このサイトでは、「エロイカより愛をこめて(From Eroica with Love)」を題材とした、英語での厖大な二次創作群を翻訳しています。サイト管理者には原作者の著作権を侵害する意図は全く無く、またこのサイトにより金銭的な利益を享受するものでもありません。私が享受するのは、Guilty Pleasure - 疚しい楽しみ-だけです。「エ ロイカより愛をこめて」は青池保子氏による漫画作品であり、著作権は青池氏に帰属します。私たちファンはおのおのが、登場人物たちが自分のものだったらいいなと夢想 していますが、残念ながらそうではありません。ただ美しい夢をお借りしているのみです。

2012/07/30

Peripeteia 08 - by Sylvia






By the Pen - Peripeteia
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使用人は足音を殺して去った。伯爵は周囲の状況を注意深く確認してから、少佐の部屋のドアへ戻った。部屋の中から低いうなり声と、バスルームのドアを力任せに閉める音がした。伯爵は音もなくドアの鍵を破り、少佐がバスルームにいることを確認してするりと部屋へ忍び込んだ。状況を一瞥し、安易ではあるが身を潜めるには最適と判断した場所に隠れた。たっぷりした手触りの、厚いビロードの臙脂色のカーテン。カーテンをもう少し窓際まで引けば、さっきの腰掛けに座れそうだった。出窓にしつらえられた趣味の良い中世風の腰掛けに。

少佐はもちろん、頭からつま先までを各種のタオルでぐるぐる巻きにしてバスルームから現れた。伯爵が失望のため息をかろうじて抑えた瞬間、少佐は煙草に火をつけ、両手でシーツをぐいと引っ張ってベッドを直し、ベッドカバーをかぶせた。そしてふと体の動きを止め、疑い深い表情で腰を曲げて下を覗きこんだ。

伯爵は身を隠す場所をそれほど綿密に考慮したとはいえなかったから、忍び込んだ時にとっさにベッドの下に潜り込まなかった自分をほとんど自画自賛しそうになった。だがそれも少佐が窓の方に向かってくるまでだった。しまった!どうしてこの可能性を考えなかったんだろう?少佐はもちろん、たった今自分が関与した不埒な所業の残り香を消し去りたいに決まっている。

その時ドアが乱暴に開いた。重いドアはそのまま壁に打ち付けられてぶるぶると震え、老エーベルバッハが足音も荒々しく部屋に駆け込んできた。伯爵はカーテンの陰でできるかぎり体を縮めてみた。このふたりがこんな小部屋で対決するなんて。城が壊れなければ感謝ものだ。

「説明せよ。」ぞっとするほど冷たい声の下に、爆発寸前の激怒を押し殺していた。

「できません。」

伯爵はたじろいだ。少佐、その返答はまずい。まずすぎるよ。

「言い訳の余地はないという意味か?それとも何も言いたくないとでも?」

「ご説明できることは何もありません。」

「おまえのせいで婚礼が台無しだ!おまえの従弟の結婚式だぞ?もう少しで殺すところだった男は、わしの旧友でおまえの名付け親だ!よくもぬけぬけと、このわしに向かって『説明せん』などとぬかしたな!取り返しのつかんことをしでかしたんだぞ!」

少佐は全くの無反応だった。それまで冷たい石の壁にできるだけ背中を押し付けていた伯爵は、何が起こっているのかを垣間見るために、身を隠しているカーテンをほんの少しめくってみるという危険を冒してみた。少佐はベッドの端に沈み込むように座り、無表情のままの顔をまっすぐに父親の方に向けていた。

老エーベルバッハは身震いして後ずさり、ゆっくりと歩きまわった。それはほかならぬ彼自身の息子が誰かを殴らないように自分の感情を押さえつけるときと、全く同じやり方だった。クラウスは残りの煙草を吸い終わり、新しい一本に火をつけた。

「ロバートはこれまでずっとおまえのよき知人であり、こんなことが起こった現在ですらそうあろうとしてくれている。おまえのの言動がいかに傲慢無礼だったときでも、奴はこれまで一切なんの非難もよこしておらん。だが、おまえが15年ほども抱き続けておる馬鹿げた怨恨の発端がなんだったのか、さっぱりわからんとは言っておるぞ。それを知っているのはおまえだけだとな。理由を知っているのはおまえだけだ、奴はそう言うだけだ。奴が示しているのは、旧友の息子としてのおまえへの無条件な好意と、大いなる高潔さだけではないか!」

「申し訳ありませんが父上、この件についてあなたにお話するつもりはありません。」クラウスは低い、ほとんど死人のような声でそう絞り出した。伯爵はその声の響きにぞっとした。「しかしながら、私本人のこの怨恨について言えば、それが馬鹿げたものであるとは思っておりません。これは事実に基づいており、詳細を述べないうちは父上には信じがたいことだとは理解していますが、私があのような行動をとったことには十分な理由があるとお考えいただきたい。父上のお立場を顧みずに、婚礼にふさわしくない混乱を引き起こしたことについては謝罪いたします。しかし、私の言についてご信用いただくことを…」

「これだけのことをしでかした上で、信用しろだと!?今後一瞬でもまともな人間として信用されることがあると思っとるのか!お前はわしの親友を殺すところだった!そしてその理由を言おうとせん!どんな理由があろうが、この犯罪行為を弁解できるとは思えんがな!そのおまえがぬけぬけと、信用せよだと?おまえにまともな神経があるとは到底思えんぞ!おまえは子供の頃からそうだった。こういう人間に育つことは予期してしかるべきだったのだ…。わしの跡継ぎがこんな出来だとは、理解したくないぞ、わしは!結局のところお前は一生そうやって…」

クラウスは勢い良く立ち上がり、興奮のあまり赤ら顔になった父親の鼻先まで近づいた。「話せんと言ったら話せんのです!話せるものならどれほどよかったか・・・、父上、ただ一度でいい。私の言うことをそのまま受けとってはもらえないのか・・・、お願いだ!」

最後の言葉は痛ましく響いた。その言葉を発することにより、少佐自身が切り裂かれるかのような痛みを伴った一言だった。伯爵は老エーベルバッハへの灼けつくような怒りを感じた。少佐がここまで譲歩するというのがどれほどの意味を持つか、本当にわからないのか?少佐にとってこの種の言動は、惨めな服従にほかならない。この老いぼれはこれ以上の何を要求するのか。自分の息子の気性をわかっていないのか?

「クラウス。わしは父親として、またエーベルバッハ家の当主として命ずる。事情を明らかにせよ。」

汚い言い方だ!この脅迫じみた物言いへの憤りのあまり、伯爵は自分が分厚いカーテンをしっかり握りしめすぎて、もう少しでそれを下げおろしそうになっていることに気づいた。落ち着け、彼は自分にそう言い聞かせた。

沈黙は長く、重苦しかった。だが伯爵は勝利者がどちらなのかを疑わなかった。老エーベルバッハは使うべきではない切り札を使ったのだ。父親は名誉と義務を標榜して息子を打ち、息子はまた名誉と義務そのものにより傷ついたのだった。

「できません。」だが少佐はついに低い声を絞り出した。これほどまで打ちのめされた声はこれまでに耳にしたことがない、伯爵はそう思った。

恐ろしいほどの衝撃に我を忘れていた伯爵は、ひゅぅという息切れの音を立てたのは自分かとすら思った。だがそのとき、老エーベルバッハが激怒と興奮のあまりほとんど回らない舌でなにかを喚き散らすのを耳にして、だれがその喉音をあげたのかを理解した。察するところ、この脅迫じみた方法に少佐が屈しなかったのはこれが初めてであるようだった。となれば、老エーベルバッハに残された方法はもはや何一つなく、また老人にはもう一度息子をライフルで撃つ気力も残されていなかった。

その後に続いた沈黙はすでに痛ましくも重苦しくもなかったが、なお厳しかった。部屋の空気はびりびりとした緊張と怒りに満ちていた。伯爵には、部屋の中を突風と稲妻が駆け抜けているように感じられた。自慢の巻き毛が静電気で逆立ったとしても、なにも驚くには当たらなかっただろう。

ドアが力任せに閉まった。怒りに満ちた足音が廊下を去るのが聞こえた。部屋には、完全な静寂だけが残った。

伯爵はできるだけ息を止めていようとした。呼吸音ですらカーテンの外に聞こえてしまいそうな気がしたからだ。とうとう我慢できなくなって息を吸ったとき、その音があまりに大きすぎてクラウスの耳に届き、カーテンを押し開けてぶん殴られるのだろうと覚悟した。

