたのだが。だがもうこれ以上我慢できなかった。二度目は噛み付くようなキスになった。指先を練絹の黒髪の中に這わせ、さらには素晴らしい筋肉のついた背をどこまでも探りながら、力を込めて抱き寄せ、体を押し付けた。二人の息が荒くなった。
クラウスは、痛みを伴うものであるかのようにキスを受けた。彼は震えていた。だが抵抗はしなかった。ためらいがちに上がった両腕が、ドリアンの背をおずおずと包み込んだ。
ドリアンが未練気にクラウスの唇を解放すると、クラウスがまだ同じ表情で自分を見つめていることに気づいた。体を震わせながら、贖罪に捧げられる生贄の子羊のように、怯えながら逃げだすこともできずに。
エロイカ、だから言ったろう。おまえは貪欲すぎる。理性がドリアンを非難し、伯爵は我が身を叱咤して一歩下がった。こんなにも欲しすぎて、腕の力を緩めて愛する男を解放するだけで肉体的な痛みすら覚えた。こんな時に…
そのとき気付いた。クラウスの手がドリアンの手首を力いっぱいつかみ、去らせないように引き止めているのだった。
彼はそっとクラウスの顔を見た。だがクラウスは目をそらせ、視線を合わせなかった。彼はドリアンの細い手首を握りしめる自分の指を凝視していた。
「クラウス?」ドリアンは囁いた。
震えながら、何かを言い出そうとして唇を開けたクラウスはしかし、もう一度それを引き結んだ。実際に口を開くまでに、彼は何度かそれそ繰り返した。そしてついに絞り出した声は、彼の常の声とは全く違った、しわがれた低い声だった。
「やめろ。こんなことをするのはやめ…」彼はそれ以上続けられなかった。
「それって、きみは私を欲しいって意味だね?」ドリアンは優しい声で尋ねた。触れなば落ちん風情そのものだったが、相手の劣勢にはつけ込みたくなかった。ましてやそれが愛する少佐を傷つける結果につながるかもしれないとしたら…。
身震いし、目を閉じたクラウスを見て、ドリアンはこれはまずいことになったかもしれないと内心で慌てた。彼の目的は「鉄のクラウスを誘惑すること」であって、「彼をアルミフォイルのクラウスに変身させること」ではなかった。だからこそ、これまで幾度もその機に乗じるチャンスが有ったにもかかわらず、実行に及ばなかったのだ。相手が最も脆弱な瞬間を利用するのは、道義的にやってはならないことだと彼は感じていた。だが今やドリアンはパンドラの箱を空けてしまった。となれば、いかなる成り行きにもドリアンは対処してゆかねばならない。
とてつもなく長い時間が起ったように感じられた。クラウスは目を硬く閉じたまま、顔を背けていた。だが彼の震える手はドリアンの手首をしっかりと握りしめたままでいて、ドリアンは息を潜めたまま、クラウスの表情を注意深くうかがい、脆く壊れやすい恋人が心を決めるのを待った。ついにクラウスが顔を上げ、目を開いた。「ドリアン…」彼はそれだけを言い、再び口を閉じた。救いを求めるような表情だった。この瞳は何を訴えようとしているのか?
だがドリアンの愛してやまない頑なな軍人の口からは、どのような形であれその種の懇願が漏れることは不可能と同じほどに難しかった。ドリアンは彼を落ち着かせようと考え、ゆっくりと手を伸ばして指先でクラウスの頬をなぞった。クラウスは目をかたく瞑ったまま、ドリアンの手のひらに頬を寄せた。まだ震えていて、息をするのもやっとという風情だった。
なんてことだ。なんてことをしてしまったんだ、私は。キスをふたつと少しの愛撫だけで、クラウスときたらもう気を失ってしまいそうだ。きっと触れられることに飢えていたんだ。それと、愛されることと。ドリアンは、自分が知らず知らずのうちに体を前に倒しているのに気づいた。だがクラウスのことで、あとで自分に言い訳をするような無様なことはしたくなかった。そしてなにより、かれにもまた良心というものがあったのである。
「クラウス?私の大事なきみ。」ドリアンは囁いた。クラウスは応えなかった。「これ以上は無理なら、そう言ってくれ。」ドリアンは優しく続けた。「返事は一言だけでいいんだ。」彼は高鳴る心臓を抑えつつ、耳を澄ませて待った。
クラウスは目を開けなかった。そしてとうとう、喉を振り絞るように一言つぶやいた。「やめろ…。」
魂が大地に砕け散ったような気がした。痛みを覚えつつ、ドリアンは後ろに下がった。愛する男から体を引き剥がしつつ。
ドリアンの手首をつかむクラウスの手に力がこもった。苦しげにまぶたを開き、クラウスはかすれた声で言った。「ここで終わらせるのはやめろと言ってるんだ…」
それが彼に言える精一杯だったらしい。ドリアンは落ち着きを取り戻すために息を吸い、それから申し出た。「クラウス、あのソファに座ろう。あそこなら落ち着いて抱きしめあえるよ。」
クラウスは何も言わずに従った。彼らは黙ったまま、長い間座り込んでいた。クラウスは額をドリアンの首の窪みに押し付けたままだった。ドリアンは’ゆっくりとクラウスの暗い色の髪を撫で、指で梳いた。それ以上のことをしそうな自分を必死で抑えていた。ただ時折、唇をクラウスの髪に寄せては離し、離してはまた口付けていた。
長い時間がたった。だがとうとうクラウスが息を整えて体の震えを抑えこんだ。彼はドリアンの腕の中にからだを預けた。ああ、神よ。彼はやはりドリアンを求めていたのだ。絶望的なほどに。
クラウスが顔をあげた。ドリアンを見つめる瞳が落ち着きを取り戻していたが、その色はまだ幾分気遣わしげだった。「ドリアン。」彼はもう一度、口に出してそう呼んだ。
「なんだい?愛するきみ。」
クラウスは再び唇を閉じた。彼にその言葉を口にさせるのに、あと何が必要なのだろうか。ドリアンはこちらから切り出して見ることにした。
「クラウス。」できるかぎり落ち着いた声で話しかけた。「きみに触れてもいいかい?」
その言葉に、クラウスは体を震わせて一瞬目を閉じた。だが再び目を開けた時、彼は自分の腕に目を落とし、その腕を広げてドリアンの身体をゆるく包み込んだ。
ドリアンはクラウスの肩を撫でた。「私の大事なきみ。今すぐじゃなくていいんだ。きみが望むとき。それが今夜でも、明日でも、もしかしたら来年の今日でも、きみがその気になった時でいいのさ、ダーリン。」
その言葉がクラウスの中の何かを揺り動かしたようだった。彼ははっとしたように背筋を伸ばし、ドリアンの凝視を真っ向から受け止めた。そして言った。「今夜だ。」低く、だがはっきりとした声で。
「急がなくていい。ただきみが自分自身に確信を…」
「今夜と言ったんだ。」彼の指はドリアンの二の腕を、痛々しいほどに掴みあげていた。
ドリアンはそれでもなお懸念を拭いきれなかった。この成り行きは、彼が想像していたものとはかなりちがっていた。だがとにかく、ドリアンはクラウスの意志を確認したのだ。彼らは初めて、お互いを求めて見つめ会い、クラウスが求め、ドリアンはこれからそれに応えようとしているのだ。今ならクラウスが自己に抗っていた理由がよくわかる。彼は認めたくなかったのだ。これまで幾度かそうなった時でさえ、自分を抑制できなくなることを恐れていたのだ。だが今や彼はドリアンが無理強いしないことを知った。ドリアンが自分を愛していること、ドリアンが自分の弱点を容赦なく突いてくるのではなく、愛情に満ちた態度で自分に接してくることを理解したのだ。
ドリアンは立ち上がってクラウスの手をとり、彼を立ち上がらせると手を引いてベッドルームへと導いた。クラウスはおとなしく従った。奇妙なほどの従順さだった。よかろう。ドリアンは時間を掛け、正しく事を進めようと決意した。たとえ彼がどれほど怯え、尻込みしていたとしても、それがクラウスにとって悦ばしき体験となるように。
そしてまた、ああ、この男はこれほどまでに素晴らしい。ドリアンはゆっくりとクラウスの衣服を剥いだ。隠れていた肌が現れるたびに、その部分を愛した。クラウスは受け身のままその愛撫を受けていたが、彼がドリアンが与えるものを享受しつつあることは明らかだった。彼はドリアンに体を寄せ、くぐもったうめき声を上げながら、あえいでいた。苦しげに、だがなんと美しく。
ドリアンはクラウスをそっとベッドに押し倒し、その上に横たわった。何をしているのかを自覚していた。
「恐れなくていい、クラウス。きみの嫌がることはしない。してくれないなら死ぬって、きみが思うまではね。」
彼は長い時間を掛けてゆっくりと慣らした。僅かな痛みは多分避けられないだろう。だがドリアンはその痛みをクラウスの快感の波に沈めた。ドリアンの与える感覚にクラウスは引き回され、降伏した。完全に。
ドリアン自身の征服の叫びは、クラウスのうめき声にかき消された。
満ち足りた笑みを抑えることが出来ないまま、ドリアンは体位を変えて恋人に身体を寄せた。クラウスは、何も言わずに豊かかな巻き毛に顔を埋めた。彼らはそのまま、何も言わずに眠りに落ちた。
目が覚めると隣が冷たいことに気づいたドリアンは、それなりに気落ちしたものの、特に驚きはしなかった。置き書きもなにもなかった。枕に残る二三本の長くまっすぐな黒髪以外には。シャワーを浴び、服を着る前に、ドリアンは自分自身の胸の中でひとり祝杯を掲げることを自分に許した。
ホテルのレストランには少佐の部下がいた。「私の大事な人はどこかな?」例によって軽薄な口調を装うのに、すこし気を使った。たぶんそう出来たと思う。少なくとも、少佐の部下たちはだれも何も気づかなかったようだ。彼らは別にドリアンに対してびくついてもいなかった。
「少佐はこちらにはいません、グローリア卿。」Zがいつもどおり礼儀正しく答えた。「事情があり、ここを離れたんです。理由は教えられていません。ですが、次回の行動までには間に合うように戻るとのことでした。」
ドリアンは気取った態度を崩さないように務め、胸の内を注意深く隠しこんだ。逃げ出す前ですら部下に指示を残すなんて、なんて少佐らしい。どこかで一人で取り乱しているんだろうか。「で、その次回の行動ってのは、いつ?」
「そのときになればお知らせします。」Aが二人の会話に割って入った。表情を厳しく引き締めていた。ドリアンの鋭い視線に、Aはその厳しい表情をややたじろがせ、付け加えた。「お知らせします。グローリア卿。」
ドリアンはテーブルに付いた少佐の部下たちをぐるりと一瞥し、魅力的なふくれっ面を作ってみせた。「わかったよ。今のところ私は用なしってわけだね。買い物にでも行ってこいってとこかな。」
彼は自分のスイートに戻り、二時間あまり気が狂ったように電話をかけ続けた。自分の部下たちに命じ、あらゆる方面に捜索の手を伸ばしたのだった。病院、バー、教会など。だがクラウスはどこにも姿を表していなかった。
不吉な仮説を証明することに疲れ果てたドリアンは、その日の残りの時間をただいらいらと過ごした。
「電話の一本でも寄こしたかい、少佐は?」ドリアンはわざを苛立ったような表情を作り、Zにそう尋ねてみた。その演技が純粋な気遣いを隠してくれることを期待しながら。
「いえ、グローリア卿。しかし少佐はすぐに戻られます。」Zはそう請け合った。部下たちは少佐の単独行動を特に不審に感じてはいないようだった。便りがないのは良い知らせ、ドリアンはそう思うことにした。とはいえ、引き続き部下たちには少佐の捜索を命じてあったのだが。
