このサイトでは、「エロイカより愛をこめて(From Eroica with Love)」を題材とした、英語での厖大な二次創作群を翻訳しています。サイト管理者には原作者の著作権を侵害する意図は全く無く、またこのサイトにより金銭的な利益を享受するものでもありません。私が享受するのは、Guilty Pleasure - 疚しい楽しみ-だけです。「エ ロイカより愛をこめて」は青池保子氏による漫画作品であり、著作権は青池氏に帰属します。私たちファンはおのおのが、登場人物たちが自分のものだったらいいなと夢想 していますが、残念ながらそうではありません。ただ美しい夢をお借りしているのみです。

2012/09/24

Peripeteia 13 - by Sylvia









By the Pen - Peripeteia
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エピローグ



「エ~~~ベルバッハ少佐。」部長が、名をわざと長く伸ばして呼んだ。そうすることによって まるで何かをしみじみ味わっているかのように。胸の悪くなるような習慣だ。

「おります。」少佐は短く答えた。彼はうずうずと体を動かしたくなる反応を抑え込み、上司の眉間の皺を無視して煙草に火をつけた。

「良くない習慣だな、少佐。」と上司は言った。「肺に悪い。十年以内に呼吸障害を引き起こすぞ。」

「おっしゃるとおりですな。砂糖やコレステロールとほとんど同じくらい体に悪い。」

部長のチョコレート好きはNATO本部に知らぬものがなかった。彼は丸まっちい顔にしわを寄せ、ひどいしかめっ面を浮かべた。「世間話はさておき、少佐。例の件については、私が勧めたとおりに手配をしておると考えていいのだろうな?」

少佐はじろりと横目で部長を見た。部長の「勧め」というのは、実質的には命令だったが、なんでまたこんな遠まわしなやり方で指示を出してくるのか、その目的が掴めないでいた。「部長がおっしゃるのが、今回の件に関してエロイカと契約を結ぶようにということでしたら、部下にはそのとおり命じています。しかしながらこの件は私、個人的には…」

「よろしい。では計画通りに進めてくれたまえ。きみの狭い視野と幼稚な偏見を払拭する良い機会になればいいのだがね。まあ、せいぜい頑張ってくれたまえ。少し時間がかかるかもしれんが、結果を期待しておるぞ。さて、ところで可愛いG君は最近どうしているかね?」

少佐は最後の質問が耳に入らなかったふりをしてドアへ向かった。部長がGにこだわるのは、単に自分への嫌がらせなのだろうと判断していた。まあいい。上司というのは部下には好かれないものだ。少なくとも少佐自身はそうだ。部下たちは少佐を、殲滅すべき敵よりもなお恐ろしい、避けられない災害のような存在だと捉えていた。それで任務がうまくゆくなら少佐に異存はない。

AからFPZはおれのオフィスに入れ。」部下たちの机の並ぶ大部屋を通り抜けながら、少佐は呼ばわった。呼ばれた部下たちは椅子から跳び上がるようにして従った。

エーベルバッハ市のホテルで、ベッドにぐったりと横たわる伯爵をあとに残して以来、少佐は彼に逢っていなかった。伯爵は微かに奇妙な笑みを浮かべて少佐を見送った。少佐は相手を気遣ってやりたいという衝動を無理に押さえつけ、何も言わずにその場を去った。伯爵がなんらかの口実を付けてエーベルバッハの屋敷にもう一度姿を表すことを密かに恐れていたが、そうはならなかった。ヘドヴイガが翌日ホテルを訪れた時には、伯爵はすでにチェックアウト済みだった。闇の稼業で忙しいのだろうと少佐は思った。美術館。宝石。エロイカが手を伸ばすべき獲物はいくらでもある。

それから数週間、少佐は自分が同性愛者であるという感覚に慣れようと試みた。それは難しかった。自分がひどい不義を働いているような後ろめたさが消えないのだった。ああいうことをしても許されるのはグローリア伯爵のような男だけだ。節操のかけらもない不道徳者だけだ。だがこの説明には説得力がなく、自分でも納得がいかなかった。

納得がいこうがいくまいが、何のちがいがあるわけでもなかった。結局のところ少佐はいずれ妻を娶るだろう。そして妻である女性との間に幾たりかの子女をなす、もしくは少なくとも一人は跡継ぎを得て、家系の存続に貢献する。それは疑いもなく定められた道のりだった。端的に言えば、義務だった。

たまさかの夜の相手を異性から同性に変えるつもりもなかった。それは、完全に問題外の事項だった。自分が同性愛者に生まれついたという不幸な事実を把握しつつ、それを脇においたまま生きて行けるものだと少佐は考えていた。だからこれからも何のちがいもあるわけではない。これ以上考える必要もない。

知った上で行動するか、知らぬままにそう動くかは全く別の話だったが、少佐にささやかな安堵をもたらしたのは、同性と寝ようという意図を少佐がもたなかったのみならず、そうしたいという強い欲望を彼自身全くが感じなかった事実にあった。彼は自分自身を注意深く観察してみた。このやっかいな偏好に気づいて以降も、現実に付き合いのある男たちに対して欲望のするどい痛みを覚えたことは一度もなかった。エロイカとのことは考慮に入れなかった。あれは特殊な事態だ。

いや、あれを考慮に入れたとしても大した違いはない。任務中、あるいはその他の些事に関わっている間は、少佐はあのことを完全に脳裏から追い出すことができたからだ。思い出しもしなかった。もともとそちらの方面への欲求は薄い方だった。生まれつきその欲望が低い性質なのだろうと少佐は考えた。ならば都合がいい。考えを改める必要は何もない。

何も…、エロイカ…、いや、いい。起こってしまった情事がこれからの任務ににどう影響をおよぼすのか、少佐には見当もつかなかった。そもそもこれまでとて、あの目立ちたがりな泥棒との契約関係が順調だった試しがないのだ。だがこと任務と契約において、彼らは双方ともある種のプロフェッショナルだった。双方がエロイカまつわるさまざまな事柄に対応できる熟練者なのだ。そして彼はなぜか疑わなかた。思惑通りのことを伯爵が自分にするように、仕向けることができる。お約束の皮肉の応酬、図々しい交渉ごとなどは、これ以上ひどくなりようがなかい。と、そう願っておこう。

なにを示唆されているのか、あるいはより重要なのはなにを示唆されていないのか伯爵が正確に理解するかどうか、少佐には確信が持てなかった。だがその時には、再び同性と寝ることすら全くの問題外ではなくなるのかもしれなかった。すくなくとも一人の男と。ともあれ、ことの推移を注意深く観察せねばならない。

ああ、今回の契約はまちがいなく、…そうだな、興味深いものになるだろう。


<終>
  
  
  

2012/09/23

Peripeteia 12 - by Sylvia










By the Pen - Peripeteia
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その時が来たことはすぐわかった。しどけなく弛緩していた少佐の肉体のあらゆる輪郭が、ぴんとはりつめた。すべての筋肉に意思がみなぎった。伯爵の舌を受け入れていた唇ですら、ふと気配を変えたようだった。それは遠い場所で落ちた一枚の枯葉のようにかそけく始まり、しかし地平線の彼方で嵐が集結してくのを止められないように必然的ななりゆきだった。畏怖と予感を湛えた、暗い光を帯びる美。なぜならそれもまたクラウスなのだから。

素っ気ない反応は冷ややかな受諾へと転じた。少佐はキスを中断して苛立ったような仕草で伯爵を押しのけると、乱暴に体を引き剥がした。痛みを覚えているかのどうか、彼の身のこなしからは分かり難かった。少佐は体を起こし、寝乱れた黒髪をかき上げた。

伯爵は息を潜めて待ったが、少佐はただ眉間にしわを寄せ、唇を引き結んだまま伯爵には一瞥もくれなかった。だが怒りの爆発が起こるような気配はなかった。ただ体を起こして姿勢を整えると、ブランケットを引き寄せて下半身を真っ直ぐにそのなかに滑り込ませた。

いかにも少佐らしい几帳面なふるまいと、恐ろしいしかめっ面があまりにも不釣合いで、伯爵は思わず頬を緩めた。気難し屋の少佐は、仏頂面用の表情筋をよほど発達させているにちがいない。伯爵の胃が不安でせり上がったが、彼はかすかな吐き気をこらえて少佐を見つめ続けた。

暫くの間、少佐は身動きひとつしなかった。鉄筋でも入っているかのように背筋をまっすぐ伸ばして座りこみ、不機嫌な顔で何かを考え込んでいた。伯爵の目にはそれがいかにも軍人らしい佇まいに写った。まったく眼福だった。鍛えあげられた鋼鉄の軍人…、たったいま陵辱を受けたばかりの。だが少佐もまた十分に楽しんでいたはずだ。淡い噛み痕が首と肩と、それから左の乳首に残っていた。唇がわずかに腫れていた。そして常にきちんと真っ直ぐな黒髪には、あきらかに「誰か」の手でかき乱された跡があった。それでもなお、たった今そこで繰り広げられた痴態と自分とは一切関わりがないと宣言するかのように、彼は他者を拒絶した冷淡な態度を崩さなかった。



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伯爵は身震いをして、自分の考えを振り払った。なにか声をかけるべきなのかもしれない。…あるいは、そうすべきではないのかもしれない。愛する少佐がその頑固な頭の中で何を考えているのか、伯爵にはぼんやりとしかわからなかった。今何を呼びかけても、いい結果につながるわけがない。

少佐もまた黙りこんだままだった。癇癪どころか思い切りぶん殴られるかもしれないとの可能性に思い当たり、伯爵はため息を付いた。だが何が起こっても、ここにこのまま座り込んで沈黙に耐えながら、口元をへの字に結んだ少佐がぼんやりと虚空を見つめているのを眺めているよりはマシだろう。