だがなにも起こらなかった。静寂はそのまま静寂だった。ライターで次の煙草に火をつける音もしなければ、それを深く吸い込む音もなかった。

伯爵はやきもきし始めた。有り得そうにない筋書きばかりが頭に浮かんだ。老エーベルバッハが実はナイフを携帯していて、伯爵から数メートルも離れていないところで少佐が出血多量で命を失いつつある?もちろんそんな馬鹿げたことは起こっていない。ご老体にそんなことはできないし、いくら禁欲主義な少佐だって、黙ったまま死んでいくわけがない。さっきだって伯爵の前で、あんなうめき声が喘ぎ声を漏らしたばかりじゃないか…

「大いなる高潔さだと!」少佐の一言だった。伯爵は少佐が無事に生きているという事実に安堵するあまり、続く一言を耳にするまでその口調に込められた鳥肌の立つような嫌悪感に気づかなかった。「無条件な好意だと!」

これが映画であればクラウスの独白が始まるシーンだろう。一人で部屋にいると思っている主人公は、自分に語ることで幼年期の壁を乗り越えて心の重荷を取り除こうとしていたかもしれない。そこで、物陰に隠れて一部始終を見ていたもう一人の人物の登場だ。彼は美貌の主人公を慕わしく思っている。そしてあらゆる問題において彼の力になってやり、永遠の友情を結びたいと熱望している。

だが残念ながら、少佐はそんなわかりやすい役どころには落ち着いてくれなかった。再びおりた長い沈黙の後にベッドがきしみ、バスローブの衣擦れの音がして少佐が立ち上がったのがわかった。少佐は物音ひとつ立てなかったが、クローゼットはきしんだ音を立てた。服を選び、引きぬく音がした。カーテンのひだを少しめくって見つかってしまう危険を犯しそうになる自分を、伯爵はなんとか押さえ込んだ。

少佐は体の表面積の殆どを覆うバスローブを着込んだまま、新しいタキシードとよく糊の効いたシャツを片腕に抱えてバスルームに入り、ドアを閉めた。なんてことだ。この男は一人で自室にいる時ですら、着替えにはバスルームに閉じこもるのか。

少佐が再び姿を現すまで、伯爵は辛抱強く待った。慌てて出て行ったりしたら、見られるはずだったものを見逃すかもしれない。そう、全く…。だが少佐はシャツのボタンを喉元まできっちりと留めあげた姿で現れ、靴をはいて煙草に火をつけると、父親と同じように大股で部屋を去った。

まあいい。とにかくベッドにには引きずり込めたわけだし。なんとかもう一度押し倒して、ゆっくり楽しみながら鑑賞できるのも時間の問題だ。もちろんじっくり触れながらね。それから舐めて、歯を立てて、味わって…、とにかく考えつくあらゆる方法で少佐をわたしのものにする。

そう考え込みながら伯爵はベッドに腰掛けた。ベッドカバーを引き剥がし、枕を膝の上に抱え込んで顔を埋めながら息を深く吸い込み、まぎれもない少佐の残り香を嗅ぎ取ろうとした。さあ、今夜ここで起こったことをどう考える?

どの事実から考えるべきか。そう、まずはこの件から始めよう。少佐とトビアス某の間に、なにか深刻ないきさつがあるのは明白だ。伯爵が初めて目にするような少佐の激怒、それはあの二人の過去にある何らかの怨恨からきたものだ。少佐が声を荒げるのはこれまで幾度も見た。だが今回ほど常軌を逸した激怒の噴火は初めてだ。それには恐怖を覚えるほどだったし、伯爵が確かに知っていて、かつ愛しているはずの少佐が、まるで別人に思えるほどだった。

奇妙なことは他にもあった。少佐の言動はいつもの彼に似つかわしくなかった。なぜ自分に惹かれるのかと…、そんなことを聞いてくるなんて。そんな話を今までしたことはなかったのに。それからこんな事まで言い出した。どうすれば私や私のような男たちの目を引かずにすむのか、「この問題」を取り除くためのの方法を教えろと。自身の美貌に対する、なんというねじくれた考え方と対処だろう。他の誰もこんなことは考えつかないに違いない。だが少佐はそうではなかった。クラウスがそう単純でわかりやすい男であった試しがない。『この見てくれのせいで虫唾が走るような目にばかりあう。おぞましい変態ばかりが寄って来やがる。変質者ども、おまえのような連中ばかりだ。』

さっきの少佐がこの言葉を吐き捨てたとき、伯爵はその意味を深く気に留めていなかった。だが思い直してみて伯爵ははっとした。少佐はもしかすると伯爵のことを指していたのではなかったのかもしれない。こう吐き捨てた時、彼が指していたのは別の…

なんてことだ!私の気づかないうちに、誰かが少佐に言い寄っていたと?どうして気づかなかったんだ!

伯爵は怒りに任せて膝の上の枕を殴りつけ、勢い良く立ち上がって、少佐にとっては唯一の居場所であるはずの気の滅入るような寒々しい部屋の中をうろうろと歩き回った。いったいどこのどいつが私のクラウスに手を出したんだ?我が国の諜報部のあのマヌケ野郎か?まさか部下のG君が上司とふたりきりの時にいきなり豹変して…。それとも私の知らない誰かだろうか。少佐が偶然に会ったような誰か。いや、違う。そんな誰かがいるなら伯爵が知らないはずはない。伯爵には少佐の近辺に情報屋を放っていた。その情報屋は、少佐に色目を使うような不届き者の情報があれば伯爵が飛びつくに間違いないことをよく心得ている。だからそれは伯爵が少佐に出逢い、この男こそ追うに足ると賭けるよりずっと以前の話にちがいない。何年も前に、どこかの厚かましい好色漢が…

ならば。それならばすべての平仄が合う。

少佐とあのトビアス某の間に、何年も前の出来事に関する怨恨があるのは確実だった。それはクラウスがまだ少年だったころに起こったことで、少佐とトビアスの双方が言及を注意深く避けている、そのたぐいの出来事だ。少佐はそれに言及しない。かつて出来ず、現在も出来ない。父親が家名の誇りと義務までをも引き合いに出して答えを強要した時にも、少佐はそれを口に出せなかった。

少佐の、クラウスの内に秘めた恐ろしく凶暴な激怒の引き金を引く、その記憶。

ああ。だめだ、そんな。ああ。

この奇妙で恐るべき話の全貌が、急にはっきりと意味を持って浮かび上がってきた。今まで不可解だった様々な事象が、急速にひとつの結論へ収束し始めた。伯爵の誘いを暴力的に拒絶する少佐。伯爵のひたむきな愛情は、ただ堕落した感情だとして頑固に拒否されるばかりだった。そして少佐における性欲の欠如。不自然なほどに取り澄ました態度。なによりあの、父親の友人を見た瞬間の反応。少佐はあの男を素手で殺さんばかりだった。父親と伯爵と、その他大勢の目撃者の目の前で…。

誰が鉄のクラウスをあれほどのパニックへ導いたのか。恐れ知らずの少佐の、視線の先を横切るだけで誰がそんなことをしでかせるというのか。

「まさか、そんなことが…」ドリアンは驚きのあまり声に出して呟いた。信じたくなかった。そんなことが少佐の身の上に起こる可能性があるとは思えなかった。まさか。少佐ならその時相手を殺すにちがいない。手足を引き裂いて、死骸の上につばを吐くに違いない。…だがそのときの彼は、完全な訓練を受けた6.2フィートのNATOエージェントではなかったのかもしれない。少佐は、彼は後になってその男を殺そうと試みたのかもしれない。その試みは紛れもなく、たった今実際になされようとしたばかりだった…。

ああ、少佐…、あの男はいったいきみに何をしたんだ?

そして、この私はきみに何をしたんだ?