今となっては、自分のやったことが大変な大間違いだったのではないかと恐れ始めていた。クラウスが愛に飢えていることは疑いの余地のない事実だったが、その飢餓をああいうふうに満たしたことは、果たして正しいやり方だったのだろうか? ひょっとして、クラウスが受け取ったものは彼の限界を超えていたのかもしれない。恐ろしい仮定だが、ありえることだ。ドリアンは二人のあの夜のことを何度も繰り返し脳裏でたどった。どこかに引き返すべき場所があったのではないかと。彼はクラウスの崖っぷちの同意に、付け込むべきではなかったのかもしれない。
ドリアンの部下たちは、スイートルームに閉じこもったままの主人を文字通り引きずり出してレストランへ向かった。普段のジェイムズなら悲鳴を上げそうなほど格調高い店だったが、そのジェイムズでさえ主人を心配するあまり値段の話はせず、そのせいでドリアンは無理にでも一口ふた口をのどに押し込んだ。だがほとんど食べられなかった。食欲が戻る日なんて、この先あるのだろうか。
夕食後に、自分の部屋で一人になれた時には正直ほっとした。ドアを後ろ手に閉め、小さくため息をついて部屋の明かりをつけたドリアンは、ぎょっとしてほとんど跳び上がりそうになった。クラウスが窓辺に立ち、ドリアンに背を向けたまま夜景を見ていた。誰かが自室に侵入していたことに気付かなかった事自体、ドリアンがどれほど取り乱していたかの証明のようなものだった。
クラウスは身動き一つせず、口を開きもしなかった。だが背中の緊張が、ドリアンの存在を感じていることを示していた。
ドリアンは呼吸を整え、考えをまとめようとした。あの夜が失敗だったとするならば、これ以上の失敗は許されない。注意深く進めなければ。クラウスのぎりぎりの神経に触らないように、正しくことを進めなければ。
「心配していたよ。」なんとか落ち着いた声を出すことができた。「何か飲むかい?」
返事までには時間がかかった。だがともかく、クラウスは頷いた。ドリアンは黙ったままグラスを2つ用意した。なにかを語るべきならば、それはクラウスに始めさせたほうがいいだろう。グラスを持ってクラウスに近づき、一メートルほども離れた位置で足を止めて、グラスを差し出した。クラウスはそれを受け取り、半分ほどを喉に流し込むと、ドリアンの方に向き直った。お互いの視線が、同じ強さでお互いを捕らえ合った。
クラウスの眼が少し赤らんでいるように見えた。よく眠れていないのかもしれない。瞳は悩みを浮かべているというよりは、むしろなにかを知りたがっていた。答えを求めていた。
ドリアンは待った。
なおも待った。
もはやそれ以上待てないと感じ、かれは柔らかい声で一言、言葉を取り落とした。「きみを、…きみを傷つけていなかったことを祈るよ。」
モーゼルグリーンの瞳にまたたいていた何かが止まった。
ドリアンはもう言葉を止められなかった。「お願いだクラウス、なにか言ってくれ。」
あたかもその一言を待っていたかのように、クラウスの唇がすうっと引き締められた。彼は喉を鳴らし、顔を背けて再び窓の外を見遣った。視線が夜空のどこに向けられているとも知れなかった。
「ドリアン…」彼は口を開いた。声が低くしわがれていた。「このことは誰にも言ったことがない。」
ドリアンは何も言わなかった。この危うい瞬間がガラス細工のように砕け散ることを恐れた。
「おまえがおれに話した、あのことだ。」一句ごとに絞りだすような声だった。「おまえの十三歳の時の話だ。」
クラウスが何を語りだそうとしているのか理解するまでに、ほんの数秒かかった。思い当たると同時に喉がきつく締まり、胃がねじくれ返った。
「クラウス…?」ドリアンはささやくように呼びかけた。頼む、私の想像が外れていると言ってくれ…
「おれは十二の時だった。」クラウスはそこで言葉を切った。それで充分だった。
愛する男へ駆け寄り、抱きしめたいというという衝動と戦った。だがそれはこの場合正しいとは思えなかった。彼はその場に思いとどまり、息をこらえた。「神よ…。」食いしばった葉の間から言葉が漏れた。彼は拳を握りしめ、唇に押し当てた。「なんてことをしたんだ、私は…!」
「ちがう。」クラウスは毅然と声を上げた。「おまえは…、ちがっていた。」
ドリアンは肺から息を絞り出した。安堵の言葉が唇から漏れた。
緊張を解かないクラウスの後ろ姿を見るかぎり、彼にはまだなにか語らねばならない何事かがあるようだった。ドリアンは絶望的に苦悩した。クラウスのもとに駆け寄るべきか、なにか声をかけるべきか。だが恐れのあまり何も出来なかった。
「あれは苦痛だった。」クラウスがついに口を開いた。喉がひくひくと震えていた。「そして同時に、自分を、自分を…」
「恥じた。」ドリアンが言葉を補った。「自分自身を激しく責めた。そうだね?」
「それだけではない。」クラウスは続けた。続く言葉を無理にねじ伏せるように、クラウスはその後をさらに続けた。「最悪だったのは…、」だが言葉は唐突に途切れた。
クラウスにはその後を続けることができないと悟った時、ドリアンは静かに付け加えた。「わかってるさ。最悪だったのは、受けた暴力とその苦痛にも関わらず、きみはそのことが…、完全に嫌ではなかったってことだね。」
クラウスはびくりと身震いした。
「私にはわかるんだ。」ドリアンは落ち着いた声で繰り返した。クラウスの苦悩を、突如として完全に理解したのだった。「だからこうなったと、きみは考えていたんだね。自分がが同性に否応なく惹かれるのは、そのことがあったからだと。」
「今はそうは思わん。」クラウスの声は低すぎ、ドリアンはそれを注意深く聞き取らねばならなかった。「何がどうあったとしても、今の自分を止められたとは思えん。おまえに…心を奪われてゆく自分を。」
全身をつらぬく痛みにも似た感情の中、ドリアンは目を閉じた。「おお、神よ…。知っていたら、決してこんなふうにはしなかったのに…」
クラウスは唇をきつく引き結んだままだった。
「心から許しを請うよ、きみに。」ドリアンは言葉を押し出した。
その言葉にクラウスはさっと振り向き、エメラルドの瞳で刺すようにドリアンを凝視した。ドリアンの続く言葉は、その強すぎる凝視にさえぎられた。
視線が交錯した。クラウスの瞳には、なんの警戒も、身を守る手立ても浮かんでいなかった。それは素のままのクラウスで、それゆえにドリアンは瞳の奥のすべてを見通すことが出来た。遠い過去の苦痛、おびえと怯み、だがついに痛みを共有できる相手を得たという癒し。そこには切望としか呼びようのない感情が浮かんでいて、ドリアンの心臓はその視線に直に鷲掴みにされた。そしてその心臓の裂け目から、新しい共感が溢れ出るのを感じた。その感情に名付けることは出来なかった。どの言葉を使っても、正しく伝えられるとは思えなかったからだ。
不意に何の前触れもなく、何度も繰り返し胸のかなで呟いていた言葉が、いままた胸の中に湧き上がった。
次にクラウスがあんなふうに私を見たら、彼に、キスをする。
ひょっとするとクラウスの鋭い眼差しは、本当にドリアンの心を読み取ることができるのかも知れなかった。なぜなら彼は無言のままでドリアンに体を寄せ、両手のひらでドリアンの頬を包み込むと、そのまま唇を寄せたのだった。
ドリアンは、心地よい抱擁のなかに身も心も預けた。すべてがあるべき場所にぴたりと収まったような感覚だった。
唇が離れたが、彼らはお互いに見つめ合ったままでいた。興奮よりむしろ安堵に似たなにかを感じつつ。
やがてクラウスが口を開いた。「その唇が誰か別のやつに触れるなら、」彼は落ち着き払った声で言った。「お前を殺す。そいつもだ。」
ドリアンは輝くような笑みを浮かべた。「私も愛しているよ、きみを。」
<終>
Note:
It's not cricket. It's just not cricket: = It's not done.; It's not acceptable. Having something that is unjust or just plain wrong done to someone or something. This come from the game of cricket which is regarded as a gentleman's game were fair play was paramount.
作者より: このお話はsnippet(断片)として書き始めましたが、結局一つのまとまったお話となりました。
次にこんなことになったら、もう手加減しないさ。 ドリアンは自分にそう約束した。
次にクラウスがあんなふうに私を見たら…、彼に、キスをする。
その「次」というのがいつになるのか、ドリアンには知る由もないのだが。愛しい少佐が見せたあの表情。あれは、鉄の少佐の鎧の真下に息づく、暖かな肉体を持つ人間そのものとの接触だった。そしてそれは同時にあの瞬間クラウスもまた、派手な衣装と傲慢な物言いの下にいるドリアン本人を知ったはずなのだと、伯爵は確信した。それが自分の考えすぎだとしたら、二人の男がお互いの目を正面から捉え、あんなふうに魂の奥底まで見通すことがありえただろうか?
時折、クラウスのその表情には何かを恥じているような気配が感ぜられることがあった。例えばあの時。少佐は伯爵のシャツの胸ぐらを掴んで引き寄せ、殴りかかろうとした。その時ドリアンは静かに、自分はマグナムを片手で使う男とは体の作りが違うのだと伝えた。クラウスはしばしドリアンを見つめ、胸ぐらをつかんだ手を離すと、あの種の男にはめったにない気遣いとしてマーキュロクロムをよこしたのだった。それはよこすというよりは、薬瓶を文字通り投げつけてきたということだったけれども。
その同じ表情でドリアンを見たのは、少佐が守勢を見せた時の事だった。KGBのうすのろミーシャがずうずうしくも、少佐の熱烈な愛国心を揶揄して「ハイル・ヒトラー!」と嘲笑の野次を飛ばしたのだ。 鉄格子の向こう側へ送ったノイエ・ナチスのテロリストの数ではどの諜報部員にも遅れを取らないクラウスを、そんなふうに嘲るとは。その瞬間のドリアンの激昂は少佐に優るとも劣らず、だが行動は少佐に先んじた。クラウスよりドリアンが一歩先に踏み出し、その卑劣な豚の頬を手の甲で打ったのだった。そして彼は愛する人に告げた。「私で充分だ。きみが手を挙げる価値はない。」その見返りに、彼は無防備な瞬間のクラウスを垣間見ることが出来たのだ。もしあのとき、その無防備さに乗じていたら…。
その無防備さをもういちど見たいと思った。だから告げた。愛していると。だがそこにいたのはまさに鉄のクラウスだった。石のような表情を変えないまま、愛の告白に殴打を返してよこした。
それを見たことはまたほかにもあった。世界和平首脳会談の会場に仕掛けられた爆薬を安全な場所まで運び出し爆破させたあと、その場に崩れ落ちるように眠りに落ちたクラウスを半時間後に揺り起こした。その時のクラウスもまた、その表情をしていた。疲れきった少佐を、好きなだけ眠らせてやりたかった。だが、命じられたとおりに半時間で声を掛けるのにためらいはなかった。クラウスの、クラウスなりの魅力をたたえた緑の瞳が開き、自分を見下ろすドリアンの瞳にその焦点を合わせた。眠っている間、見守ることを許すほどエロイカを信頼した自分自身に、少しく驚いているような顔つきだった。
驚いているような、そしてひょっとして怯えているような? それが、ドリアンがその表情を見るたびに胸に浮かぶ思いだった。ドリアンは少佐の防御の鎧を一枚一枚は剥いでゆく。それゆえ、少佐はさらに怯えを増す。そう、おそらくそうなのだ。彼は、架空の城塞に一人で閉じこもっていたようなものだ。彼が誰かを信頼したことなどあっただろうか?
