By the Pen - Peripeteia
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使用人は足音を殺して去った。伯爵は周囲の状況を注意深く確認してから、少佐の部屋のドアへ戻った。部屋の中から低いうなり声と、バスルームのドアを力任せに閉める音がした。伯爵は音もなくドアの鍵を破り、少佐がバスルームにいることを確認してするりと部屋へ忍び込んだ。状況を一瞥し、安易ではあるが身を潜めるには最適と判断した場所に隠れた。たっぷりした手触りの、厚いビロードの臙脂色のカーテン。カーテンをもう少し窓際まで引けば、さっきの腰掛けに座れそうだった。出窓にしつらえられた趣味の良い中世風の腰掛けに。
少佐はもちろん、頭からつま先までを各種のタオルでぐるぐる巻きにしてバスルームから現れた。伯爵が失望のため息をかろうじて抑えた瞬間、少佐は煙草に火をつけ、両手でシーツをぐいと引っ張ってベッドを直し、ベッドカバーをかぶせた。そしてふと体の動きを止め、疑い深い表情で腰を曲げて下を覗きこんだ。
伯爵は身を隠す場所をそれほど綿密に考慮したとはいえなかったから、忍び込んだ時にとっさにベッドの下に潜り込まなかった自分をほとんど自画自賛しそうになった。だがそれも少佐が窓の方に向かってくるまでだった。しまった!どうしてこの可能性を考えなかったんだろう?少佐はもちろん、たった今自分が関与した不埒な所業の残り香を消し去りたいに決まっている。
その時ドアが乱暴に開いた。重いドアはそのまま壁に打ち付けられてぶるぶると震え、老エーベルバッハが足音も荒々しく部屋に駆け込んできた。伯爵はカーテンの陰でできるかぎり体を縮めてみた。このふたりがこんな小部屋で対決するなんて。城が壊れなければ感謝ものだ。
「説明せよ。」ぞっとするほど冷たい声の下に、爆発寸前の激怒を押し殺していた。
「できません。」
伯爵はたじろいだ。少佐、その返答はまずい。まずすぎるよ。
「言い訳の余地はないという意味か?それとも何も言いたくないとでも?」
「ご説明できることは何もありません。」
「おまえのせいで婚礼が台無しだ!おまえの従弟の結婚式だぞ?もう少しで殺すところだった男は、わしの旧友でおまえの名付け親だ!よくもぬけぬけと、このわしに向かって『説明せん』などとぬかしたな!取り返しのつかんことをしでかしたんだぞ!」
少佐は全くの無反応だった。それまで冷たい石の壁にできるだけ背中を押し付けていた伯爵は、何が起こっているのかを垣間見るために、身を隠しているカーテンをほんの少しめくってみるという危険を冒してみた。少佐はベッドの端に沈み込むように座り、無表情のままの顔をまっすぐに父親の方に向けていた。
老エーベルバッハは身震いして後ずさり、ゆっくりと歩きまわった。それはほかならぬ彼自身の息子が誰かを殴らないように自分の感情を押さえつけるときと、全く同じやり方だった。クラウスは残りの煙草を吸い終わり、新しい一本に火をつけた。
「ロバートはこれまでずっとおまえのよき知人であり、こんなことが起こった現在ですらそうあろうとしてくれている。おまえのの言動がいかに傲慢無礼だったときでも、奴はこれまで一切なんの非難もよこしておらん。だが、おまえが15年ほども抱き続けておる馬鹿げた怨恨の発端がなんだったのか、さっぱりわからんとは言っておるぞ。それを知っているのはおまえだけだとな。理由を知っているのはおまえだけだ、奴はそう言うだけだ。奴が示しているのは、旧友の息子としてのおまえへの無条件な好意と、大いなる高潔さだけではないか!」
「申し訳ありませんが父上、この件についてあなたにお話するつもりはありません。」クラウスは低い、ほとんど死人のような声でそう絞り出した。伯爵はその声の響きにぞっとした。「しかしながら、私本人のこの怨恨について言えば、それが馬鹿げたものであるとは思っておりません。これは事実に基づいており、詳細を述べないうちは父上には信じがたいことだとは理解していますが、私があのような行動をとったことには十分な理由があるとお考えいただきたい。父上のお立場を顧みずに、婚礼にふさわしくない混乱を引き起こしたことについては謝罪いたします。しかし、私の言についてご信用いただくことを…」