ちがう。同じなんかじゃない。私はきみを愛している。私ならきみを傷つけたりなどしない。きみの嫌がることなんかしない…

吐き気が高まると同時に、伯爵はさっきのことを少佐が嫌がっていなかったかどうかは、自分には知り得ないのだと思い知った。彼はクラウスに跳びかかり、押し倒した。キスをし、体中を弄り、ほとんど強要するように反応を引き出した。それが少佐自身が決して自分に認めたくない肉体上の反応にすぎなかったと、どうして伯爵にわかるだろう。あのときは少佐が応えてくれたと思ったのだ。そう思いたかったのだ。だが…、そうではなかったとしたら?事実は全くそうではなかったのだとしたら?少佐が横たわり、動けないままでいたのは、思い出したくもない記憶が彼を拘束し、身動きひとつ取れないままでいたのでは?伯爵の手管から逃れようにも逃れらなかっただけなのでは?少佐の肉体が反応したのは、意志に反する単なる反射ではなかったとしたら?記憶の彼方に押し込めていたはずの悪夢を、少佐は追体験していたのだとしたら…。

ちがう!同じはずがない!私は少佐を愛している。愛してるんだ。彼を傷つけることなんで出来るはずがない…。

その絶望的な思考の手応えは、伯爵の中でさらに頼りないものになりつつあった。なけなしの希望が沈みゆきつつあった。考えても見よ。トビアス某とやらは親友の息子であり自身の名付け子である少年を慎重に選び出し、手にかけたのだ。それはつまり彼にももまた、クラウスに対するある種の感情があったにちがいない。感情、愛に似た…

「クラウス、頼むよ。私たちはいい大人だろう?私がここへ来たのは、きみと仲直りできるんじゃないかと思って・・・」「大いなる高潔さ」「無条件な好意」

とうとうバスルームに駆け込んだ伯爵は、かろうじて嘔吐に間に合った。ほとんど何も口にしていなかったにもかかわらず、吐き続けた。胃の中のすべてを吐き出したあとも胃は落ち着かず、伯爵は惨めに嘔吐を続けた。吐くものが胃酸と胆汁だけになっても伯爵は吐き続け、喉をひりひりさせながら、涙を流し続けた。

彼は泣いていたのかもしれない。体のうちから突き上げてくるものが嘔吐なのか恐怖なのかを、伯爵ははっきりと考えることが出来なかった。

伯爵とトビアス某の間になにか違いがあるとでも?そんな基本的なことすらわからなかったなんて。少佐自身が望んでいない、考えたこともない愛情を、無理強いしていただけなんて。私は少佐に一歩も近づけてはいない。

伯爵は望んでいた場所とは全く違うところにたどり着いたことに気づいた。彼が望んだ全て、まもなくこの手につかめると思ったものはすべて幻だった。自分を嘲笑わずにはいられなかった。彼は少佐を自分の腕に、そしてベッドに、これからはいつでも引きずり込めると考えていた。なんと絶望的な願い。事実は願望と隔たりがありすぎた。こんな難攻不落な相手を追うのはいい加減に諦めようかと、自己憐憫に陥いる瞬間がこれまでなかったわけではない。だがどうすればいい?事実を知った今となっては、もはやこれ以上少佐に愛を強要できるだろうか。誘惑されることが少佐にとってどんな意味を持つのか知ってしまった今となっては…。今まで自分がしてきたことが、少佐の癒しがたい傷口に痛みと苦痛をもたらしていたに過ぎないと知ってしまった今となっては…。

だが伯爵は、二度と少佐に手を出さないと誓うのは自分をごまかしているだけだとわかっていた。少佐はもう二度と伯爵を寄せ付けないかもしれない。だが少佐への想いは伯爵を抜き差しならないほどにがんじがらめにしていた。そして利己主義に満ちた心が、なけなしの希望を手放す訳にはいかないと告げていた。

このことは、今夜明らかになった事実の中で最も恐ろしい部分だった。伯爵はこれまでの自分の人生で初めて、自分自身の身勝手さに文字通り絶望した。そして今感じているこの自己嫌悪さえ、良心の呵責から逃げるための手段なのではないかと疑わざるを得なかった。

なにもかもが手遅れだった。もはやどう挽回もできない。少佐の苦痛を癒そうとするいかなる努力ですら、彼をさらに遠ざけてしまうだけだろう。最愛の人を強姦してしまった今となっては、肉体以上のものに恋い焦がれるのは遅きに失する。

胃の中にはもはやもう何も残ってはいなかった。胃液ですら。それでも吐き気は収まらなかった。彼ははただ吐き続けた。






<続く>


2012/07/23

Peripeteia 07 - by Sylvia






By the Pen - Peripeteia
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返事が返るまでにはかなりの時間がかかった。伯爵は束の間、この要求はもうすこし後まで見合わせておくべきだっただろうかと考えた。だが要求の妥当性など考えても仕方がない。そもそもクラウスをベッドに押し倒してその上に乗りかかって以来の行動は、合理的な見地から考えても決着のつかないものだとはわかっていた。 

これと同じようなことがかつてあったと思った。記憶を遥かに遡ったところに思い当たる瞬間があった。おそらく二度目にこの男と顔をあわせた時。それが、この男にしかない魅力にぞくぞくするような痺れを初めて感じた瞬間だった。そしてひとかけらの望みすらないと思われた、渇望の長い日々の後に、ついに・・・。

「できん。」伯爵の愛しい男がようやく言葉を絞り出し、ただちに口を閉じてあごを引き締めた。

「もちろんできるさ。」この怖がり屋を無理やり口説き落とすのは今夜で最後になるのかなと、伯爵は密かに心愉しく考えた。実のところ、少佐に襲い掛かりたくてうずうずしていた。クラウスは力の限りに抵抗するだろう。こんな格好のまま。前がはだけたドレスシャツ、乳首までめくれ上がった下着のシャツ、タキシードの下と健康的な純白のボクサーパンツを脚に絡めたままの姿で…。

長い時間が過ぎた。だがクラウスはついに深く息を吸い込み、伯爵の肩をきつく掴んでいた手を緩めた。ずたずたの衣装を体にまとったまま、彼は陰鬱な決意を浮かべた表情で手を下ろした。そして顔を上げ、目を開いて伯爵を見つめ返した。だが緑に輝く瞳に浮かぶ感情は、まだ伯爵にも読み取れなかった。

クラウスの貴族的な鼻孔がわずかに開いた。「やむを得まい。」 砲撃のさなかに自軍の塹壕を飛び出し、敵の陣地へ向けて闇雲に走りださねばならぬ状況下にでもあるような口ぶりだった。

彼は一種独特の揺るぎない集中力で伯爵の顔をしっかりと見据えた。伯爵は少し体を引き、クラウスの腰の上にまたがって体を前に倒して軽いキスを試みた。その時不意に少佐の片手が伯爵の頭を引き寄せ、伯爵は危うくバランスを崩しそうになった。クラウスは相手をより深い口付けに引き込んだ。少佐の唇は半ば開き、伯爵の舌をはっきりと迎え入れようとしていた。そのキスにはまだためらいがあったが、だがとにかく、彼はそれを自らの意思で選んでいたのである。

躊躇でも決断でもなく、ただ少佐のキスの全くの冷静さにドリアンは狼狽した。つい先程までのクラウスの石像のような硬さから考えれば、意表をついた先手のとり方だった。そしてそれは伯爵が純粋な肉欲にうめき、震えるのに充分な威力を備えていた。クラウスは軽蔑の眼差し一つで伯爵を焼き殺すことができただろう。このキスは、ほとんど痛みにも似ていた。

少佐は伯爵の服を脱がせようとはしなかった。着衣のままの腰から尻を撫で下ろした手はそこで止まった。もう一方の手は伯爵の頬に軽く触れた。指が唇をなぶり、それから変装用のウィッグを外してドリアンの巻き毛をあらわにすると、クラウスの指がドリアンの長い髪を愛おしむように梳いた。

愛撫に、ドリアンはつかの間息を忘れた。予期していたものとは全く違った優しい手触りに、どぎまぎしてしまった。クラウスにそこを触れられたら、爆発してしまうかもしれない。

少佐の手が首筋を下るにつれ、自分でも思っても見なかったような声が伯爵の喉から漏れた。その手は服の上から胸をなで、続いて何のためらいもなしに布の中に滑りこみ、ドリアンをしっかりと握った。指がその先をじらし、伯爵はこらえ切れない声を上げて背をのけぞらせた。クラウスの手が上下するに連れてドリアンはついに叫び声をあげた。そして、いくらもたたないうちにくぐもった声をとともに最後まで達した。

「クラウス、」少佐の胸に体を預けながら、伯爵は喘いだ。「きみがこんな、・・・。驚いたよ。でもすごくよかった。」

少佐は再び目を閉じ、何かを呑み込もうとした。落ち着こうとつとめるように、深呼吸を繰り返した。そしてすぐに伯爵の抱擁から逃げるように転がるように身を外し、立ち上がって衣服の乱れを整え始めた。

彼は伯爵を見ないようにしていた。

「何もなかった。いいな。」

「きみの仰せにままに。ダーリン。」ドリアンは猫が甘えるような声で答えた。少佐のつれなさそのものより、それに傷ついた自分自身の失望と怒りのほうが伯爵にはより大きな驚きだった。考える間もなく、彼は韜晦のための仮面の幾つかからふさわしいものを選び出し、わざとらしい媚を含んだ声で返事を返していた。そしてその返事に少佐が見せた、思った通りの反応に小さな満足を覚えた。

