By the Pen - Peripeteia
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その名が示している通り、レストラン”Zur Alten Muehle”はもともと水車のある粉挽き小屋だった。挽臼を動かしていた小川は流れを変えたか、とっくに干上がってしまったかそのどちらだっただろうか。知っているはずなのだがと少佐は少し考えこんだが、学んだはずの郷土史の記憶をたどるには考えが上の空になりすぎていた。水車は保存されていたが、建物そのものは倉庫として使われ、その後住居となっていたものが、最近小さな隠れ家的なレストランへと改装されたのだった。
少佐はレストランからやや離れた場所に車を止め、徒歩で店へ向かった。そういう習慣だ。車から足がつかないことはわかっていた。持ち主ほどには目立たない車だ。大した差はない。彼はこの地を訪問中の外国貴族と夕食をとるにすぎない。その貴族とは過去にボンで数度会っている。それ以上の何事でもない。せいぜい言い立てるとすれば、なぜエーベルバッハの邸宅での正式な晩餐に招待しなかったのかという程度のことだ。
「こんばんは、愛しいきみ。」ロールスロイスに背を預けた伯爵が柔らかい声で迎えた。少佐は素早く身をかがめて車の中を確かめた。ボーナムはいなかった。大事なご主人を守るため、もしくは夕食の相伴にあずかるためにジェイムズが同行していたとしたら、それはもはやホラー映画だ。
少佐は伯爵の身支度を、安堵ではなく賞賛をもって確認した。彼は黒いボトムにバーガンディレッドのカシミアのセーターを合わせていた。ロングコートもごく控えめなものだった。金髪がレストランの窓から漏れる光を受けてきらめいていた。まとめずにおろしているせいで、巻き毛が計算され尽くした無造作さで肩を覆っていた。
まさにそれこそが呼び出した目的だったから、少佐は相手の外観を仔細に観察することを自分に許した。絶妙なカーブを描く頬骨、少佐自身のものと同じく貴族的に尖った鼻梁、唇は優雅に、だが決して大げさにではなく動いた。彼の古典的に美しいといえる造形は、その大粒の瞳が欠ければむしろ堅苦し過ぎたかもしれない。大きく、力強く鮮烈な青の瞳。そのすべてを合わせて、伯爵は紛れもなく魅力的だった。
エロイカの外観が自分本人にどういう影響を与えるかを分析し評価する前に、少佐はもう少し時間を許す気になった。彼はレストランの入口への道を顎で指した。「行くぞ。」
泥棒がため息をついた。「きみが私に話しかける言葉ときたら、侮辱か命令かどっちかにしか聞こえないね。」
少佐は眉を上げた。「なぜだ。」
「馬鹿な事を言ったよ。」ため息をもう一度。「きみのそういう過剰な男らしさが好きさ。だから文句をいうべきじゃないね。」
男らしさ?過剰な?少佐はこれが一種の侮辱なのかとしばし考えたが、より重要な件を疎かにしてまで気の利いた返事を返す努力を払う必要は無いと結論づけ、うんざりしたように鼻鳴らすだけにとどめた。
「きみは美しいよ、少佐。」伯爵は静かにそう言った。声にはほとんど悲痛な響きがあった。
ここに来る前に、少佐は鏡の中の自分を長い間凝視していた。とりたてて言うことのない、あたりまえの顔つきに思えた。よくも悪くも思えなかった。目の色はひょっとするとありきたりではないのかもしれない。体はもちろんよく鍛えてあったが、それだけが理由にはならないはずだ。そして他には何もなかった。あるはずのものを見いだせなかった。少佐には、なにもかもが到底理解し難かった。
少佐は漠然とした疑惑の目で伯爵を睨みつけた。それは伯爵の奇妙なほどに真摯な、何かを探るような視線とぶつかりあった。
しばしの沈黙の後、少佐は何かを振り払うように首を振ってレストランの方へ足を向けた。伯爵が侮辱か命令を受けたような気分になってくれればいいと願いながら、一方ではそれがやくたいもない望みであると承知していた。少佐はあらゆる機会をとらえて伯爵に侮蔑語を投げかけてきた。そしてそれは伯爵を一瞬たりともたじろがせてこなかった。伯爵は、そんなことで傷つくような卑小な自尊心は持ち合わせていなかったからだ。