「これだけのことをしでかした上で、信用しろだと!?今後一瞬でもまともな人間として信用されることがあると思っとるのか!お前はわしの親友を殺すところだった!そしてその理由を言おうとせん!どんな理由があろうが、この犯罪行為を弁解できるとは思えんがな!そのおまえがぬけぬけと、信用せよだと?おまえにまともな神経があるとは到底思えんぞ!おまえは子供の頃からそうだった。こういう人間に育つことは予期してしかるべきだったのだ…。わしの跡継ぎがこんな出来だとは、理解したくないぞ、わしは!結局のところお前は一生そうやって…」
クラウスは勢い良く立ち上がり、興奮のあまり赤ら顔になった父親の鼻先まで近づいた。「話せんと言ったら話せんのです!話せるものならどれほどよかったか・・・、父上、ただ一度でいい。私の言うことをそのまま受けとってはもらえないのか・・・、お願いだ!」
最後の言葉は痛ましく響いた。その言葉を発することにより、少佐自身が切り裂かれるかのような痛みを伴った一言だった。伯爵は老エーベルバッハへの灼けつくような怒りを感じた。少佐がここまで譲歩するというのがどれほどの意味を持つか、本当にわからないのか?少佐にとってこの種の言動は、惨めな服従にほかならない。この老いぼれはこれ以上の何を要求するのか。自分の息子の気性をわかっていないのか?
「クラウス。わしは父親として、またエーベルバッハ家の当主として命ずる。事情を明らかにせよ。」
汚い言い方だ!この脅迫じみた物言いへの憤りのあまり、伯爵は自分が分厚いカーテンをしっかり握りしめすぎて、もう少しでそれを下げおろしそうになっていることに気づいた。落ち着け、彼は自分にそう言い聞かせた。
沈黙は長く、重苦しかった。だが伯爵は勝利者がどちらなのかを疑わなかった。老エーベルバッハは使うべきではない切り札を使ったのだ。父親は名誉と義務を標榜して息子を打ち、息子はまた名誉と義務そのものにより傷ついたのだった。
「できません。」だが少佐はついに低い声を絞り出した。これほどまで打ちのめされた声はこれまでに耳にしたことがない、伯爵はそう思った。
恐ろしいほどの衝撃に我を忘れていた伯爵は、ひゅぅという息切れの音を立てたのは自分かとすら思った。だがそのとき、老エーベルバッハが激怒と興奮のあまりほとんど回らない舌でなにかを喚き散らすのを耳にして、だれがその喉音をあげたのかを理解した。察するところ、この脅迫じみた方法に少佐が屈しなかったのはこれが初めてであるようだった。となれば、老エーベルバッハに残された方法はもはや何一つなく、また老人にはもう一度息子をライフルで撃つ気力も残されていなかった。
その後に続いた沈黙はすでに痛ましくも重苦しくもなかったが、なお厳しかった。部屋の空気はびりびりとした緊張と怒りに満ちていた。伯爵には、部屋の中を突風と稲妻が駆け抜けているように感じられた。自慢の巻き毛が静電気で逆立ったとしても、なにも驚くには当たらなかっただろう。
ドアが力任せに閉まった。怒りに満ちた足音が廊下を去るのが聞こえた。部屋には、完全な静寂だけが残った。
伯爵はできるだけ息を止めていようとした。呼吸音ですらカーテンの外に聞こえてしまいそうな気がしたからだ。とうとう我慢できなくなって息を吸ったとき、その音があまりに大きすぎてクラウスの耳に届き、カーテンを押し開けてぶん殴られるのだろうと覚悟した。
だがなにも起こらなかった。静寂はそのまま静寂だった。ライターで次の煙草に火をつける音もしなければ、それを深く吸い込む音もなかった。
伯爵はやきもきし始めた。有り得そうにない筋書きばかりが頭に浮かんだ。老エーベルバッハが実はナイフを携帯していて、伯爵から数メートルも離れていないところで少佐が出血多量で命を失いつつある?もちろんそんな馬鹿げたことは起こっていない。ご老体にそんなことはできないし、いくら禁欲主義な少佐だって、黙ったまま死んでいくわけがない。さっきだって伯爵の前で、あんなうめき声が喘ぎ声を漏らしたばかりじゃないか…