「あのね、ここから遠くないところに小さな可愛らしいレストランがあってさ、Zur Alten Muehle、そんな名前だったと思うんだけど。明日の夕食をそこでどうかな?夕食の後のことは二人で相談しようよ。」

「出て行け!」

いつもどおりの激怒を、かなり際どいところまで再現できていた。だがそれは伯爵を騙しおおせるには程遠い出来だった。なにしろ少佐の激怒を鑑賞するという楽しみにおいては、伯爵は並ぶものないエキスパートだったのだから。声の大きさはいつもどおりだったが、調子になにかが欠けていた。感情がちぐはぐだった。そしてなにより、少佐はまだ伯爵の方を見ようとはしなかった。どこが、と指摘は出来なかったが、伯爵は次第に何かが違うと思い始めた。

「少佐、どうしたんだい?」ここまできたからには、もはやなにも問題じゃないだろうに・・・。絵画の展示室で、それとは気づかないままにドリアンをとらえた時から、クラウスは何かおかしかった。大広間であの老人を何の理由もなく攻撃した時にの少佐は、さらに常軌を逸していた。そして押し倒されるままにドリアンの誘惑に応えたこと、さらにその後には彼自身が伯爵の欲情を満たすのに協力したこと。そしてこの怒りの感情を伴わない、見せかけの激怒・・・

少佐は落ち着かなさげなそぶりのまま、ドリアンを睨みつけた。黒髪がもつれていた。「どうかしたかだと?これ以上何がどうかなるんだ?おまえがおれの屋敷にいる。おやじがおれを殺そうとする。おれはおまえと・・・、おれが・・・。おれは言いなりにはならんぞ。奴が何を知っていようと、どうにもさせん!それから、この変態、おまえはまだ答えとらん。理由を言え。おれより見端のいい男は星の数ほどいる。だから、見た目が問題なのではないはずだ!」

少佐が何を言っているのか理解するまで、少し時間がかかった。我を忘れた少佐は炎を噴く火炎放射器ののように魅力的だった。特に今のように、彼に直の肌に触れた感触が指先に残るこのときには。彼の味がまだ舌の上に残る、今のようなこの瞬間には。

少佐に見とれる伯爵に苛立ったのだろう、少佐は形相を変えた。怒りが臨界点に達したようだった。緑にぎらつく目はいつも通りたいそうセクシーだったが、それでも少佐がもう少し落ち着くまでこのまま待つというのは、懸命な選択とはいえなさそうだった。

これまでの例に従い、彼は飛び上がってドアの方へ走った。彼を捕まえようとした少佐の手を、体を一ひねりしてすり抜け、後ろ手にドアを音を立ててしめた。立ち止まって急いでファスナーを上げ、それから石造りの回廊の手近な物陰に駆け込んだ。少佐があの乱れた服装のままで廊下に追いかけてくる気になった場合のことを考えて、窓枠に手を掛けた。

だが彼は追ってはこなかった。一連の衝撃にもかかわらず、そこまでの分別は失ってはいなかったようだった。

誰かが廊下をやってきてクラウスのドアの前に立った。誰とは知れぬその人物がノックするまで、しばらく時間があった。なぜかためらいがちだった。

"Was! WAS!! Kann man denn in diesem verfluchten Irrenhaus keine Sekunde Ruhe haben, Herrgott verdammt nochmal!!!"(何だ!何なんだ!この精神病院では病人を一瞬たりとも静かにさせんのか!くそっ!また来やがったか!)

古色蒼然たる屋敷の石造りの壁と厚い木のドア越しに聞こえる少佐の声は、まったく印象的だった。ドアをノックした人物のおどおどした声はドリアンの隠れた位置からは全く聞こえなかったが、棘をやや落とした少佐の返答は、それでもなおはっきり聞こえた。

まったく。伯爵はひとりごちた。貧弱なドイツ語能力のせいで内容をほとんど理解せずに済んだのは幸いだった。怒り狂っている少佐が何を怒鳴っているかなんて知りたくもない。少佐のドイツ語日常会話の授業内容はこれまでのところ罵詈雑言ばかりだったが、そろそろ愛の会話レッスンを始めたいものだと伯爵は考えていた。たぶんそれも遠くはない。

「ばかもの!三十分だといっただろうが!」おどおどとした返事が返った。「聞こえんのか!おれが言った通り、三十分だと伝えてこい!この腰抜けめ!」だそれでもがおずおずと、ほとんど絶望的な抗弁が聞こえた。「くそっ!もういい!今すぐ行くと伝えろ、この臆病者め!」

おやおやこれは聞き逃せないな…。伯爵は思った。どうやら父親に呼ばれたらしい。全くの似た者親子。息子と同様に怒り狂った父親は、大事な跡取りがあそこまで常軌を逸した行動をとった理由を知りたがっているに違いない。伯爵自身と同じように。




<続く>

2012/07/16

Peripeteia 06 - by Sylvia






By the Pen - Peripeteia
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唐突に激しく問い詰められ、ドリアンは思わず半歩退いた。「ええと・・・、ひとつはっきり言えるのは、きみにはある種の美が備わっているから、ということかな、少佐。」


少佐は口を噤んだ。いくばくかなりとも意味のある答えだと判断したようだった。彼は目を細めてドリアンをねめつけた。ドリアンには、少佐の頭の中で思考の車輪がぐるぐる回転しているのが見えるような気がした。「では、おまえのような男が『美しい』と感じる何かを少しでも減らすには、どうすればいいのか教えろ。髪を切るべきなのか?ヒゲか?瓶底メガネか?もっと妙な訛りで喋ればいいのか?何をすればいい?」


少佐の口調におぞましいほどの嫌悪を感じ、ドリアンはいたたまれなくなった。少佐は『美しい』という単語を、汚いものののように吐き捨てた。


「美しくないきみなんて不可能だ。」ドリアンは短く答えた。「どうしてそんなに嫌がるんだい?悪い意味じゃないだろ。」


「ああ、なるほど。ではおれは自分の『美しい』見た目とやらに感謝すべきなんだろうな。この見てくれのせいで虫唾が走るような目にばかりあう。おぞましい変態ばかりが寄って来やがる。変質者ども、おまえのような連中ばかりだ。おれはこの顔に外科手術でも施したほうがいいのかもしれん。」


どう答えていいのかドリアンにはわからず、ただ口をつぐんだままでいた。少佐は明らかに苛々と動揺した様子で部屋の中をうろうろ歩き回った。そしてとうとうドリアンの前で立ち止まり、ほとんど体と体が付かんばかりに詰め寄った。ドリアンには少佐の体から立ち上る微かな体臭をかいだ。同時に、怒りと不満がない混ぜになった体温すらも感じ取れた。感情をむき出しにした、なまのクラウス。不可抗力な魅力だった。


素晴らしい。不満すらこの男が浮かべればセクシーだ。


「もう少しマシなことに脳みそを使おうとは考えんのか?無駄にもほどがある!成功するはずのない目的のために、おまえがつぎ込んだ時間と労力を考えてみろ!なぜだ?何を考えとるんだおまえは?同じような嗜好の相手を狙っとるならそれなりの結果が期待できるかもしれんだろうが、それにしても手間が全く割に合っとらんだろうが。どうしてそう馬鹿げたことばかり仕出かす?目を開けてよく見てみろ。一体全体おれが・・・」


「わかってない振りはやめろよ。きみをわたしのベッドに引きずり込むためなら、代償は厭わないさ。」ドリアンはほとんど考える暇もなくそう口に出し、ほとんど同時にぴしゃりと口を閉じて舌を噛んだ。今行った言葉が少佐の耳に届く前に、引っつかんで取り戻したかった。


短期で癇癪持ちの少佐に向かって、愛についてまともに語るのが得策だとはもちろん考えていなかった。どれほど愛しているかと伝えるだけですら良からぬ結果は明らかなのに、きみを渇望してるなどと告げた日には、少佐の爆発は避けられそうになかった。クラウスはすぐに度を失って激怒する男だったし、この話題に関して少佐の導火線が特に短いことも、ドリアンはとっくにわきまえていた。


クラウスはドリアンを凝視した。視線は冷たかったが、ひどく取り乱しているようにも見えた。固く引き結ばれたくちびるが、官能的な弧を描く口元を全く台無しにしていた。目の前の愛しい相手が、先に自分を殴りつけてから怒号を放つつもりのかそれともその逆の順なのか、ドリアンはふと訝しんだ。そして訝しみながらこうも考えた。どっちから始めるつもりにせよ、ずいぶん長く…