そしてドリアンには確信があった。クラウスがあの表情を見せている時こそが、彼の唇を奪うにふさわしい時だと。少佐が珍しく寛大に振舞っているときや、さらにめったにないことだが、ほんの少しでも馴れ合いを見せているときではない。そんな時ではない。そういう時には、ドリアンはむしろはやる心をしっかりと引き締めた。そもそもめったにないことだったし、少佐のなけなしの忍耐を試すような真似は、愚か者のすることだ。
そしてまた、クラウスが明らかに不意を突かれてうろたえている瞬間もまた、それにふさわしい時ではなかった。例えばあのアラビアン・ナイトのような夜。ドリアンは盗みとったエメラルドのネックレスをクラウスの胸元に当て、エメラルドは黒髪に似合うと告げた。自分がドリアンと思いのほか近づき過ぎていることに気づき、そういうふうにうろたえるクラウスを何度も見たことがあった。一度などはまさに、クラウスは両腕の中に不意にドリアンを見つけてひどく取り乱した。KGBのエージェントだと思い込んで拘束しようとしたのだ。そのときの少佐のうろたえぶりにこそ、ドリアンはついに確信したのだった。激しい拒絶とは裏腹に、彼はドリアンを求めているのだと。だが、パニック寸前の相手につけこんで誘惑するというのも野暮な話すぎる。
とはいえ、普段通りのクラウスに挑むのもまた勝ち目がなさすぎた。完全に自己を抑制していて、例によって苛立っていて、どんな些細な挑発も見逃さずに激昂する少佐。そういう時にうっかり何かをしかけようとでもして、文字通り痛い目をみた事は何度もあった。
だからちがう。ドリアンが動くのは、少佐の防御の鎧が剥がれ落ちた突然の瞬間でなくてはならない。そしてドリアンはその機会を素早く掴み取らねばならない。なぜなら少佐はすぐに鎧を再び身にまとうだろうからだ。それはいつも思いがけないときに姿を表し、そのことを知っているものの目にしか見えない。そして一旦目にしたそれはあまりにも魅力的すぎて、ドリアンはただ、催眠術でもかけられたかのように愛する者の凝視の中に囚われている自分に気づくのだった。
そしてドリアンがその一歩を踏み出すことさえ出来れば。なぜならいつも、彼にはその一歩を踏み出す勇気がないのだった。その瞬間のクラウスは、ワイヤーロープが脆弱だと言えるとすれば、ほぼそれに近いほど危うかった。まさにそれゆえに、ドリアンはクラウスを自分の両腕の中に抱き取りたかった。そして同時に、それゆえにドリアンはそれをすることを恐れたのだった。そんなつかの間の弱さを利用するのは、残酷で痛ましすぎる。
だがそれこそが、愛するものをこの手に掴み取るただひとつの機会なのだと、彼にはわかっていた。クラウスが彼にそれを許すのは、偶然の機会にしかありえない。だからクラウスを愛した者として、ドリアンこそがその一歩を踏み出さねばならないのだ。
だから、そうするさ。すぐ次の機会にはね。ドリアンはそう自分に言い聞かせながら、その愛の対象へと足を向けた。少佐はカフェの前に立ち、伯爵を待っていた。伯爵の遅刻はただか一分か二分程度のものだったが、少佐は伯爵を睨みつけ、大げさに腕時計を付きだしてみせた。
「ごめんよ、少し遅れてしまったようだね。髪がうまくまとまらなかったんだ。」伯爵は甘ったるい声でそう声をかけた。予期していた通り、少佐は眉をしかめた。そして一言も発しないままに頭だけを動かして伯爵について来いと命じ、歩道を大股で歩きはじめた。少佐の上背は伯爵より2インチほど高いだけだったが、それでも少佐の歩幅に付いて行くのはたいへんだった。
「こんなふうに歩いている私達ときたら、全く呑気な通行人にしか見えないよね。怪しい人物だと目を引くことはなさそうだ。」伯爵はそういう言い方で故意に歩幅を緩め、少佐は仕方なくペースを落とした。
そのままブロックをふたつほど歩くまで、少佐は口を開かなかった。「あの灰色のビルだ。歩きながら外側を観察しろ。」
伯爵は言われたとおりにした。今回の侵入先はあの建物か。それはオフィスビルで、小さな会社が雑居しているタイプの建物ではなく、ある程度の企業がまるごと借りきっているように見えた。ということはつまり、セキュリティはより厳しいということになる。
その建物についていろいろ御託を並べてみたが、少佐が聞いている様子はなかった。伯爵は窓をざっと観察し、バルコニーか非常階段かは無いかと探してみた。どちらもなかった。建物の入口をすべて記憶したが、外部者が建物に足を踏み入れるには、正面玄関経由で受付にその旨を伝える必要があることもわかった。レセプションの女性は伯爵の魅力に答えて親切な応答をよこしたが、警備員の目は彼を素通りして少佐を不審げに睨みつけた。
再び歩きはじめながら、伯爵は尋ねた。「きみがひどく不機嫌なのは、建物の中を一応確認しておくってのがまずい考えだった思ってるからか、それとも今日の私の服が気に入らないからか、どっちだい? 今日はきみの好みに合わせて、こんなつまんない服を着てきたってのに。」そのふわふわしたボリュームたっぷりのパウダーブルーのセーターは、いつものコーディネートに比べれば随分と抑え目だった。とはいえ、肩を覆って揺れる金の巻毛にはよく合っていたし、瞳の色とはさらにぴったりだったのだが。
「その服は悪くない。」少佐の口調には嫌味はなかった。
「じゃあどうしてそんなしかめっ面なのかな。母がよく言ってたよ。いやな顔ばかりしてると眉間の皺が治らなくなりますよって。気にしてなかったけど、母は正しかったのかも。」
「情報源によれば、書類は11階にあるという話だ。」少佐はすでに調査済みの警報装置と、破るべきドアの鍵のタイプについて暗唱した内容を繰り返した。「で、ここを破れるか?」
伯爵は快活な笑い声を上げ、片手を上げて豊かな髪をさっと肩の後ろにやった。「ねえ少佐、私を試すつもりならもうちょっとマシなお題をよこしてくれよ。できないわけなだろ、この私が。」
少佐は角を曲がりながら短く肯いた。彼らはもう1ブロックほど歩いた所で別れ、それぞれの車でこの場を去ることになっていた。伯爵は少佐に痺れるような流し目をくれて、囁いた。「でもさ、きみはいつもこうやって、私だけを試そうとしてくれるんだよね。そうだろ、少佐?」
少佐はひどいしかめっ面になった。「どのみちそういうことを言い出すだろうとは思っとった。つまらん冗談はやめろ。貴様にくれてやるもんなんぞ何もない。」
「ちぇっ、興ざめだね。」伯爵は口を尖らせた。「ちょっとぐらいいい夢見せてくれたっていいだろ。」彼らはそのまま黙って歩き続けた。それから伯爵が思わせぶりな口調になった。「ねえ少佐、私がなにより嫌いなことって、何だかわかるかい?」
少佐は眉をしかめた。「言ってみろ。くれてやれるかもしれんぞ。」
伯爵はふっと微笑んだ。「私ができなかったことを、ほかの誰かが私を出しぬいてやってのけるってことさ。」そう言って、彼はきらきら輝く瞳を、少佐の魅力的な長身の上から下まで舐めるように這わせた。意味するところは明らかだった。
少佐は足を止めた。思った通り激怒したように見えた。少佐の顔色が赤とも紫ともつかぬ色合いに変わるのを、伯爵は冷静に観察した。少佐はやっとのことで、食いしばった口元から言葉をひねり出した。「たまには意見が合うこともあるようだな。」
伯爵は楽しげに頷いてみせた。「というわけで、きみに幾つかアドバイスをしてもいいかな。そういうきわどい状況をどう避けるかとか、厚かましく口説きにかかってくる私みたいな変態を、どうやって追い払うかとか。」
少佐は少し驚いたような顔で伯爵を見た。自制を取り戻し、再び歩き始めるまでに数秒かかった。彼は歩きながらこう言った。「それは助かるな。とびきりの専門家からの助言というわけだ。」
伯爵は長い睫毛を瞬かせた。この手の冗談に、少佐が軽口を返してくるなんて。「私みたいに不埒な誰かがきみをからかったときにはね、少佐、きみみたいに怒り狂って反応しちゃだめなんだよ。うんざりしたように、つまらない冗談に退屈してるって素振りを見せなきゃ、ますます調子に乗らせちゃうよ。」
少佐は伯爵の説明を、聞き慣れない外国語に耳を傾けるような風情で注意深く聞いていた。「きみみたいな極端な反応だと、私達はこう思うのさ。『ここに隠れホモがいるぞ!』ってね。」
その一言が効いたようだった。少佐は足を止め、伯爵の方に向き直って怒鳴りつけた。「貴様は…、貴様はなぜそう飽きもせずくだらん嫌がらせばかり繰り返す!」
「きみを愛しているからさ、少佐。」伯爵は簡潔に答えた。
少佐は口元をへの字に結んだ。「よくわかった。ならば教えてくれ。どうやったらおまえに嫌われることができるんだ?」
「きみのことなんて大嫌いだよ、少佐。」伯爵は答えた。こんなふうに少佐が取り付く島もない態度の時には、本当にそうだった。「そしてね、それでもきみを愛する気持ちを止められない。そのふたつは相容れない感情じゃないんだ。」
少佐がぎくりと凍りついた。激怒の仮面が落ち、不意を打たれた驚きの表情が取って代わった。そしてその視線が伯爵とぶつかった。
そのとき伯爵が少佐の瞳の中に見て取ったもの、それは絶望だったのだろうか? 少佐は自分の生い立ちを悔いたことがあるのだろうか。彼の職業を?理想に満ちた愛国心と責務と名誉と、それらに忠実に身を捧げすぎたがゆえにありのままの生き方からから外れたと、思い当たったことはあるのだろうか?深夜一人で過ごす寝室で孤独を感じることはないのか?高すぎる代償を支払ったと感じることはないのか?
猫のように光る緑の目に宿るものは、孤独なのか?
そして彼は、伯爵の瞳の中にある純粋な気遣いを読み取っただろうか?読み取ったからこそ、その凝視がドリアンを捉えて離さないのではないのか?クラウスは常にドリアンを拒否し続けてきた。ドリアンの愛の宣言を、欲望と倒錯にのみ動機づけられていると一顧だにしなかった。だがたった今のように真摯に向き合いさえすれば、彼は真実を知るはずだ。ドリアンが純粋にクラウスを愛していることを。だからこそ、クラウスが背負わされた恐るべき重荷のことを気遣っているのだと…
きみを愛している。ドリアンもういちど胸の中でそうつぶやいた。こんなにも激しく愛している。だから、ほら、口になんか出さなくても聞こえているはずさ。わからないはずがないじゃないか。なぜ同じやり方で応えてくれないんだ?