「クラウス?愛しいきみ、どうかしたのか…」

伯爵の言葉が途切れた。少佐が体をひねり、鋼鉄のような緑の目を向けて伯爵を見据えたからだった。その目は、銃口を突きつけられた虜囚の目を照らしこむ尋問灯のように不気味に光っていた。

「なぜわかった?」

伯爵は瞬きをして思わず髪に手をやった。どう反応すべきはとっさにはわからず、ほかにどうもできなかったからだ。曖昧な答えも確信のないことも言いたくなかった。そんな質問をされることはめったになかったが。「わかったって、何が?」

答えはすぐには返らなかった。だが薄い鼻孔がゆらぎ、少佐の薄い唇が嫌悪に歪む間にもその氷の凝視は続いた。「このことだ。…おれが、同性愛者だという事実だ。おれは変態だ。堕落者だ。おまえと同じように。」

おや。これは前向きな変化なのか?伯爵の心臓は喜びのあまり跳び上がりそうになった。少佐とのことが、これきりで終わりになるわけじゃないのかもしれない。だが少佐の様子はそれどころではなく、厭わしさでいっぱいの表情からは事態が前向きに動きそうな前兆は微塵もうかがえなかった。

「ええとね…、ほんとのことろ、そんなことは全然わからなかったよ。」伯爵はゆっくりと話し始めた。確信のない答えから確信の無さを覆い隠すために、わざとらしく母音を伸ばした口調。彼はほんの少し体を伸ばし、情感をこめて目を見開いてみせた。だが長いまつ毛をこれみよがしに閃かせるのはやめにした。少佐がそれを好ましく思うような気分でないことはわかっていた。「私にわかっていたのはね、きみを手に入れなきゃ気がすまないってことだけだったさ。きみが同性愛者か異性愛者かそれともその間にいる何者か、気にしたこともないね。そんなことは問題にならなかったのさ。」

「自分と寝さえすれば何者でもいい、そういうことだな。」冷ややかな表情のまま、感情を押さえつけた声が返った。うわ、大変だ。

伯爵は淫蕩なほほ笑みを浮かべてみせた。「そうとも言えるね。」

軽蔑に満ちた鼻息。「興味深い説明だな、エロイカ。おまえのが裏の業界をどう泳ぎ渡ってきたのか不思議に思っていたが。」少佐はそこで言葉を切った。「つまり、これはただの不測の事態に過ぎん。」

「ちがうね。」伯爵は鋭い抗議の声を上げた。「これは運命さ。私ときみのように約束された一対の魂の前では、ホモセクシュアルだかバイだかヘテロだかなんて不自然な分類は…」

「そのくだらんたわ言をもう一言でも続けたら、ぶん殴るぞ。」

「どうしていつもそう暴力に訴えるのさ。たったいま素敵なセックスを楽しんだばかりじゃないか。なのにきみったらまた私を侮辱して、あまつさえ脅しつけたりする。知ってるかい?こういうのは世間じゃ『ドメスティック・バイオレンス』って言うんだよ!」伯爵は自分がすねた子供のような口調になっていることに気づいたが、もう止められなかった。一体全体、この男ったらどうしてこう何でもかんでも面倒なことにしちゃうんだろう。

少佐は何も言い返さなかった。

「おまえは…」とうとう口を開いた。「悪辣で無節操で強情で軽率な、頭のてっぺんからつま先まで考えなしの変態だ。」

伯爵は憤慨して、噛み付くように言い返した。「きみは野蛮で傲慢で横柄な、薄情の塊だよ!」

またしても少佐は言い返さなかった。

「そのとおりだ。」長い長い時間の後に、少佐はとうとううなずいた。奇妙にぎこちなく、堅苦しい口調だった。「おれたちは互いに正しい。」

伯爵は小首をかしげた。巻き毛が顔にかかり、金髪のカーテンが表情をうっすらと隠した。これまで数々の男たちを悩殺してきたこのお得意のポーズの上に、さらにキラキラするような怒りの様子と傷ついて反抗的な表情まで付け加えたというのに、少佐が自分をするっと無視したのには肩透かしを食らった。少佐があっさりと立ち上がりブランケットを引っ張り上げたため、伯爵は体を隠すもの一枚なにもないままにベッドに取り残された。

「くそぅ!」ブランケットを複雑にぐるぐる巻きにした少佐がバスルームのドアの奥に消えると、伯爵はとうとう罵った。

なにか壊れ物でも投げつけてやりたかったが、ベッドの上で足をバタバタさせるにとどめた。もうっ!もう!くそっ!なんでこんな結果になるんだよ!ゲームに勝ちをおさめようと夢中になるあまり、少佐がこの種のゲームに乗る可能性は全くないという明らかな事実を見逃していた。もちろんあんなことを言うつもりはなかったのだ。伯爵が口に出した憎まれ口を、少佐がそのまま真に受けてしまわないかどうか心配になった。「でもきっちりした性格で仕事の手はぬかない」とかなんとか、そういうのでも付け加えればよかったってわけ?

がっかりだ、ほんとに。あの男ときたら、この私に愛されるなんて果報者だと思わないんだろうか。ここまでだってさんざん手こずったってのに…

だが奇妙なことに、伯爵はいつも通りの楽観的な自分を取り戻しつつあるのを感じた。挑戦すべきなにかが目に前にある高揚感。それを感じながら、枕に顔を埋めた。想い人の残り香が残る枕に。

私たちの日々は始まったばかりのようだね、棘だらけで傷だらけの私の愛しい人。だがこれまでのような迷いはすでになかった。私たちは愛しあうんだ。私たちの前には世界すら色あせてしまうような、そんな愛を交わすのさ。

そしてそのとき、ベッドでのことはきっと、きっと、…すごいんだよ。




<エピローグへ続く…>

2012/09/22

Peripeteia 11 - by Sylvia









By the Pen - Peripeteia
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伯爵との口づけは不快なものではなかった。前回はそんなことを考えていられる余裕はなかったが、だが今回はちがった。伯爵とのそれはこれまでのどんなものとも違っていた。

これまでの経験について強いて語るとすれば…、それはいつもはっきりと不愉快なものだった。非衛生的で、性行動における何らの建設的な機能もない。だが、と少佐は思った。こういうふうに事が進むなら、これは以前には思いもよらなかったほど好都合なのかもしれない。

調査の最終段階へ踏み出す決意を固めるために、少佐は頭を上げた。

「部屋は、まともなのか?」

伯爵は戸惑ったように見えた。だがすぐに気を取り直して少佐の意を正しく汲んだ。「ああ、ええと、いい部屋だよ、とても。上がって見てみる?」

少佐は短くうなずき、車を出た。彼らは目立たない階段を使い、伯爵が滞在する最上階のスイートへ向かうまで誰とも顔を合わさなかったが、それでも少佐は落ち着かなかった。

伯爵は身振りで先に入るようにうながした。少佐がそのとおり部屋に入ると、ドアを閉じた伯爵は輝くように笑って、続き部屋の居間にしつらえられたソファとテーブルの一隅へと案内した。伯爵は再びおしゃべりを始めていて、喜びを隠せない声のまま立ち居振る舞いまでが生き生きとしていた。

少佐は伯爵の案内を無視し、伯爵の手を取って引き寄せた。腰を抱き、髪に手を埋めて首を傾けさせた。

伯爵は少佐の腕の中で蕩けた。唇は柔らかく少佐を迎え入れる準備ができていて、それは少佐にとってもはや見知らぬなにかではなかった。目を閉じさえすれば、今自分が唇を貪っている相手は異性だと錯覚したかもしれない。だがこれまで異性とのキスの時には必ず感じていた内心の抵抗を、今はまるで感じなかった。そしてなにより相手が女ならば、素早く硬くなりつつあるそれをこんなふうに少佐の前へ押し付けてはこないはずだ。

手っ取り早く進めよう。少佐は突き刺さるような思考と記憶を脳裏の引き出しに押しこめ、口づけに集中した。伯爵はなすがままに受け入れているばかりではなかった。キスを導き、少佐の口の中を探り、唇をかじりさえした。手練でもの慣れていた。べつに驚くには当たらない。そして仔細に分析してみると、少佐もまたあきらかにキスを楽しんでいた。伯爵の唇は甘かった。体を寄せ合っていると、香りも手触りも素晴らしかった。それはほとんど誘惑…、いや、蠱惑的な…。

少佐の手は伯爵の背をさまよい、髪に指を差し入れて探っていた。唇と同じく、髪の手触りにもまた心奪われた。彼は伯爵を壁に押し付け、片方の手をセーターの中へ滑りこませた。手はカシミアの下の絹の下着を探り当てた。

セーターと、その下の滑りの良い絹の下着を同時に剥ぎ取った。脱がせた衣類を脇に投げ、伯爵の肉体を凝視した。ほっそりした、だが筋肉質の上半身だった。強靭さのためではなく、しなやかさと粘り強さのために鍛錬された体だった。伯爵は少佐の手のひらの下で少し震え、その手がみぞおちを通りすぎて下腹部の金髪まで降りた時には、かすかに喘いだ。

「少佐…?」

「なんだ。」少佐もまた冷静さを失っていた。熱を帯び始めた肌と衣類との隙間で手を動かそうと躍起になっていた。

その場所をある方法で撫でると、伯爵が猫のように背を丸めることに気づいた。その様子はとても、非常に…、そう、これ以上適切な表現が思い当たらない。憎らしくてたまらなかった。伯爵の反応が少佐をさらに駆り立てた。相手を壁に押し付けてもう一度唇を奪いながら、その間も手はさらに奥へともぐりこみ、硬くなったもの全体を手のひらに収め、握りしめた。もう一方の手で伯爵のベルトを外して前をゆるめて邪魔な布を下へ押しやると、やはり絹だった下着が抵抗もなく落ち、少佐は視線を落として自分が伯爵のその部分に何をしつつあるのかをこの目で確かめた。試すように手を動かした。すぐに為すべきことがわかった。愛撫し、擦り上げ、優しく握りしめた。何をどうすれば伯爵がどうなるのかがわかった。