ほかの誰であれ、これがきっかけになるなどとは思い付きもしないにちがいない。だがドリアンが少佐を標的に定めてからもう何年もたっていた。いついかなる瞬間も、ほとんど存在するとも思えないその可能性だけに狙いを定めて彼を見ていた。ドリアンがクラウスに見たと考えた揺らぎや、彼がこの手に落ちるかもしれないという希望は、ひょっとするとドリアンの過剰すぎる自信がが見せた幻に過ぎないなのかもしれなかった。、だが今、クラウスは拒否の意思を即座の暴力では表さなかった。それはクラウスには似つかわしくなかった。とすれば、これは常ならぬ形を取った承諾・・・なのかもしれない。


ドリアンはそれ以上の思考に時間を費やすことなく、ただ少佐に向かって身を投げた。両腕で相手の首を包み込み、体を寄り添わせた。クラウスはそれを振り払おうとした拍子に膝の裏をベッドに打ちつけて寝具の上に仰向けに倒れこみ、ドリアンの体にしっかりと押さえつけられた。怒鳴り声を上げようと開き、息を吸い込もうとした少佐の唇はそのままドリアンの唇にふさがれた。ドリアンはクラウスを拘束する力を緩めなかった。これが長続きするはずはないと知っていた。ならば、このあらゆる瞬間を最大限に享受せねばなるまい。


ドリアンの下で、クラウスの唇は柔らかく暖かかった。舌を、できうる限り奥底まで挿し込みながら、ドリアンはようやく盗み取ったこのかつてない喜びに、ほとんどめまいすら覚えた。少佐は微かな煙草の匂いがした。だが少佐自身の香りがそれに勝っていた。そしてドリアンが密かに恐れ、なるべく考えまいとしていたのとは裏腹に、少佐は噛み付いてきたりはしなかった。角度を変えてもう一度挑むために、唇を一瞬離すという危険を冒したときでさえ。舌を抜き差しし、じらし、あらゆる方法を駆使してクラウスを挑発したときでさえ。クラウスはいかなる反応も示さなかった。だが抵抗しようともしなかった。いかなる動揺もなかった。だがいつか、たぶんもうすぐ、きっとすぐ、今にも・・・


「きみが欲しい。」伯爵はとうとう頭を上げてそう囁いた。そして口元を少佐の首筋に埋めた。絹のような烏の濡れ羽色の髪が、枕に乱れていた。「きみは素晴らしすぎる。」


彼の下の肉体が微かに震え、体を硬くした。体中の筋肉が岩のように硬く満ちた。ドリアンは、クラウスの胸が息を一杯に吸って膨らむのを感じた。両手がドリアンの肩を掴み、打撲のあざの残る拳が硬く握り締められた。ドリアンに残された時間はわずかしかなさそうだった。クラウスは体の向きを変えようとしていた。ドリアンを押しのけようとしているのは明らかだった。だがその動きはぎこちなく、むしろためらっているかのようにさえ見えた。彼本来の、攻撃的な力強さはひとかけらもなかった。


伯爵は少佐の体の動きに気づき、それから自分の下に横たわる男がどれほど力強く壮大で優美な創造物かということにあらためて心打たれた。少佐は何事につけ堅苦しすぎたし、性的な事項をことさらに避けようとする潔癖さを持ち合わせていた。それでもなお、彼はこんな風に滑らかに身を翻すことができるのだった。彼は流れる水のように身をひねった。足音を忍ばせた獣のように動いた。まさに黒豹のように。緑の目の、艶のある毛皮の、美しく致命的な、制御された優美さと抑制された暴力を二つながらにその身に秘めた獣のように・・・、ああ、かみそりのような牙と研ぎ澄まされた鋼鉄の美よ。


自分の体が反応していることにドリアンが気づいたのは、しばらくたってからのことだ。痛みを覚えるほどに硬くなり、脈動を打っていた。いま自分が組み敷いている美しい生き物への、燃え盛るような欲望を消すことはできそうになかった。少佐は体をひねろうとしていた。ドリアンは体位の利を逃さなかった。太腿の間のわずかな隙間に’むりやり下半身をねじ込み、少佐の脚を開かせてそこに居座った。


少佐の香りと味を唇と歯で享受しながら、力を込めて抑えつけた。硬くなったものを相手の同じ場所に合わせ、こすりつけた。理性が完全に吹っ飛んでいなかったなら、もう少し慎み深いやり方でことを進めようとしただろう。だがここまで来てしまったら、恋焦がれてきた少佐に触れ、味わい、撫でまわす自分を止めるのは不可能だった。いまやクラウスの肉体はドリアンの下で祝祭の饗宴のごとく準備されたも同然だった。彼はかつてないほど緊張しつつも静止したままなんらの抵抗を見せず、ドリアンの愛撫に抗わなかった…


クラウスの両手は伯爵の肩をがっしりと掴んだままだったが、その手はついに伯爵の体を押しのけようとはしなかった。だからドリアンは思いのままに動いた。少佐のタキシードのドレスシャツに手を掛け容赦なく縦に引き裂くと、前を開きながら下半身まで引きずり下ろした。


クラウスは微かに呻いた。謎めいた響きだった。それは怒りではなく、欲望でもなければ、全き苦痛の呻きでもなかった。だがともかくそれはドリアンを完全に魅了した。


「きみの嫌がることはしない。ただきみと分かち合いたいんだ。そう、こんなふうに、」


クラウスは目を閉じて顔を逸らせ、枕に横顔をうずめた。歯を食いしばり、唇を引き結んでいた。完全な彫刻のような横顔だった。だが彼はまるで激痛に耐えているかのように見えた。


何が起こりつつあるのかを、ドリアンが完全に理解していたと言えば嘘になるだろう。だが躊躇はしなかった。彼には充分にわかっていた。難攻不落の少佐が、自分の腕の中で陥落しつつある。正鵠を射るための、唯一の正しい瞬間を、彼はついに捉えたのだ。


そう、だから彼を逃してはならない。あと数分、あと半時間でも続けばいい。ああ、この瞬間が生きている限り続けば・・・


棉の下着は肌とともに温かく、微かに少佐の移り香があった。ドリアンは布地の上から片方の乳首を舐め、歯を立てた。その間にも両手はシャツの残骸を引きずり出し、そのまま下半身を覆う布の中に滑り込み、また上がって胸をなでた。熱を帯びたたくましい肉体を包む滑らかな肌、そしてその下の見事な筋肉。酔いしれてしまいそうだった。抗うことなどできそうにもない。


そしてついにベルトの金具が外れた。伯爵の指は震えていたが、なお巧みだった。指先が一番内側まで滑り込んだ。意外なほどに柔らかな巻き毛が指を迎え、その奥にほんの少しだけ硬くなったそれがあった。


「きみに触れたかった。」伯爵はこらえきれずにもう一度ささやいた。そしてそのささやきのせいで、ほかでもない自分自身に押し寄せた感情の波にうろたえた。少佐は完璧だった。その完璧さに厳粛な畏怖すら覚えた。ドリアンの内に、炎のようにきらめきながら燃えさかる、押さえようのない欲望がわきあがった。


少佐のその周囲を掌でゆっくりと包み込み、試すように愛撫した。クラウスはこれ以上なく硬く体を強張らせていて、ドリアンは少佐が痙攣でも起こしやしないかとひやひやした。だがクラウスのその部分は伯爵の愛撫にゆっくりと、だが確かに応え始めていた。クラウスを一糸まとわぬ姿にひん剥いてもっと徹底的な愛撫を与え、隅から隅までくまなく探求したい、ドリアンはちらりとそう考えたが、それは次回までのお預けにしたほうがよさそうだった。この機会をふいにするわけには行かなかった。いかなる意味でも。たとえルーブル美術館のすべての収蔵品と引き換えるという申し出があったとしても。


少佐は堪えきれずに息を吐き、うめき声ともせつなげなあえぎともつかない小さな声を漏らした。


すべてがあまりにも突然で唐突すぎたし、少佐の陥落のなりゆきもまた伯爵があらかじめ想定していたとおりではなかった。だがドリアンは下らぬ詮索に時間を費やさなかった。イノシシ並みに頑固で一徹なクラウスがついに落ちたのだ。これほ単純で自然な欲望を、無理に捻じ曲げて複雑にするばかりだったクラウスが落ちたのだ。味気ない任務を何物にも優先させるクラウスが…。だがこれからは、ドリアンこそがクラウスを悦ばしきすべてへと導くのだ。それにはいくらかの時間が必要だろう。なにしろ彼は鉄のクラウスなのだ。クラウスはまだ彼本来のセクシュアリティと人間的な希求に抵抗している。だがドリアンなら、人生には冷たい任務や厳しいだけの訓練以上に意味のある何かがあることを示してやれる。
  