「大いなる高潔さだと!」少佐の一言だった。伯爵は少佐が無事に生きているという事実に安堵するあまり、続く一言を耳にするまでその口調に込められた鳥肌の立つような嫌悪感に気づかなかった。「無条件な好意だと!」
これが映画であればクラウスの独白が始まるシーンだろう。一人で部屋にいると思っている主人公は、自分に語ることで幼年期の壁を乗り越えて心の重荷を取り除こうとしていたかもしれない。そこで、物陰に隠れて一部始終を見ていたもう一人の人物の登場だ。彼は美貌の主人公を慕わしく思っている。そしてあらゆる問題において彼の力になってやり、永遠の友情を結びたいと熱望している。
だが残念ながら、少佐はそんなわかりやすい役どころには落ち着いてくれなかった。再びおりた長い沈黙の後にベッドがきしみ、バスローブの衣擦れの音がして少佐が立ち上がったのがわかった。少佐は物音ひとつ立てなかったが、クローゼットはきしんだ音を立てた。服を選び、引きぬく音がした。カーテンのひだを少しめくって見つかってしまう危険を犯しそうになる自分を、伯爵はなんとか押さえ込んだ。
少佐は体の表面積の殆どを覆うバスローブを着込んだまま、新しいタキシードとよく糊の効いたシャツを片腕に抱えてバスルームに入り、ドアを閉めた。なんてことだ。この男は一人で自室にいる時ですら、着替えにはバスルームに閉じこもるのか。
少佐が再び姿を現すまで、伯爵は辛抱強く待った。慌てて出て行ったりしたら、見られるはずだったものを見逃すかもしれない。そう、全く…。だが少佐はシャツのボタンを喉元まできっちりと留めあげた姿で現れ、靴をはいて煙草に火をつけると、父親と同じように大股で部屋を去った。
まあいい。とにかくベッドにには引きずり込めたわけだし。なんとかもう一度押し倒して、ゆっくり楽しみながら鑑賞できるのも時間の問題だ。もちろんじっくり触れながらね。それから舐めて、歯を立てて、味わって…、とにかく考えつくあらゆる方法で少佐をわたしのものにする。
そう考え込みながら伯爵はベッドに腰掛けた。ベッドカバーを引き剥がし、枕を膝の上に抱え込んで顔を埋めながら息を深く吸い込み、まぎれもない少佐の残り香を嗅ぎ取ろうとした。さあ、今夜ここで起こったことをどう考える?
どの事実から考えるべきか。そう、まずはこの件から始めよう。少佐とトビアス某の間に、なにか深刻ないきさつがあるのは明白だ。伯爵が初めて目にするような少佐の激怒、それはあの二人の過去にある何らかの怨恨からきたものだ。少佐が声を荒げるのはこれまで幾度も見た。だが今回ほど常軌を逸した激怒の噴火は初めてだ。それには恐怖を覚えるほどだったし、伯爵が確かに知っていて、かつ愛しているはずの少佐が、まるで別人に思えるほどだった。
奇妙なことは他にもあった。少佐の言動はいつもの彼に似つかわしくなかった。なぜ自分に惹かれるのかと…、そんなことを聞いてくるなんて。そんな話を今までしたことはなかったのに。それからこんな事まで言い出した。どうすれば私や私のような男たちの目を引かずにすむのか、「この問題」を取り除くためのの方法を教えろと。自身の美貌に対する、なんというねじくれた考え方と対処だろう。他の誰もこんなことは考えつかないに違いない。だが少佐はそうではなかった。クラウスがそう単純でわかりやすい男であった試しがない。『この見てくれのせいで虫唾が走るような目にばかりあう。おぞましい変態ばかりが寄って来やがる。変質者ども、おまえのような連中ばかりだ。』
さっきの少佐がこの言葉を吐き捨てたとき、伯爵はその意味を深く気に留めていなかった。だが思い直してみて伯爵ははっとした。少佐はもしかすると伯爵のことを指していたのではなかったのかもしれない。こう吐き捨てた時、彼が指していたのは別の…
なんてことだ!私の気づかないうちに、誰かが少佐に言い寄っていたと?どうして気づかなかったんだ!