クラウスが口を開いた瞬間、その口調の静けさにもかかわらずドリアンは驚きのあまりほとんど跳び上がりそうになった。「愛しながら嫌うなんぞ、ありえん。」彼はドリアンに冷ややかな視線をくれ、それから付け加えた。「おれは貴様が嫌いだ。」
伯爵は息を呑んだ。少佐はくるりと踵を返し、大股でその場を去った。伯爵はその後姿から目を離せなかった。心臓がまだ早鐘を打っていた。
「私もきみが大嫌いだよ、ダーリン。」去りゆく後ろ姿にそうささやいてみた。
泊めてあった車へ足を向けながら、自分がまたもやその機会を逸した事実をしみじみと噛み締めた。気鬱か彼を襲った。たったいま、その機会が目の前にあったのに。見知らぬ者たちが行き交う街中であることなんか、気にしなければよかったのに。あんなふうに視線を合わせた瞬間に、他のことなんかどうだってよかったのに。
伯爵はマセラティのドアを開け、シートに深く沈み込んだ。
次こそは。ドリアンは自分にそう約束した。次にクラウスがあんなふうに私を見たら…、彼に、キスをする。
情報を盗み取るのを実行に移したのは、二日後だった。週の終わりの金曜、誰もが疲れすぎていて伯爵の偽造ID(極上の出来だったが)を仔細に検査しようなどとは考えない日を選んだ。変装(こちらも上出来)もまた、誰の注意も引かなかったし、そもそも彼が何をしているのか不審に思ったものなど誰もいなかった。
書類は難なく手に入った。予期した通りの場所にそれはあり、伯爵は手にした書類をそのまま少佐のもとへ届けた。彼らは別のカフェで落ち合い、少佐は書類を無愛想に受け取ると、折りたたんでベストのポケットにしまいこんだ。そして眉をしかめた顔のまま伯爵を見た。
「教会へでも行くか?」彼はそう尋ねた。
伯爵は驚いて少佐を見つめた、だが返答にためらいはなかった。
「いいね。」体にぴったり合ったスリーブレスのシャツの上にゆったりしたジャケットを羽織ると、伯爵は立ち上がって少佐の後に続いた。
少佐が先に立ち、無言のまま歩道を歩いた。このめったになく穏やかな休戦を破る気は、伯爵にはなかった。
少佐が初めて伯爵を教会に誘ったのは、ローマへ行く道すがらでの事だった。誘われた時には意外さのあまり唖然としたものだ。任務の合間を角付きあわせずに過ごすことに、まだ慣れていなかった時期のことだったし、そもそもふたりとも無神論者なのだ。だがクラウスは「教会はいいぞ。他のどこよりも落ち着いた気分になれる。」とだけ言い、わずかに微笑んだ。
そこで彼らはサン・サルバトーレ、起源を十六世紀に遡る教会へと足を向けた。伯爵は教会そのものと、少佐が見せた思いがけない親しさの両方にぞくぞくするような興奮を覚えていた。教会にはサルベッティのいくつかの作品と、ピエトロ・ダ・コルトナによるキリスト降誕図があった。
彼らはほとんどの時間を驚くほど友好的な雰囲気のまま、黙って過ごした。会話もあった。伯爵は教会の装飾について話し、美術史と建築史にかんする薀蓄を傾けた。カソリックの教育を受けて育った少佐が、ステンドグラスに描かれた聖人について彼なりの意見を述べた。
もちろんその雰囲気は長くは続かなかった。彼らはその日のうちに任務へと戻り、たちまちのうちに小競り合いを再開していたからだ。だが同じ機会がその後何度かあった。たいていは数年おきに、任務のうちの凪の日を捉えて、二人はこんなふうにに教会に座りにきた。
この日の教会は、これまで訪れた教会ほどきらびやかではなかったが、落ち着いた静かな魅力があった。灰色の壁石をアーチ型の天井を見上げ、伯爵は自分がゴシックロマンの世界にいる空想にふけった。壮大で陰鬱な舞台設定、謎と危機に満ちた世界、そして不機嫌な黒髪の美丈夫。
「きみに連れて来られるまで、私は教会が大嫌いだったんだよ。」しばらく二人で腰掛けた後に、ドリアンは穏やかな口調でそう告げた。
「なんで教会が嫌いなんだ。静かでいいところだろうが。」
「無神論者のきみでもそう思うのかい?」
「もちろんだ。」
伯爵は考え込んだ。「きみはどうして無神論者なのかな。」
少佐の答えは予想通りのものだった。「単にそのほうが合理的だからだ。科学的に考えたほうが、何事にも説明はつく。」
「それはちがうね。」伯爵はほとんど反射的に尖った声を返したが、その後を続けることは自分で思いとどまった。こんな窮屈な話題で少佐と言い争いをしたくはなかった。彼はその代わりにこう口に出した。「私が教会を嫌いなのは、十二歳のときにそこで長く過ごしすぎたからだよ。」
「なぜだ?十二の時になにがあった?」
伯爵はすこし口ごもり、唇を噛んだ。「自分が同性愛者だと自覚したんだ。それからは、このとおりさ。」彼は言葉を切り、少佐がこの場を立ち去るのを待った。
少佐の態度がすっと冷たくなったようだった。だが彼は黙ったままその場にとどまった。
それに促され、伯爵は言葉を続けた。「それから一年近くも、毎日一時間ほどを教会で過ごしていたんだ。石の床の上にひざまずいてね。祈りを捧げる場所にはベルベットのクッションがあって、その上に跪けばいいんだけど、肉体の痛みを捧げれば神様は応えてくれるんじゃないかと、そのときはそう思ったんだ。そこで何時間も祈ったよ。神さま、ボクを普通にしてください、って。」
少佐は伯爵を見た。眉をひそめていたが、うんざりした嫌な顔ではなく、純粋に困惑している表情だった。「それは…、その…自分が嫌だったのか?」
伯爵は挑むように髪をかき上げた。「きみはどう思う? 十二の少年がある日突然そのことに気づいて、『大人になったら変態になるんだ』って素直に考えるとでも?」
少佐はますます眉をしかめた。「おまえがいつも自分をの志向を見せびらかすようにしているのを見ていると、おれには…」彼はそこで言葉を切った。「おまえがそんなふうに悩んだことがあるとは、正直思いもよらん。」
「そうだね。完全に吹っ切れて、こういうお気楽な態度でいられるようになったのは何年後だったかな。」伯爵はかつて見せたことのない苦い表情で少佐に答えた。当時の努力をを思い出すことは今となっては殆どなかったが、語っているうちに過去の苦痛と自己嫌悪がさざ波のように押し寄せてくるのを感じていた。
「おまえの父親は、さぞかし落胆したことだろうな。」少佐はややためらった後に、不器用に口を開いた。伯爵は、少佐が同情を示そうとしているのかと訝しんだ。同情は少佐が最も不得手とする感情だろう。だがなおそれを伝えようとする少佐に、伯爵は心を打たれた。
「父も同性愛者だったんだよ。」彼は柔らかい口調で答え、少佐は目を見開いた。「私がそうなりたくなかった理由のひとつはそれだ。両親の離婚の原因だからね。二人が寝室を共にしていたのは、跡継ぎの男児が生まれるまでの事だった。私には姉がたくさんいるんだ。とはいえ、生まれてきた跡継ぎがこの私じゃあ、どのみち次の代はなくなっちゃうけどね。」伯爵は皮肉っぽく付け加えた。
「それで…、諦めるまでどのくらい祈っていたんだ?」
「九ヶ月か、十ヶ月かってとこだね。最初の数ヶ月間なにも答えが得られないままに祈り続けた後に、神様に締切を設けたんだ。私の十三歳の誕生日の日までって。母がその日のために盛大なパーティを催してくれた。もう姉たちをつれて別居していたんだけどね、とにかくそれは母の仕事だった。その辺りに住む貴族の子供は皆招待したよ。私は自分でもすごく努力して、美しく着飾った伯爵令嬢やら男爵令嬢やらに魅力を見出そうとしたんだけど、でもだめだった。どうしても彼女たちの兄弟のほうに目が行ってしまうんだ。何ひとつ変わったわけでもない。その日を境に、わたしは無神論者になったんだよ。」
少佐は眉をしかめながら聞いていた。「なるほど。」と一言だけ肯いた。そしてしばらく考え込んだ後、伯爵に向かって付け足した。「その日のおまえが無神論者だったわけではない。ただ神に対してひどく怒っていることを、自分自身に伝えていただけなんだ。」
伯爵はふっと笑った。「そうかもね。きみにもわかるのかい?」
少佐はその質問を無視した。「今のおまえは何に対しても怒っとらん。雲雀のように陽気にさえずっとる。」
伯爵はため息を付いた。「雲雀を傷つけるのは簡単じゃないからね、少佐。」少佐の不審顔に向かい、伯爵ははっきりと答えた。「きみが何に傷つくかを知った奴らは、それを使ってきみを傷つけに来るのさ。でもきみがその弱点を陽気に笑い飛ばしていれば、だれもそこを武器で突いてはこない。つまりそういうことさ。でもきみは全く正しいよ。私は激怒していたんだ。神と、この世界の全てにね。こんなふうに生まれることを自分で望んだわけじゃない。もし教会や国家が、私が故意に為したわけではないこのことのために私を罰するというなら、こんな世界は世界ごと地獄に落ちてしまえばいい!」
少佐は、まるで初めて会う相手を見るような顔つきで伯爵を見ていた。「だからおまえは…、そういうふうに振る舞うのか。全くのおかしな奴のように。馬鹿げたふるまいの下で、そんなことを考えていたのか。」
「もちろんさ、ダーリン。私の軽薄なんて文字通り皮一枚の薄さだよ。」
「そして、だからこそ、おまえは犯罪者なんだな。社会に対して復讐しているんだ。常軌を逸したやつでいることで。」
伯爵は肩をすくめた。「そういうふうにも言えるね。」
「そうも言える? その他に何か理由でもあるのか?」
伯爵は動きを止めて考え込んだ。「きみの言うことは正しいかもね。私の最初の窃盗の事情を考えると。」
少佐は物言いたげな視線を伯爵に向けた。「言え。貴様が道を踏み外した理由を知りたい。」
「道を踏み外してなんかないけどな。」伯爵は言い返した。「泥棒は私の正業さ。最初の窃盗について言うとね…、父の友人が、ジョルジョーネの『牧人』という素晴らしい絵画を所有していたんだ。何年もの間、そこを訪問するたびにその絵の前に立って、何時間も過ごしたんだよ。あの絵は素晴らしかった。私の初恋だな。」
「だからそれを盗んだということか。」少佐の唇が軽蔑に歪んだ。
「私が十三歳の日に、彼はそれを贈ると言った。」伯爵は尖った声で続けた。「支払いとして。」
少佐は鼻を鳴らした。「洟垂れ小僧に何の支払いだ、何の。」言い終わる前に答えにたどりついたと見えた。彼は伯爵へ、純粋な嫌悪の表情を向けた。「おまえ、その絵のために体を売ったのか?」