「ああっ、少佐…。」伯爵が喘いだ。「ごめんよ、いってしまいそうなんだ…。続けてくれ…。」

明らかに、伯爵は快感に酔っていた。そして少佐もまたそうだった。これまでのところ事態は明白だった。では、さらに重大な段階に進む時が来たようだ。

少佐が一歩下がると、上気した頬であえぐ伯爵が不満気なうめき声を上げた。彼は少佐を掴み、思いがけない強さで首を抱きしめて唇と歯と舌で少佐を貪ろうとした。少佐がもう一歩下がると伯爵も続いた。次の瞬間、壁に押し付けられていたのは少佐のほうだった。欲望をかき立てられた伯爵の手が少佐の体を探り、服を脱がせ始めた。

伯爵の手と口に火を付けられた愛撫の快感に、少佐はわずかながらもめまいを感じた。背後の壁が有難かった。彼は背中を壁に預け、目を閉じた。伯爵の手が腿を割り、少佐は従順に足を広げてそれを迎え入れた。

伯爵の愛撫は柔らかだった。だが手のひらは熱く燃えていて、服の上からでもその熱がはっきりと感じられた。少佐はまぶたを上げて相手を見つめた。伯爵は片手で少佐の性器を愛撫し、もう一方の手を背後から下着に滑りこませていた。愛撫の手が同性であることをはっきり確認しても、かき立てられた快感は微塵も減じなかった。

それさえも嘘だった。少佐にはわかっていた。もし異性が相手なら、相手にこんなふるまいを許すのは金輪際ありえない。こんなふうに触れられるのを望んだことなどない。頻繁とは言いがたい情事の全ては、むしろ曖昧な義務感に肩を押されるようにことを済ませるばかりで終った。それは常に不潔で、また場合によっては不愉快な行為ですらあった。少佐には、他人が性行為を過大評価しすぎているように思われた。

なぜそんなふうに思えていたのかその理由が今わかった。不幸にもその理由は、選ぶことを許されていればそもそも自分では決して選んでいなかっただろう理由だった。

「きみがどんなに素敵か、自分でわかってるかい?」低い、だが熱を帯びた声は少佐には受け入れられず、振り払われた。少佐は唸り声を上げて頭を振った。驚くべきことにに伯爵は即座にその意を読み取り、黙って口を閉じた。

いや、ひょっとすると伯爵が口を閉じたのは、その唇を使って次の仕事に取り掛かったからかもしれない。口元が少佐の胸を下り、さまよう舌が乳首をとらえ、そして噛んだ。これまで誰にもそんなことをさせたことがなかった。そしてそれが少佐の肉体の思いがけない引き金を引いた。なにかが体の奥で小さな爆発を起こし新しい感覚が目覚めた。肌のすみずみまでが、すべての神経の先端が触れられるのを待ちつつ渇望に震えた。そして伯爵はすべてを正確に心得ていた。どこに触れるのか、どこを愛撫すべきなのか。底知れぬこの渇望の痛みをより高みへと駆り立てるために、痺れるような悦びをさらに深く穿つために。

少佐にそれを正確に評価できる資格はなかったが、それでもなおこの派手で目立ちたがりな泥棒が、本業の錠破りと警報装置の解除の腕前と同じく、性愛の道においてもあらゆる意味で卓越した手練であると認めざるを得なかった。解剖学的に不可能な動きを可能にしたように舌は動いた。そして両手が、あらゆる場所を求めてうごめいていた。腿の内側、その中心にそそり立つもの、尻、その下に揺れるもの…

「だってもうずっと待ってたんだよ。だからきみを心ゆくまで味わうことにするよ。」伯爵は満足気にため息を付き、それから声に出して少し笑った。ほとんど軽薄なほどに軽い笑い声だったにもかかわらず、内心の不安を隠せていないような響きがあった。「さあ、少佐。きみがどうしたいか言ってくれ。私は本当にきみのことを知らないんだ。ずっと夢見てた。夢のなかではなんでもした。でもそれは私のしたいことばかりだ。私は知りたい、きみが…」

「挿れてくれ。」

伯爵は体の動きを止めた。青い双眸が少佐を見つめていた。「え…?」

「聴こえたはずだ。」引き返すつもりはなかった。このことを最後まで確かめたかった。まだなお自分に確信が持てないでいた。

少佐は体を折って靴を脱ぎ、すべての服を脱いで一糸まとわぬ姿になった。伯爵は体を引いた。奇妙なことに、彼はひどくためらっているように見えた。たった今示唆された行動を完全に遂行できるような人物には見えなかった。だが黙って肩をすくめた少佐はそのままベッドルームに向かい、広いベッドに腰を下ろした。伯爵の逡巡を気遣っている余裕はなかった。自分自身の躊躇を押さこむのに精一杯だったからだ。

伯爵が内心のためらいにけりを付けて、少佐に続いて寝室に入るまでにさほどの時間はかからなかった。少佐がベッドに横たわる間、伯爵は部屋中の引き出しをめちゃくちゃに開けたてし、明らかに潤滑剤だと思われる小さなチューブをようやく探し当てた。これがまったく不測の事態だったのか、それともそういう振りをしているのか、どちらだ?

少佐は皮肉な笑みを浮かべ、自分自身の問題に戻った。今迎えようとしているその瞬間と、自分自身の肉体の覚醒について思いを巡らせた。何も考えなければいい。考えなければ問題は無いはずだ。全く問題ないはずだ。

「少佐、あのさ、なにも今じゃなくて例えば別の…」

「だめだ。」少佐は短く答えた。「続けろ。」

伯爵は少佐の前にうずくまった。両手がほとんど無意識に少佐の大腿を愛撫していた。「わかったよ。」彼はついにそうつぶやいて、体を前に倒して少佐に長いキスを与えた。少佐がベッドに横たわると伯爵もまた覆いかぶさるように体を横たえた。伯爵の片足が少佐の腿を割って入り、ぴったりと押し付けられた体の鋭い楔が、少佐の体を突いた。

組み伏せられた体から抜け出し、うつ伏せになろうとした少佐の肩をエロイカは押さえ、押し留めた。「きみを見ていたいんだ。美しいきみを。」

「そういうことをいうのはよせ。」少佐は不満気に呻ったが、声に現れた抗議の意はかつてほど鋭いものではなかった。彼は相手の言葉を信じ始めていた。少なくともそれを繰り返す本人が信じきって口に出していることを。ならばそれは伯爵にとっては真実なのかもしれない。変なやつだ。まるでおかしい。だがそれはもはやどうでもいいことだった。

なめらかな指が滑りこんできた瞬間、体が硬くなった。少佐は沈黙のままに自分の臆病さを猛烈に叱咤し、できる限り体の力を緩めようと努めた。何をしようとしているのか、自分の上にいいる男に何をさせようとしているのかを考えないでいるためには、最大限の精神力が必要だった。そして狼狽を制御しきれないでいるうちに、ついにそれが不可能だと悟った。おれにはこれは無理だ。考えないでいることも出来ない。不可能だ。この感覚に抵抗するなど…

体の上にいる男のほっそりした上半身を見つめた。けぶるような青い瞳、豪奢な黄金の巻き毛、悦びととまどいとをその表情に浮かべつつ、渇望に満ちて自分を組み敷いている男、ドリアン。ドリアン。エロイカ。ドリアン。彼は呪文のように繰り返しその名を唱え、呪文がもたらす感覚の渦へ我が身を投げ入れた。

すると爆発が起こった。これまでに感じたことのない体内からの爆発。螺旋を描きつつ自分を責め立てるドリアンの指がもたらす圧倒的な感覚に、燃えるような悦びが同じく渦を巻いて外側へはじけた。腰を上げ、体を弓なりにして息を求めている自分をかすかに意識した。

「私の名を呼んでくれ、クラウス。」ついに褥を共にした男がそう望んだ。二度目の高まりがクラウスを捉えたその瞬間に。

エロイカは、望みの物を手に入れるあらゆるすべを知りつくしているのだった。それはたやすい事だった。もはやすべてがちがっていた。クラウスは、自分の唇から相手の名がこぼれ落ちるのを聴いた。脅しでもなく、呪いでもなく、ただ彼はその名を呼んだ。彼はその感覚に完全に降伏し、愛撫を受けいれ、相手の欲望と自分自身の欲望を承認した。