伯爵は怒りに任せて膝の上の枕を殴りつけ、勢い良く立ち上がって、少佐にとっては唯一の居場所であるはずの気の滅入るような寒々しい部屋の中をうろうろと歩き回った。いったいどこのどいつが私のクラウスに手を出したんだ?我が国の諜報部のあのマヌケ野郎か?まさか部下のG君が上司とふたりきりの時にいきなり豹変して…。それとも私の知らない誰かだろうか。少佐が偶然に会ったような誰か。いや、違う。そんな誰かがいるなら伯爵が知らないはずはない。伯爵には少佐の近辺に情報屋を放っていた。その情報屋は、少佐に色目を使うような不届き者の情報があれば伯爵が飛びつくに間違いないことをよく心得ている。だからそれは伯爵が少佐に出逢い、この男こそ追うに足ると賭けるよりずっと以前の話にちがいない。何年も前に、どこかの厚かましい好色漢が…
ならば。それならばすべての平仄が合う。
少佐とあのトビアス某の間に、何年も前の出来事に関する怨恨があるのは確実だった。それはクラウスがまだ少年だったころに起こったことで、少佐とトビアスの双方が言及を注意深く避けている、そのたぐいの出来事だ。少佐はそれに言及しない。かつて出来ず、現在も出来ない。父親が家名の誇りと義務までをも引き合いに出して答えを強要した時にも、少佐はそれを口に出せなかった。
少佐の、クラウスの内に秘めた恐ろしく凶暴な激怒の引き金を引く、その記憶。
ああ。だめだ、そんな。ああ。
この奇妙で恐るべき話の全貌が、急にはっきりと意味を持って浮かび上がってきた。今まで不可解だった様々な事象が、急速にひとつの結論へ収束し始めた。伯爵の誘いを暴力的に拒絶する少佐。伯爵のひたむきな愛情は、ただ堕落した感情だとして頑固に拒否されるばかりだった。そして少佐における性欲の欠如。不自然なほどに取り澄ました態度。なによりあの、父親の友人を見た瞬間の反応。少佐はあの男を素手で殺さんばかりだった。父親と伯爵と、その他大勢の目撃者の目の前で…。
誰が鉄のクラウスをあれほどのパニックへ導いたのか。恐れ知らずの少佐の、視線の先を横切るだけで誰がそんなことをしでかせるというのか。
「まさか、そんなことが…」ドリアンは驚きのあまり声に出して呟いた。信じたくなかった。そんなことが少佐の身の上に起こる可能性があるとは思えなかった。まさか。少佐ならその時相手を殺すにちがいない。手足を引き裂いて、死骸の上につばを吐くに違いない。…だがそのときの彼は、完全な訓練を受けた6.2フィートのNATOエージェントではなかったのかもしれない。少佐は、彼は後になってその男を殺そうと試みたのかもしれない。その試みは紛れもなく、たった今実際になされようとしたばかりだった…。
ああ、少佐…、あの男はいったいきみに何をしたんだ?
そして、この私はきみに何をしたんだ?