ずっときみが欲しかったんだ。こうしたかったんだ。きみを一目見たときか、ずっと…。そう声に出して呟いていたかもしれなかった、もし唇と舌がいまやはっきりと聳え立ったその場所を愛撫していなかったら。舌と唇での愛撫なら、今まで数限りなくこなしてきた。だがこれはちがっていた。愛撫を受けている相手の感覚がまるで自分自身の感覚であるかのように、手に取るように感じられた。そう、あたかも二人の体が完全に一つであるかのように。


そしてクラウスは声を出さずにいった。ドリアンが考えていたとおりだった。私の名を呼ばせるまでには、まだまだ時間がかかりそうだな。ドリアンはそう考えつつ、その日を心待ちにする事にした。とはいえ、クラウスがいずれどんなふうに声を出すのかちょっと想像すらつかなかったのだが。それでもなお、ドリアンはその日が来ることを確信していた。手に入れられなかったものなど、今まで何一つ無かったのだから。


クラウスの両足の間で彼はかすかに微笑み、それから顔を上げた。


「きみは素晴らしいよ。」伯爵の声は欲望に低くかすれていた。少佐の口元がびくりと動いた。体から鎖骨、首すじ、耳元へと、ドリアンの舌と指が体に沿って登るあいだも、クラウスは身動きひとつしなかった。


オーガズムがクラウスの緊張を幾分かは緩和していた。だがドリアンが自分のファスナーを下げる音を聞きつけ、彼の神経はは再びぴんと張り詰めた。


「さあ、」伯爵は耳元でささやいた。「私に触れてくれ。」




 
 
<続く>
 
 
 

2012/07/09

Peripeteia 05 - by Sylvia






By the Pen - Peripeteia
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なんてことだろう。こんなことは計画には全く入っていなかった。本来であればもうとっくに、ドリアンがこの手に盗み取りたいと渇望しているあの息づく肉体のせめてもの身替わりに「紫を着る男」を手に入れて、意気揚々とこの屋敷を後にしているはずだった。すでにこの国を離れているはずだった。少佐を後に残して。・・・いや、どうせまたすぐに彼のもとに戻ってくるのだろうけれど。

だが現実はそうはいかなかった。手下の者たちを乗り込ませてあった食料配達用のトラックはすでに屋敷に到着し、食料だけを下ろして去ってしまっていた。ドリアンと目的の絵と、そしてもちろん少佐も屋敷に残したまま。伯爵は手下の者たちの進言に耳を貸さず、屋敷に残った。絵を運び出せる機会を狙っていると説明したが、ボーナムがそれを信じているとは思っていなかった。

本音はこうだった。今の少佐を一人にはしておけない。仮にあの恐るべき感情の爆発を目撃しなかったとしてもだ。少佐にはやはり私が必要なのだ。ドリアンは以前からそのことを知っていた。今起こった出来事は、あの頑固なドイツ人にそのことを知らしめる機会になるのかもしれない。彼はそう考えた。

誰かがあれほど取り乱して凶暴になるところを見たのは初めてだった。その誰か愛する少佐であってさえ、それは背筋の凍るような光景だった。彼は少佐が怒髪天を突く有様を、これまでは十分に楽んで眺めてきた。かつてドリアンに、磨きぬかれた鋼鉄の輝きが美しいと語った男がいた・・・。その鋼鉄と同種の美が、危険の香りと鍛え抜かれた攻撃力と猛り狂った怒りに裏打ちされ、美しい肉体の中に混じりあい、燃え上がるのをドリアンは何度も見た。誤解を恐れずに言えば、怒りをあらわにした少佐は他のどんなときよりも・・・そう、ドリアンをそそった。だがドリアンとて、声の限りに叫んでいるクラウスの服を脱がせようとまでは考えていなかった。

もちろん、あの短気な想い人にそんなことを告げたことは無い。そんなことを言うのは幾度かベッドを共にして、クラウスの鎧をもうすこし蕩かしてからにすべきだろう。そう、ほんの少し。ドリアンはクラウスを変えたくなかった。私を怒鳴りつけない程度に柔らかくなってくれればいい。そう、ベッドに引きずり込むために。それ以上の変化は無用だ。

だが少佐が父親の友人に向けた激怒は常軌を逸しているとしか形容できない種のものであり、ドリアンの厳しい美の基準にはそぐわなかったし、魅力的でもなかった。クラウスが激怒したところを見たことがあったと考えていたのは、間違いだったのだ。素手で相手を殺すところまではごくわずかだった。だれもそう口に出しては言わなかったが、老エーベルバッハがライフルを持ち出していなければ、トビアス某は明らかに息の根を止められていただろう。ライフルには、猟場の管理人が野生動物を捕獲し獣医に引き渡すための麻酔をこめた弾丸が充填してあった。

目覚めたあとの少佐の処置がどうなるのかは、だれにもわからなかった。老エーベルバッハがクラウスの廃嫡だけでことを済ませず、自ら手を下して不肖の息子を始末したとしても、今なら誰も不思議には思わないだろう。とはいえ、老エーベルバッハの後継者としてはクラウスしかいないのだが。クラウスが従兄弟の結婚式を台無しにした事件は、無差別テロと同様に衝撃的な出来事だった。

意識を失ったクラウスの世話を任されたのがドリアンだったというのは、なんという幸運だったろう。彼はすぐにそれらしく身分を偽った。私は卒業間近のベネチアの医学生で、ただいまヨーロッパ中を放浪中なんです。もう少し足を伸ばすために旅先で紹介してもらった臨時のアルバイトがここでの結婚式のウェイターでした。・・・誰もがこの厄介ごとを他人に押し付けたがっていたから、二・三時間のあいだ少佐の面倒を見ようという者が現れたことを有難く思った。野次馬は死にそうに息をつくトビアスの周囲を取り囲み、ドリアンが少佐を寝室へ担ぎ込むのを喜んで見送った。

ドリアンがそう申し出なければ、老エーベルバッハは意識の無い息子をそのまま車寄せに捨て置いていたかもしれない。

麻酔弾の効果がいつ切れるのかは、だれにもわからなかった。ドリアンに問い詰められた猟場の管理人が断言するには、一発の命中で一般的な体重の若い牡鹿をたっぷり半時間ほど眠らせることが出来るという話だった。

だが少佐はほぼ三時間ほども昏々と眠り続けた。ドリアンは次第に不安を感じ始めた。目覚める兆候が何もなければ、本物の医師を呼んで血液検査かなにかそういったものをさせるべきなのかもしれない。少佐の体重はどう見積もっても平均的な牡鹿の六分の一より下ということな無いはずだった。それともそうなのか?だが担ぎ上げたときは十分に重かった気がしたが・・・。

ドリアンはついに意識の無いクラウスの服を脱がせるチャンスを得たが、それを楽しむ気には到底なれなかった。靴を脱がせ、ボウタイとジャケットを取り、そしてもちろんシャツの胸元を緩めた。介護をするものとして当然の行為だった。心配が大きすぎて楽しくは感じられなかった。そもそもドリアンには酔った男を解放しながら脱がせるといった趣味もない。それにこれは深刻すぎる事態だった。そしてまた、少佐がいつ目を覚ますか判ったものではないし、目を覚ましたときにドリアンが何をしているかによっては、さっきと同じ常軌を逸した激怒にもう一度火をつけるのかもしれなかった。

それにもかかわらず、ボタンを外したシャツの下のなめらかな胸に手のひらを滑らせたいという欲望を、ドリアンは抑えることが出来なかった。というより、抑えようという努力もあまりしなかった。だが何とかして心を落ち着かせねばならない。そこでクラウスの脚に目が釘付けになった。美しい脚。水泳選手のような二本の脚は、ほっそりした腰と幅のある肩幅によく似合っていた。この魅力の前では、クラウスの脚の上で手を二・三度遊ばせたからといって誰もドリアンを責められないだろう。それに少佐はタキシードの下をまだ穿いたままだったのだし。触った感触では、クラウスの下着はまるでフランネルか何かのように分厚かった。6枚ぐらい重ね穿きしてそうな感触。なんと歯がゆいこと。

「きみがちゃんと目を覚ましていて、私に協力的だっていうなら楽しいんだけどね。」クラウスの黒髪をゆっくりと手櫛で梳きながら、ドリアンはため息をついた。髪は、ドリアンが思っていたよりもずっと柔らかかった。絹のように。そして自然な光沢があった。彼の肉体の他の部分と同じように、ただ美しかった。

どうしてあんなに激昂したんだい?驚いたよ、実際。わたしがあんまり度を超えてからかい続けたら、きみはそのうちあんなふうに気が狂ったように我を忘れて逆上してしまうんだろうか・・・