たやすい事だった。一度知ってしまえば、なにも考えずにこれを享受することは、これほどまでに…



~~~~~~~~~~~~~~~~



伯爵はこうなることを全く予期してなかった。ありえないと知りつつ、うっとり夢見たことがなかったとは言わない。だが愛する男をベッドに連れ込こんで自分が主導権を握るという夢想が現実になっただけではなく、相手が自らこれを求めてくるという妄想までが実現するとは! 伯爵は最後の妄想をほとんど自分に許したことがなかった。行き過ぎた欲望が、はかない夢想そのものを台無しにしてしまうことを恐れたのだ。そしてまた、彼が描いていたいくつものシナリオのうち最も大胆でありえない内容のものでさえ、夢がここまで早く実現してしまうことを予想していなかった。ましてや、あのことを知ってしまった上でまさかこんなに早く…。

だが今はそんなことを考えている場合ではなかった。夢のなかの相手が現実となり、欲望に濡れた暗い瞳をこちらに向けてあえいでいるのだ。上達が早いなんてもんじゃない。ハリアーみたいにその場でいきなり離陸だ。もしあれほど長く物狂おしい日々を過ごしてきていなかったら、ふと興が冷めて体を引き、一度は難攻不落かと思われた相手をその場に置き去りにしたかもしれない。

きっと最初はほとんど臆病なまでの躊躇を見せるにちがいないと予想していたことを考えると、一直線にこちらの下着を引きずり降ろしにかかってくる少佐の速度は、ゴールドメダリスト級の素早さと言ってよかった。

「たぶん少し痛むよ。」伯爵はややかすれた声でささやいた。愛しい男の緑の瞳が、「さっさと取り掛かからんか馬鹿者」とでも言いたげにぎらついていた。

慎重に位置を確かめた。ついに覚悟を決めるまで出来るだけ長く時間を稼ぎ、それから彼自身をそこに押し当ててゆっくりと挿入した。その動きのさなかでさえ、自分がことを完遂すべきものかどうかまだ決めかねていた。もしクラウスが嫌がったら?もしこれが過去の忌まわしい記憶を呼び覚まし、その結果二度と伯爵となんぞ寝るもんかと少佐が結論づけたら?もし…?

! 大変だすごく気持ちいい。…これがクラウスなんだ。言い寄ってくる百人の男たちのいくらでも替わりのある肉体ではなく、クラウスなんだ。私の少佐、私の、唯一の、気短で癇癪持ちの、美しい人・・・

彼は震える手で愛しい相手の腿と下腹部を撫でた。そして自分の体を動かさないように注意を払いながら、少佐のそそり立つものを片方の掌に収めてしっかりと包み込み、しごきはじめた。少佐の顔に浮かぶ表情は読みとれなかった。痛みを覚えているのか、そうでないのかもわからなかった。リスクは避けたかったが、うまくゆけばクラウスのためにもなるはずだった。彼ははクラウスが自分を繰り返し訪れるように仕向けたかった。自分が知るあらゆる方法でクラウスと愛を紡ぎたかった。そしてクラウスと共にさらに学びたかった。

「愛しているよ、少佐。」彼はそう優しく告げて、相手の瞳がしかと計りがたい感情に曇るのをみつめた。怒りではなさそうだったが、当たらずとも遠からずといった風情だった。

もはやことを始めるべき時だった。彼がわずかに体を引くと、クラウスの下腹部の筋肉がたちまち緊張するのが感ぜられた。それは下腹部の皮膚に完全な形で盛り上がった。ああ。これほど完璧な肉体を持つ男がそれにまさるとも劣らぬ美貌を持ち、なおかつそれを他者に指摘されて信用せずに怒り出すなどということがなぜあるのだろう。このへそ周りの筋肉だけでも素晴らしい。脚だけでも。踵ですら。肘でさえ…、どの部分をとっても完璧じゃないか…

わずかに突き、それから引いた。少佐は落ち着きを失わなかった。もうすこし深く探ってみた。そしてそこにとどまり、クラウスの体の中の感覚に思わず我を忘れそうになった。それは暖かく、きつく彼を締めあげていた。胸の鼓動に合わせて微かな脈動を打ちながら、なお伯爵を迎え入れようとしていた…

伯爵は握りしてめいた少佐のものから手を話し、両手で少佐の腰をしっかりと掴んで本格的な動きに入った。どこをどう突くべきか、角度と強さを考慮するだけの余裕が残されていたのは幸いだった。だが伯爵がその目論見の通りの場所を攻めたとき、少佐は引きつったような息切れとともに体を固くし、完全な輪郭を持つ下腹部の筋肉がなめらかに震えた。その震えは全身に伝わり、少佐は背を弓なりにして為す術もなく耐えた。

その少佐の反応が、伯爵に残されたなけなしの理性を吹き飛ばした。その後のことはよく覚えてない。熱い肉体の下にまた熱い肉体が重なり、目の眩むような光景が前にあっただけだ。汗に濡れた、なめらかで完璧な少佐の肉体が伯爵自身の無我夢中な動きにぴったりと体を添わせ、ついに快楽へと目覚めて喘ぎながら蠢いていた。体と体が融け合い、その境界すら定かではなかった。情熱と欲望の小さな叫びが彼の口から漏れた。そして伯爵は少佐を打ち続けた。これだけの欲望を初めて感じさせた唯一の男に向かって、腰を打ち続けた。そしてついにその腰に少佐の脚が巻き付き、奥底に燃えさかる炎を秘めた緑の目に見つめられるまま耐えきれず、激しい炎のような絶頂を迎えた瞬間に伯爵は再び悟った。だがそれは完全に新たな驚くべき発見だった。それは骨の髄まで震えるような恐れ、我を忘れて取り乱してしまいそうになるほどの、怖れだったのである。

人を愛することがこういうことだと、伯爵はこれまで知らずにいた。愛することがこれほど・・・、畏れに満ちたものだと。数えきれないほどの情事を経ながら、なぜこれほどまでに恐ろしく、身体の震えるような想いをしたことがなかったのだろう。そしてなぜ少佐に心を奪われた瞬間に、そのことに気づかなかったのだろう。少佐はたやすく簡単に愛を交わすべき男などではない。彼は性愛の相手のすべてを呑み込み、束縛し、激しい情熱に満ちた痛みで相手を拘束する、そういう男だ・・・

少佐の体を這いまわっていた伯爵の掌が少佐の下腹部に暖かく湿ったぬめりを捉え、心臓が、悦びのための器官と同じ激しさにはじけた。彼は体を倒し、あらゆる角度から舌を絡めて深い口づけを交わした。まるでキスもまた性交そのものであるかのように。

唇を引き離したくなかった。背を丸めて少佐の腕の中で眠りに落ちることを許されればと願いながら、その可能性は殆ど無いことを自覚してもいた。ならばせめて、唇だけでも触れ合っていたかった。少佐の肉体から引き離され、何事もなかったかのようにお互いに身支度を整えたくなかった。ついに訪れたこの満たされたはかない刹那を破る、すべてのことを恐れた。この瞬間が指の間からこぼれてしまえば、次に何が起こってもおかしくはない。このまま永遠になにも起こらずにいてくれ。この瞬間をわたしに許してくれ。今だけは。ついに彼を手にいれ、私のベッドに引き込み、彼が私の手と唇に温かくしなやかに応じているこの今だけは…。

  
 
 
 

2012/09/21

Peripeteia 10 - by Sylvia








By the Pen - Peripeteia
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その名が示している通り、レストラン”Zur Alten Muehle”はもともと水車のある粉挽き小屋だった。挽臼を動かしていた小川は流れを変えたか、とっくに干上がってしまったかそのどちらだっただろうか。知っているはずなのだがと少佐は少し考えこんだが、学んだはずの郷土史の記憶をたどるには考えが上の空になりすぎていた。水車は保存されていたが、建物そのものは倉庫として使われ、その後住居となっていたものが、最近小さな隠れ家的なレストランへと改装されたのだった。

少佐はレストランからやや離れた場所に車を止め、徒歩で店へ向かった。そういう習慣だ。車から足がつかないことはわかっていた。持ち主ほどには目立たない車だ。大した差はない。彼はこの地を訪問中の外国貴族と夕食をとるにすぎない。その貴族とは過去にボンで数度会っている。それ以上の何事でもない。せいぜい言い立てるとすれば、なぜエーベルバッハの邸宅での正式な晩餐に招待しなかったのかという程度のことだ。

「こんばんは、愛しいきみ。」ロールスロイスに背を預けた伯爵が柔らかい声で迎えた。少佐は素早く身をかがめて車の中を確かめた。ボーナムはいなかった。大事なご主人を守るため、もしくは夕食の相伴にあずかるためにジェイムズが同行していたとしたら、それはもはやホラー映画だ。

少佐は伯爵の身支度を、安堵ではなく賞賛をもって確認した。彼は黒いボトムにバーガンディレッドのカシミアのセーターを合わせていた。ロングコートもごく控えめなものだった。金髪がレストランの窓から漏れる光を受けてきらめいていた。まとめずにおろしているせいで、巻き毛が計算され尽くした無造作さで肩を覆っていた。

まさにそれこそが呼び出した目的だったから、少佐は相手の外観を仔細に観察することを自分に許した。絶妙なカーブを描く頬骨、少佐自身のものと同じく貴族的に尖った鼻梁、唇は優雅に、だが決して大げさにではなく動いた。彼の古典的に美しいといえる造形は、その大粒の瞳が欠ければむしろ堅苦し過ぎたかもしれない。大きく、力強く鮮烈な青の瞳。そのすべてを合わせて、伯爵は紛れもなく魅力的だった。

エロイカの外観が自分本人にどういう影響を与えるかを分析し評価する前に、少佐はもう少し時間を許す気になった。彼はレストランの入口への道を顎で指した。「行くぞ。」

泥棒がため息をついた。「きみが私に話しかける言葉ときたら、侮辱か命令かどっちかにしか聞こえないね。」