「きみなら戦車一台を要求してただろうね!」伯爵はぴしゃりと言い返した。「そして答えはノーだ。私は体を売ったわけではない。ただ性的に虐待されたんだ。私は十三歳で、あの男は五十代だったんだよ!彼は力づくで私を手篭めにしたわけではなかったけれど、それはその必要がなかったという理由だけだ。私は恐怖のあまり何一つ抵抗できず、そしてあの男はそれをよく知っていたからね!」
伯爵は喉が震え出すのを感じた。この事件を思い出すことはめったになかった。むしろ努力して心の片隅からでも追いだそうとしていたのだ。だが一旦よみがえれば、その記憶は今なお当時と同じ痛みと怒りを伴っていた。その男の好色な目つきと体中を撫で回す手を、彼はありありと思い出した。その時感じた恐怖さえ。記憶は次々と蘇った。その間ずっと、あの絵を凝視していたのだ。その絵を見つめることだけが、意識を苦痛へと向けない唯一の方法だった。そして彼にはその『牧人』が、あたかも羊たちを守るかのように、ドリアンをもまた護ろうとしているかのように感じていた。大丈夫だから、と。きみはこのことを乗り越えて生き延びて行ける、と。
伯爵は少佐が自分を見つめていることに気づいた。凝視の中に、幾ばくかの怯えが感じられた。「父親には言ったのか?」彼はためらいがちに尋ねてきた。
伯爵は首を横に振った。「誰かに話せるようになるまでには、何年もかかったよ。あまりにも恥じていてね。」
「おまえ自身が恥じるようなことはなにも…」
「もちろんないさ。でも、ただそう感じたんだ。」伯爵は素早く後の話を続けた。そのことについてはこれ以上何も語りたくなかった。「いくらもたたないうちに、その絵が私のもとに届いた。贋作だった。私にはひと目でわかったよ。彼は私を強姦し、それから私を騙した。そこで私の中で何かが壊れたんだ。私は報復を決意した。私が正当な権利を持つあの絵を手に入れることにした。そう、盗もうとしたんだ。」
「なるほど。」少佐はそう頷き、長い沈黙の後に続けた。「そのことで、同性愛者となることをやめようとは思わなかったのか?」
「そんなことは不可能だね。」伯爵は返した。「私が男と何をしたいかを、むしろはっきりさせてはくれたけどね。」
少佐はさっと顔を背けた。「言うな。それ以上聞きたくない!」
伯爵の唇が自制よりも先に動いた。「行為は言葉よりも雄弁なり。言ってることと態度が正反対だよ、きみ。」
ただ一言、聖なる場所には全くふさわしくない言葉を伯爵に投げつけて少佐は立ち上がり、逃げるように去った。伯爵はその場に座りこんだままだった。いつもこれだ。どうしてこう懲りないんだろう、私は。
腰を上げるだけの気力がないまま、彼は祭壇の装飾をぼんやりと見つめていた。
セックスがが純粋に体だけのもので、純粋に快楽でしかなかった頃のことを幾度と無く思い出した。それが彼の心を揺さぶることはありえないと確信し、そう主張すらしていたのだ。それを証明するために、ベッドの相手を手当たり次第に取り替えた。愛人たちは皆、彼を独占したがった。だが彼らは伯爵の言いなりだった。右を向けといえば右を向き、左を向けといえば夜明けまでそのまま向いていた。ドリアンは相手を選り好みしなかったが、一度飽きれば何の前触れもなく使い捨てのナプキンのように彼らを捨てた。誰もが、当のドリアンですらその逆説に気づいていなかった。金のための窃盗をには手を染めない泥棒は、ロマンスに関してだけは無差別で無分別であったと。
彼はあの夜のことを覚えていた。少佐と出会い、一年ほどが過ぎた頃のことだ。あの忌々しい不感症を誘惑するという、またもや何の成果も得られなかった試みのあとに、彼は自分自身に尋ねたのだった。あの頑なに性的潔癖症のドイツ人に何を示してやれば、この情熱の真摯さと深さを教えてやれるだろう?鉄の男に捧げる犠牲としては、いったいなにがふさわしいのか?その不可避の回答に思い当たった時、彼は我知らず狼狽したのだった。
それはクラウスへ貞節を捧げることより他にない。だがまだ片思いのうちから? あの頑固なワイヤーロープが目覚めるまで、この私があのこと無しでいつまで待つと?
彼は覚えていた。何週間にも渡る葛藤ののちあるまい、彼はとうとう心を決めたのだ。怖気づいた心のままでは、あのけがれなき少佐を得ることは出来ないと。その後数ヶ月に渡る眠れない夜のことも思い出した。冷たいシャワーで欲望を静めようとした夜のことさえ思い出した。少佐がしょっちゅう部下に命じているように、ジョギングに励んだりさえしたのだ。
そして思い出した。ある日理解したのだ。群がる男たちにこの肉体をくれて「やらない」ことは、欲望との闘争ではなく、むしろそこからの解放なのだと。ある夜、素晴らしく魅力的な男に誘われた。何の未練もなくそれを断ったことを覚えている。
さらに思い出した。ある夜、少佐から何度もひどく侮辱されて平静でいられなかったことを。その手の男たちが集まる場所に向かい、最初に目を惹いた男で、自分に課した馬鹿げた誓いを台無しにしてしまおうと考えた。見てくれの悪くない男がいた。飲み物を持ってその男に近づいた。会話を交わした。いくらもたたないうちに、どうしてもその気になれない自分に気づいた。少佐に何かを言われたからではなく、事実はこうだった。行きずりの男との一夜のお遊びは、もはや彼にとって何の意味も魅力もない。彼は捉えた獲物を手放し、ホテルへ戻り、一人で眠った。
また思い出した。ついに思い知ったのだ。『体と心は別』などという気楽な放言は、ただの空威張りに過ぎなかったのだと。これまでに寝たすべての男たちは、その一人ひとりがドリアンの魂の一部を持ち去ったのも同様なのだと。何年にも渡る禁欲だけが、持ち去られた魂を元通り癒すのだと。そしてその時こそ、彼はあの過去に正面から向き合うことができるのだろう。彼の、初めての体験。卑劣な暴力により体と心の双方を引き裂かれた、あの忌まわしい過去と。今に至るまで認めることを拒否してきた苦痛と激怒が、彼の中で唐突に炸裂した。その後数ヶ月間は、この傷は永遠に癒えることがないのだろうかとのたうちながら過ごした。だがもちろん、時はすべてを癒す。傷痕は残ったが傷そのものは癒えた。時折痛む古傷のように、それは彼の心に傷痕となり残ったが、もはや彼の思考と感情の大部分を占めるものではなくなりつつあった。そしてある日、冷静にそのことを思い出せた日すらやってきた。
そしてまた、侘しい気持ちで思い返した。きみへ貞節を捧げていると、幾度と無く少佐に伝えかけたことを。だが言えなかった。この身に課した誓いと戒めと、その理由。クラウスは信じないに決まっている。そして信じないとはっきりと断じられ、鼻先で笑われれば、その場で取り乱さずにいられる自信はなかった。ましてや、これほど久しく孤閨を守りぬいた今となっては。
無遠慮な足音が、伯爵を回想から引きずり戻した。一瞬、少佐が戻って来たのかと思いかけたが、見知らぬ男が二人やってきただけだった。二人ともいかめしい表情で、トレンチコートを着込んでいた。彼らは信徒席の最前列に腰掛け、低い声で会話を始めた。伯爵は失礼にならない程度に彼らを盗み見た。一人は粗野な印象だが見栄えのいい男で、肩を覆うウエーブのかかった黒髪に、高い頬骨と濃く険のある眉を持つ、いかつい顔つきだった。もう一人は、そう、これは幼い頃には明らかに、ドリアンの母なら「一緒に遊んじゃいけません」と厳命したタイプの少年だったろうと思わせた。黒革のトレンチコートはよく似合っていたが、片頬に一直線の長い傷跡が見えた。凶暴さをうかがわせる表情といい、その男には危険な香りがした。
顔立ちの整ったほうの男が、唐突に立ち上がった。相手の言葉に気を悪くしたのは見え見えだった。彼はトレンチコートをしっかりと体に巻き付けるようにしていて、身のこなしの何かが伯爵の注意を引いた。経験に長けた熟練の掏摸の目から見ると、コートの下には大型の銃を隠しているとしか思えなかった。注意を引かないようにこの場を去るのが賢明だと判断し、伯爵は足音を潜めてその場を立ち去った。
伯爵が自分のスイートに戻ったのは、その半時間ほど後のことだった。彼は部屋に運ばせたモーゼルワインを啜りながら、自分を惨めだと感じないように念じ続けた。聞き慣れたノックがドアを叩いたのはその時だった。彼はたっぷり一分を費やして、鏡の前で髪を整えた。忍耐は美徳なり。少佐も少しは辛抱強さを学んだらしい。
伯爵がドアを開けると、少佐は促される前に部屋に入り込んだ。「もう数日、ここに滞在してもらいたい。面倒なことが起こってな。おまえの協力が必要になった。」
「もちろんさ、少佐。で、どんな問題が?」
「任務の直前までそれを教える気はない。知れば危険なだけだ。だがもう数日体を空けてくれ。…先に言っておくが、これは危険な任務だ。もし今ここを去るというなら…」
「馬鹿なことを言わないでくれよ。もちろん私はとどまるさ。危険の避け方なら承知してるさ。」少佐が鼻を鳴らすと、伯爵は付け加えた。「きみが私を必要としてるときに、私がどこへも行くはずないじゃないか。」
少佐は無愛想に肯いた。「週末が明ける頃まで待たねばならん。つまり、あと二日は待機になるということだ。」彼はドアの方へ去りかけた。
「で、きみは?きみはその間何をして過ごすつもりだい?」
「ジョギングでもするしかないだろう。退屈で死なんようにするにはな。」
「ねえ、夕食に誘ってもいいかな? 素敵なイタリア料理屋を見つけたんだ。あのね、」
少佐は軽蔑の視線を向けた。「男漁りなら他をあたれ。このホテルに泊まっとる、あのラグビーチームの連中なんかどうだ?」
ドリアンは自分が蒼白になるのを感じた。気がつく前に右手が動き、てのひらに痺れるような痛みを感じた。クラウスの頬を打ったのだった。
その平手打ちの音が、静寂の中に繰り返しこだましているように感じられた。少佐は伯爵を見つめていたが、怒りよりも、驚きの表情を浮かべていた。立ちすくんだままのクラウスの頬に、ドリアンの手形が紅に浮かび上がった。
ああ、まただ。この表情だ。鎧を取り落とした、無防備な驚きの表情。もう何度この表情を目にしただろう。それに心を奪われすぎて、機会がこの指の間をすり抜けてゆくのを、なすすべもなく幾度見送っただろう。
もう逃さない。
考えるまもなく体が動いていた。大きく一歩踏み出して距離を詰めると、指先でクラウスのあごを捉え、顔を寄せてためらいなく唇を押し付けた。クラウスの唇に。