ドリアンは身震いをして、手のひらの中の黒髪をくしゃりと握った。ひどい男だよね、きみって。せめてもう少し醜く生まれてきてくれればよかったのに。

「あの老いぼれ、一体全体何をしでかしてきみをあんなに怒らせたんだろう。」彼は考え込んだ。考えながら、片手がうろうろと少佐の胸元をさまよい、むき出しになった鎖骨を軽くなぞった。少佐は確かに癇癪持ちだったが、それでもドリアンが知る限りあそこまで我を忘れて逆上することは、これまで一度も無かった。

彼は愛しい狂戦士の心拍音に注意深く耳を傾けた。それはしっかりと規則的に鼓動を打っているように思えた。見たところ、胸毛はなかった。完全な形の胸筋には、余分な筋肉は何もついていなかった。みぞおちの下には真っ直ぐな腹部が続いた。思った通り、余計なものをすべて削ぎ落としたような腹だった。素晴らしい。ドリアンの手の平の下で、がっしりした暖かい肉体が息づいていた。そう、長い時間をかけてとうとうきみはわたしの・・・

「麻酔で眠らされてる相手に変ないたずらなんかしないからね、わたしは。」ドリアンはひとりごちた。もう三時間ほども、ずっとそうやって自分に言い聞かせているのだった。だが自己抑制の力はどんどん弱まっていた。「そこまで下劣じゃない。そこまで堕ちないよ。たとえきみが永遠に知らないととしても、わたしは倫理的で英雄的であるべきなんだ・・・。できるだけ・・・、なるべく・・・・」

別のことを考えて気を逸らす手助けになりそうなものは、寝室には何も無かった。ホテルの部屋にだってこれほど無機質でよそよそしい部屋はない。壁には一枚の絵すらかかっておらず、家具はベッドとクローゼット、そして一組の机と椅子だけだった。机の上には何も無かった。家具は実用的で特徴が無いことだけを基準に選ばれたようなものだった。中世スタイルの古風な窓枠と、そこにしつらえられた作り付けの腰掛がなかったら、この部屋は今までドリアンが少しの時間なりとも滞在しようと自分の意思で決定した中では、最もひどい趣味の部屋ということになっていただろう。これまで過ごした中で最悪の部屋よりややましといったところか。最悪だったのはドーバーの近くの名前も忘れてしまった朝食つきの安宿で、そこで三日間も足どめをくらったのはほとんど拷問だった。それ以来ドリアンはピンクとオレンジの花模様の壁紙と、グリーンに塗られた家具を病的に嫌っていた。


眠ったままの少佐が微かに鼻を鳴らした。眠っている・・・少なくともドリアンはそう信じたがっていた。泥棒は急いで手を引っ込めた。愛しい愛しい相手の、・・・ベルトの金具から。なんて悪いタイミングなんだ!良心の呵責を押さえつけた瞬間に目を覚ますなんてさ!

「少佐?」

意識を失ったままの男の息遣いが不規則にゆらいだ。覚醒に近づくにつれ、横たわった体が強張り始めた。身動きが始まり、四肢が緊張と弛緩の間を行き来した。ドリアンはため息をのみこんだ。気の毒に・・・。眠りの中ですら緊張し、追いつめられているらしい。時折正気を失って怒鳴り散らすのも無理は無い。この積もり積もった緊張のはけ口として、何かもう少し楽しいことを探さなきゃね。

「クラウス、」彼は少佐の耳元に口を寄せてささやいた。生え際の柔らかい髪が息で揺れた。「起きてくれよ、ダーリン。」

それこそ弾丸で撃ち抜かれたように少佐ははっきりと目を覚ました。同時に、全身の筋肉に力がみなぎった。かろうじて押さえつけられていた激情が、鋭い叫び声をあげながら解き放たれようとしていた。クラウスはドリアンの手の下で体をひねり、ベッドの反対側で素早くうずくまって顔を上げた。

ぎらついた、しかし当惑を浮かべた緑の双眸がドリアンを見た。信じられないという顔つきだった。ドリアンは少佐の表情に思いがけない感情を見て取った。少佐は狼狽していた。それがはっきりわかるまでに、たっぷり二度の呼吸分の時間が必要だった。その狼狽はやがて刺すような警戒の色に取って代わったが、少佐はそれでもうずくまった姿勢を崩さなかった。

「ドリアン・・・?」

ドリアンの息が止まった。ファーストネームで呼ばれるのは初めてだった。いつもなら「エロイカ」、もしくはよそよそしく「グローリア卿」だ。ドリアンは今の驚きをクラウスに伝えるのはやめにした。大げさに騒がなければ、ひょっとするともう一度そう呼ばれることがあるかもしれない。

「そうだよ。」彼はささやくように答えた。

「やつはまだここにいるのか?」

「わからない。」小声で答えてから間をおいて少し咳払いをし、普通の声に戻した。「ここを離れたがっているように見えた。でもぶるぶる震えていたね。きみの父上があの男を座らせて、ブランディか何かを飲ませていたよ。」

少佐は唇を薄めて鼻にしわを寄せながら体を起こし、ベッドを降りてためらいながら立ち上がった。目を細めてドアのほうを見やったが、その目からは数時間前の手の付けられない激昂は消えていた。それでもなお、その目は嫌悪の感情を隠しきれていなかった。

「おれが下に行く前に、あの男はここを離れたほうがいいだろうな。」少佐は低い声でそう言った。ドリアンに話しかけているようには聞こえなかった。

「あの男はどこかの機関の諜報員なのかい?」ドリアンは思い切って訊ねてみた。それが、彼が唯一たどり着いた推測だった。

クラウスはしわがれた声で笑った。「おれが知るかぎりそれはない。あの男ならやりかねんがな。」少し考えて付け加えた。「ほかの連中も、どうだかわからん。」そう口にしながら、彼はドリアンのほうに目を向けようともしなかった。声からは怒りを嫌悪が消え、空洞のような感情だけが残った。

「それで、あの男はなにをしでかしたのかな。」


その質問を完全に無視し、体をひねって背中に手を伸ばした少佐は痛みに眉をしかめた。麻酔弾で撃たれた傷口の血は乾いていた。「言わんでもいい。親父がおれをライフルで眠らせた。そうだな?」

ドリアンはゆっくりと肯いた。もしかするとこれが初めてではないのだろうかと疑ったが、その答えを知りたいとも思わなかった。もし麻酔銃が無ければ、老エーベルバッハは通常のライフルで息子を撃っていたのだろうかとさっきまで考えていたのだった。その答えはもっと知りたくなかった。


「おれはどのくらい眠っていた?」


「三時間ってとこかな。」


少佐はうなずき、もう一度ドアを見遣った。ややあって彼は目を逸らし、窓のほうへ向かうと、両手を窓枠について身を乗り出した。屋敷の後庭は幾何学的配置な配置の庭園にしつらえられており、夜間照明がそれをあかあかと照らし出していた。クラウスはその夜景を黙ったまま見つめた。


ドリアンは我慢強いほうだとは、生まれてこの方一度も言われたことが無かった。好奇心が勝った。口に出した。


「で、きみはどうするつもり?」


返答までには長い時間がかかった。少佐がわずかに体をひねり、窓ガラスに頭をもたせかけた時には、ドリアンは返事が返ってくるのをほとんど諦めていた。頭痛でもするのかな。


「わからん。」彼は口を開いた。「いつまでここにいるつもりだ。さっさと出て行け。もめごとはもう十分だ。」


「そうそう、言うのを忘れてたよ。私はベネチア出身の真面目な医学生なんだ。」


少佐は興味なさそうに鼻を鳴らした。「医学生?」


「それで、きみが目を覚ますまで看護役を務めてたってわけさ。」


クラウスはぎくりとしたように体を翻し、ドリアンに向き直った。目に微かな狼狽が浮かんでいて、ドリアンは呆気に取られた。それはすぐにかき消すように無くなったが、だがしかし確かにそこにあったのを、ドリアンは見た。この日ドリアンは矢継ぎ早に二度も、クラウスがその感情をあらわにするところを目撃したのだった。ふたりは見つめ合ったまま、お互いから目が離せなかった。


「教えろ。」少佐は言葉を投げつけるように要求した。「答えを急がんでいい。だが真面目に考えろ。嘘偽りのない答えだけが聞きたい。できるか?」


ドリアンはせわしなく瞬いた。「もちろん・・・。きみのためならなんでも。」


予期した通りの返事に、少佐はうんざりしたような声を漏らした。「理由を教えてくれ。なぜおれを見てそうなる。おれの何がおまえをそうさせるんだ?おれのどこを見て、おまえはおれがそうだと思うんだ?答えろ!なぜなんだ!?」