少佐は眉を上げた。「なぜだ。」

「馬鹿な事を言ったよ。」ため息をもう一度。「きみのそういう過剰な男らしさが好きさ。だから文句をいうべきじゃないね。」

男らしさ?過剰な?少佐はこれが一種の侮辱なのかとしばし考えたが、より重要な件を疎かにしてまで気の利いた返事を返す努力を払う必要は無いと結論づけ、うんざりしたように鼻鳴らすだけにとどめた。

「きみは美しいよ、少佐。」伯爵は静かにそう言った。声にはほとんど悲痛な響きがあった。

ここに来る前に、少佐は鏡の中の自分を長い間凝視していた。とりたてて言うことのない、あたりまえの顔つきに思えた。よくも悪くも思えなかった。目の色はひょっとするとありきたりではないのかもしれない。体はもちろんよく鍛えてあったが、それだけが理由にはならないはずだ。そして他には何もなかった。あるはずのものを見いだせなかった。少佐には、なにもかもが到底理解し難かった。

少佐は漠然とした疑惑の目で伯爵を睨みつけた。それは伯爵の奇妙なほどに真摯な、何かを探るような視線とぶつかりあった。

しばしの沈黙の後、少佐は何かを振り払うように首を振ってレストランの方へ足を向けた。伯爵が侮辱か命令を受けたような気分になってくれればいいと願いながら、一方ではそれがやくたいもない望みであると承知していた。少佐はあらゆる機会をとらえて伯爵に侮蔑語を投げかけてきた。そしてそれは伯爵を一瞬たりともたじろがせてこなかった。伯爵は、そんなことで傷つくような卑小な自尊心は持ち合わせていなかったからだ。

それに、気が変わった伯爵にこのまま引き返されてもまずい。なにしろ少佐は重要な案件を解決しようとしているところだ。

少佐は粉挽き小屋の小さな入口部分の内側に立ち、円形の建物の内部をぐるりと見回して席の配置を確認した。室内の装飾はまさに粉挽き小屋とその時代をテーマとしていて、石造りの内壁に重厚な木造の家具が並んでいた。年代物の挽臼が入り口横の壁の高い位置にに展示されていた。少佐はその取付が安全かどうか、ざっと目視で確認した。幾つかしか無いテーブルのほとんどが埋まっていた。部屋の中央に四方の開いた石造りの暖炉があり、暖炉と通気口に沿って金属を鋳造した螺旋階段が巻き付いていた。暖炉に火は入っていなかったが、部屋に自然な区画を与えていた。

少佐はテーブルを選び、急いでやってきた極めて礼儀正しい正装のウェイターにその選択を示した。ウェイターは先約について説明を始めたが、少佐の鋼鉄のような視線にすぐにあきらめ、予約の変更を受けた。席につきハウスワインをボトルで頼むまで、少佐は伯爵には目もくれなかった。だが伯爵が自分の後について店に入り、同じテーブルの向かいの席についたことを十分すぎるほど意識していた。

「協力に感謝する。」少佐は硬い声を絞りだすようにして言った。丁重であることに最善を尽くそうと、事前に決めていたからだった。もしそうできるものなら、エロイカの協力を必要としていた。そして実際に感謝の気持があったからだった。招待に応じて現れたことのみならず(正直なところ「来ない」という可能性は薄いだろうと考えていたが)、伯爵の今夜の服装と振る舞いには、少佐の感情を逆撫でしないようにとの、これまでにない配慮が感じられた。そう、今のところは。

伯爵はナプキンに手を触れ、髪をかきあげた。口を噤んだままだった。居心地の悪さを感じているようだった。

よかろう。おれもだ。

NATOからの依頼があるとか、そういう話じゃなさそうだね?」伯爵はとうとう口を開いた。

少佐は鼻を鳴らし、答えるだけの手間をかけなかった。馬鹿な質問だ。NATOの外部契約者を夕食に誘ったことなどなかった。

「なにか盗んでほしいものがあるのかな?」伯爵はめげずに繰り返した。「それとも戦車を返して欲しいとか?」

目の前の小癪な泥棒が自分から盗んだものを思い出し、少佐の導火線に火が付きそうになった。だがなんとか押し留めた。注意を逸らされるわけにはいかない。「そのまま持ってろ。」少佐はぶっきらぼうに答えた。「あれはもう退役済みの機種だ。」

ワインとメニューが運ばれ、愉快だとは言いがたい会話を遮ってくれた。ウェイターは少佐のグラスの中にほんの少しのワインを注いだ。レストランの選んだワインの味を確かめ、感想を述べるというおきまりの儀式を済ませて顔を上げた少佐は、伯爵が例の不埒な笑みを口元にほんの微かに浮かべて、自分を見ていたことに気がついた。

「なんだ?」反射的にそう声を出したが、その後に続く愚かな質問をかろうじて飲み込んだ。”なぜおれをそんな風に見る?” 少佐は答えを知っているはずだった。堕落した性的倒錯者だからだ。だから見るのだ。くそっ。お前がそんなふうにおれを見なければいいのに。

伯爵は声に出して笑った。「なんにもないさ、ダーリン。さて、私はメニューを見るふりをしたほうがいいのかな?それともすべてきみが選んでくれるの?」

少佐は自分を抑えこみ、なんとか渋面を保った。情勢は芳しくなかった。少佐は短気すぎ、状況に気力を奪われすぎていた。落ち着かねばならなかった。それともこんな努力は無駄なのか?いや、諦めるわけにはいかん。目的を持ってここまで来たのだ。何をなすべきなのか、彼にはわかっていた。

”では進め。なすべきことから逃れようとするのは臆病者だけだ。”

そこで彼は目の前の薄笑いを浮かべた放蕩者を怒鳴りつけるのはやめにし、睨みつけさえもしなかった。その代わりに上品な革張りのメニューにしばらく目をやり、育ちから来る躾と…、不屈の闘志を呼びおこした。異性とここにいるのであればどうすべきなのか、その振る舞いを自分に課した。

「差し支えなければそうしよう。」彼は視線を上げて無理に微笑んだ。ちらっと前歯を見せるべきだったが、そこまではできなかった。「メインディッシュを英語で説明したほうがいいか?なにしろおまえの好みを全く知らんしな。」

青い瞳が驚きのあまりまんまるに開いた。伯爵はせわしなく瞬きしながらメニューに視線を落とし、すぐに顔を上げて少佐を見つめた。

「ええと…」尋常ならない長さの沈黙のあと、伯爵はようやく口を開いた。「自分で読めると思うよ、多分。」それから別の種類の笑みが伯爵の表情をゆっくりと明るく照らし、それは先程までの奇妙な寡黙さを跡形ももなく消し去り、伯爵一流の周囲に幸福をふりまくような輝く笑顔に変わった。

少佐はスープのページをぱらぱらとめくり、締め付けられたように感じる喉をなんとか通りそうな何かを選ぶのに忙しいふりをしていた。ふりをしながら、必死で願っていた。次に向かいの男の顔に目をやるときには、節度ある言動を取れるだけの冷静さを取り戻しているように。落ち着け。とにかく落ち着け。

「ありがとう。」伯爵が柔らかな声で告げ、テーブル越しに少佐へちらりと目をやった。微笑みは消えていたが、幸福の輝きが残っていた。くそっ。

「あの、英語で説明してくれるって言ったことだよ。でもたぶん自分で読めると思うんだ。わたしのドイツ語だってそんなにひどくはないんだよ。それに、なにが食べられないかは自分でわかってるさ。知ってるかい?二、三日前にひどい目にあったんだ。ジェイムズ君がどういうわけだか近所のレストランの日替わりメニューを電話で注文してさ、私達全員分。それが一番安いはずだって思ったんだよ。どうしてそう考えたのか、私にはわからないねけどね。それで大変なことになったんだよ。請求書が届いた時にはジェイムズ君は気が狂ったみたいになっちゃって、『電話代だって20ペニヒもしたのに~!』って泣いてたよ。とにかく、どうしてこんな話をしてるかというと、それで初めてサウマーゲンを食べたんだんだ。でも幸運なことに、翌日まで材料が何なのか知らなかったんだけど。」

伯爵は少佐に相槌を打つ暇も与えずに、そこまで一気にまくしたてた。彼は『サウマーゲン』という単語を禍々しい生物兵器のように発音した。サウマーゲンとは雌豚の胃を使ったソーセージで、ドイツの郷土料理である。少佐の好物というわけではないしめったに食べることもなかったが、それでも少佐はドイツ名物の肩を持ってやりたい気分になった。朝食にオートミールとベイクドビーンズなんぞを食う連中が、何ぬかしやがる。それをそのまま口に出しそうになったのを押さえた。論理的な反論ではない。それに、いつものような口げんかのためにここに来たわけでもない。だが今夜はどうも自分の手綱を引いてばかりだな、少佐はそう考えた。


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幸いなことに伯爵は会話を楽しみたい気分になったようで、少佐が無理に会話を引き出す必要もなく、活き活きとした表情で広範囲に渡る話題を提供し続けた。少佐はほとんど頷くだけだった。正直なところ伯爵の話の内容をよく聞いていなかったのだ。ちょっとした面白い話、美術史に関連する逸話…。伯爵のおしゃべりをただシャワーのように浴びていた。性的倒錯者を過剰に演じていないときの伯爵の声は、心地よい響きだった。

エロイカについて知らないことが多すぎた。最も不可解だったのは、自分の倒錯ぶりを全世界に向けて宣言し、なお恬として恥じることのないその性格だった。伯爵には賢明さも単刀直入な実用主義も持ち合わせていなかった。何年も平気で泥棒稼業を続けていられるという点だけ見ても、それを証明するに余りあるだろう。悪名高き美術窃盗犯・エロイカの正体を表の身分から隠しおおせている彼にとって、自分の性的嗜好を偽装することなど訳もないたやすさのはずだ。にも関わらず、この男はあらゆる機会を捉えて自分の変態趣味を見せびらかし、自身の名誉に傷をつけようとしている。