それに、気が変わった伯爵にこのまま引き返されてもまずい。なにしろ少佐は重要な案件を解決しようとしているところだ。
少佐は粉挽き小屋の小さな入口部分の内側に立ち、円形の建物の内部をぐるりと見回して席の配置を確認した。室内の装飾はまさに粉挽き小屋とその時代をテーマとしていて、石造りの内壁に重厚な木造の家具が並んでいた。年代物の挽臼が入り口横の壁の高い位置にに展示されていた。少佐はその取付が安全かどうか、ざっと目視で確認した。幾つかしか無いテーブルのほとんどが埋まっていた。部屋の中央に四方の開いた石造りの暖炉があり、暖炉と通気口に沿って金属を鋳造した螺旋階段が巻き付いていた。暖炉に火は入っていなかったが、部屋に自然な区画を与えていた。
少佐はテーブルを選び、急いでやってきた極めて礼儀正しい正装のウェイターにその選択を示した。ウェイターは先約について説明を始めたが、少佐の鋼鉄のような視線にすぐにあきらめ、予約の変更を受けた。席につきハウスワインをボトルで頼むまで、少佐は伯爵には目もくれなかった。だが伯爵が自分の後について店に入り、同じテーブルの向かいの席についたことを十分すぎるほど意識していた。
「協力に感謝する。」少佐は硬い声を絞りだすようにして言った。丁重であることに最善を尽くそうと、事前に決めていたからだった。もしそうできるものなら、エロイカの協力を必要としていた。そして実際に感謝の気持があったからだった。招待に応じて現れたことのみならず(正直なところ「来ない」という可能性は薄いだろうと考えていたが)、伯爵の今夜の服装と振る舞いには、少佐の感情を逆撫でしないようにとの、これまでにない配慮が感じられた。そう、今のところは。
伯爵はナプキンに手を触れ、髪をかきあげた。口を噤んだままだった。居心地の悪さを感じているようだった。
よかろう。おれもだ。
「NATOからの依頼があるとか、そういう話じゃなさそうだね?」伯爵はとうとう口を開いた。
少佐は鼻を鳴らし、答えるだけの手間をかけなかった。馬鹿な質問だ。NATOの外部契約者を夕食に誘ったことなどなかった。
「なにか盗んでほしいものがあるのかな?」伯爵はめげずに繰り返した。「それとも戦車を返して欲しいとか?」
目の前の小癪な泥棒が自分から盗んだものを思い出し、少佐の導火線に火が付きそうになった。だがなんとか押し留めた。注意を逸らされるわけにはいかない。「そのまま持ってろ。」少佐はぶっきらぼうに答えた。「あれはもう退役済みの機種だ。」
ワインとメニューが運ばれ、愉快だとは言いがたい会話を遮ってくれた。ウェイターは少佐のグラスの中にほんの少しのワインを注いだ。レストランの選んだワインの味を確かめ、感想を述べるというおきまりの儀式を済ませて顔を上げた少佐は、伯爵が例の不埒な笑みを口元にほんの微かに浮かべて、自分を見ていたことに気がついた。
「なんだ?」反射的にそう声を出したが、その後に続く愚かな質問をかろうじて飲み込んだ。”なぜおれをそんな風に見る?” 少佐は答えを知っているはずだった。堕落した性的倒錯者だからだ。だから見るのだ。くそっ。お前がそんなふうにおれを見なければいいのに。
伯爵は声に出して笑った。「なんにもないさ、ダーリン。さて、私はメニューを見るふりをしたほうがいいのかな?それともすべてきみが選んでくれるの?」
少佐は自分を抑えこみ、なんとか渋面を保った。情勢は芳しくなかった。少佐は短気すぎ、状況に気力を奪われすぎていた。落ち着かねばならなかった。それともこんな努力は無駄なのか?いや、諦めるわけにはいかん。目的を持ってここまで来たのだ。何をなすべきなのか、彼にはわかっていた。
”では進め。なすべきことから逃れようとするのは臆病者だけだ。”