「きみを愛しているだけさ、少佐。理由はそのひとことしかないね。だからきみがいつか・・・」


「そんなたわごとを聞きとるんではない!なにか理由があるはずだろうが!真面目に考えろといったはずだ。くそっ!もう一度考えろ、そして本当のことを言え!」






<続く>

2012/07/02

Peripeteia 04 - by Sylvia





By the Pen - Peripeteia
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使用人用の階段を降りきったときにも、クラウスはまだどういう処置をとるか決めかねていた。この口数の多いこそ泥に二度と屋敷の周辺をうろちょろするなという警告を浴びせて警察に付き出すべきか、それともその手間と時間を惜しむべきか。彼は重罪人の背中を小突き、右手の厨房のほうへ向かわせた。通報すべきだろうな、と考えた。もうすでになにかをちょろまかして可能性もある。招待客の宝石やら、目をつけたその他のこまごましたガラクタ・・・。知れたもんではない。だが身体検査をして無駄だろう。どこかに隠しこんでいるに違いない。どこか、このこそ泥かその共犯者があとで獲物を取りに来られるようなどこか。


目障りな盗人だ。ただでさえよく無い気分をさらに最悪にしやがる。物事をひっかきまわす。じろじろと貪欲な目付きでおれを眺め回す。まるでおれがメニューに載っている写真付きの料理かなにかで、おまけにそいつは空腹の極みにいるかのように。なぜいつもこういうやつが付きまとってくる?なぜおれはこういう男を引き寄せるんだ?ねじくれた欲望を持つ男、そう、まるであいつのような・・・


いや、待て。


この泥棒はギャラリーに忍び込んできた。あの部屋には価値を認められた多くの絵画と、あの厄介事の種がある。「紫を着る男」だ。こそ泥はおれに私的な質問をし、窃盗の意図を指摘されると平気な顔で言い訳を並べた。おれの尻を不躾に眺めやがった。


顔が大きいように思えた。体つきもちがっていた。だがそれは詰め物と変装用のメイクの結果かもしれない。黒いショートヘアは、明らかによくできた人工のものだった。黒い瞳はコンタクトレンズだろう。肌の色が暗めなのは、メイクのせいかそれともこのために事前に慎重に日焼けしたのか。それを差し引くと、体つきは同じだった。背が高く、ほっそりしていて、ほどよく筋肉質である。腰や腹に詰め物をすることは考えなかったようだ。虚栄心からだろう。クラウスはそう結論づけた。そして訛り。イタリア人の訛りを真似ているのかもしれなかったが、実際には英国人がイタリア訛りを真似ているように聞こえる・・・


「エロイカだな。」クラウスは落ち着いた声でそう言った。クラウスの前で伯爵が一瞬ふらついたように見えた。泥棒は顔を上げると、濃い睫毛の下に精一杯の無垢の色を浮かべた。


「なんですって?」


「エロイカだな、と言ったんだ。貴様のことだ。」クラウスは英語で辛辣に告げた。奇妙な感覚が胸の中に沸き上がってきた。はっきりとした怒りを爆発させる機会を得たことをむしろ歓迎した。「こんなところでなにをしている。」


「きみにどうしても会いたくってね。」悪名高い窃盗犯は艶めかしい笑みを浮かべて答えをよこした。


「なるほどな。そしてついでに盗めるものは盗んでおこうという魂胆か・・・」


クラウスの、よく訓練された冷静さが言葉の途中で消えた。毒をこめた侮辱の言葉が噴きこぼれるように湧き上がった。手癖の悪い泥棒の顔に浮かんでいたわざとらしい作り笑いがさっと消えた。


用意していたような悪罵が次から次へと口からこぼれた。書斎を出て大広間へ向かおうとしているある男のを見た瞬間、クラウスは氷のように冷たい’衝撃に我を失ったのだった。






伯爵が何か言おうとしていた。だがクラウスは彼をわきに手荒く押しやり、広間へ走り出た。磨きぬかれた寄木細工の床が、急にぼんやりと揺れたように感じられた。耳鳴りのあまり、口を開いたときに自分の声すらはっきりとは聞こえなかった。自分の声が、ありえないほど遠くで響いているように聞こえた。


「出て行け!」


男は、クラウスが最後に見たときよりもずっと年老いていた。がっしりした体つきが、やや太り気味になっていた。そして常に自慢げにしていた、アスリートとしての敏捷な姿勢を失いつつあった。顔の皺がより深く刻まれ、額の生え際が後退していた。もう十年以上もこの男の顔を見ていなかった。クラウスは、時の流れという当たり前の事実に衝撃を受けている自分に気づいた。


彼はクラウスより背が低かった。クラウスが何よりも驚いたのは、何故かその些細なその事実だった。


「屋敷から出て行け。ここの領地に二度と足を踏み入れるな。」


クラウスの名付け親は狼狽したようにたたらを踏み、彼のほうへ手を伸ばした。クラウスはその手を払い落とした。衝撃と激怒とその他の感情に、体が震えていた。


「クラウス、頼むよ。私たちはいい大人だろう?私がここへ来たのは、きみと仲直りできるんじゃないかと思って・・・」


「出て行け!」クラウスは叫んだ。こんなふうに叫んだりしないと、心に決めていたのではなかったのか?


ロバート・トビアスはさっと体を引いて振り返り、書斎から彼に続いて出てきたクラウスの父親の方を向いた。「だから言ったろう、テオ。彼は全く変わってないよ。」クラウスの父の顔には、雷のような激怒が浮かんでいた。


「クラウス!」


クラウスは自分の右の拳がその老人の顎を殴打するのを見た。殴った瞬間の衝撃も感じた。だが、それはなぜか遠い世界での出来事のようにしか感じられなかった。


そのトビアスという名の人間のクズは、勢いよく壁にぶつかって跳ね返り、床に崩れ落ちた。クラウスの父が急いで駆け寄り、助け起こそうとした。父親の顔は驚愕と激怒で塗りつぶされていた。「クラウス。ただちに客人への謝罪を命じる。」


「お断りします。」


そしてクラウスはその男と父親を背後に残したまま、大またで大広間へと立ち去った。震えが止まらず、今自分が何をしたかを考えるには茫然としすぎていた。彼は父親に歯向かった。父親が何を言おうとしているかを歯牙にかけなかった。自分が血の気の昇った顔色でいることも気にかけなかった。彼が試みたのは、あの腐りきった男をここから追い出すこと、視界から追いやること、二度ととその顔を見ないで済むようにすることだった。


外へ通じるドアが開いていた。彼が開けたのだろうか?それとも執事が?どうでもいい。考える気もなかった。トビアスがよろめきながら階段を下り、降り切ったところで膝をついていた。父親はどこだ?だがそれもどうでもいい。なぜならトビアスが外へ出て車寄せを横切ろうとしていたからだ。足首を捻ったかのように片足を引きずっていた。そうであればいいとクラウスは’思った。自分があの男をの足に怪我を負わせたのだと。そして顎。顎を割ってやったのだと。もっと早いうちにこうしておくべきだったのだ。殺しておくべきだったのだ。殺すべきだったのだ。だがある理由でそうはできなかった。切望していたにもかかわらず。恐ろしいほどに深く渇望していたにもかかわらず。そしてその渇望が、今なお彼の体の中に燃えたぎっているにもかかわらず。


トビアスが何か叫んでいた。だがクラウスにはその声を聞いていなかった。男は車に戻り、そこで動かなくなった。この男はまだ何故生きながらえているのだ?クラウスはそう思った。この男を殺したかった。なぜまだ殺していない?なぜ殺さなかった?


そしてその瞬間、クラウスは突如として突き抜けるような、めまいを覚えるほどに自由な感覚を覚えた。まだ間に合う。かつてはできなかった。だが時は流れ物事は変わった。そしていまならまだ間に合う。いまならできる。



「キーはどこだ?車のキーが見つからないんだ、」


殺せる。殺してやる。おれを止めるものはもはやなにもない。



背中への衝撃を感じる間もなかった。血の色に縁取られた暗黒に呑み込まれるのを、とうに予期していたことのように受け入れた。猛り狂う激怒と嫌悪のなかに、一瞬のうちに溶け落ちた。自身の力量に感じた勝利。この男の息の根を止めることへの、無条件の意思。


「次に会うときは殺す。」


気を失う前に自分がそう叫ぶのを聞いた。相手の目に浮かんだ恐怖から、自分が真実を告げていること、相手がそれを理解してることが分かった。


その男の首を絞め、頚骨を折る。縊り殺す。眉間に弾丸を撃ちこむ。鼻骨が脳にめりこむまで殴りつける。・・・どの方法でもいい。その時にはクラウスが勝利をおさめる。







<続く>