ウェイターがオーダーを伺いにきたときには、少佐は自分が落ち着きを取り戻していることに気づいた。もはや取り乱すこともなく、計画を想定通りに進められるだろう。少佐はさきほどの言葉通り伯爵の料理を選んでやろうとしたが、その必要はなかった。伯爵はごく普通の男性として振る舞い、自分のメニューを自分で選んだ。

伯爵はさらに快活におしゃべりを続けた。さっきまでのためらいがちな様子はかき消えていた。いつも通りの豊かな身体表現が戻ってきた。小首をかしげて、ふと伏し目がちにまつ毛を落としたかと思うと、ほとんどはにかむような目付きで顔を上げて微笑んだ。頬杖をついた。金の巻き毛をさっとかきあげた。少佐はそれらすべてを落ち着いて観察し、誘惑のためのしぐさだと判断した。本人が意識的にそうした仕草をしているとは思わなかったが。きらめくような魅力が再びふりまかれ始めた。

この程度の誘惑ならやりすごせる。少佐はそう思った。今日はいつになく控えめに振舞っているのだから、叱りつけるほどのことではない。

「それで、そのとき彼が気づいてたと思うかい?全っ然!戻ってきたときの母親の顔と言ったら…。いやいや、私だってその場にいたわけじゃないから実際に見たわけじゃないんだけど、でもちょっと想像してごらんよ。…」

唇をひらめかせながら、輝くような魅力を撒き散らす伯爵を、少佐は見つめていた。怒りや嫌悪はかけらほども沸き上がっては来なかった。小癪な悪ふざけと悪戯と、桁外れの素行と破廉恥な堕落をはぎとってみれば、少佐がそこに見出したものは…、心を惹きつけられずにはいられないなにものかだったのである。

その感情を名付けるにふさわしい言葉を、少佐はもたなかった。だが今はまだそれでもいい。夜はまだ長い。ゆっくりとわかってゆけばいい。”惹きつけられた”。そこから始めよう。エロイカの普段の習慣や生活や闇の稼業への軽蔑は消えなかったものの、目の前の男本人へ抱く感情が軽蔑や、ましてや嫌悪ではないとわかっただけで十分だった。ものごとは多面的な方面から判断せねばならん。あらゆる方面から。

「少佐?そんなふうに眉をしかめちゃだめだよ。眉間の皺が戻らなくなるよ。」

「おまえというやつが全く理解できん。」少佐は話の腰を折った。

伯爵は不意打ちを食ったように目をぱちくりさせた。彼はその豊かすぎる感情表現を決して隠すことがなかった。

長い時間がたった。「聞いてくれればよかったんだよ。」泥棒はとうとう返事をした。口調からは、さっきの雑談のときの軽やかさが消えていた。少佐はその真摯な声の響きを好ましく受け止めたが、同時に青い双眸が自分をひたと見つめているのに気づき、やはり動揺した。「聞いてくれればなんでも答えるのに。それにね、わたしもきみのことが全くわからないんだ。」

少佐は鼻を鳴らした。「それはそうだろうな。」

なんでも聞けというなら、試しに盗んだものをどこに隠しているのか聞いてやろうかと少佐は考えた。尋ねたからといって正当な所有者の手に戻せというわけではないし、エロイカが真実を答えたとしても手下どもがさっさと戦利品を移動してしまうのだろうが、それでもなお、この申し出は伯爵がいかに本気かを証明していた。この申し出にはそういう意味があった。

伯爵がなおも少佐に気遣うような視線を向けているうちに、夕食がテーブルに届き始めた。少佐は問題を後回しにすることにした。何もいますぐ聞かなくてもいい。伯爵の国の可能性のありそうな場所に部下たちを待機させておいて、それから聞いてもいい。非合法に収集した美術品はどこにある。だがそれは後でいい。今夜は今夜の計画がある。

食事はすばらしく、支払いに見合うだけの価値があった。だが予期していた通り、コニャックソースのかかった仔牛の肉は少佐の口の中にとどまったまま、なめらかに喉に落ちようとはしなかった。少佐は努力してそれを飲み込み、肉を半分とクロケットをいくつか口にした後にそれ以上を諦めた。伯爵がラグー(肉や野菜入りの香辛料の効いたスープ)を平らげようとしていたので、少佐はサラダをつつき回して伯爵の食事に付き合った。

「ハンブルクへは行ったことがあるか?」少佐は出し抜けに尋ねた。

伯爵は用心深く動きを止めた。「ああ、あるね。なぜ?」

「いい街だろう。そう思わんかったか?」下手な尋問のようだだと自分を呪いつつ、それでも聞くのをやめなかった。「あそこののコンテナ埠頭は見事なもんだ。」

「コンテナ埠頭、ね。」エロイカはにやっと笑いそうな口元を我慢して押し留めているように見えた。「きみが言うならそうなんだろうね。わたしは行ったことがないけど、次に行く時には必ず行ってみることにするよ。」

「ハンブルクではどこに行ったんだ?」少佐は引き下がらずにもう一度尋ねた。

伯爵は今度は話に乗り、おしゃべりを再開した。アルスター湖がどれほど美しかったかを微に入り細を穿って説明し、その後の話はデザイナーズブティックの並んだ通りでの買い物三昧へと脱線した。話題が画廊と博物館を慎重に回避していることに少佐は気づいた。

もはやそれ以上後回しに出来なかった。少佐は覚悟を決めて伯爵のほっそりした手を観察した。それは話の内容を説明するために熱心に、だが優雅に動いていた。そして喉。上品な喉。よく動く眉と、豊かな表情を浮かべる口元。人を惹きつけずにはいられない容貌、贅沢な黄金の巻き毛。少佐は伯爵のその両手が自分の肌に触れる瞬間を脳裏に描いてみた。そして自分が伯爵の喉に顔を埋め、顔を上げて唇を吸うところまで脳裏の映像を進めた。そして待った。

脳裏の映像の魅力に自分が陥落したことをはっきりと理解し、胃を絞られたような気分になった。

「デザートはどうだ?」少佐は話の腰を折った。無作法にも伯爵から目を離せなくなっていた。さっきまでの自分の観察の精度を疑いたくなった。

伯爵はしばらく少佐を見つめて、それから微笑んで首を振った。「今日はやめておくよ。でも、きみが食べたいんなら…」

「いや。」少佐は椅子をずらせ、気短げにウェイターを呼んだ。ウェイターは即座に駆けつけ、また勘定書きを持って駆け戻った。

レストランを出た伯爵は少佐に体を寄せるように歩いたが、ロールスロイスを通りすぎようとして、少しためらった。

「ホテルまで送ろう。」少佐は無愛想に告げた。

その言葉を聞いた伯爵の様子が、食事の前の奇妙な態度に戻ったように少佐には思われた。少佐は伯爵を気遣わしげな目でみつめたが、伯爵がうなずくと黙ってメルセデスの方へ歩き出した。

さほど遠くない道のりを、どちらも黙りこくったままで過ごした。少佐はホテルの裏手に回りこみ、路地の目立たない場所に車を泊めた。伯爵は曖昧な表情で少佐をちらりと見たが、すぐに車を降りようとはしなかった。伯爵がいつもの薔薇のフレグランスを使っていないことに、少佐はその時気がついた。つまり今日のエロイカはあらゆる意味でいつもと違っていた。控えめだった。過剰ではなかった。いつもの伯爵から根本的にかけ離れていた。

手を伸ばせば届く距離にいて、例の不愉快ではない花の香りが今夜はより自然な香り…、伯爵自身のかすかな肉体の匂いに置き換わっていた。瞳の色が灰色に近く見えたのは、暗さのせいだったのかもしれない。そして唇は暖かかった。コートとセーターの下の肉体はこれみよがしな筋肉質ではなかったが、だが間違いなく自分と同性のものだった。

少佐は持ちこたえた。内心で叫びだしそうだったし、自分がいつ取り乱すかと危惧さえしていたが、それでも持ちこたえた。彼の下で待ち受ける唇が開き、そこから這い出た舌が少佐の唇をあやすようにして開かせ滑りこんできた時ですら、少佐は持ちこたえた。







訳者より: ハンブルクのコンテナ埠頭の様子はyoutubeで”Hamburg Freight Harbour”で検索するといくつか見ることができます。いかにも少佐が好みそうで、伯爵にはどうでもよさそうな風景。美しいといえば美しいのですが。

2012/09/18

Peripeteia 09 - by Sylvia







By the Pen - Peripeteia
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「あら、ごらんなさい。ネッカー河だわ!その向こうに見えるのは旧市街よ。きっとそう。ここから見るとずいぶん高い場所に見えるわねえ。ねえ娘たち、そうじゃないこと?」

少佐はうんざりした声をかろうじて飲み込んだ。娘たちは母親のどうでもいい呼びかけに、おとなしく頷いた。そのうち一人ははにかみつつも少佐に微笑みさえした。

ターニス伯爵夫人であるヘドゥイガはバヴァリア公爵の末娘だった。彼女は鐘楼の狭い窓から身を乗り出し、短い髪を風になびかせてしばらく外を眺めた。彼女の三人の娘は離れたところにある別の窓から、おとなしく外を眺めていた。窓の外には脇を流れる河の渓谷とエーベルバッハの市街が広がっていたが。風景になんらかの興味でも見せたのはその内の一人だけだった。別の一人は寒さに震えていた。外出前におめかし用の服を選ぶときに、愚かにも天候を考慮しなかったようだった。少佐はふと、この娘が自分にコートを借りるつもりで故意に上着を忘れてきた可能性について検討してみた。頼まれるまでは貸す気はなかったし、この娘がそれを自分から頼んでくることはありえそうになかった。それから彼は、選んだ職業のせいでここまで疑い深くなったのか、それとも自分はもともとこういう性格だったのかと、ふと考えた。