ちがう。同じなんかじゃない。私はきみを愛している。私ならきみを傷つけたりなどしない。きみの嫌がることなんかしない…
吐き気が高まると同時に、伯爵はさっきのことを少佐が嫌がっていなかったかどうかは、自分には知り得ないのだと思い知った。彼はクラウスに跳びかかり、押し倒した。キスをし、体中を弄り、ほとんど強要するように反応を引き出した。それが少佐自身が決して自分に認めたくない肉体上の反応にすぎなかったと、どうして伯爵にわかるだろう。あのときは少佐が応えてくれたと思ったのだ。そう思いたかったのだ。だが…、そうではなかったとしたら?事実は全くそうではなかったのだとしたら?少佐が横たわり、動けないままでいたのは、思い出したくもない記憶が彼を拘束し、身動きひとつ取れないままでいたのでは?伯爵の手管から逃れようにも逃れらなかっただけなのでは?少佐の肉体が反応したのは、意志に反する単なる反射ではなかったとしたら?記憶の彼方に押し込めていたはずの悪夢を、少佐は追体験していたのだとしたら…。
ちがう!同じはずがない!私は少佐を愛している。愛してるんだ。彼を傷つけることなんで出来るはずがない…。
その絶望的な思考の手応えは、伯爵の中でさらに頼りないものになりつつあった。なけなしの希望が沈みゆきつつあった。考えても見よ。トビアス某とやらは親友の息子であり自身の名付け子である少年を慎重に選び出し、手にかけたのだ。それはつまり彼にももまた、クラウスに対するある種の感情があったにちがいない。感情、愛に似た…
「クラウス、頼むよ。私たちはいい大人だろう?私がここへ来たのは、きみと仲直りできるんじゃないかと思って・・・」「大いなる高潔さ」「無条件な好意」
とうとうバスルームに駆け込んだ伯爵は、かろうじて嘔吐に間に合った。ほとんど何も口にしていなかったにもかかわらず、吐き続けた。胃の中のすべてを吐き出したあとも胃は落ち着かず、伯爵は惨めに嘔吐を続けた。吐くものが胃酸と胆汁だけになっても伯爵は吐き続け、喉をひりひりさせながら、涙を流し続けた。
彼は泣いていたのかもしれない。体のうちから突き上げてくるものが嘔吐なのか恐怖なのかを、伯爵ははっきりと考えることが出来なかった。
伯爵とトビアス某の間になにか違いがあるとでも?そんな基本的なことすらわからなかったなんて。少佐自身が望んでいない、考えたこともない愛情を、無理強いしていただけなんて。私は少佐に一歩も近づけてはいない。
伯爵は望んでいた場所とは全く違うところにたどり着いたことに気づいた。彼が望んだ全て、まもなくこの手につかめると思ったものはすべて幻だった。自分を嘲笑わずにはいられなかった。彼は少佐を自分の腕に、そしてベッドに、これからはいつでも引きずり込めると考えていた。なんと絶望的な願い。事実は願望と隔たりがありすぎた。こんな難攻不落な相手を追うのはいい加減に諦めようかと、自己憐憫に陥いる瞬間がこれまでなかったわけではない。だがどうすればいい?事実を知った今となっては、もはやこれ以上少佐に愛を強要できるだろうか。誘惑されることが少佐にとってどんな意味を持つのか知ってしまった今となっては…。今まで自分がしてきたことが、少佐の癒しがたい傷口に痛みと苦痛をもたらしていたに過ぎないと知ってしまった今となっては…。
だが伯爵は、二度と少佐に手を出さないと誓うのは自分をごまかしているだけだとわかっていた。少佐はもう二度と伯爵を寄せ付けないかもしれない。だが少佐への想いは伯爵を抜き差しならないほどにがんじがらめにしていた。そして利己主義に満ちた心が、なけなしの希望を手放す訳にはいかないと告げていた。
このことは、今夜明らかになった事実の中で最も恐ろしい部分だった。伯爵はこれまでの自分の人生で初めて、自分自身の身勝手さに文字通り絶望した。そして今感じているこの自己嫌悪さえ、良心の呵責から逃げるための手段なのではないかと疑わざるを得なかった。
なにもかもが手遅れだった。もはやどう挽回もできない。少佐の苦痛を癒そうとするいかなる努力ですら、彼をさらに遠ざけてしまうだけだろう。最愛の人を強姦してしまった今となっては、肉体以上のものに恋い焦がれるのは遅きに失する。
胃の中にはもはやもう何も残ってはいなかった。胃液ですら。それでも吐き気は収まらなかった。彼ははただ吐き続けた。
<続く>