そこで彼は目の前の薄笑いを浮かべた放蕩者を怒鳴りつけるのはやめにし、睨みつけさえもしなかった。その代わりに上品な革張りのメニューにしばらく目をやり、育ちから来る躾と…、不屈の闘志を呼びおこした。異性とここにいるのであればどうすべきなのか、その振る舞いを自分に課した。
「差し支えなければそうしよう。」彼は視線を上げて無理に微笑んだ。ちらっと前歯を見せるべきだったが、そこまではできなかった。「メインディッシュを英語で説明したほうがいいか?なにしろおまえの好みを全く知らんしな。」
青い瞳が驚きのあまりまんまるに開いた。伯爵はせわしなく瞬きしながらメニューに視線を落とし、すぐに顔を上げて少佐を見つめた。
「ええと…」尋常ならない長さの沈黙のあと、伯爵はようやく口を開いた。「自分で読めると思うよ、多分。」それから別の種類の笑みが伯爵の表情をゆっくりと明るく照らし、それは先程までの奇妙な寡黙さを跡形ももなく消し去り、伯爵一流の周囲に幸福をふりまくような輝く笑顔に変わった。
少佐はスープのページをぱらぱらとめくり、締め付けられたように感じる喉をなんとか通りそうな何かを選ぶのに忙しいふりをしていた。ふりをしながら、必死で願っていた。次に向かいの男の顔に目をやるときには、節度ある言動を取れるだけの冷静さを取り戻しているように。落ち着け。とにかく落ち着け。
「ありがとう。」伯爵が柔らかな声で告げ、テーブル越しに少佐へちらりと目をやった。微笑みは消えていたが、幸福の輝きが残っていた。くそっ。
「あの、英語で説明してくれるって言ったことだよ。でもたぶん自分で読めると思うんだ。わたしのドイツ語だってそんなにひどくはないんだよ。それに、なにが食べられないかは自分でわかってるさ。知ってるかい?二、三日前にひどい目にあったんだ。ジェイムズ君がどういうわけだか近所のレストランの日替わりメニューを電話で注文してさ、私達全員分。それが一番安いはずだって思ったんだよ。どうしてそう考えたのか、私にはわからないねけどね。それで大変なことになったんだよ。請求書が届いた時にはジェイムズ君は気が狂ったみたいになっちゃって、『電話代だって20ペニヒもしたのに~!』って泣いてたよ。とにかく、どうしてこんな話をしてるかというと、それで初めてサウマーゲンを食べたんだんだ。でも幸運なことに、翌日まで材料が何なのか知らなかったんだけど。」
伯爵は少佐に相槌を打つ暇も与えずに、そこまで一気にまくしたてた。彼は『サウマーゲン』という単語を禍々しい生物兵器のように発音した。サウマーゲンとは雌豚の胃を使ったソーセージで、ドイツの郷土料理である。少佐の好物というわけではないしめったに食べることもなかったが、それでも少佐はドイツ名物の肩を持ってやりたい気分になった。朝食にオートミールとベイクドビーンズなんぞを食う連中が、何ぬかしやがる。それをそのまま口に出しそうになったのを押さえた。論理的な反論ではない。それに、いつものような口げんかのためにここに来たわけでもない。だが今夜はどうも自分の手綱を引いてばかりだな、少佐はそう考えた。
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幸いなことに伯爵は会話を楽しみたい気分になったようで、少佐が無理に会話を引き出す必要もなく、活き活きとした表情で広範囲に渡る話題を提供し続けた。少佐はほとんど頷くだけだった。正直なところ伯爵の話の内容をよく聞いていなかったのだ。ちょっとした面白い話、美術史に関連する逸話…。伯爵のおしゃべりをただシャワーのように浴びていた。性的倒錯者を過剰に演じていないときの伯爵の声は、心地よい響きだった。
エロイカについて知らないことが多すぎた。最も不可解だったのは、自分の倒錯ぶりを全世界に向けて宣言し、なお恬として恥じることのないその性格だった。伯爵には賢明さも単刀直入な実用主義も持ち合わせていなかった。何年も平気で泥棒稼業を続けていられるという点だけ見ても、それを証明するに余りあるだろう。悪名高き美術窃盗犯・エロイカの正体を表の身分から隠しおおせている彼にとって、自分の性的嗜好を偽装することなど訳もないたやすさのはずだ。にも関わらず、この男はあらゆる機会を捉えて自分の変態趣味を見せびらかし、自身の名誉に傷をつけようとしている。