「あれってハインリッヒの車じゃないかしら?前に会った時、ああいう古いロールスロイスに乗ってたわよ。ハインリッヒは確かオーストリーでばかばかしい閣僚会議への参加を求められて、こちらにはこられなかったのよね。政治の世界へ戻るだなんて、不運なな大伯父の身の上に起こったことを利用する気に違いないわ。あの家系の人たちときたら、間が悪いったらありゃしない。私達とはちがうわね。あら?あれは誰かしら?あれはハインリッヒじゃないわよ。絶対に違うわ。」

少佐は旧市街地の中心を見下ろし、ロイヤルブルーのコートに身を包んだ人影をみてその人物の正体を確信した。派手な帽子のつばが、その本人の顔と髪を完全に隠していてもそれは分かった。身のこなしが違った。ケープの裾を揺らす歩き方や、帽子の角度をなおす仕草から、それが誰かは明らかだった。その人物はホテル・カルプフェンへ入っていった。街で最高の格式を誇るホテルへ。

「あれは、」少佐は口を開いた。夫人の目がきらりと光るのに気づき、伯爵を見てぐらりと揺れた心が立ち直った。「ドリアン・レッド・グローリア、英国のレッド・グローリア伯爵ですな。」

「まあ!」伯爵夫人はさっと振り返って窓を離れ、背筋を伸ばしてきっとした顔になった。彼女の娘たちも釣られて背を伸ばした。上巻の命令を待つ娘子軍といった趣だった。「マリア、髪を整えなさい。それから上着をちゃんとして。ハンナ、背を丸めないの。もう少しましな服は持って来なかったのかしら?コンスタンツェ、あなたもそろそろお年ごろだと言っていいわ。英語の勉強もちゃんとさせてきたし…」

少佐は意地悪く唇をゆがめ、婚活特攻隊が階段へ続く小さなドアへ突撃するのを見送るために一歩退いた。目標は不運なエロイカであり、結果として少佐には平和と静寂が訪れるはずだ。

と、そこまでがとっさの計画だった。

だが伯爵夫人は足を止め、少佐の袖を掴んだ。少佐はあわてて袖を振り払おうとしたが、夫人は全く動じなかった。「ご紹介してくれるわね、クラウス。あなた、伯爵とはどの程度のお知り合いなの?」

少佐は眼光鋭く相手を睨みつけた。かつてKGBのエージェントですらこの眼光にはたじろぎ、恐怖のあまり銃口を下げたことがある。少佐の上司もまた、常に少佐のこの視線を避けた。だが伯爵夫人はものともしなかった。彼女に流れる代々の高貴な血が、恐るべき自信と気位の高さを彼女に与えていた。

「非常によく知っている、と言えるでしょうな。」少佐は折れた。

「ならあなた、あの噂はご存知かしら。何度か聞いたことがあるんだけれど、あの方の…その…、私的なライフスタイルに関するあの噂は、ほんとうかしら?」

この質問は想定外だった。少佐は思わず力を込めて腕を引いて夫人から逃れた。「噂なぞ存じません。」もちろんそれは真実ではなかった…。噂というのはどの業界においても優れた情報源となりうる。だが彼は伯爵の性的嗜好について今ここで語りたいとは思わなかった。または、いついかなる時であろうと。

伯爵夫人はややあっけにとられたように少佐を見つめた。眉がはね上がっていた。「ばかね、クラウス。噂が本当かどうかなんてどうでもいいことなのよ。ただね、結婚というのはとにかく誰でもしなくちゃならないことなの。」

「おっしゃるとおりです。」少佐はなるべく落ち着いた声を作ろうと試みつつ答えた。声を出すまでには随分時間がかかった。

夫人の眉が降りた。彼女は謎めいた笑顔を浮かべて言った。「では行きましょうか。」

そこで彼らは階段を降りた。少佐は何も考えないように努めた。実のところ、昨夜からずっとなにも考えないようにしていたのだ。考えないでいる限り、これまで通りに過ごせるはずだった。いつもとは違うなにものかに知らぬふりをしていれば、認めたくないすべてのことから目を背けていれば。目を背けている限り、彼は変わらずにいられる。彼が変わらなければ、彼を取り巻く森羅万象もまた変わらぬはずだった。

少佐とターニス家の女性たちが鐘楼の出口からその場に到着した時、エロイカの車の前にはスーツケース、帽子箱、およびその他の様々な衣装ケースが山と積まれていた。ホテルの従業員たちが荷物を持って忙しく行き来していたが、ボーナムはロールスロイスのトランクから伯爵の旅行用のワードローブを際限なくおろし続けた。

少佐はボーナムに注意を払うことなく車に近づいたが、彼が少佐に気づいた瞬間小さく跳び上がったのには気づいた。誰かがいつも通り自分を恐れていると知るのは、今の少佐には多少の慰めだった。

レッド・グローリア伯爵はホテルのフロントデスクにいた。見とれるような姿だった。陽光にきらめく黄金の巻き毛、深夜のように濃いブルーのサテンに身を包み、片腕を気怠くカウンターに預けていた。もう一方の手は帽子を持ったまま、たっぷりした布地の外套のひだを集めるようにして腰に当てていた。レースをふんだんに使った純白のブラウス、ぴったりした黒のボトムに、ひざ上まであるロングブーツを履いていて、あと足りないのは中世騎士の剣だけかという格好だった。そのいでたちは馬鹿馬鹿しいとも言えたし、精巧極まりないとも言えた。計算され尽くしたポーズが、この男のすべてを過剰にしていた。やりすぎで、派手すぎで、目立ちすぎで、他人の注意を引く意図が見え見えで、とにかく過剰すぎた。

少佐は深く息を吸い、覚悟をきめた。「グローリア卿、」彼は低い声で伯爵に話しかけた。「ご紹介させていただけるだろうか。こちらはヘドゥイガ、ターニス伯爵夫人だ。令嬢がたはマリア、コンスタンツェ、ヨハンナとおっしゃる。ヘドゥイガとご令嬢、こちらがドリアン、レッド・グローリア伯爵だ。ではよい日を過ごされるよう。」

伯爵の荷物を抱えて急ぎ足で入ってきた従業員が少佐とぶつかりそうになり、飛び退った。だがヘドゥイガは少佐より素早かった。彼女は少佐の腕をひっつかみ、フロントデスクへと引きずり戻した。エロイカはその場で大きな青い瞳をまんまるにして、ターニス家の三人娘を凝視していた。

「さあ、クラウス。そんなふうにするのは礼儀知らずですよ。私たちははまだネポムック教会も見ていないし、中世の浴場遺跡にも行っていないわ。ねえ、伯爵にご一緒願えないかしら。グローリア卿、いかが?クラウスはエーベルバッハを案内してくれるそうなんですのよ。さっきまで中世の砲台と鐘楼を見学していましたの。今日一日はまだまだ長いし、あとでエーベルバッハ城まで足を伸ばしても…」

「いいえ!グローリア卿はお忙しい方ですので。」少佐は無理やり話の腰を折った。さもなくば、この猛女がいったいどんな手を使ってくるかわからない。「ご無理を申し上げてはいけませんな。それに伯爵は周囲にたいへん気遣いをなさる方です。不躾なお願いをするわけにはいきません。」

「クラウス、身持ちの堅すぎる小娘みたいなことは言わないで頂戴。伯爵ご本人にお伺いしましょうよ、ねえ?グローリア卿だってお出かけはお好きなはずだわ…」

「身持ちとかそういう話ではありません!」少佐はとうとう叫んだ。もうたくさんだ!なんだってこんなところでデクノボウのようにつっ立って、親戚というだけのおばさんに言いたいように言わせておかねばならんのだ?

ロビーが静まり返った。エロイカさえたじろいだ表情を浮かべた。だがヘドウィガは軽く舌打ちをして手を降っただけだった。娘の嫁ぎ先を新開拓するためなら、たいていのことは気にならないらしい。「クラウスのことはお気になさらないでね、伯爵。この子ったらいつだってこう。でも大声で吠えるだけで噛み付いたりはしないんですのよ。さあ、さっき通り過ぎたところに小さな可愛らしいカフェがありましたの。お茶でもいかがかしら?」

少佐は降参した。時において最悪の状況への対処法は、流れに身を任せることだったりする。現時点では、無駄な抵抗は事態を悪化させるだけだろう。

くそっ。煙草を切らしとる。少佐は振り返ってあちこち視線をさまよわせ、フロントデスクの不運な女性に目を止めて怒鳴りつけた。彼女は事の成り行きの一部始終を、目をまんまるにして子ウサギのように身を縮めて見届けていたのである。彼女は跳び上がらんばかりにして煙草を取り出し、さっと差し出した。

少佐は「文句があるならかかってこい」と言わんばかりの眼差しでロビー全体をぐるっと見渡し、最後にようやく伯爵と目を合わせた。伯爵の瞳は疑わしげな、そして気乗りのしていなさそうな色を少し浮かべていて、そこで少佐の気分はやっと持ち直した。婿探し中の魔女に目をつけられたのは少佐だけではないという救いの光。

そしてこの男には女は対象外だから魔女の企みに捕まるはずはないと考えた瞬間、なぜか安堵を覚えた自分に少佐は気づいたのだった。



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「エーベルバッハへいらしたご用事はなんだったんですの?」

その質問が、少佐の散漫な意識に飛び込んできた。彼は片耳を澄ませて、エロイカが所要をでっちあげるのを聞いていた。ハイデルベルグでのオークションやネッカーシュタイナハにいる友人たちのこと、それからドイツ辺境への周遊旅行などなど…。

伯爵夫人が取り計らった座席割は、少佐にとっても救いだった。少佐の両隣には適齢期の上の娘二人が座った。伯爵は恐怖の伯爵夫人と英語を話す末娘の間に挟まれた。少佐の両隣の娘たちは、一言二言の会話を交わした後には黙り込んだ。彼女たちの母親は伯爵を質問攻めにするのに忙しく、上の娘たちにまでは手が回らなかった。ということはつまり、伯爵もまた夫人の相手に忙しくて少佐に余計な話を振る暇はない、という状況だった。