少佐は体をこわばらせた。だが、それはごく微かな反応だった。彼は逃げなかった。そしてゆっくりとためらいがちに、唇がドリアンの唇に合わせてなすすべもなく応えはじめた。
鉄のクラウスが、我と我が身をどうすることもできずに。
ついに唇が離れたとき、伯爵はほんの僅かに体を引いて、愛する男を注意深く見つめた。少佐は、罠にかかった獣ののように見えた。半ダースもの銃口が彼に向けられているかのように。逃げ出そうとして、そうできずにいるかのうように。エメラルドの瞳がドリアンの呪縛に捕らえられていた。頤が、これから銃殺されることを覚悟しているかのように引き締められていた。
ただくちづけを受けただけだというのに、あたかも暗殺を待つように見えた。
ドリアンはたまりかねてもう一度唇を寄せた。そうせずにはいられなかったのだ。彼の中で片隅に追いやられたなけなしの理性が、やめろ、やりすぎだと叫んでいたのだが。だがもうこれ以上我慢できなかった。二度目は噛み付くようなキスになった。指先を練絹の黒髪の中に這わせ、さらには素晴らしい筋肉のついた背をどこまでも探りながら、力を込めて抱き寄せ、体を押し付けた。二人の息が荒くなった。
クラウスは、痛みを伴うものであるかのようにキスを受けた。彼は震えていた。だが抵抗はしなかった。ためらいがちに上がった両腕が、ドリアンの背をおずおずと包み込んだ。
ドリアンが未練気にクラウスの唇を解放すると、クラウスがまだ同じ表情で自分を見つめていることに気づいた。体を震わせながら、贖罪に捧げられる生贄の子羊のように、怯えながら逃げだすこともできずに。
エロイカ、だから言ったろう。おまえは貪欲すぎる。理性がドリアンを非難し、伯爵は我が身を叱咤して一歩下がった。こんなにも欲しすぎて、腕の力を緩めて愛する男を解放するだけで肉体的な痛みすら覚えた。こんな時に…
そのとき気付いた。クラウスの手がドリアンの手首を力いっぱいつかみ、去らせないように引き止めているのだった。
彼はそっとクラウスの顔を見た。だがクラウスは目をそらせ、視線を合わせなかった。彼はドリアンの細い手首を握りしめる自分の指を凝視していた。
「クラウス?」ドリアンは囁いた。
震えながら、何かを言い出そうとして唇を開けたクラウスはしかし、もう一度それを引き結んだ。実際に口を開くまでに、彼は何度かそれそ繰り返した。そしてついに絞り出した声は、彼の常の声とは全く違った、しわがれた低い声だった。
「やめろ。こんなことをするのはやめ…」彼はそれ以上続けられなかった。
「それって、きみは私を欲しいって意味だね?」ドリアンは優しい声で尋ねた。触れなば落ちん風情そのものだったが、相手の劣勢にはつけ込みたくなかった。ましてやそれが愛する少佐を傷つける結果につながるかもしれないとしたら…。
身震いし、目を閉じたクラウスを見て、ドリアンはこれはまずいことになったかもしれないと内心で慌てた。彼の目的は「鉄のクラウスを誘惑すること」であって、「彼をアルミフォイルのクラウスに変身させること」ではなかった。だからこそ、これまで幾度もその機に乗じるチャンスが有ったにもかかわらず、実行に及ばなかったのだ。相手が最も脆弱な瞬間を利用するのは、道義的にやってはならないことだと彼は感じていた。だが今やドリアンはパンドラの箱を空けてしまった。となれば、いかなる成り行きにもドリアンは対処してゆかねばならない。
とてつもなく長い時間が起ったように感じられた。クラウスは目を硬く閉じたまま、顔を背けていた。だが彼の震える手はドリアンの手首をしっかりと握りしめたままでいて、ドリアンは息を潜めたまま、クラウスの表情を注意深くうかがい、脆く壊れやすい恋人が心を決めるのを待った。ついにクラウスが顔を上げ、目を開いた。「ドリアン…」彼はそれだけを言い、再び口を閉じた。救いを求めるような表情だった。この瞳は何を訴えようとしているのか?
だがドリアンの愛してやまない頑なな軍人の口からは、どのような形であれその種の懇願が漏れることは不可能と同じほどに難しかった。ドリアンは彼を落ち着かせようと考え、ゆっくりと手を伸ばして指先でクラウスの頬をなぞった。クラウスは目をかたく瞑ったまま、ドリアンの手のひらに頬を寄せた。まだ震えていて、息をするのもやっとという風情だった。
なんてことだ。なんてことをしてしまったんだ、私は。キスをふたつと少しの愛撫だけで、クラウスときたらもう気を失ってしまいそうだ。きっと触れられることに飢えていたんだ。それと、愛されることと。ドリアンは、自分が知らず知らずのうちに体を前に倒しているのに気づいた。だがクラウスのことで、あとで自分に言い訳をするような無様なことはしたくなかった。そしてなにより、かれにもまた良心というものがあったのである。
「クラウス?私の大事なきみ。」ドリアンは囁いた。クラウスは応えなかった。「これ以上は無理なら、そう言ってくれ。」ドリアンは優しく続けた。「返事は一言だけでいいんだ。」彼は高鳴る心臓を抑えつつ、耳を澄ませて待った。
クラウスは目を開けなかった。そしてとうとう、喉を振り絞るように一言つぶやいた。「やめろ…。」
魂が大地に砕け散ったような気がした。痛みを覚えつつ、ドリアンは後ろに下がった。愛する男から体を引き剥がしつつ。
ドリアンの手首をつかむクラウスの手に力がこもった。苦しげにまぶたを開き、クラウスはかすれた声で言った。「ここで終わらせるのはやめろと言ってるんだ…」
それが彼に言える精一杯だったらしい。ドリアンは落ち着きを取り戻すために息を吸い、それから申し出た。「クラウス、あのソファに座ろう。あそこなら落ち着いて抱きしめあえるよ。」
クラウスは何も言わずに従った。彼らは黙ったまま、長い間座り込んでいた。クラウスは額をドリアンの首の窪みに押し付けたままだった。ドリアンは’ゆっくりとクラウスの暗い色の髪を撫で、指で梳いた。それ以上のことをしそうな自分を必死で抑えていた。ただ時折、唇をクラウスの髪に寄せては離し、離してはまた口付けていた。
長い時間がたった。だがとうとうクラウスが息を整えて体の震えを抑えこんだ。彼はドリアンの腕の中にからだを預けた。ああ、神よ。彼はやはりドリアンを求めていたのだ。絶望的なほどに。
クラウスが顔をあげた。ドリアンを見つめる瞳が落ち着きを取り戻していたが、その色はまだ幾分気遣わしげだった。「ドリアン。」彼はもう一度、口に出してそう呼んだ。
「なんだい?愛するきみ。」
クラウスは再び唇を閉じた。彼にその言葉を口にさせるのに、あと何が必要なのだろうか。ドリアンはこちらから切り出して見ることにした。
「クラウス。」できるかぎり落ち着いた声で話しかけた。「きみに触れてもいいかい?」
その言葉に、クラウスは体を震わせて一瞬目を閉じた。だが再び目を開けた時、彼は自分の腕に目を落とし、その腕を広げてドリアンの身体をゆるく包み込んだ。
ドリアンはクラウスの肩を撫でた。「私の大事なきみ。今すぐじゃなくていいんだ。きみが望むとき。それが今夜でも、明日でも、もしかしたら来年の今日でも、きみがその気になった時でいいのさ、ダーリン。」
その言葉がクラウスの中の何かを揺り動かしたようだった。彼ははっとしたように背筋を伸ばし、ドリアンの凝視を真っ向から受け止めた。そして言った。「今夜だ。」低く、だがはっきりとした声で。
「急がなくていい。ただきみが自分自身に確信を…」
「今夜と言ったんだ。」彼の指はドリアンの二の腕を、痛々しいほどに掴みあげていた。
ドリアンはそれでもなお懸念を拭いきれなかった。この成り行きは、彼が想像していたものとはかなりちがっていた。だがとにかく、ドリアンはクラウスの意志を確認したのだ。彼らは初めて、お互いを求めて見つめ会い、クラウスが求め、ドリアンはこれからそれに応えようとしているのだ。今ならクラウスが自己に抗っていた理由がよくわかる。彼は認めたくなかったのだ。これまで幾度かそうなった時でさえ、自分を抑制できなくなることを恐れていたのだ。だが今や彼はドリアンが無理強いしないことを知った。ドリアンが自分を愛していること、ドリアンが自分の弱点を容赦なく突いてくるのではなく、愛情に満ちた態度で自分に接してくることを理解したのだ。
ドリアンは立ち上がってクラウスの手をとり、彼を立ち上がらせると手を引いてベッドルームへと導いた。クラウスはおとなしく従った。奇妙なほどの従順さだった。よかろう。ドリアンは時間を掛け、正しく事を進めようと決意した。たとえ彼がどれほど怯え、尻込みしていたとしても、それがクラウスにとって悦ばしき体験となるように。
そしてまた、ああ、この男はこれほどまでに素晴らしい。ドリアンはゆっくりとクラウスの衣服を剥いだ。隠れていた肌が現れるたびに、その部分を愛した。クラウスは受け身のままその愛撫を受けていたが、彼がドリアンが与えるものを享受しつつあることは明らかだった。彼はドリアンに体を寄せ、くぐもったうめき声を上げながら、あえいでいた。苦しげに、だがなんと美しく。
ドリアンはクラウスをそっとベッドに押し倒し、その上に横たわった。何をしているのかを自覚していた。
「恐れなくていい、クラウス。きみの嫌がることはしない。してくれないなら死ぬって、きみが思うまではね。」
彼は長い時間を掛けてゆっくりと慣らした。僅かな痛みは多分避けられないだろう。だがドリアンはその痛みをクラウスの快感の波に沈めた。ドリアンの与える感覚にクラウスは引き回され、降伏した。完全に。
ドリアン自身の征服の叫びは、クラウスのうめき声にかき消された。
満ち足りた笑みを抑えることが出来ないまま、ドリアンは体位を変えて恋人に身体を寄せた。クラウスは、何も言わずに豊かかな巻き毛に顔を埋めた。彼らはそのまま、何も言わずに眠りに落ちた。
目が覚めると隣が冷たいことに気づいたドリアンは、それなりに気落ちしたものの、特に驚きはしなかった。置き書きもなにもなかった。枕に残る二三本の長くまっすぐな黒髪以外には。シャワーを浴び、服を着る前に、ドリアンは自分自身の胸の中でひとり祝杯を掲げることを自分に許した。
ホテルのレストランには少佐の部下がいた。「私の大事な人はどこかな?」例によって軽薄な口調を装うのに、すこし気を使った。たぶんそう出来たと思う。少なくとも、少佐の部下たちはだれも何も気づかなかったようだ。彼らは別にドリアンに対してびくついてもいなかった。