ウェイターがオーダーを伺いにきたときには、少佐は自分が落ち着きを取り戻していることに気づいた。もはや取り乱すこともなく、計画を想定通りに進められるだろう。少佐はさきほどの言葉通り伯爵の料理を選んでやろうとしたが、その必要はなかった。伯爵はごく普通の男性として振る舞い、自分のメニューを自分で選んだ。
伯爵はさらに快活におしゃべりを続けた。さっきまでのためらいがちな様子はかき消えていた。いつも通りの豊かな身体表現が戻ってきた。小首をかしげて、ふと伏し目がちにまつ毛を落としたかと思うと、ほとんどはにかむような目付きで顔を上げて微笑んだ。頬杖をついた。金の巻き毛をさっとかきあげた。少佐はそれらすべてを落ち着いて観察し、誘惑のためのしぐさだと判断した。本人が意識的にそうした仕草をしているとは思わなかったが。きらめくような魅力が再びふりまかれ始めた。
この程度の誘惑ならやりすごせる。少佐はそう思った。今日はいつになく控えめに振舞っているのだから、叱りつけるほどのことではない。
「それで、そのとき彼が気づいてたと思うかい?全っ然!戻ってきたときの母親の顔と言ったら…。いやいや、私だってその場にいたわけじゃないから実際に見たわけじゃないんだけど、でもちょっと想像してごらんよ。…」
唇をひらめかせながら、輝くような魅力を撒き散らす伯爵を、少佐は見つめていた。怒りや嫌悪はかけらほども沸き上がっては来なかった。小癪な悪ふざけと悪戯と、桁外れの素行と破廉恥な堕落をはぎとってみれば、少佐がそこに見出したものは…、心を惹きつけられずにはいられないなにものかだったのである。
その感情を名付けるにふさわしい言葉を、少佐はもたなかった。だが今はまだそれでもいい。夜はまだ長い。ゆっくりとわかってゆけばいい。”惹きつけられた”。そこから始めよう。エロイカの普段の習慣や生活や闇の稼業への軽蔑は消えなかったものの、目の前の男本人へ抱く感情が軽蔑や、ましてや嫌悪ではないとわかっただけで十分だった。ものごとは多面的な方面から判断せねばならん。あらゆる方面から。
「少佐?そんなふうに眉をしかめちゃだめだよ。眉間の皺が戻らなくなるよ。」
「おまえというやつが全く理解できん。」少佐は話の腰を折った。
伯爵は不意打ちを食ったように目をぱちくりさせた。彼はその豊かすぎる感情表現を決して隠すことがなかった。
長い時間がたった。「聞いてくれればよかったんだよ。」泥棒はとうとう返事をした。口調からは、さっきの雑談のときの軽やかさが消えていた。少佐はその真摯な声の響きを好ましく受け止めたが、同時に青い双眸が自分をひたと見つめているのに気づき、やはり動揺した。「聞いてくれればなんでも答えるのに。それにね、わたしもきみのことが全くわからないんだ。」
少佐は鼻を鳴らした。「それはそうだろうな。」
なんでも聞けというなら、試しに盗んだものをどこに隠しているのか聞いてやろうかと少佐は考えた。尋ねたからといって正当な所有者の手に戻せというわけではないし、エロイカが真実を答えたとしても手下どもがさっさと戦利品を移動してしまうのだろうが、それでもなお、この申し出は伯爵がいかに本気かを証明していた。この申し出にはそういう意味があった。
伯爵がなおも少佐に気遣うような視線を向けているうちに、夕食がテーブルに届き始めた。少佐は問題を後回しにすることにした。何もいますぐ聞かなくてもいい。伯爵の国の可能性のありそうな場所に部下たちを待機させておいて、それから聞いてもいい。非合法に収集した美術品はどこにある。だがそれは後でいい。今夜は今夜の計画がある。
食事はすばらしく、支払いに見合うだけの価値があった。だが予期していた通り、コニャックソースのかかった仔牛の肉は少佐の口の中にとどまったまま、なめらかに喉に落ちようとはしなかった。少佐は努力してそれを飲み込み、肉を半分とクロケットをいくつか口にした後にそれ以上を諦めた。伯爵がラグー(肉や野菜入りの香辛料の効いたスープ)を平らげようとしていたので、少佐はサラダをつつき回して伯爵の食事に付き合った。