少佐はふんぞり返ってコーヒーをすすり、思考がさまように任せた。彼はひっきりなしに煙草を吸い、カフェ中の誰彼となくを黙って睨みつけていた。煙草の煙を抗議に来るものはだれもいなかった。くそっ。多少のいざこざでも喜んで起こしたい気分だった。。

まあ、いい。少し落ち着いて考えてみるべきかもしれない。なるべく考えたくない事であるのは仕方がないにせよ、思考は窮地を抜け出す助けにはなる。戦略を改めねばならない日は、遅かれ早かれが来たにちがいなかった。逃避は何も生まない。のみならず、逃避そのものが危険すらはらむ。そしてまた逃避とは臆病者の所業だ。他の何事ならともかく、少佐が臆病者であったことだけはないはずだった。

どんな調査においても、最初の仕事はできる限りの手がかりを集めることだ。この場合、手がかりは十分だった。エロイカはもう何年も少佐にまとわり付き、求め続けていた。そして昨夜、少佐はついに自らを奴に与えた。事実はそれだけだ。だが少佐が納得できなかった問題はその動機だった。もちろんエロイカはとっくにそれを公言していた。自分が男色家、つまり正真正銘の倒錯者であることと、少佐を自分のベッドに引きずり込みたがっていること。だがそれは表面上の動機にすぎない。その下に隠されたより本質的な動機は、少佐にとっては未だ完全に暗闇のままだった。エロイカを少佐に駆り立てたものはなんなのか?それはひょっとすると挑戦に似たなにかなのか?それとも?

そして少佐自身の動機についてもまた・・・。あらゆることが可能性でありえた。だがそのどれもが、少佐自身を納得させはしなかった。

そのことを突きつめて考えるのをしり込みする自分に気づき、少佐は自分の臆病さに密かに眉をしかめた。事実起こってしまったことを否定するのは無意味だった。なすべき事は一つ、事実を分析し何故それが起こったのかを探る。その結果をもって次の行動の指針とする。

事実を述べよ。彼は自分に言い聞かせた。既知の事項を挙げよ。それはこうだ。自由意志で男と関係を持った・・・エロイカと寝た。やつを拒否することは簡単だった。だがそうしないことを選んだ。拒否する代わりにこの肉体を自由にさせ、ついに吐精するまでやつの愛撫を受けた。そしてなにより、エロイカの望みに応じて愛撫を返した。

脳裏に浮かぶトビアスを抹殺したかった。そのために、エロイカの舌と唇をこの身に許した。・・・戯言だ。

だが勿論それは真実ではなかった。そんな見え透いた言い訳で自分をごまかすことはできない。これには意味がある。これは意味のある何事かなのだ。不規則に起こっているかのように見える出来事を制御し統括したくば、それを白日のもとに晒すしかない。

彼は次の煙草に火をつけ、背もたれに体を預けてエロイカを見た。せわしなく煙草をふかしながら、自分の感情を分類し整理しようと試みた。こいつは軽薄な盗人だ。気まぐれな野郎だ。忌々しくひとの神経を逆なでする。会うたびにイライラする。窃盗犯であること、同性愛者であることを隠そうとしない。移り気な出来心と妄想がこの男の原則だ。超個人的なお楽しみの追求だけがやつの存在を規定している。この世にこれ以上役立たずな人間がいるとはおよそ想像もつかん。

にもかかわらず、いかにエロイカを嫌悪しているかをくりかえし表明し続けたとしても、それは真実ではなかった。金髪の泥棒はしばしば、カッとなった少佐がついに相手を殴りつけるところまで余計なちょっかいをやめなかったが、それでも少佐は他者へ本質的な害を与えそうにないその人物を嫌うことができなかった。彼は確かに厄介者だった。そして同性愛者でもあった。だが結局のところ、エロイカは育ちすぎた野放図な子供に過ぎなかったからだ。

その人物には周囲に合わせるという感覚がなかった。何がより重要で何がそうでないか考える気もなかった。自分の願望と欲望に優先させるべき何物をも持ちあわせなかった。そう、幼稚で無責任だった。だがエロイカにはいかなる悪意もなかった。彼はただ奇妙に堕落したありかたで無垢であり純粋であり、生まれたばかりのみどりごのように幼かった。尽きることのない熱情、湧き上がるような快活さ、大いなる生への賛歌…、それらすべてがほとんど魅力的だとさえ言えた。エロイカはまるで子供のように人生を遊んでいた。いわば、彼は子供そのものだった。ドレスアップを楽しみ、想像をかきたてる金ピカのがらくたを追う。彼は常に自分の思うとおりに振舞った。そして人生を、自分の頭の中の克明でロマンティックな脚本通り劇的に過ごすものとひとり決めしていた。

彼は少佐をギリギリまで激昂させた。だが同時に彼は少佐を…、どうしようもなく魅了した。伯爵の完璧な横顔、よく手入れされた金色の巻き毛、あっけにとられるほど派手な格好、それらすべてに少佐が感じるものは、…ほとんど情愛に似た何かだったのである。

まさにそのとき、伯爵が小首をかしげて少佐の方を見た。夫人の言った何かに微かな笑みを浮かべて応えていた。エロイカの深く青い瞳を覗いた瞬間、少佐の体の奥深い場所、いましがた突き詰めて考えていなければ気づかなかったであろう深く密かな場所に、今まで認めたことのなかったなにかが衝き上がってくるのを少佐は認めた。

体が震え、少佐は目を逸らした。なんとか平静を取り戻して泥棒についての精査を再開しながら、少佐は自分自身のの脆弱さにもう一度眉をしかめた。伯爵はもう別の方に顔を向けていた。

視線を合わせようが逸らされようが、それはもはや重要ではなかった。少佐はついに真実を掘り当てたのだ。昨夜のことは偶然のめぐり合わせではなく、精神的な緊張と激怒と獣用の麻酔薬の副作用が引き起こした異常事態でもない。彼はエロイカに惹きつけられたのだ。それはいずれ避けようのない成り行きだったのだ。

なんてこった。だが否定しても無駄だった。事実には向き合おう。それが真実であってほしくないがゆえに事実を認めないほど、脆弱でもなければ臆病でもない。クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ少佐は、ある男に心を奪われた…、というより、もうずっと奪われていたのだ。そしてその男と寝た。つまり、少佐は性的倒錯者だ。

そうなのか?…もしかすると、だれもが潜在的に持っているようなバイセクシャルな欲望の一端が一時的に高揚しているだけなのかもしれない。NATOの心理学者がそういう説明を滔々と唱えだしたときには、もちろんそれはくだらんたわ言にしか聞こえなかった。だが、しかし…、それが本当ではないと少佐に判断できるのか?

くそっ。どうやらどちらかはっきりさせねばならないようだった。つまり、したかったのか?したくなかったのか? 自身の内部の衝動ですら、その行為を欲したようには思えなかった。では本能…。アナクロなナンセンスだ。まるでお前にはまだ早いと言われているようなものだ。うめき声を上げたところで仕方がない。問題は、この鳥肌が立つような状況にどう対処するかだった。

分析するための正しい切り口を見つけさえすれば、問題はこれほど理解を超えたものではなくなるはずだ。解決すべき次の問題。明るみに引きずり出されるべき、禍々しい謎。それは間違いなく堕落へと向かう破滅への道だ。

まず考えねばならないのは、何よりも優先してなすべきことは、より多くの事実を収集すること。

これまでのところエロイカは例に無く自分を抑制しているように見える。たぶん伯爵夫人がいるせいだ。派手好きで人目を引くのが大好きな伯爵が、ターニス家の女性たちの前で自分と少佐の実際の関係をほのめかさないことに、少佐は胸をなでおろしていた。伯爵の分別を疑うのは杞憂だったようだ。少佐は躍起になって否定しただろうし、誰もそれを信用しないと確信はしていたが、それでももし伯爵が口に出していれば、少佐は間違いなくいたたまれないほどの辱めを受けた気になっていただろう。

だが少佐の側の事情がどうあれ、エロイカはこれまで見たことがないほど控えめに振舞い、伯爵夫人と彼女の無口な娘たちと忍耐強い会話を交わしていた。少佐はこの種の社交上の付き合いにこれまで注力できたことがない。伯爵が少佐をちらりと見ることはあったが、それだけで怒鳴りつけるわけにもいかないだろう。しかも伯爵の普段の標準から言って相当に慎み深い一瞥なのだし。あからさまな挑発もなければ、意味深げなほのめかしもなかった。それはエロイカにしてみればひどく慎重な態度だった。

いいだろう。その常ならぬ寡黙さが少佐の肩を押し、思いついたことを実行に移す決心がついた。彼は、伯爵がこのように過剰さを少し控えてくれればよいのだがと願った。土壇場になってしまえば、そうした熱狂が色を失ってゆくのに気づくはずだ。少佐は考えた。もちろん恐れていたわけではない。ただ…、なぜか気遣われたのだ。

「八時に夕食だ。お前が言ったレストランで。」ターニス家の女たちが長く腰を据えていたカフェからようやく立ち上がり、預けていた外套をとりに席を離れた隙に、少佐は簡潔に告げた。

「失敬、今なんて言っ…、少佐?」

少佐は伯爵を睨みつけた。伯爵はほとんどうろたえているように見えた。うろたえる、何に?あれだけ厚かましく言い寄ってきたくせに、突然人見知りでも始めたのか?それとも人の気を引く手管なのか?「聞こえんのか。わからんふりでもしとるのか?八時と言ったぞ。わかったな?」

ようやく理解したようだった。伯爵は少佐の二度目の念押しの後、すばやくうなずいた。瞳はまだ当惑の色を浮かべたままでいたが。




<続く>