「少佐はこちらにはいません、グローリア卿。」Zがいつもどおり礼儀正しく答えた。「事情があり、ここを離れたんです。理由は教えられていません。ですが、次回の行動までには間に合うように戻るとのことでした。」
ドリアンは気取った態度を崩さないように務め、胸の内を注意深く隠しこんだ。逃げ出す前ですら部下に指示を残すなんて、なんて少佐らしい。どこかで一人で取り乱しているんだろうか。「で、その次回の行動ってのは、いつ?」
「そのときになればお知らせします。」Aが二人の会話に割って入った。表情を厳しく引き締めていた。ドリアンの鋭い視線に、Aはその厳しい表情をややたじろがせ、付け加えた。「お知らせします。グローリア卿。」
ドリアンはテーブルに付いた少佐の部下たちをぐるりと一瞥し、魅力的なふくれっ面を作ってみせた。「わかったよ。今のところ私は用なしってわけだね。買い物にでも行ってこいってとこかな。」
彼は自分のスイートに戻り、二時間あまり気が狂ったように電話をかけ続けた。自分の部下たちに命じ、あらゆる方面に捜索の手を伸ばしたのだった。病院、バー、教会など。だがクラウスはどこにも姿を表していなかった。
不吉な仮説を証明することに疲れ果てたドリアンは、その日の残りの時間をただいらいらと過ごした。
「電話の一本でも寄こしたかい、少佐は?」ドリアンはわざを苛立ったような表情を作り、Zにそう尋ねてみた。その演技が純粋な気遣いを隠してくれることを期待しながら。
「いえ、グローリア卿。しかし少佐はすぐに戻られます。」Zはそう請け合った。部下たちは少佐の単独行動を特に不審に感じてはいないようだった。便りがないのは良い知らせ、ドリアンはそう思うことにした。とはいえ、引き続き部下たちには少佐の捜索を命じてあったのだが。
今となっては、自分のやったことが大変な大間違いだったのではないかと恐れ始めていた。クラウスが愛に飢えていることは疑いの余地のない事実だったが、その飢餓をああいうふうに満たしたことは、果たして正しいやり方だったのだろうか? ひょっとして、クラウスが受け取ったものは彼の限界を超えていたのかもしれない。恐ろしい仮定だが、ありえることだ。ドリアンは二人のあの夜のことを何度も繰り返し脳裏でたどった。どこかに引き返すべき場所があったのではないかと。彼はクラウスの崖っぷちの同意に、付け込むべきではなかったのかもしれない。
ドリアンの部下たちは、スイートルームに閉じこもったままの主人を文字通り引きずり出してレストランへ向かった。普段のジェイムズなら悲鳴を上げそうなほど格調高い店だったが、そのジェイムズでさえ主人を心配するあまり値段の話はせず、そのせいでドリアンは無理にでも一口ふた口をのどに押し込んだ。だがほとんど食べられなかった。食欲が戻る日なんて、この先あるのだろうか。
夕食後に、自分の部屋で一人になれた時には正直ほっとした。ドアを後ろ手に閉め、小さくため息をついて部屋の明かりをつけたドリアンは、ぎょっとしてほとんど跳び上がりそうになった。クラウスが窓辺に立ち、ドリアンに背を向けたまま夜景を見ていた。誰かが自室に侵入していたことに気付かなかった事自体、ドリアンがどれほど取り乱していたかの証明のようなものだった。
クラウスは身動き一つせず、口を開きもしなかった。だが背中の緊張が、ドリアンの存在を感じていることを示していた。
ドリアンは呼吸を整え、考えをまとめようとした。あの夜が失敗だったとするならば、これ以上の失敗は許されない。注意深く進めなければ。クラウスのぎりぎりの神経に触らないように、正しくことを進めなければ。
「心配していたよ。」なんとか落ち着いた声を出すことができた。「何か飲むかい?」
返事までには時間がかかった。だがともかく、クラウスは頷いた。ドリアンは黙ったままグラスを2つ用意した。なにかを語るべきならば、それはクラウスに始めさせたほうがいいだろう。グラスを持ってクラウスに近づき、一メートルほども離れた位置で足を止めて、グラスを差し出した。クラウスはそれを受け取り、半分ほどを喉に流し込むと、ドリアンの方に向き直った。お互いの視線が、同じ強さでお互いを捕らえ合った。
クラウスの眼が少し赤らんでいるように見えた。よく眠れていないのかもしれない。瞳は悩みを浮かべているというよりは、むしろなにかを知りたがっていた。答えを求めていた。
ドリアンは待った。
なおも待った。
もはやそれ以上待てないと感じ、かれは柔らかい声で一言、言葉を取り落とした。「きみを、…きみを傷つけていなかったことを祈るよ。」
モーゼルグリーンの瞳にまたたいていた何かが止まった。
ドリアンはもう言葉を止められなかった。「お願いだクラウス、なにか言ってくれ。」
あたかもその一言を待っていたかのように、クラウスの唇がすうっと引き締められた。彼は喉を鳴らし、顔を背けて再び窓の外を見遣った。視線が夜空のどこに向けられているとも知れなかった。
「ドリアン…」彼は口を開いた。声が低くしわがれていた。「このことは誰にも言ったことがない。」
ドリアンは何も言わなかった。この危うい瞬間がガラス細工のように砕け散ることを恐れた。
「おまえがおれに話した、あのことだ。」一句ごとに絞りだすような声だった。「おまえの十三歳の時の話だ。」
クラウスが何を語りだそうとしているのか理解するまでに、ほんの数秒かかった。思い当たると同時に喉がきつく締まり、胃がねじくれ返った。
「クラウス…?」ドリアンはささやくように呼びかけた。頼む、私の想像が外れていると言ってくれ…
「おれは十二の時だった。」クラウスはそこで言葉を切った。それで充分だった。
愛する男へ駆け寄り、抱きしめたいというという衝動と戦った。だがそれはこの場合正しいとは思えなかった。彼はその場に思いとどまり、息をこらえた。「神よ…。」食いしばった葉の間から言葉が漏れた。彼は拳を握りしめ、唇に押し当てた。「なんてことをしたんだ、私は…!」
「ちがう。」クラウスは毅然と声を上げた。「おまえは…、ちがっていた。」
ドリアンは肺から息を絞り出した。安堵の言葉が唇から漏れた。
緊張を解かないクラウスの後ろ姿を見るかぎり、彼にはまだなにか語らねばならない何事かがあるようだった。ドリアンは絶望的に苦悩した。クラウスのもとに駆け寄るべきか、なにか声をかけるべきか。だが恐れのあまり何も出来なかった。
「あれは苦痛だった。」クラウスがついに口を開いた。喉がひくひくと震えていた。「そして同時に、自分を、自分を…」
「恥じた。」ドリアンが言葉を補った。「自分自身を激しく責めた。そうだね?」
「それだけではない。」クラウスは続けた。続く言葉を無理にねじ伏せるように、クラウスはその後をさらに続けた。「最悪だったのは…、」だが言葉は唐突に途切れた。
クラウスにはその後を続けることができないと悟った時、ドリアンは静かに付け加えた。「わかってるさ。最悪だったのは、受けた暴力とその苦痛にも関わらず、きみはそのことが…、完全に嫌ではなかったってことだね。」
クラウスはびくりと身震いした。
「私にはわかるんだ。」ドリアンは落ち着いた声で繰り返した。クラウスの苦悩を、突如として完全に理解したのだった。「だからこうなったと、きみは考えていたんだね。自分がが同性に否応なく惹かれるのは、そのことがあったからだと。」
「今はそうは思わん。」クラウスの声は低すぎ、ドリアンはそれを注意深く聞き取らねばならなかった。「何がどうあったとしても、今の自分を止められたとは思えん。おまえに…心を奪われてゆく自分を。」
全身をつらぬく痛みにも似た感情の中、ドリアンは目を閉じた。「おお、神よ…。知っていたら、決してこんなふうにはしなかったのに…」
クラウスは唇をきつく引き結んだままだった。
「心から許しを請うよ、きみに。」ドリアンは言葉を押し出した。
その言葉にクラウスはさっと振り向き、エメラルドの瞳で刺すようにドリアンを凝視した。ドリアンの続く言葉は、その強すぎる凝視にさえぎられた。
視線が交錯した。クラウスの瞳には、なんの警戒も、身を守る手立ても浮かんでいなかった。それは素のままのクラウスで、それゆえにドリアンは瞳の奥のすべてを見通すことが出来た。遠い過去の苦痛、おびえと怯み、だがついに痛みを共有できる相手を得たという癒し。そこには切望としか呼びようのない感情が浮かんでいて、ドリアンの心臓はその視線に直に鷲掴みにされた。そしてその心臓の裂け目から、新しい共感が溢れ出るのを感じた。その感情に名付けることは出来なかった。どの言葉を使っても、正しく伝えられるとは思えなかったからだ。
不意に何の前触れもなく、何度も繰り返し胸のかなで呟いていた言葉が、いままた胸の中に湧き上がった。
次にクラウスがあんなふうに私を見たら、彼に、キスをする。
ひょっとするとクラウスの鋭い眼差しは、本当にドリアンの心を読み取ることができるのかも知れなかった。なぜなら彼は無言のままでドリアンに体を寄せ、両手のひらでドリアンの頬を包み込むと、そのまま唇を寄せたのだった。
ドリアンは、心地よい抱擁のなかに身も心も預けた。すべてがあるべき場所にぴたりと収まったような感覚だった。
唇が離れたが、彼らはお互いに見つめ合ったままでいた。興奮よりむしろ安堵に似たなにかを感じつつ。
やがてクラウスが口を開いた。「その唇が誰か別のやつに触れるなら、」彼は落ち着き払った声で言った。「お前を殺す。そいつもだ。」
ドリアンは輝くような笑みを浮かべた。「私も愛しているよ、きみを。」
<終>
Note:
It's not cricket. It's just not cricket: = It's not done.; It's not acceptable. Having something that is unjust or just plain wrong done to someone or something. This come from the game of cricket which is regarded as a gentleman's game were fair play was paramount.