「ハンブルクへは行ったことがあるか?」少佐は出し抜けに尋ねた。
伯爵は用心深く動きを止めた。「ああ、あるね。なぜ?」
「いい街だろう。そう思わんかったか?」下手な尋問のようだだと自分を呪いつつ、それでも聞くのをやめなかった。「あそこののコンテナ埠頭は見事なもんだ。」
「コンテナ埠頭、ね。」エロイカはにやっと笑いそうな口元を我慢して押し留めているように見えた。「きみが言うならそうなんだろうね。わたしは行ったことがないけど、次に行く時には必ず行ってみることにするよ。」
「ハンブルクではどこに行ったんだ?」少佐は引き下がらずにもう一度尋ねた。
伯爵は今度は話に乗り、おしゃべりを再開した。アルスター湖がどれほど美しかったかを微に入り細を穿って説明し、その後の話はデザイナーズブティックの並んだ通りでの買い物三昧へと脱線した。話題が画廊と博物館を慎重に回避していることに少佐は気づいた。
もはやそれ以上後回しに出来なかった。少佐は覚悟を決めて伯爵のほっそりした手を観察した。それは話の内容を説明するために熱心に、だが優雅に動いていた。そして喉。上品な喉。よく動く眉と、豊かな表情を浮かべる口元。人を惹きつけずにはいられない容貌、贅沢な黄金の巻き毛。少佐は伯爵のその両手が自分の肌に触れる瞬間を脳裏に描いてみた。そして自分が伯爵の喉に顔を埋め、顔を上げて唇を吸うところまで脳裏の映像を進めた。そして待った。
脳裏の映像の魅力に自分が陥落したことをはっきりと理解し、胃を絞られたような気分になった。
「デザートはどうだ?」少佐は話の腰を折った。無作法にも伯爵から目を離せなくなっていた。さっきまでの自分の観察の精度を疑いたくなった。
伯爵はしばらく少佐を見つめて、それから微笑んで首を振った。「今日はやめておくよ。でも、きみが食べたいんなら…」
「いや。」少佐は椅子をずらせ、気短げにウェイターを呼んだ。ウェイターは即座に駆けつけ、また勘定書きを持って駆け戻った。
レストランを出た伯爵は少佐に体を寄せるように歩いたが、ロールスロイスを通りすぎようとして、少しためらった。
「ホテルまで送ろう。」少佐は無愛想に告げた。
その言葉を聞いた伯爵の様子が、食事の前の奇妙な態度に戻ったように少佐には思われた。少佐は伯爵を気遣わしげな目でみつめたが、伯爵がうなずくと黙ってメルセデスの方へ歩き出した。
さほど遠くない道のりを、どちらも黙りこくったままで過ごした。少佐はホテルの裏手に回りこみ、路地の目立たない場所に車を泊めた。伯爵は曖昧な表情で少佐をちらりと見たが、すぐに車を降りようとはしなかった。伯爵がいつもの薔薇のフレグランスを使っていないことに、少佐はその時気がついた。つまり今日のエロイカはあらゆる意味でいつもと違っていた。控えめだった。過剰ではなかった。いつもの伯爵から根本的にかけ離れていた。
手を伸ばせば届く距離にいて、例の不愉快ではない花の香りが今夜はより自然な香り…、伯爵自身のかすかな肉体の匂いに置き換わっていた。瞳の色が灰色に近く見えたのは、暗さのせいだったのかもしれない。そして唇は暖かかった。コートとセーターの下の肉体はこれみよがしな筋肉質ではなかったが、だが間違いなく自分と同性のものだった。
少佐は持ちこたえた。内心で叫びだしそうだったし、自分がいつ取り乱すかと危惧さえしていたが、それでも持ちこたえた。彼の下で待ち受ける唇が開き、そこから這い出た舌が少佐の唇をあやすようにして開かせ滑りこんできた時ですら、少佐は持ちこたえた。
訳者より: ハンブルクのコンテナ埠頭の様子はyoutubeで”Hamburg Freight
Harbour”で検索するといくつか見ることができます。いかにも少佐が好みそうで、伯爵にはどうでもよさそうな風景。美しいといえば美しいのですが。