2013/07/15
Snippet #04- Klaus in a temper - by Kadorienne
Snippet #04 - Klaus in a temper
by Kadorienne
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概要: 駄々っ子クラウス。
部長が微笑んでいた。いや、微笑んでいるのではなく、してやったりとほくそえんでいるのだった。クラウスは万策尽きて黙り込んだ。所詮は無駄な抵抗だった。少佐の部下たちはおのおのが自分の机に向かい、ありもしない仕事で忙しくて顔も上げられない演技にいそしんでいた。全員が大根だった。
「正直なところね、少佐」部長はにやにや笑った。「きみがそうやってムキになって反抗する理由がよく分からんのだよ。きみにもよくわかっとる通り、彼はこの手の任務には最適な契約者だ。プロならプロらしく、自分の感情は脇にやってもらえんかね」
「あの変態といっしょの任務なんぞお断りです!」
部長の一瞥が彼に一瞬の警告を与えるのとほぼ同時に、物憂げで貴族的なアクセントの台詞が背後から投げかけられた。
「どうしてだい、ダーリン? きみの気に障るようなことでも言ったっけ?」
クラウスはぐるりと振り返って伯爵を見た。泥棒の本日のいでたちを見るなり、こめかみの血管が破裂しそうなほどに膨れ上がった。紫色のギリシャ風チュニックだかなんだかその類のものに、体の線にぴったり沿った白のボトムとサンダル、おまけに古代ギリシャ人が額に巻いていたようなバンドを同じように巻いて、豊か過ぎる巻き毛を撫で付けていた。少佐は一瞬、エロイカがハロウィーンの夜にはどんな奇天烈な格好をするのか見ないですむように神に祈った。とはいえ、この脳天気な洒落ものときたらその服装がまるで普段着であるかのようにあっさりと着こなしていた。そしてまた、彼が着るとそんな服でもごく当たり前に見えるのだった。
クラウスは何も言わなかった。叫びもしなかった。ただくるりと体を翻し、どかどかと足音を立てて自分のオフィスに戻った。普段より音を立ててドアを叩きつけながら。
ドアはほんの数秒もしないうちに開いた。クラウスは氷のような視線とぎろりと向けたが、自分の防御になるものはそれしかないと分かっていた。癇癪を起こしたクラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ少佐のオフィスに入り込もうと思うような命知らずは、この世にただ一人しか居ない。くそったれのエロイカめ。だれかこいつをなんとかしてくれ。
ドリアンはドアを静かに閉めると、ぶんむくれの少佐を優しく叱った。「あのね、少佐。人の口に戸は立てられないんだよ。」
クラウスは椅子にへたりこんだ。さっきのあの場で、この男をめっためたにぶん殴っておけばよかったとも思った。もちろんそんな事はできないのだが。
「契約を断れ。」彼は命令した。
ドリアンはやはり鉄面皮だった。柔らかに、しかし明らかに面白そうな声で笑った。「そんなことをしたらほんっとにみんなの噂の的になっちゃうよ。きみはいつもどおりにしてればいいのさ、ダーリン。今まではそこまで私を毛嫌いしてなかったろ?」彼は勝ち誇ったように微笑んだ。「とにかく、私は契約を受けるから、きみはそれを受け入れるんだ。私がきみのそばに居られるチャンスを見逃すなんて、そっちのほうがよっぽど奇妙じゃないか。」
「もし貴様が・・・」クラウスはぶつぶつ言い始めた。しかし後に続く言葉の内容に自分で気づくと、それ以上続けられなくなった。くじけずもう一度試みた。「分かってるだろうな、もし・・・」
少佐が何を言い出すか、ドリアンは辛抱強く待ってやった。その辛抱強さが余計にクラウスの気に障った。彼は伯爵の脚を蹴っ飛ばした。
「F**k you! 澄ました顔で笑うな! 怒鳴り返して来い!」
「でもダーリン、きみほど巧くできないもの。きみったらほんとに上手だよねえ。」甘ったるい返事が返った。
三種類の言語でありったけの罵倒を喚き散らした挙句に、クラウスはもう一度椅子に沈み込んだ。ドリアンはその罵倒語ごとに、丁重に目を丸くして驚いてみせた。激昂しすぎたクラウスはそれ以上の罵倒を思いつけなくなり、四つめの言語を思い出すのを諦めた。
クラウスがとうとう口をへの字に結び、凶悪な目つきで伯爵を睨みつけると、ドリアンは呑気な足取りで少佐の机に向かい、彼の椅子の側までやってきてそこに立った。そしてフンフン鼻歌でも歌いそうな様子で、だが黙ったままクラウスの机の周りを歩きはじめた。フォン・デム・エーベルバッハ少佐がこのオフィスに入ったその日から、このオフィスでそんな行為に及んだものは誰ひとりいなかった。無礼に驚いた机のほうが怒り狂って、エロイカを窓から放り出してもおかしくなかった。
つまりクラウスが口を開くまで、この沈黙は破られそうにない、ということだった。
「部長はおれの意に反しておまえを指名した。おまえと協力して任務に当たるほかに、選択肢はないようだ。」少佐はエロイカの反応を注意深く伺った。しかし泥棒はあくま礼儀正しく注意深くお話を伺っているだけだった。「この契約は単にビジネスに過ぎん。わかっとるだろうな。」クラウスは吐き捨てるように言った。
「おや、わかったよ。」ドリアンはそう言いながら、重たい黄金の巻毛を肩の後ろにさっと払った。「ということはつまり、きみは私と愛し合う気はもうない、ってことだね。」
ロマンティックな一言だった。それは、ケダモノじみた欲望に負けてしまった先月のあの夜のことを指していた。あの夜の出来事を言うには甘すぎる形容詞だとクラウスは感じた。
「鉄のクラウスがとうとう陥落したと、拡声器でアナウンスして回りたい勢いだな。」彼はとげとげしい声で言った。
ドリアンはゆるく首を振るのを、クラウスはじっと睨み返した。「ちがうさ。」伯爵はそれだけ答えた。
クラウスは表情を変えなかった。緑の瞳が、ドリアンの顔を注意深く探っていた。だが何も言わなかった。
「私のチームには知る者もいる。」ドリアンはこれまで見せたことのない真面目さで口を開いた。「隠しきれなかったからね。でも他の誰にも口外はしていない。私はきみの名誉を守るつもりだよ、少佐。」
クラウスは口の中が乾くのを感じた。長い沈黙の後に、彼は低い声で短く尋ねた。「なぜだ?」
ドリアンはクラウスの瞳の底をのぞきこんだ。真摯な表情のままだった。「それはね、ダーリン。誰にも口外されたくないときみが願っていることを、私が知っているからだよ。」
その先を続ける前に、彼は手を伸ばして指先でクラウスの頬を撫でた。クラウスは体をこわばらせたが、だが逃げなかった。ドリアンは声を落とした。声は低くささやくようで、もしその部屋に他の誰がいても、その声はクラウスにしか届かなかっただろう。「秘密にしておけば二度目のチャンスがあるかも知れないと考えたからさ。きみを手に入れるチャンスがね。」
「やめろ。」クラウスは緑の瞳をぎらつかせながらはっきりと口にした。だがドリアンの愛撫を避けることはしなかった。
「やめてもいいさ、きみが夕食に付き合ってくれるなら。」クラウスは訝しむような目を向けた。「ふたりきりの食事だよ、今夜、わたしのスイートで。何時がいい?」
クラウスは口を噤み、凍りついた。その沈黙があまりにも長く続いたので、ドリアンは少佐には返事をするつもりがないのかもしれないと考えたほどだった。だがとうとう、クラウスは掠れ声を漏らした。「七時だ。」
ドリアンは体を起こし、普段通りの軽薄な態度に戻った。「じゃあ夜までいい子で待ってるよ、ダーリン! さてと、私がドアを閉めたらそこになにか投げつけるってのはどうかな、観衆はひと騒動を期待してるよ。」
クラウスはそのばかばかしい提案を無視した。だがエロイカはドアのところで立ち止まり、振り返ると「私の背中に愛の言葉を投げつけるのを忘れないでくれよ!」と言い捨て、あろうことか派手な音を立ててキスを投げてよこしたのだった。
「ばっかもの!」クラウスは思わず反応した。手を伸ばして最初に触ったものをドアに向かって投げつけたところ、それがたまたま電話だったので、それはひどい音をたてて壊れ、電話のコードがぶつりと切れた。午前のうちに修理させたほうがいいとクラウスは思い直した。なぜなら夕方には連絡が…。
外ですくみ上がっている部下どもの様子が手に取るように感じられた。そこに伯爵のよく通る声が響いた。「ね? わかっただろ? 私がちょっと話をしたら、彼はいつも通り落ち着くんだから。」
これまでの傷跡がさんざん残るドアを眺めて、あの底抜けに不埒な野郎にも最低の分别ぐらいはあるようだと、クラウスも認めざるを得なかったのだった。
<終>
2013/07/08
Snippet #03 - From out of the blue - by Kadorienne
Snippet #03 - From out of blue
by Kadorienne
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From out of the blue. (瓢箪から駒)
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カフェのテーブルに座っていた伯爵は、眉をしかめて近づいてくる人影に向けてとびきりの輝く微笑みを向けた。機嫌の悪いクラウスは魅力的だった。そしてもちろん、少佐はほとんど常に機嫌が悪かった。
「どうしたんだい、ダーリン?」クラウスが、自分を睨みつけながら真向かいの席の椅子を引くのを見て、ドリアンは尋ねた。
「何もない、今のところはな。いつも通りだ。」
ドリアンは、クラウスのためにすでに頼んであった飲み物を手渡した。少佐はその気遣いにさらに機嫌を悪くしたように見えた。「誰かがきみの機嫌を悪くするようなことをしでかしたのかな? それとも私を嫉妬させようとでもしてるのかい?」
「ばかもの。」クラウスは低くうなった。それから煙草に火をつけ、ドリアンの方に向けて煙を吐いた。とはいえ、その煙は春風に吹き散らされて、泥棒の鼻先にまでは届かなかったのだが。「持って来たんだろうな。」
ドリアンは純粋に傷ついたような表情を浮かべてみせた。「もちろんだよ、ダーリン。私にできなかったとでも?」彼はグラスの脇に折りたたまれた新聞を肘で軽くつついた。その中に隠された書類こそが、たった今少佐が尋ねてきたものだった。
クラウスは新聞を手に取り、眉をしかめて見出しをざっと眺めているようなふりをした。それからうなづき、テーブルに戻した。
「どういたしまして」と、ドリアンは愛嬌たっぷりにうなづきかえしてみせた。「満足してもらえて嬉しいよ。で、NATOが私に求めている次の仕事はなにかな、少佐?」
クラウスは冷ややかな視線を返した。「部長が次の仕事を用意しとる。どうやらおれへの嫌がらせには、おまえを使うのが有効だと気付いたようだな。どうやらほかのどんなばか者にもできん仕事らしい。」
「もちろん、ほかに誰にだってできっこないさ。」ドリアンは手を伸ばし、指先をクラウスのひざの上で軽く遊ばせた。こんな人目のある所では、クラウスだっていきなり殴りかかっては来られまい。「きみの正気を失わせるのは私だけだってことだよ。」
クラウスは眉をしかめた。「やめんか。公衆の面前だ。」
「ふふ、それって、どこか二人だけの場所に移って、続きをこっそり楽しみたいって意味?」ドリアンは喉を鳴らした。
「その通りだ」クラウスは短く答えた。
ドリアンは両目を極限までまんまるに見開いて、呆気にとられて最愛の相手を見た。いままでこんな誘いは数え切れないほど投げかけてきた。返答はよくてせいぜい鼻先で吹き飛ばされるかで、最悪の場合には物理的な暴力だったりもした。それ以外の返答など、期待したこともなかった。
クラウスがドリアンに食らわし続けてきた肘鉄を突如として取り下げ、軽薄な提案にいとも簡単に同意するとは。だが少佐の事務的で虫の居所が悪そうな態度は、いつも通りだった。
ひょっとして疑わしいスパイから絵を盗めとでも命じるつもりだろうか。少佐の様子は普段と全く変わらなかった。煙草をもみ消すときの指が、普段より少しこわばっていたこと以外は。
「いま、何て…?」ドリアンはとうとう聞き返した。自分でも間抜けじみていると思いながら、すっかりうろたえ切っていた。
クラウスは何事も無いような顔つきででドリアンを見た。「聞こえたはずだ。」そしてグラスを取り上げ、中身を一気に飲み干した。
ドリアンの頭のなかで無数のクエスチョンマークが炸裂した。なぜ今。少佐の真の目的は。クラウスがその気になったのはなぜか。単なる好奇心? それともこの先に何らかの計画が…。だがプレゼントに難癖をつけるのは礼儀に反する作法である。彼はやっとの思いで疑問を押さえつけ、立ち上がった。クラウスは彼をちらりと見上げ、さっきの新聞をコートのポケットに押込んだ。立ち上がる前に次の煙草に火をつけたその指が…、かすかに震えていたような気がするのはドリアンの願望だろうか。…そしてクラウスもまた、続けて立ち上がった。
<終>
訳者より:馬に関する日米の成句がひとつづつ出て来ました。
From out of the blue. :瓢箪から駒
Don't [Never] look a gift horse in the mouth.:もらい物のあらを探すな 《★ 馬は歯を見れば年齢がわかるところから》.
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